足払い
川は、夜でも川だ。
黒く、重く、音だけでそこにいると分かる。
反独立派の前進指揮所は、川縁から少し引いた林間にあった。車両灯火は遮蔽材の下、赤色の作戦灯だけが地面を照らす。湿った泥が靴裏に絡み、息を吐くたび白い霧が出た。
小隊長――遠目に見る顔貌は三十代の前半に見えるが、目の下の影がそれを否定していた――は、双眼鏡を下ろし、無線機のスピーカーを叩いた。
「前線、聞こえるか。……聞こえなくてもいい。行くぞ」
返事は、薄いノイズに溶けた。電波が死んでいる。いや、“殺されている”。この地形で、あの町で、通信がまともに通るほうが異常だ。
副官が言った。
「上からは“今夜中に崩せ”です。朝まで待つと道路がさらに腐る。河岸も持たない、と」
小隊長は笑いそうになって、笑えなかった。はじめからわかりきったことだ。
泥濘期は止まった瞬間に詰む。補給も、回収も、退避も、全部“道”に縛られている。橋を架け直しても叩かれる。ドローンを飛ばすのだって、燃料の補給が途切れたらせば落ちる。止まれば削られる。進めば死ぬ。
つまり、どっちに転んでも――死ぬ。
「突撃だ。川を越える。対岸の廃墟は、焼け殻だ。最初の砲撃で死んでる。あとは隠されてた玩具と残骸が多少ふらついてるだけだ」
そう言った自分の口調が、どこか“自分に言い聞かせる”声音になっているのを、小隊長自身が一番理解していた。
初日の空爆と砲撃で終わるはずだった通過点の町が、もう三日目になるがまだ粘っている。その事実だけで、嫌な予感が骨に染みる。
前進開始。
歩兵は浅瀬に散り、浮橋材の一部は先陣を切るBTR-MD「ラクシュカ」に押され、川面は鈍く割れる。濁った水が膝を叩き、冷たさがブーツの縫い目から沁みる。
その時、対岸の闇が――一瞬だけ、明るくなった。
火ではない。
灯火でもない。
“反射”だ。
小隊長は瞬時に気づいた。
水面が、上流から膨らんでいる。
「退避――ッ!」
叫ぶのと同時に、川の音が変わった。
唸りが、低くなる。
水が、重くなる。
そして、遅れて濁流が来た。
ただの増水じゃない。木の枝、腐葉土、氷の塊、そして泥。川という形を保っているのに、質量が“壁”のように迫ってくる。
前進中の歩兵が一人、二人、膝を取られた。
浮橋材が横に流され、渡河線が乱れる。
川を越えた側の先頭は、戻れない。
まだ川の中にいる後続は、進めない。
「くそっ……!」
小隊長は歯を噛んだ。
町を落とすはずの突撃が、手前で川そのものに噛まれた。
この瞬間、彼は確信した。
町は死んでも敵は死んでいない。――誰かが、生きた頭で殺しに来ている。
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鈴音は走っていた。
エクステリアが“走る”という行為に入ると、世界の揺れ方が変わる。歩行のサーボ音が太くなり、関節が熱を持つ。排熱を抑える設計はされているが、抑え切れない。
脳が“闘争”を優先しているのが分かる。
坑道入口へ。北東。
司令部の短い指示が脳内で反芻する。
――市街地班、坑道線へ。
――引き込みを完了させろ。
――退避路の遮断は最後。タイミングは任せる。
「最後って言われても……」
<だから任せたんでしょ>
リーゼは淡々と返した。声だけが、焦りと逆相関で落ち着いている。
鈴音は、左手で操縦桿を抑え、右手をコンソールの“硬いスイッチ群”へ滑らせた。基地から渡された通信用の簡易I/Oユニットが、貯水池の制御線にぶら下がっている。光ケーブルで繋いだ“古い確実性”。
「水門、起動。……合図、送る」
指が震える。
震えるのは寒さじゃない。
自分が今やろうとしていることが、ただの作戦ではなく“地形そのものを武器に戦争する”行為だと理解しているからだ。
もう、民間だとか緊急回避だとかの言い訳ができないはっきりした”攻撃”になるのだ。
<送信、確認>
リーゼの声。
<水門開放、遅延ゼロ。上流の堰――増水、加算。洪水波、生成開始>
鈴音は息を吐いた。
その瞬間、背中のどこかが軽くなる。
“決めた”という感覚。戻れないという感覚。
HUDの一角に、川面の簡易モデルが走る。
流速が跳ね、土砂濃度が上がり、渡河可能性のパラメータが落ちていく。
「……これで西側は、しばらく足止め」
<“しばらく”は戦争では永遠に近い>
リーゼが言った。
<少なくとも、今夜の突撃の“形”は崩れる>
指定された坑道入口はやや奥まっていて山の側面だ。まだ距離がある。
市街地側のシェルター群から、味方が追いついてくるのがHUDに点で見えた。最後尾はエクステリア一機と、UGVの列。人間はギリギリまで地下を通って、地上戦は隊列の最後尾も、もっと前線寄りの簡易陣地も無人機がする。
捨て身のUGVが支える前線。合理的すぎて、胸が痛い。
その列に、敵のドローンが寄ってきた。
小さな熱源。低空。元市街地に僅かに残るビルの遮蔽を縫ってくる。
「来た……!」
<迎撃レイヤ、展開。肩部、20mmキット――制限射撃で>
リーゼの指示が飛ぶ。
鈴音は、肩のマウントを振った。
照準は“点”ではなく“帯”で取る。ドローンは正面から来ない。横から来る。上から落ちる。森の中ともまた違う形で、敵は三次元になる。
短い連射。
乾いた音。
空の一点が、火花のように散る。
ドローンが一機、落ちた。
二機目は、落ちない。建物の陰に入る。迂回されたのか様子をうかがったのか、死角をカバーしてくれていた無人カメラが砲撃で焼かれてしまい、自分もドローンを送らないと詳細を確認できない。
<遮蔽があるときは撃つな。弾が減る>
<“抜けてきた瞬間”だけ叩いて>
鈴音は歯を食いしばり、呼吸を合わせた。
狩猟の呼吸。射撃の呼吸。
撃つべき瞬間だけ、引き金を引く。センサーのネットワークが弱体化したら人間頼みということだ。
幸い、移動は決まったルートと多少のランダム回避を挟みながらリーゼが上手くやってくれる。
――ドローンが一機落ちる。
火花。
土に突き刺さる。
だが敵の本体は、ドローンだけじゃない。
奥から、鈍い閃光。
歩兵戦闘車の機関砲が火を吐いた。
夜間の30mmは、光で分かる。
音は遅れて来る。
土が跳ね、瓦礫が砕け、味方の最後尾付近でUGVの一台が横倒しになった。
「……撃ってくる!」
<だから“見せない”、を選ぶんだ!>
リーゼが言い切った。
<煙幕。市街地方向へ厚め。視線だけ潰せ。射撃は“疑い”で止まる>
鈴音は煙幕弾を選択し、投射角を浅く設定した。
市街地側――敵が撃ち込みたい方向へ、意図的に幕を張る。光学と赤外の両方に効く複合煙。燃えるように白く膨らみ、風に引き伸ばされる。
煙の向こうで、機関砲の閃光が二度、三度。
だが弾が“当てる”から“探る”に変わるのが分かる。
狙いが散る。
撃ち疲れる。
そして、その間に味方が動ける。
『市街地班、追いつくそ! 追随UGV、残り七!』
市街地側で引いた有線ももはや使用不能、近距離通信はノイズだらけでほかの声も混ざる。息が荒い。だが生きている。
「坑道まで、あと――」
<走りつづけて>
リーゼが短く言った。もはや左右はタイガで針葉樹が左右に並び立っている。
<ここで止まると、“市街地班”が止まる。あなたが止まれば、全員止まる。きっちり奥まで行って上方からの援護に付くんだ>
鈴音は、さらに踏み込んだ。
エクステリアが泥を跳ね、瓦礫を蹴り、斜面を駆け上がる。関節装甲が擦れ、コクピットが微細に軋む。燃費が悪い。排熱が増える。だが今は、熱より時間だ。
指定された坑道入口が見えた。
山肌に口を開けた暗い穴。
鉄骨で補強された枠。斜面崩落を防ぐアンカー。入口前には、車両が引き返せる程度の広さ――“最初から機械が入る前提”の造り。
鈴音は思わず、喉の奥で笑いそうになった。
こんなもの、廃鉱に自然に残っているサイズじゃない。
“今の戦争”に合わせてじっくり作り直してある。
「……坑道、でかい……!」
<当然>
リーゼの声が、少しだけ柔らかくなる。
<ここが本命。市街地は“舞台装置”>
鈴音は最後に振り返り、煙幕の向こうに味方の点が吸い込まれてくるのを確認した。
敵の機関砲の閃光は、煙に遮られて散っている。
ドローンはまだいる。だが迎撃できる距離に入った。
近づくまでわからなかったけれど、鉱山側の舞台もUGVや各種遮蔽物を設置して待ってくれていた。
そして、鈴音はエクステリアを坑道へ滑り込ませた。さすがに立ち上がれない。また匍匐で両手両足を地面につけて伏せる姿勢だ。
外の夜が、急に遠くなる。
音が変わる。濁流の唸りも、機関砲の乾いた連打も、坑道の厚い壁で“別の世界”の出来事になる。
代わりに、坑道の内部の音――金属の反響、滴る水、遠くの発電機の低い回転が支配する。
壁面には、新しい補強材。
床には、排水溝。
天井には、ケーブルラック。
そして、エクステリアの肩がぶつからない程度の余裕。
鈴音は操縦桿を少し緩め、呟いた。
「……そっか。元から、ここで迎え撃つ計画だったんだ」
リーゼが短く肯定した。
<ようこそ。“本当のカディクチャン”へ>
BTR-MD「ラクシュカ」(装甲兵員輸送車)はかなりウクライナでやられてしまったので在庫が払底していそうですが…2080年でも残っていそうなものはこれくらいだろうというある種諦念交じりに作中の採用を決めました。
どうもウクライナ戦争後半ではさらに軽量軽装甲が増えてバギーやオフロードOKな乗用車に出番が来ているようですが適当な分隊支援下記に撃たれるだけでもバギーは死にそうなのでこの場面では装甲兵員輸送車が先頭集団にいるんじゃないでしょうか。




