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アルカガラの亡霊3



 接触の場面は、映画みたいにはならない。


 戦場の人間は、基本的に疑っている。だからこそ、生き残っている。


 鈴音が使ったのは、疑いの矛先をずらすやり方だった。


 帽子を、ヤードの外れに投げ込む。ドローンで引きずる。枝に引っ掛けて、わざと落とす。小さな動きで、人間の注意を“そこ”へ寄せる。見張りの視線を一人分、外へ引っ張る。


 引っ張って開けられた一人分の穴に、鈴音が滑り込む。


 心臓がうるさい。自分の耳に聞こえるなら、相手にも聞こえそうで怖い。でも相手の耳は濁流の音にやられている。夜は人間から感覚を奪う。そして奪われた感覚を酒でさらに紛らわす。


 鈴音は、ウォッカの瓶を握りしめた。ラベルを見せる。挨拶を口の中で転がす。もちろんロシア語じゃない。でも、リーゼが用意した音源は精密に作られている。ちゃんと少しなまっていて胡乱な「辺境の誰か」に見える。


 ヤードの端、カチューシャの近くにいる兵士は二人だった。片方は座っている。もう片方は立っていて、煙草を吸っていた。煙草の赤い点が、夜に浮く。


 鈴音は、立っている方へ近づいた。


 足音を殺しながら、でも「怖がってる」ようには見せない。怖がってると怪しまれる。ここが嫌だ。人間の心理戦が、嫌だ。けれどなぜか頭の芯を焦がす”やれる”という強い確信があった。


「……おい」


 鈴音は、低い声で呼びかけた。男が振り向く。暗い。顔が見えない。目だけが光る気がした。


 鈴音は、瓶を軽く振った。


「寒い。飲め」


 男が一瞬止まる。次に、笑った。笑い声が、雑に夜に混ざる。


「……お前、どこの」


 その言葉が続く前に、リーゼが耳の奥で囁いた。


<“点検だ。異状ないか。”って返して>


 鈴音は、そのまま言った。点検。ここでは普通の単語だ。普通の単語は疑いを薄める。


「点検だ。異状ないか」


 リーゼが即座にややなまった男性の声でロシア語を再生する。

 

 男が、吐き捨てるように笑った。


「異常だよ、もう。敵軍だとか関係ねぇ。ここはもう――」


 言葉が途中で切れた。男は瓶を取った。取った瞬間、鈴音の胃が縮んだ。


(飲む……か)


 何かを言ってはいけない。言えば終わる。自然な間を演出するのが果てしなく難しい。今にも不自然だと見抜かれないか揺さぶられる。


 男は瓶の蓋を開け、匂いを嗅いだ。酒の匂いが、夜に広がる。鈴音の喉がまた乾く。


 男は一口飲んだ。眉を上げた。


「……異常、なしか」


 もう一口飲んだ。


 鈴音は、その瞬間を逃さなかった。男の注意が“酒”に寄った。人間は、味覚の刺激に弱い。脳の優先順位が変わる。

 飲む前からまともじゃない気配を感じた。だがそんなことに深入りしている場合ではない。


<いま。二歩。カチューシャ側へ。姿勢を低く。視線を合わせないで>


 リーゼの指示が、短い。


 鈴音は二歩進み、カチューシャの車体の影に入った。影は冷たい。影は安全だ。安全に感じるのが怖い。


 座っていた兵士が、こちらを見た。目が合いそうになった。鈴音は視線を外した。外したまま、肩をすくめる。疲れた作業員のふり。どこの戦場にもいる、疲れた人間のふり。


 兵士は興味を失ったように視線を逸らした。鈴音は、そこでようやく息を吸った。


(……入れた)


 入った瞬間から、さらに時間が減る。


 ここからは、リーゼの領分だ。鈴音の手は、ただの“手”になる。決断はもう済んでいる。


<触る場所はそこじゃない。左。車体の側面。現場用の点検口。

 鍵は要らない。鍵が要る場所は“本気の戦場”で詰める用。ここは辺境。スピード優先で、運用が雑>


 リーゼが、苦く笑う声を出した。


 鈴音は、点検口に指をかけた。金属に霜やつららが走っている。そこに、油と泥が混ざった匂いを感じた。機械の匂い。生き物の匂いじゃない。生き物の匂いじゃないのに、ここからは死が届けられる。


 点検口が開いた。


 中は暗い。だが、端子の形は分かる。レイヤ4の話が頭をよぎった。型。型を見れば、相手が何を想定しているかが分かる。リーゼの授業は、こういう時のための呪いじゃないはずだが妙に鮮明に再生されてしまった。


<よし。ここから先は“触った痕跡を残さない”が最優先。

 時限は短い。発射は一気に行くよ。座標は“敵が入れた”形に寄せる。

 ――いい?これは“乗っ取り”じゃない。“誘導”だ。相手の手を使う>


 鈴音は、唇を噛んだ。


「……分かった」


<じゃあ、次。彼らに“撃つ理由”を作る。撃たない砲兵は、撃てない砲兵より厄介>


 リーゼの声が、わずかに柔らかくなる。


<亡霊、起動するよ>


 その瞬間。


 ヤードの外れ、林縁の暗がりで、何かが動いた。


 カメラ越しに見ると、撃破されたエクステリアの残骸が、ゆっくりと腕を上げた。ライトが一瞬点く。消える。腕が下りる。ぎこちない。ぎこちないからこそ、怖い。人間は、ぎこちない動きに“生き物”を感じる。


「……なんだあれ」


 兵士の声がした。座っていた兵士が立つ。煙草の赤い点が揺れる。


 別の兵士が叫んだ。ロシア語の罵声が飛ぶ。銃が構えられる。ライトが点く。視線が一斉に林縁へ寄る。


 その瞬間、鈴音の周りの空気が軽くなった。視線が外れた。世界から“見られている圧”が消えた。


<いま。君は“存在しない”>


 リーゼが囁く。


<だから仕込む。三十秒で仕込む。

 深呼吸はするな。深呼吸は音になる。心臓だけで動け>


 鈴音は、機械の腹の中に手を入れた。端子に触れ、ケーブルを噛ませ、戻す。戻す。戻す。指先が冷えて感覚が薄い。感覚が薄いのに、やることだけは正確にやらされる。


 遠くで銃声がした。林縁に向けて撃っている。亡霊に撃っている。死体に撃っている。死体が、もう一度死ぬ。


 鈴音は吐き気を飲み込んだ。


<仕込み完了。

 “発射”は敵の手で行われる。

 こちらは最後の一押しだけ。押し込むのは君の役目じゃない。

 君は、ここから離脱する。いま>


 リーゼの声が、締まる。


 鈴音は点検口を閉じた。閉じた瞬間、背中に汗が出た。汗が冷えて、背骨が凍る。


 そして、歩き出そうとして――足が止まった。


 座っていた兵士が、戻ってきた。ライトがこちらを照らす。白い光が、鈴音の顔を掠めた。


 鈴音は、反射的に瓶を持ち上げた。瓶。酒。さっきの線の続き。線を切らない。


「……寒い。お前も飲め」


 自分でも笑いそうになるくらい単純な言葉。単純だから効く。


 兵士は、舌打ちした。瓶を取り、ひったくるように飲んだ。飲んだ瞬間、顔が歪む。強い。強いから、効く。体温が上がる。判断が緩む。


 兵士が、瓶をもう一口飲んだ。


 その時、林縁の方から叫び声が上がった。


「Экстерьер!(エクステリア!)」


 誰かが叫んだ。怖れの単語だ。怖れの単語は、命令より速い。


 兵士たちが走る。ライトが揺れる。銃声が増える。視線がまた林縁へ吸い寄せられる。


 鈴音は、そこで体を滑らせた。影へ。影から影へ。泥へ。倒木へ。森へ。


 戻る。自機へ。



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