第七話 翠玉色の雨雫
「キースーメーっ。あーそーぼーっ」
地上では日が高く昇り始めた頃、旧都の外れの井戸を覗き込んでキスメを呼ぶ人影がいた。緑色のふわふわとした髪が特徴的な少女は小さなポーチを肩からぶら下げて井戸の縁から大きく身を乗り出していた。そして背後にもう一人の少女が。
(…キスメ、もういいよ。こいしはどんな反応するかな…?)
井戸の上にいるキスメにアイコンタクトを送るヤマメだ。二人は軽くうなずくとくすくすと笑い、作戦を決行した。いつしかヤマメに仕掛けた井戸の上から降ってくる悪戯をこいしに仕掛けようとしたのだ。キスメは勢いをつけて井戸を覗き込むこいし目がけて落下した。…が。
「ヤマメ、キスメがいないよ?」
「え?そんなあぁぁ…!」
「…あちゃー」
キスメが飛び降りたと同時にこいしは井戸から頭を出してヤマメに振り返った。ぶつかる対象を失ったキスメはそのまま井戸を落ちていって大きな音を立てた。どうやら底に置いていた家具に衝突したようだった。
*****
「いったぁ…」
「自業自得だよ?キスメ」
桶の縁からちょこんと顔を出し、両手で頭を押さえているキスメは二人の間をふわふわと漂っていた。この位置取りも割りといつものパターンになっている。
そしていつものようにおしゃべりが始まった。こいしがこっそり見てきた地霊殿のどたばた模様だとか、キスメが地上の妖怪を追い払った話だとか、ヤマメの土蜘蛛仲間との宴会の話だとか。三人は会話に花咲かせながら旧都の裏通りを歩いていく。こいしと二人が出会ってから一週間が経とうとしていた。
*****
「…うん?雨が降ってきたのかな?」
「みたいだねぇ…」
最初に雨に気がついたのはこいしだった。雨はぽつぽつと降ってきては旧都を少しずつ濡らしていく。三人は近くの家の軒下へと駆け込んだ。じきに雨は勢いを増し、ざあぁ――…と幾重にも重なった雨音を鳴らし始めた。鬱蒼と生い茂るツタを辿って雨が三人の足元へと流れてくる。空をぼうっと見上げていた三人の静寂にヤマメのつぶやきが反響した。
「結構降ってるねぇ…」
「そうだね…」
それきりまたしても三人の間に沈黙の帳が降りる。先ほどまでの楽しい空気も雨と一緒に流されてしまったかのようで、三人ともが虚空を見つめていた。しばらくしてキスメは両手で体を抱えて、小さく震わした。
「キスメ、寒いのかい?」
「うん。…ちょっと体が冷えちゃったみたい」
「大丈夫?」
こいしがポーチから取り出したタオルを桶にかぶせて温めようとしながら声をかける。「うん、ありがと」そう言って二人は小さく笑った。こいしは両手でキスメの手をこすって温めながら気遣うように言った。
「どこか暖まれるところに行こっか?」
「そうしたいけど…。凄い雨だよ?」
そう言ってキスメは再び空を見る。相変わらず雨は地面を叩いて音を重ねていた。その音に掻き消されない程度の声でヤマメが「一応…さ…」と呟いた。
「なに?ヤマメ?」
「あたし、傘みたいなものは作れないことは無いんだけど…」
「そうなの?」
ヤマメは手元にあったツタの葉を五枚ほどちぎると、手の中で蜘蛛の糸と絡ませて繋いで見せた。上から何段にも覆いかぶさるようにつながっていて、一番上の葉っぱに落ちた雫が五枚の葉っぱを伝って地面に落ちていく。
「こうやって何枚も重ねて大きな葉っぱの布を作るからさ。それをかぶって走ろうよ」
「す、凄いよヤマメ!」
「…。びっくりしたよ…」
目を丸くするこいしと目を輝かせるキスメは全く逆の行動でありながら、一様に驚いているのがよくわかった。ヤマメは照れ笑いしながら目線をそらすと手元にあったツタの葉をちぎった。若干赤くなった頬をかきながら次々と葉っぱの布を大きくしていく。
「あたしはこの葉っぱの傘を作るからさ。その間に二人で行き先を決めておいておくれよ」
「行き先…どこに行こうかな?」
「ねぇねぇ、こいしちゃん。私ね、地霊殿に行ってみたいな」
「……え…」
瞬間、こいしの体が硬直した。顔も心なしか強ばっている。キスメはそんなことに気づいている様子もなく朗らかな声でにこにこと言葉を続ける。ヤマメは「うひゃー濡れるー」と叫び声を上げながら蔵の様な建物へと走っていった為、こいしの様子に気づいていない。こいしだけが、緊張した面持ちをしていた。
「いっつもこいしちゃんの話を聞いてて『楽しそうだなぁ』って思ってたんだー」
「………」
「だから一回行ってみたいんだけど、どうかな?」
「……う…あ…」
「こいしちゃん?」
キスメはようやくこいしの様子がおかしいことに気がついた様だった。こいしは眉尻を下げて目をあちこちに泳がせていた。キスメがこいしの手を握るとビクっと一度震えた。
「こいしちゃん、大丈夫?」
「う…ん…。でも…うぅ…」
「…他のところにしよっか?」
「ううん、いいよ…。おいでよ、地霊殿…。……。大丈夫、逃げないよ…」
「え?」
こいしは小さく呟いてキスメの手をぎゅっと、握り締めた。しかし尻すぼみだったためキスメには最後の言葉は聞こえなかったようだった。キスメが聞き返すのとほぼ同時にヤマメが「きまったー?」と脳天気な声で尋ねながら戻ってきた。ヤマメはスカートを持ち上げて裾を掴んでその上にツタの葉をたくさん乗せていた。ヤマメがまた傘づくりの作業を始めるのを見計らってキスメは答えた。
「うん。地霊殿に行こうかなって」
「…大丈夫なのかい?こいし」
「…うん。今日は、おねえちゃんは旧都の会議…?みたいなのに行ってるはずだから」
「そっか…。それじゃあ、さっさと行って見つからないうちに探検しちゃおっか」
そう言うとヤマメは大ぶりの一張羅ほどの大きさになった葉っぱの布でできた傘を布団を引くときのようにばさっと広げてみせた。三人はその中にくっつくように入ってみた。
「よっと、完成だね」
「おぉ~…。綺麗だね」
「わぁ…」
内側から見ると葉っぱの隙間から漏れてくる淡い光が水滴にあたってキラキラと輝いて見えた。まるで緑色のステンドグラスの様な、そんな光景だった。
「それじゃあ、ヤマメもこいしちゃんも早く行こうよ!…へくしっ」
「はいはい、キスメは風に当たらないようにしなよ?」
「わかったよ。それじゃあ、ちょっと上の方がいいかな?」
「…うん。多分、そのほうがいいよ」
「こいしちゃんのお墨付きも貰ったし、出発進行ー!」
キスメの掛け声で三人は少し雨の弱くなった旧都を、地霊殿へと駆け出した。