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世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。

作者: 溝野魅苑
掲載日:2026/05/20

この世に愛などない。


その真実を、私、不世出の天才と言われる、この茅原誠が科学的に証明して見せよう。



私は幼少時から自分で言うのもなんだが天才であった。

3歳の時には自らの力でニーチェを読んだ。小学校に上がる頃には微分積分を理解していた。高学年の時のスピーチコンテストで、最優秀賞を取った動画は500万回以上再生され、海外の研究者の目に留まり、多くの国に招待されてスピーチをした。中学生の時に人間の可動部分を完全に再現したロボットを作り、ノーベル物理学賞を貰った。その先の進路を考える頃には、世界中の大学が私を欲しがった。日本での高校進学をせず、外国に渡り、飛び級で世界最高峰の大学に入学した。哲学、物理学、ロボット工学、心理学、生理学…興味のある研究の博士号は何でも取得した。

世界は私の頭脳に期待し、私のための研究所を与えてくれた。


そして私は全てを失った。

3歳で言語コミュニケーションいう武器を手に入れ、知識、思考という快楽を知った私は、手にした武器を余すところなく使おうと、気になること、興味のあること、疑問に感じたことを身近な人生の先輩達、即ち、両親に伝えた。その結果、5歳になる頃には、母は私が声をかけると、青ざめた顔に引き攣った笑顔を浮かべ、震える声で

「…な、何でしょうか?」

と答えるようになった。


ショックだった。


何でしょうか。

「なぁに?」でもなく、「どうしたの?」でもなく「何でしょうか?」

何で「しょうか?」

なぜ、まだこの世に生を受けて5年程度の幼児に敬語を使う?

その時私は悟った。

母は私を愛していない。この世に生を受けて5年程度なのに、己よりも知性を見せる私を愛していないどころか、恐ろしい化け物だと思っていると。

そして、父はその頃にはほとんど家に帰ってきてなかった。時々、母が携帯電話越しに泣きながら卑怯者だと責めている声が聞こえていた。

父は仕事を理由に私から逃げていた。


ショックだった。


それでも知的好奇心は止まらない。

学校に上がってからは、人を教え導く立場の人間であれば、両親のようなことはないだろうと思い、先生に気になること、興味のあること、疑問に感じたことを伝えた。

先生は私の挙手を無視するようになった。

私を受け入れてくれるものは評価の数値だけとなった。

テストの点数は私を恐れたり、無視したり、私から逃げたりしなかった。

だが、点数や評価が上がれば上がるほど、私の周りから更に人は減っていった。みんなに話を聞いて欲しくて、私はスピーチコンテストに参加した。平和と人権に関する私のスピーチは、膨大な歴史の分析と推論で裏打ちし、それらを踏まえた未来を提言したものだった。その分析と推論の精密さ、揺らぎのなさは高く評価され、提言した未来は人々の心を打った。

コンテスト実行団体が最優秀賞として動画をアップしたら、その日のうちに100万再生を突破した。一週間後には世界に広がり、実行団体の電話は問い合わせが殺到した。初めのうちは個人情報を保護していた団体だったが、その問い合わせの多さに辟易し、疲弊し、終いには投げやりになり、私の個人情報をばら撒き始めた。

私にプライバシーはなくなった。

「あの!天才少年・茅原くんが数学甲子園で満点を取り優勝しました!」

「天才中学生・茅原くんが新しいアルゴリズムを開発しました!」

毎日毎日、マスコミのカメラとレポーターが付き纏い、私の一挙手一投足をテレビで流した。

ノーベル物理学賞を受賞する頃には、そんな生活に母は心を病み、田舎の実家で療養生活をすることとなった。


もうこの国では、私は自由に生きられない。

私は日本を飛び出した。

海外で、しかも最高峰の頭脳を持つ大学であれば、私を恐れたり、無視したり、私から逃げたり、疎ましくなり見捨てたり、珍しい生き物だと追い回したりする者はいないだろうと思った。

だが、そこには政治があった。

優秀な研究者を如何に己の利益のために手に入れるか?そして、その利益を産むための投資を如何に安く抑えるか?多くの企業や団体、更には国家が加わり、そうした駆け引きをしていた。

「君達の頭脳はこの国の…いや!世界の財産だよ!我々はそれを一番上手く運用する自信がある!」

そう言ってスカウトしにきたのは超大国の政府が寄越した男だった。

そうか。

私達研究者は財産だったのか。

人ですらないのか。

私は思った。

だからみんな、恐れたり、無視したり、逃げたりして、愛情や信頼を向けるということをしなかったのか。

私は悲しい悟りを得て、世界中が連携した巨大な研究施設を作り、私に与えることを条件に超大国の政府と契約を結んだ。



それから20年が過ぎた。

私は46歳で、もちろん結婚もしてないし、子どももいない。

私は世界の財産だ。世界に利益を与えるだけの存在だ。愛や情緒に用はない。

「まだそんなことを言っているのかい?頭が硬いねえ。」

「そうしたのは、私達研究者を財産としているあんた方、つまり世界だろ?今更何を言ってるのやら。」

超大国の政府からスカウトに来た男、今は世界脳財総合機構最高責任者、アレックス・モードはめんどくさそうな顔をしながら、私にコーヒーを手渡し、応接室のソファにどっかりと沈み込んだ。

「それは言葉のあやだろ?全く20年も言われることになるとはね…なあ、カヤハラ、今や時代は変わっているんだよ。君が我々と契約を結ぶ条件に、この世界脳財総合機構の立ち上げを提示した。世界の優秀な頭脳を集め、連携しながら集中できるこの施設を作ったことで、君だけじゃなく、世界有数の優れた頭脳は多くの恩恵を世界にもたらした。ナノマシン技術や再生細胞技術の向上により人類の平均健康寿命は今や96歳、量子コンピュータの未来予測により世界経済は安定化した。AIとロボットがビジネスをサポートする事により、人々はストレスがない生活が送れている。しかし、それでも…。」

アレックスは手にしたコーヒーを飲み、ため息を吐いた。

「人間というものはどこまでも罪深い生き物だ…。」

なるほど…私はため息を吐いた。やはりそういうことか。また世界は、我々財産から恩恵を得ようと考えていると。

「ただコーヒーを奢りにきたわけじゃないようだな。今度は何だい?世界は何をお望みで?」

私はアレックスに言った。

「カヤハラ、俺が君をスカウトした時は、本当に君の頭脳に惚れ込み、世界を好転させられると直感したんだ。そして君はそのヴィジョンを次々と実現してくれた。応えてくれた。健康寿命の向上、経済の安定化、ストレスのない生活…君がいなければ全て叶えられなかった奇跡だ。本当に尊敬してるし感謝もしている。でも…世界はそれを当たり前だと思い始めた。」

アレックスの芝居がかった長広舌には辟易する。自分のやったことなのだから殊更言われるまでもないんだ。

「お褒めに預かり光栄だよ、アレックス。それで?君は私に私の功績を教えてくれるためにここにきたのかい?」

私の皮肉にアレックスはハッとして居住まいを正した。

「すまない。用件を伝えよう。君達がこれだけ世界に恩恵を与えても解決できていない問題がある…少子化だ。経済の安定化で余暇が増え、個人主義が進んだ。健康寿命が伸びたから、人を頼らずに過ごせる老後が長くなった。更にAIとロボットによる老後の支援が公的に行われる。恵まれた生活を楽しんでいる人々からは、子どもを作ろうという意欲が薄まった。更に、生活にストレスがないことでストレス耐性が低くなり、夫婦間に問題が起きたら、それが例えほんの小さな物事でも簡単に離婚する。ますます子どもが作られるチャンスはなくなる。」

「馬鹿馬鹿しい。そんなこと、私は以前から解決方法を提示しているだろう?」

私の言葉にアレックスの顔からさぁっと血の気が引き、ソファから身を乗り出して声を荒げた。

「君のあれは…『有機生命体創造活用論』はダメだ!人工的に生命を生み出すなんて、それは神の領域を侵す、科学の禁忌だ!」

非生産的なロマンチストめが…私は鼻でせせら笑った。

世界が今だに神や愛なんていうファンタジーに縋っているから、我々科学者は少子化に手出しできないんだろうが。

『有機生命体創造活用論』とは、過去に私が提言した、人工的に作られた有機生命体の活用だ。食肉となる魚や家畜、過去に地上から姿を消した、また、今消えようとしている生物、そして、人間。それらを人工的に作ることで、食糧難や絶滅、少子化、それらを全て解決できる。

しかし、その理論はアレックスをはじめ、世界脳財総合機構にいるご同輩のロマンチストどもに反発された。

神に反する行為、背徳行為、非人道的、アンチモラトリアムだなんだと散々に非難され、そうやって作り上げられた世論をまんまと真に受けた世界もそれに続き、結果として封殺されたのだった。

「全くの無から作り出すわけじゃないよ。全人類の卵子と精子を採取して我々が生物学的に最も適した組み合わせを導き出して人工授精させる。実際の子作りと変わらないだろう?子育てはAIとロボットにやらせればいいさ。」

アレックスの顔色はますます青ざめて消えていきそうなほどとなり、暑くもないのに汗が額に滲み始めた。

「カヤハラ、違う。そうじゃない。そうじゃなくて…つまり、少子化を解決するためには…結局、愛が必要だってことなんだ。」

とんだ寝言を言いやがる。私はこの46年間、ずっと愛なんて見たことも聞いたことも、感じたこともない。科学者たるもの、そんな不確実なものを実在と口にすることはできない。

「そんなオカルトやファンタジーは神や宗教の仕事だ。」

アレックスはがっくりと頭を垂れ、乱れた髪をくしゃくしゃとかき上げた。

「科学の力で愛を解く神は死んだよ。」

「なら、ますますおかしいだろ。愛を説く神が死んだというのに、まだ世界は愛なんてものを求めているというのか?」

「カヤハラ、だからこそだよ。信じたいんだ。愛の実在をね。人間はそういうものだ。何でも合理的に割り切れる生き物じゃないんだよ。」

アレックスのその言葉は、私の知的好奇心の琴線を揺らした。

「じゃあ科学の力で合理的に、神もいないし、愛も幻想だと立証して割り切らせれば、『有機生命体創造活用論』が認められるってことか…フッ…ハハハ…。」

私は己の閃きに興奮し、湧き上がる笑みを抑えきれなくなっていた。

「カヤハラ…?何をしようっていうんだ?」

そう問うたアレックスの声は震えていた。

「この世に愛などない。その真実を、私、不世出の天才と言われる、この茅原誠が科学的に証明して見せよう。」



目の前には『有機生命体創造装置』がある。

ここ、私以外誰も入ることのできない、言わば秘密の研究室に鎮座ましましていた。


『有機生命体創造活用論』は、過去に封殺されたが、私はその時既にその理論の主軸となるこの『有機生命体創造装置』を完成させ、この秘密の研究室に隠していた。

簡単にいうと生き物を生み出す機械だ。

一度は封殺された禁断の装置は、神もいないし、愛も幻想だと立証するため再び息を吹き返した。

そして今、この中には赤ん坊がいる。

彼女こそ、神の領域、科学の禁忌を侵し、私の理論を立証する存在、私と死ぬためだけに作られた人間、スーサイダルだ。


裏切られ、恐れられ、利用され、愛を知らぬ人生を歩んできた私は、この秘密の研究室に1人篭り、愛とは何かを学習することから始めた。

歴史、芝居、小説、映画、ドラマ、コミック、歌…あらゆるジャンルから、恋愛、性愛、博愛、家族愛、友愛…様々な愛を謳う作品を片っ端から脳に叩き込んだ。

そして私が導き出したのが、この世で一番強い愛情は、親が子に注ぐ無償の愛であるということ、そして、死すら厭わず強く相手を思う気持ちであるということだった。つまり、愛する者のためなら死ねるというやつだ。

無償の愛を注がれ、無償の愛を注いだ者が、お互いのために死に踏み切る事ができれば、愛は実在すると認めよう。だが、どうせそんな結果にはならない。だから私が自ら実験体となることにした。

ただ、問題なのは相手が必要だという事だ。

どうする?相手を募るか?…いや、人類の繁栄のためと言ってもボランティアでこんな話に乗ってくる輩は、まともな人間ではないだろう。じゃあ報酬を払う?金目当てしか集まらん。


だから作った。

  

「スーサイダル…それが君の名だよ。」

私は『有機生命体創造装置』から優しくそっと彼女を抱き上げた。スーサイダルの青くて大きな目が私をじっと見つめ微笑みかけた。

私も微笑みを返した。

生まれてすぐの赤ん坊の笑顔、こんなものは単なる反射行動に過ぎないことは百も承知だが、私は愛されるために、敢えて微笑みと解釈した行動を取っているのだ。それ以上のものは何もない。例え小さな感情の揺らぎを感じていたとしても、私の編み出したメソッドの一過程にすぎない。

歴史、芝居、小説、映画、ドラマ、コミック、歌…あらゆるジャンルから、恋愛、性愛、博愛、家族愛、友愛…様々な愛を謳う作品を片っ端から脳に叩き込んだ私は、その知識を利用して、スーサイダルが私を愛するメソッドを作った。

彼女を育てていく中で、成長過程に応じて、時には親として、時には友として、そして時には恋人として、その時々に必要な愛情を模して注ぐ。全ての愛を私から得て、同じように私に向けた時、彼女は私と共に死ぬのだ。

そう、愛が実在するならば。


三ヶ月が過ぎた。

スーサイダルを育てる中で面白いことがわかった。

スーサイダルにミルクを与える時、沐浴をさせる時、寝かしつける時、胸に抱き上げるとその軽さと暖かさと柔らかさに、明るい気持ちが湧いてきて自然と笑顔になる。そしてそれを見て笑みを返すスーサイダルを可愛いとまで感じるようになった。

しかし、これとて愛情ではない。メソッドの完璧さの表れであった。

私ほどの優れた頭脳の持ち主であっても、愛のある行動を模倣することで、まるで本当の愛を持っているかのように脳が錯覚するのだ。

素晴らしいメソッドじゃないか!

私は己の仕事に満足しながら、ベッドに寝転がるスーサイダルを見つめた。するとスーサイダルは手足をジタバタと動かし、寝返りを打とうとし始めた。三ヶ月の間に首はしっかりと座り、飛行機と俗称される手足を広げて浮かせる行動を取るようになっている。これは寝返りに繋がる行動だ。寝返りが打てるようになると、ベッドと親の庇護しか知らなかった赤ん坊が、少しずつ己の世界を獲得し始める。手足を伸ばし、空をかく彼女の挑戦は私の胸を躍らせた。

「スー、もう少しだね。がんばれ。」

そんな言葉すら口をついて出た。

1週間後、遂にスーサイダルが寝返りをした。

「スー!すごいぞ!できたじゃないか!君は偉いな、大したもんだ。」

私の気持ちは昂り、スーサイダルを抱きしめて労っていた。


その三ヶ月後。

「スー、あーんだよ?ほら、あーんして?」

寝返りを足がかりにスーサイダルの行動範囲は大きく広がり、今では研究室のタイルの床をハイハイで移動するようになった。体力、筋力がつき、しっかりとベビーチェアに座れるようになったスーサイダルに、私は薄い出し汁で煮てから潰したジャガイモを、プラスチックのスプーンで差し出した。スーサイダルは、私の顔をじっと見つめ、怪訝そうにしている。

「スー、さあ、お口開けて?ね?あーん。」

私はスーサイダルの唇を優しく指で撫でながらもう一度声をかけた。スーサイダルは不安気に私を見ながら、おずおずと小さな口を開いた。

「よーし!いいぞ。さあ、美味しいお芋をお口に入れるぞ。」

私はスーサイダルの口にジャガイモを入れた。スーサイダルは驚いたように目を丸くして私を見た。

「もぐもぐするんだよ。ほら、頑張って!」

咀嚼のジェスチャーをしながら声をかける私を見て、スーサイダルは模倣した。喉がゴクリと動き、その顔に笑顔が広がり、口を開けて次をねだった。その姿に順調に成長する姿を喜ぶ気持ちが湧き上がった。順調に脳の錯覚も成長している。私は彼女に愛情を感じていると思い込んでいる。


愛情の模倣と脳の錯覚を積み重ねながら一年が経った。

「かーはら、だっこ!」

スーサイダルは、短い足でよちよちと歩きながら、両手を広げ私の後をついてくる。言葉と歩行を獲得しつつあるのだ。ぺたんと尻餅をつき、立ち上がり、また私を求めて歩き出す。そんなスーサイダルを私は目を細めて見つめ、そして抱き上げる。

心が暖かい。満たされている。脳が錯覚で満たされている!

「わかるか?アレックス。このメソッドにより、私はスーサイダルに対する愛という錯覚を得た。スーサイダルは私以外の人間を知らないのだから、私を模倣し成長する。つまり、私の錯覚の愛から愛を学び、私を愛する。」

私はコーヒーを一口飲んだ。

「そして…死んでいくんだ。」

コーヒーを片手に応接室のソファに座るアレックスは、一年前、コーヒーを奢りにきた時とは打って変わって老け込み疲弊した顔をしている。

「まさか、本気じゃないだろ?その子を殺すのか?」

「ああ、そうだ。そして私も死ぬ。」

「なあ、考え直せ。そんなこと…。」

アレックスは立ち上がり、震える手で私の腕を掴んだ。乾いた音がして、取り落としたプラスチック製のコーヒーカップが床を転がり、僅かに残ったコーヒーが床に弧を描く。私は満面の笑みで振り返った。

「ははっ!そんなことは起こらない。なぜかわかるか?愛なんて存在しないからだよ!存在しないもののために素直に殺されようなんて人間はいやしない。つまり彼女は私に殺されないし、私も彼女と死ぬことはない。」

私は呆然と私を見つめるアレックスにグッと顔を寄せ、しっかりと目を見て口を開いた。

「それ即ち、愛の不在の証明だ。」

「カヤハラ…今ならまだ引き返せる。引き返せるうちにやめよう。」

アレックスの声はか細く弱々しい。ここでもうひと押しだ。

「アレックス、お前、嘘をついているよな?もう私は引き返せない。神の領域、禁忌を侵しているのだから。」

「いや、まだ間に合う。俺はこの話を誰にもしていない。」

アレックスは掠れた声で言った。

「そうか。」

私は抑えきれずニヤリと笑った。

「じゃあお前も共犯だな。」

アレックスの棒を飲んだように硬直し言葉を失っていた。


そして彼は共に世界を覆す共犯者と成り果てた。



スーサイダルは順調に成長し、3年が過ぎた。

「カヤハラ、みて!おえかきしたの、みて!」

スーサイダルが画用紙を頭上に掲げながら私の元へ走ってきて、座る私の膝によじ登った。

「へえ。どれどれ?よく見せて?」

私が言うと、スーサイダルは誇らしげに鼻腔を広げ、私の胸に画用紙を押し付けてきた。

見た瞬間、心臓の鼓動は弾むように早くなり、通常よりも多く早い血流が脳を痺れさせた。

白い長い髪を束ねた白い服の人間…多分これは私だろう。それからピンク色のふわふわしたドレスを着た小さな人間…スーサイダルだ。2人は手を繋いでニコニコと笑っている。周囲には色とりどりのハートと変な花が飛び交っている。

なんて、幸せな世界。

50に手が届こうという今の今まで一度も己が手にしたことのない色とりどりの幸せな世界がそこにあった。

「カヤハラ?どこかいたいの?」

スーサイダルにそう言われるまで私は自覚していなかった。

自分が涙を流していることを。

「ああ、スー、心配かけてごめんね。何でもないよ。君の描いた絵が上手過ぎて感動しちゃっただけだ。」

「そうなの?でもカヤハラ…。」

スーサイダルは不安気な表情で私に顔を近づけてきた。

「いたいおかおしてた。」

そして手を伸ばし私の頭をそっと撫でた。

「カヤハラ、いいこいいこ。」

涙が止まらなくなった。

これももちろん脳の錯覚だ。脳の錯覚に決まっている。

私は己の涙をコントロールできないほど、脳の錯覚が強く感じられるようになってきているだけだ。

脳の錯覚なのに…心がギューっと締め付けられるように痛くなり、暖かくなり、涙が溢れ出てしまう。

「ありがとね…スー。」

私は俯いて目頭を抑えた。少し落ち着いてから顔を上げると、世界の色が変わっていた。

今までなんとも思っていなかった私の研究室が、何とも物悲しく、寂しい色に見える。無骨な機器ばかりで何もない、灰色の壁と硬い床に囲まれた室内が、私の心をギスギスと心を突き刺して来た。

スーサイダルの描いた絵のせいだ。

この絵みたいに変な花とかハートとかに囲まれた幸せな部屋にいたい…そう願ってしまった。

そうだ!スーサイダルと一緒に買い物に行こう。

「スー!買い物に行こう!このお部屋を花やハートで飾るんだ。この絵みたいにね。」

スーサイダルは驚いて目をまん丸にしていた。

「かいものってなあに?」


スーサイダルはこの部屋以外知らなかった。

当然だ。神の領域を侵す、科学の禁忌の産物なのだ。人に見られるような危険を冒してはいけない。それに、いずれ私と死ぬ運命のスーサイダルが、外を知る必要はない。

そう思っていたはずなのに、私はいそいそとスーサイダルに水色のドレスを着せ、バンドのついた黒と白の靴を履かせ、小さな猫の形のリュックサックを背負わせていた。

「さあ、行こう。」

私はスーサイダルの手を引いて、秘密の研究室から出るために強化ガラス製のエレベーターに乗った。

「すごい!けしきがうごいてる!」

「スー、動いてるのは私達だよ。このガラスの入れ物は私たちを運んでくれるんだ。」

「すごい!すごいね!」

スーサイダルがガラスに顔をつけて食い入るようにエレベーターの向こうを見ているうちに、軽快なチャイムの音がしてエレベーターは応接室に到着した。

「さあ、この部屋の向こうが外だ。」

「そと?そとって?」

私はスーサイダルを誘い、応接室を横切り、外界へと繋がるドアを開けた。

「わあ!」

スーサイダルは驚きの声を上げ、キョロキョロと周囲を見渡した。

燦々と輝く太陽、世界脳財総合機構の手入れの行き届いた庭、その庭に出入りする小鳥やリス。ずっと外界と隔絶された世界脳財総合機構の更に奥深くにある私の秘密の研究室から出たことのないスーサイダルには見るもの、聞こえるもの、触れるもの、五感で感じる全てが初めてのものばかりだ。

「ねえ!カヤハラ!あれはなあに?」

「あれがお日様だよ。明るくて暖かい。」

「さっきからきこえるあのおとはなに?」

「あれが鳥さんの声だ。可愛いだろ?」

「このかぜをだしてるエアコンはどこにあるの?」

「これは自然の風だから、エアコンはないんだ。」

「あのあかいおはなは?!」

「あれは薔薇だ。」

「ああ…ばらはこうだったのね。」

そうか。あの変な花は薔薇だったのか。

スーサイダルが新鮮な驚きに目を輝かせ、次々と感嘆の声を上げる姿はとても愛らしかった。

ゆっくりと歩みを進め、いよいよ世界脳財総合機構の門を出た。

「ひとってこんなにいたんだね!カヤハラとスーしかいないんだとおもってた!」

スーサイダルの無邪気なその言葉に、ズキンと音を立てて心臓が軋んだ。

私はスーサイダルに与えるべきものを与えていなかったのではないかという罪悪感。そして寂寥感。もし外の世界を知ったら、私を残してこのまま手の届かないところへ羽ばたいてしまうのではないか。

今まで私の周りの人間がそうだったように。

私は何を考えているんだ?

そんなことはあり得ない。何故なら私のメソッドは完璧だからだ。私のメソッドの通りにしていれば、スーサイダルは私を愛する。

私が…。

私がスーサイダルを愛しているように。

いや、そう錯覚しているように。

「すごいね!カヤハラ、つれてきてくれてありがとう!」

私に抱きついて、鈴のように明るく響く声でスーサイダルが言うと、私の感情は濁流となって私を飲み込んだ。錯覚だ。これは錯覚なんだ。私のメソッドで私の脳が錯覚しているだけで、愛であるはずがないんだ。

愛なんて存在しないんだから。


ああ…でも、もう錯覚でも愛でもなんでもいい。


愛おしい。


愛おしい。愛おしい。愛おしい。愛おしい。愛おしい。愛おしい。


メソッドか愛か。スーサイダルを愛おしいと思う気持ちに呑まれながら、ぼんやりとスーサイダルが私の計画を知ったらどう思うんだろうかと考えていたら、また心にヒビが入る音が聞こえた気がした。



私が秘密の研究室をハートと変な花で飾り立てるようになってから2年が過ぎた。

「なんか…なんと言うか、すごく部屋が明るくなったな。どういう風の吹き回しだ?」

久しぶりにコーヒーとドーナツを持って訪ねてきたアレックスが面食らっていた。

秘密の研究室から始まり、今ではこの、いつもアレックスと会う応接室も壁がハートで満たされ、毎日新鮮な花が生けられるようになった。

我ながら確かにたいそうな変容っぷりだ。そして私は2年を経てもそれに対する答えを得られていない。

私が答えあぐねていると、パタパタと軽快な足音が近づいてきた。

「カヤハラ!…あっ!」

5歳になったスーサイダルが廊下を走って私に会いに来たのだった。

「え…。」

アレックスは私とスーサイダルの顔を何度も交互に見た。

「ごめんなさい!お客様がいらしていたのね。」

私はそう言ってそそくさと部屋を後にしようとするスーサイダルを呼び止めた。

「いいよ。スー、おいで。」

スーサイダルは、困惑した面持ちで、隠れるように私の隣に立った。

「この人はアレックスだ。私の…友達だよ。」

鳩が豆鉄砲を食ったような顔で立ち尽くすアレックスをスーサイダルに紹介した。

「初めまして。スーサイダルです。」

スーサイダルは一歩前に歩み出て、ぴょこんと頭を下げた。暫しののち、アレックスは我に返りスーサイダルに声をかけた。

「あ…ああ…初めまして。スーサイダルちゃん。」

私はスーサイダルの頭を撫でながら言った。

「スー、きちんと挨拶して偉かったね。ところで、私はアレックスとお仕事の話をしなくちゃいけない。終わるまで1人で遊べるかい?」

「大丈夫…でも…。」

スーサイダルは思案げに言い淀み、それから背伸びをして私の耳に唇を寄せ囁いた。

「早く来てね。」

私は微笑みを返し、走り去っていくスーサイダルの背中を見送った。

「カヤハラ…今の子が…?」

アレックスが恐る恐る口を開いた。

「ああ…彼女がそうだ。」

「私が間違っていれば、私を殺し、私が殺す、そのためだけに生まれた存在。」

自分の発した言葉が予想以上に鋭利で、私の心のひびが大きく広がった気がした。


アレックスが帰った後、私は秘密の研究室で1人遊ぶスーサイダルの元へ戻った。

「スー。待たせたね。」

「カヤハラ!」

スーサイダルは私に走り寄るとギュッと抱きついた。私もそっと彼女を抱き締める。

「もうこんな時間か。おやつにしよう。今日は?何が食べたい?」

「ホットケーキ!」

「よおし!じゃあ一緒に作ろうか。」

「やったー!ねえ?アイスクリームも載せていい?バニラのやつ。」

「最高じゃあないか!スー、君は賢いな!私に似たのかもしれないな。」

それは詭弁ではなかった。有機生命体創造装置は全くの無から生物を生み出すわけではない。それに関しても、人工細胞などを使って実験は繰り返したが、不安定でその成長率は0.003%にも満たなかった。もちろん、ふんだんな予算と時間があれば、成長率を上げていくことは可能だろう。しかし、そこに至る前に『有機生命体創造活用論』は封殺されてしまった。スーサイダルを生み出す時は、秘密裡に進行していたため、臨床実験を繰り返す余裕はなく、やむを得ず私の細胞を使ったのだった。

もちろん遺伝情報には手を加えているが、それでも、遺伝子的に見ても私とスーサイダルは親子と言える。

そう、スーサイダルは、私に取って無償の愛を注ぐ対象である子どもと言えるということだ。

くそ…だからなんだというのか?

親が子に注ぐ無性の愛情。そんなもの、己の実の両親を顧みても全く実在が信じられない。それなのに今の私はどうだ?まんまとスーサイダルを愛している。これが遺伝子のなせる技か、それとも自分のメソッドの完全さ故か。


それとも、ただの愛なのか。



穏やかな日々が続き、スーと暮らし始めてから10年が経過した。

アレックスは5年前のあの日以来姿を見せていない。

私も56になった。アレックスは私の4つ上だからもう60になる。健康寿命が100年となった今、定年も引き上げられ、世界平均75歳程度となったが、今はストレスフリーの時代、後続のための仕事の整理や分類は、余裕を持って丁寧に行えるだけの時間的余裕を持って行う。

今だ、共犯関係は続いているのか、お陰様でスーのことで私を煩わせる者はない。だが、アレックスが一線を退いたらどうなるんだろう。うまくやってくれるのだろうか。もし後続の者が、私の行動に疑問を持ち、全てを洗い出されたら、封殺されたはずの神の領域、禁忌を侵す研究を続けているかどで、私はこの場を追われることになる。それだけじゃない。確実に残りの人生は塀の向こうで過ごすことになる。そうなった時、スーはどうなるのだろうか。やはり児童養護施設で育てられることになるのか。

スーと離れて生活するなんて考えるだけでゾッとする。

今の暮らしを守るためにはアレックスの協力を得られる今のうちに正当な研究として発表するしかないのだろう。


だが、なんて?


私はスーを殺せないし、スーに私を殺させたくない。

つまり、お互いのために死ぬ選択ができないわけだから、愛は不在であるという結論に至る。


だが、私はそれはできない。


なぜなら、私がスーを愛しているから。


メソッド?遺伝子?そんなもの、もうどうでもいい。

可愛いスー、愛おしいスー。ただ愛してる。今ここにある事実はそれだけだ。

だが、それならば、私もスーも死ななければならない。それが私の思い描いた結末だ。

スーが死ぬなんて…スーを殺すなんて耐えられない。

私を殺すかどでスーに罪を犯させることもしたくない。

私は最近毎日そのことばかり考えていた。


突然、視界はピンクで埋め尽くされ、研究室内いっぱいに甘い香りが広がった。

「カヤハラ!」

私の名を呼ぶ愛おしい声。

目の前に薔薇の花束を抱え、満面の笑みで微笑むスーがいた。

「庭がバラでいっぱいだよ。」

「摘んできてくれたのかい?ありがとう、スー。早速花瓶に活けようね。」

私は花瓶を探すために立ち上がった。

「ねえ、カヤハラ。」

「何だい?スー。花瓶なら今持っていくよ。」

あれほど物悲しく、寂しくて、灰色の壁がギスギスと心を突き刺すようだった私の秘密の研究室も、今は壁や床は華やかなパステルカラーで彩られ、クッションやぬいぐるみみたいな無意味で必要性のないもの、その他カードゲーム、ボードゲームなどの2人で楽しむための数々の玩具があり、日々飾られる花のための花瓶も増えた。私はその中から、ちょうどいいサイズの花瓶を見つけ出し手に取った。


「違うの。私、死ぬなら今がいい。」


ガシャン!と言う音がして、私の手から落ちた花瓶が割れた。

違う。

割れたのは私の心だ。

「スー…君は知っていたのか…。」

スーは微笑みを返した。

「いつから知っていたんだ?」

「5年前…アレックスさんとカヤハラがお話ししているのが聞こえちゃったの。」

あの時か!

「私が間違っていれば、私を殺し、私が殺す、そのためだけに生まれた存在。それがどういう意味か気になって調べたの。カヤハラの研究資料にも全部目を通したよ。」

スーは賢い…私の遺伝子…そんな…。震えが止まらない。こんなことになるなんて…。

「それからずっと、いつどういうふうにカヤハラと死のうか考えていたんだ。」

「確かに最初はそうだった。でも今は私は君を失いたくないし、この暮らしを失いたくない…ずっと君とこのまま生きていきたいんだよ。」

私は涙ながらにスーに縋ったが、スーはキョトンとしていた。

「カヤハラは私を愛してないの?」

メソッド!メソッド!メソッド!無償の愛の果てが死に繋がるメソッド。くそ!私はなんてバカなんだ。

「愛してる!愛してる!愛してるんだ…だから…だから…。」

「じゃあ死ななくちゃ。だって愛する者同士は相手のために死ねなくてはならないんでしょ?私はカヤハラを愛してるから死ねるよ。カヤハラも…そうだよね?」

スー、助けて。メソッドから、私の間違った錯覚の上に成り立つ愛から目を覚まして…いや、しかし。


目を覚ましてもスーは私を愛してくれるのだろうか?


真っ直ぐな目。今のスーは間違いなく私のために死ねる。私はその時初めて己の罪と己の頭脳の完璧さを思い知った。

スー、私のことは殺してくれ。罪深い私と私の呪われたメソッドを闇に葬り去ってくれ。


そして、君は生きてくれ。


「私、この満開のバラに包まれてカヤハラと死んでいきたいの。」

スーは落ち着いて静かに微笑んでいた。

私は愛されたことがなかった。だから知らなかった。

愛とは…こうも恐ろしいものだということを。

スーは、手にした薔薇の花束を投げ捨て、私に抱きつき、愛おしげに私の首に手をかけた。

「カヤハラ…大好き…。」

スーの甘い囁き。逆らうことのできない甘美な響き。その甘さで罪深い私を断罪してくれ。

「スー、私もだよ…。」

投げ捨てられた薔薇の花束から飛び散る花びらが甘い芳香を広げながら身を寄せ合う私とスーに降り頻る。甘い香りと甘い囁きに私の脳は酩酊したかのように動きが停滞し、ただスーがいる、その幸せを感じているだけだった。

「カヤハラ、愛してる。」

スーの手に力が籠り、私の肺は空気を求めて喘いだ。しかし、不思議と頭の中はふわふわして、夢の中にいるような幸せな気持ちに包まれていた。

意識が遠のき、死への扉が見えたその時、エレベーターのドアが開き、ドカドカという無粋な足音が響いた。

「スーサイダル!だめだ!」

それはアレックスの声だった。

私を夢想の世界から引き戻したのアレックスは、銃を持った世界脳材総合機構の警備員数人達と現れた。

「邪魔しないで!」

スーの叫ぶ声が聞こえた。

「私達愛し合ってるの!これは愛の行為なの!」

スーの心からの叫びにアレックスも声を荒げた。

「それは違う!間違ってる!」

私の身体からスーの重みが消え、ガタガタと物が倒れる音がした。「落ち着け!やめろ!スーサイダル!」

アレックスがスーを制止する声がし、その後、発砲音が聞こえた。


誰が誰を撃った?


私の脳は酸欠になりながらも最悪を想定しひんやりと冷たくなった。

「馬鹿野郎!なぜ撃った?!」

「あのままではCEOが…。」

言い訳する発砲した男をアレックスが殴りつけた。殴られた男の手から離れた銃は床を滑り、私の足元に鎮座した。

スーは?スーは無事なのか。

床に散らばる薔薇の花びらの中に、一際色濃い赤い点。スーが腹から血を流している。


なんでお前ら如きがスーを殺すんだ?


私は立ち上がり、床に落ちる銃を手にし、狙いを定めた。

「早まるな!カヤハラ!」

アレックスの声が聞こえる。スーを撃った男が身じろぎもせずに怯えた顔で立ち尽くしている。

私は引き金を引いた。

銃弾は、スーを撃った男を通り過ぎてスーの心臓を貫いた。

満足げに微笑んだスーの唇が動いている。

「カヤハラ…愛してる…。」

スーは満開の薔薇の散らばった床にゆっくりと倒れていった。


誰もが呆然としていた。

「カヤハラ…なぜ…?」

アレックスが震える声で言った。


アレックス。何を言っているんだ?


「世界はこれを愛というんだろ?」


私は銃口を口に咥え引き金を引いた。

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