衝動性危険少女
「二真野、あんたもしかして、彼氏できた?」
「え?」
学食。
昼ごはん(あんまり美味しくないパスタ)を食べ終えて、コーヒー(カップの自販機の薄ーいやつ)をぼんやり飲んでいると、いつの間にか隣に座っていた耳岸が声をかけてきた。
「なんで?」
「なんでってさあ、二真野なーんか最近付き合い悪いしさあ、ぼーっとしてること多いしさあ、変にいっつもそわそわしてるしさあ、他にも色々あるんだけどさあ」
「あんたがたどこさあ」
「肥後さあ」
「肥後どこさあ」
「熊本さあ熊本どこさあいやいやおいおい懐かしいなおい。違くてさ、はぐらかすなよ二真野ちゃんよお」
目を細め楽しそうに笑いながら、ぐいっと肩に腕を回してくる耳岸。何のかわかんないけど甘い南国の果実的な香水のにおいがふわっと鼻先をくすぐる。
「うーん、別に彼氏とかじゃないんだけどさ」
「彼氏とかじゃない? 彼氏とかじゃない? ほほおー、じゃ何よ何よ片思い的な? 片思い的な?」
「テンション高いねえ耳岸」
「へへ生理中でねえ。なことはどうでもよくて、ほら、言え、なに」
つんつんつん、と耳岸が指であたしの頬をリズミカルにつついてくる。あたしは、つつかれながらコーヒーを一口飲んで、
「ま、そかもね。片思いかもね」
「うおーいいじゃんいいじゃーん。なんだよお前なに満喫してんだよキャンパスライフをよーちくしょー」ばんばんと笑いながら肩を叩いてくる耳岸。「で相手誰よ。何年よ。何学部よ。何学科よ」
「いや、うん、大学の人じゃない」
「うおーいいじゃんいいじゃーん。なんだよなんだよ社会人? 何個上? 何やってる人? とか言ってフェイントで実は年下? 高校生? おいおいマジかー何個下? 誰似? 誰似?」
うんうんと適当に相槌を打ちながら、コーヒーの紙カップをゆっくり耳岸の口に付けて、ゆっくり傾けて、ゆっくり飲ませる。はい、コーヒーブレイク。そっとカップを離す。ふはあ、と一息つく耳岸。
「落ち着いた?」
「うん、落ち着いた。ヘロインってすげーね二真野」
「うん、カフェインね耳岸。ヘロインもすげーだろうけどね確かに」
「で、でで、誰なのよ」
耳岸の顔が、文字通り目と鼻の先まで接近してきた。
あたしは、うーん、と小さく呟いて、
「小学生」
「へっ?」
* * *
あたしには叔母さんが三人いる。
それは詳しく説明すると母さんに妹が三人いるってことで、その中で叔母さん(上)と叔母さん(中)は結構お正月とかお盆とかに会うこともあるんだけど、でも叔母さん(下)には、ほとんど会った記憶がなかった。
そんな叔母さん(下)から、小学二年生の一人息子くんの家庭教師を頼まれた。急に。母伝いで。
正直、えー、と。全然乗り気しないなーと。なにぶん自分人見知りなもんで(耳岸みたいに自分からガンガン来てくれる人としか仲良くなれない傾向ある)、叔母さん(下)に会うって考えただけで正直、エア人見知りが始まってた。けど、報酬が魅力的過ぎた。たった二時間で五万円くれるだとか。おいどこの風俗だよ(イメージでもの言ってる)と思ったくらい。考えてみれば小学二年生に大学生のカテキョ付けるとか、それだけでもうなんかバブリーなにおい漂ってる。で実際、そのバブリースメルは、俄然リアルだった。
一ヶ月ちょい前。叔母さん(下)の家に行った。初訪問。
その家がもう、二文字で表すと豪邸、三文字で表すと激豪邸。
坪とかよくわからないけど、ぱっと見、家の大きさは大学のサークル棟B(部室数十五)くらいはあった(あくまでぱっと見)。
チャイムを押し、ほどなく開いたでかい扉。
全然顔覚えてないから確信は持てないけどまあ外見的に歳的にそうだろうな、と思われる、叔母さん(下)が品のいい笑顔で出迎えてくれた。
「ああマニちゃん(あたしの名前だ。二真野マニ。自分でもどうかと思う)。久しぶり、大きくなったねえ」
「あ、はい、あの、どうも」
いつと比べて大きくなったって言われてるのかわからないけど、とりあえず適当に相槌を打っといた。
それから、コウイチの部屋は三階のどこどこだ、とか、夫が単身赴任中でもう二年以上コウイチと二人きりだったからマニちゃんが来てくれて嬉しい、とか、コウイチは英語が一番苦手みたいだから重点的に見てあげて欲しい、とか、あとでお紅茶とおケーキ持って行くね、とか、じゃあはいこれ今日のぶんのお給料、とか、叔母さん(下)はにこにこしながらよく喋った。
あたしはそれを聞きながら、え三階まであんのこの家、とか、二人きりで二年以上こんなでかい家に住んでたってちょっとしたホラーだな、とか、え、英語? 小二だよね? 英語やんの? とか、お紅茶はまだしもおケーキって言い方あるんだ怖い、とか、えー給料前払い? えーじゃあもうバックレようかな、とか、あとどうでもいいけど小二なのにコウイチとはこれいかに、とか、あれこれあれこれ考えながら、こくこくと愛想よく逐一頷いた。
* * *
「あのさあ二真野お」
「え?」
耳岸が、髪をぼっさぼっさと掻きむしりながら、露骨にだるそうな顔をする。
「その、家とか叔母さんの話とかどーでもいいから、さっさと男の話してくれや。ぼやぼやしてると次の講義始まっちゃうじゃんよ」
「あ、うんごめん。えっと」
* * *
コウイチの部屋は、三階の、階段上ってすぐ脇だった。三階にはちょっと見た感じでも他に三つ四つドアがあって、きっとこのドアの内の一つはトイレだな(もしかしたら風呂もあるな)とか考えながら、コウイチの部屋のドアを軽くノックした。
無反応。
もっかいノック。
無反応。
うーん。
「…………家庭教師でーす……入るよー」
ドアの向こうにそうざっくりと呼びかけて、ゆっくりドアを開ける。
飛び込んできた光景。
異様な光景。
第一印象としては、『もしあたしが小二のときにこんな部屋与えられてたら気が狂うんじゃないか』だ。あと、『ここ図書館?』。
壁全面本棚。天井まで届く高い本棚。本棚にはびっしり本。文庫、新書、図鑑、ハードカバー。とにかく色んな本、本、本。もちろん、ベッドとか学習机とか、そういう家具の類もある。けど、とにかく本が多すぎてそこにばっかり目がいく。人の姿はどこにもない。ドアを閉め、部屋に一歩入って、ただひたすらぼーっとぐるーっと、周りを囲む本棚を眺めていると、
「……誰、ですか」
か細い声がどこからか聞こえた。
「コウイチくん?」声をかけてみる。
「…………誰、ですか」
さっきよりもか細くなった声。声の発生源を探る。すぐに一つの可能性を見出す。
……ベッド?
位置的に、どうもベッドの中からっぽい。と思ってよく見れば、布団が少しぷっくり膨らんでいる。ゆっくり足音を立てずに近寄り、そっと布団を掴み、がばっと一気に捲る。
青いストライプのパジャマを着た、小さな眼鏡の少年が、驚いたような、怯えたような表情で、あたしを見ていた。
「どーも、おはようコウイチくん。……なにしてたの?」
「……すみません。寝て、ました」
コウイチが、目を伏せながら途切れ途切れに呟いた。伏せたその目は、少し赤くなっているように見えた。
* * *
そこまで喋って、ふうと一息。カップに口をつけコーヒーを一口飲む。薄い苦味と薄い酸味。顔を上げると、耳岸が不可解そうな顔であたしを見ていた。
「全っ然わかんないんだけど、え、それで二真野、ボレたの」
「ボレたってなに」
「一目、ボレたの?」
ボレたって言い方しないだろと心の中で呟きながら、でも実際どうだろうと、そのときの気持ちやらを思い出してみる。
「うーん……そうだね、そうかも。可愛かったのよ、とにかく」
「どー可愛かったの?」
「なんていうか、女の子みたいな顔しててさ、まつげとか長くて……目がちょっと釣り目なのね、それで肌が不健康なくらい真っ白で……でも男の子っぽいごつごつした感じもあるの、体つきとかにちょっとだけ。で、あーこの子、きっとこのまま大人になったら将来女泣かせになるなあ、みたいなさ」
「ほー。未来有望?」
「ある意味有望」
くすくすと笑い合う。学食は、だいぶ人がまばらになってきた。
* * *
泣かせてみたいなあ。
そう思ったのが家庭教師始めて三日目だった。
青いストライプのパジャマ(コウイチはいつもこの格好だった。よくわからないけど多分不登校っぽかった)で学習机に向かい、黙々と参考書の問題を解くコウイチ、を、立って後ろから覗き込む。
コウイチはあたしが近づくと、明らかにびくびくした様子で、ちらちらとこっちの様子を伺った。その度あたしは、こら集中しなさい、みたいな風に軽く注意した。するとコウイチは、びくっと大きく震えて、ごめんなさい……と蚊みたいな声で呟いた。
これがもう。
この感じがもう。
言いようもなく楽しかった。
あーあたしってSなんだ、と結構はっきりわかった。
ベッドに腰掛けて、コウイチの後ろ姿を見ながらあれこれ考える。
たとえば、いきなりパアンっと平手打ちをかましたら。
たとえば、あのメガネをぶんどって窓から投げ捨てたら。
たとえば、本棚から分厚い図鑑を取ってそれで頭をはたいたら。
たとえば、この子が大人になったとき、一番女を泣かせることになるであろう体の部位(詳しくは言わないけど下半身に付いてるやつ)をいきなりぎゅーっとつまんでねじってぱちんと弾いたら。
……弾いたら。
とか考えて、ぶるんぶるんと頭を思いっきり振る。危ない危ない。意味がわかんない。どうしたあたし。あたし全然そんな趣味ないぞ。そもそも泣かせてどうする。泣かせてなにが楽しいんだ。本当に自分で自分に対して意味がわからない。泣かせたって別に、コウイチの女の子みたいな顔がくしゃくしゃっとなるだけだ。目がうるうるっとなって。ぷるぷる怯えながらあたしを見て震えて。何か言いたいのに何も言えないままぎゅっと下唇を噛んで。何も悪いことしてないのに、ごめんなさいって小さく小さく謝って。あー。
泣かせたい。
ぶるんぶるんぶるんぶるん、何度も何度も頭を振る。
コウイチが、そんなあたしを、不安げな目でちらちらと見ていた。
* * *
「なかなかあんたあれね二真野。地味な顔して飛んでやがんね」
「地味な顔で悪かったね」
耳岸は、へへへっと笑いながら、側の自販機で買ってきた缶コーラをぐいぐいっと飲んだ。
「それで二真野、この話はどこに落ち着くのさ」
「ああ、うん。えっとね」
「てかもしかしてあんたこれ、昼間っから学食で喋れる内容じゃない方向にいっちゃう? エロ的な。エロ的な!」
目を無駄にきらきらさせながら耳岸があたしの手をぎゅっと握る。
「なに期待してんだ耳岸。ないよそんなの。あたし分別ある大人だよ」
ち、と舌打ちし握った手を離し、ぐいぐいコーラを飲む耳岸。はあ、とあたしが呆れのため息をつくと、げふううと耳岸が破壊的なげっぷで返事した。
* * *
その日、叔母さん(下)は留守だった。
単身赴任中の父親に会いに行く、ということだった。帰りが夜遅くになるから、プラス三万円で、自分が帰ってくるまでコウイチの面倒見ててやってくれないか、と持ちかけられたので「はい!」と快諾した。
夜九時。
ベッドに腰掛けて(というかほとんど寝転んで)、青いストライプパジャマの後ろ姿を眺めながら、ふはあっとあくびを漏らしてしまう。
家庭教師の時間はとっくに終わったから別にいいのに、コウイチはずっと学習机に向かっていた。クソって言っちゃなんだけどクソマジメだなあーこれ学校じゃちょっと嫌われるタイプじゃないか、と思い、ちょっとはっとした。そうだ、コウイチは学校行ってない、っぽいんだった。実際どうなんだろう。ちょっと気になる。出来るだけソフトに、質問をぶつけてみようと思い立った。
「コウイチくんはさ、あのー…………学校行ってないの?」
全然ソフトな聞き方が浮かばなくてそのまんま訊いてしまった。
参考書を解いていたコウイチの動きが、ぴたっと止まった。
あれ。まずいこと訊いちゃったか。でも今更フォローするのもなんか変というか逆にどうだ、と思ったのであたしは無言でじーっと、止まったコウイチの後姿を見つめ続けた。
ぴく、ぴくっ、とコウイチの肩がひくつき始めていた。
あれ……泣いてないかこれ。
ベッドからそっと立ち上がり、近寄り、じわーっと顔を覗き込む。
「…………え……う……」
コウイチの目から、小さな小さな涙の粒が、次々にぽろぽろこぼれていた。小刻みに体を震わせながら、静かに、声を出さないように下唇を強く噛んで、泣き続けるコウイチ。を見て、うわ。
めちゃめちゃ可愛い。
と、思ってしまった。で、うわ、あたしどうした、と思った。思った矢先に、よーしこの泣いてるコウイチのほっぺたを思いっきり平手でぱっちーん。おでこをグーパンでばっしーん。後頭部にチョップをずっこーん。とかそういうバイオレンスな考えが頭の中でぶくぶくと止まらなくなってきて、どうにかぐっと、気合を入れて、自分を抑える。
魔性の泣き顔だった。
あんまり直視してると本当にバイオレンス衝動のままに行動しかねないので、目をそらした。そらしたというかもう、思いっきり体ごと振り返ってコウイチに背中を向けた。本棚にずらっと並んだ本を、ただただ静かに見つめる。
「…………先生」
小さく、かすれたコウイチの声。
「僕……お母さんから、学校、禁止されてるんです」
* * *
「なにそれ」
ぽかんとした顔の耳岸、の手から缶コーラをとり、一口飲む。
「虐待? になるのかな、うん」
あたしがさらっと言うと、耳岸がぐいっと顔を近づけてきた。
「なにそれマジ」
「マジもマジマジ」
とっくに講義が始まる時間は過ぎていた。あたしと耳岸はナチュラルな流れで講義をさぼっていた。
学食にはもう、あたしと耳岸しかいない。
「旦那さんがさ、単身赴任してから寂しくなっちゃったんだろうね、叔母さん。二年もいないんだもん。コウイチが学校行ってる間、一人きりになっちゃうじゃん、あの――あのっつっても耳岸見てないからわかんないけど、あの広い家にさ。それが嫌で耐えらんなくて、学校行かせないで、その代わり本いっぱい買い与えた、のかなあ、これは半分くらいあたしの憶測混じってるけど」
ほへえ、と間抜けな声を出す耳岸。あたしは頬杖をつきながら喋り続ける。
「あとやっぱさ……コウイチの、顔が、こう……無性に泣かせたくなるっていうか、あー、うん、これはもう見てもらわないと絶対伝わらないと思うんだけどさ」
喋りながら、あたしは既に体の芯からぞくぞくしていた。あの涙。声。顔。軽くぶるっと頭を振る。
「……あー、だからもし、学校行ってたらコウイチ、相当いじめられてると思うのよ。うん、間違いなく。だから、もしかしたらそれもあって学校禁止にしたのかな……ていうね、これも憶測だけどさ」
ふはあ、と間抜けな声を出す耳岸。
「えー、それで二真野、それからどーしたの」
「やっぱさ、それ虐待だとしたらまずいじゃん。学校禁止って。そう思ったら、なんかこう、ちょっとスイッチ入っちゃって、叔母さんが帰ってくる前にどうにかしなきゃーって。で……うちに、連れてきちゃったのね」
えー、と耳岸が大きな声を出す。がらんとした学食にわんわんと音が響いた。
「母さんにも諸々説明してさ、そしたら、なんか姉妹同士で話し合ったみたいで、結果、コウイチ、しばらくうちで預かることになっちゃった」
えー、と再び耳岸が大きな声を出す。それがなんだかおかしくて、吹き出してしまった。吹き出してから、そっと耳岸の耳元に顔を近づけ、声を潜める。
「耳岸さ」
「……なに」
「コウイチの顔、見に来ない? どれだけ泣かせたくなる顔か、その目で見て欲しいのよ」
囁きながらあたしは、自分の口元が緩むのを感じた。
* * *
家までの道のりを耳岸と並んで歩く。
耳岸は、学食を出たときから、ずっとにたにたしていた。
その耳岸の表情を見ながら、あたしはぼんやり考える。
もしかしたら。
コウイチは、叔母さん(下)の本当の子供じゃないんじゃないか。
実は、もともと叔母さん(上)の子供で、それを叔母さん(中)が自分の家に連れて帰ったんだとしたら。
そしてそれを、叔母さん(下)が家に連れて帰ったんだとしたら。
そしてそれを――あたしが、家に連れて帰ったんだとしたら。
だとしたら。
次は耳岸が、コウイチを家に連れて帰ってしまうかも知れない。
女たちの間をたらい回しにされるコウイチの姿を想像して、ああ、今日あたし、本当にコウイチのほっぺた思いっきり平手でぱっちーんしちゃうんじゃないかなあと、自分を抑えられる自信がなくなってきて、ちょっと笑った。
頂いたお題「ショタ」ということで、こんな感じになりました。