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濁流

 3番目の氷堰が、低い音を立てて崩れた。


 轟音ではない。

 氷が軋み、泥が剥がれ、押し留められていた水が一瞬ためらったあと、まとめて解放される――そんな、湿った破裂音だった。


 エクステリアは既に後退動作に入っている。

 事前に打ち込んでいたワイヤーが張り、脚部モーターが逆回転する。重量級の人型機体が、雪解けの斜面を“引きずられる”ようにして退く。


 谷底の水位が、目に見えて上がった。


 黒い水が枝と腐葉土を巻き込み、さっきまで露出していた石を飲み込んでいく。

 濁流が形を持ち始めるのを、HUD越しに確認できた。


 <……三つ目、崩落確認>

 リーゼの声が、少しだけ張る。

 <洪水波、形成。到達予測――順調>


「順調って言葉、ここで使うの好きですよね」

 鈴音は操縦桿を戻しながら呟いた。


 <“計画通り”よりはマシでしょ>

 リーゼは耳のあたりから髪を撫でつけながら軽く返す。なんで無駄に人間的な動きをしたんだろう。本人の癖なのか、とふと鈴音の思考をノイズが上滑りした。


 エクステリアが谷底から抜け、緩やかな斜面を登り切った瞬間。


 HUDの左端に、見慣れないアイコンが点灯する。

 細い、だが安定した通信ライン。


 <……捕捉>

 リーゼの声が、即座に変わった。


 <中継ドローン。高度130、方位南南東。ホバリング。カディクチャン側のものだね>


「え……?」

 鈴音は反射的に視線を上げた。


 谷を抜けたことで、見通しが一気に開けている。

 タイガの樹冠が途切れ、遠くの空が覗く。


 その中に、ほんの一瞬だけ、点のような光が見えた。


 <通信回線、復旧。短時間だけど、十分>


 次の瞬間、情報が雪崩れ込んできた。


 地図レイヤが切り替わり、赤と橙の表示が増える。

 P504沿い、アルカガラ周辺、カディクチャン前線。


 <確認事項、順に伝えるよ>


 リーゼは余計な前置きをしなかった。


 <第一。

 濁流による道路分断、成功。

 P504の二箇所で冠水および路肩洗掘を確認。

 装輪車両の通過は不可。装軌も工兵支援なしでは困難>


 鈴音は、無意識に拳を握った。

 やった、という感情よりも、まず「間に合った」という安堵が来る。


 <第二。

 アルカガラ火力発電所周辺。

 敵は発電所そのものを占拠中だが、陣地構築は未完了。

 周辺に若干の砲兵装備および戦闘車両あり>


 地図上に、三つの記号が浮かぶ。


 <MLRS、1基。有名な”カチューシャ”の子孫だよ。トラック搭載多連装ロケット。

 弾薬搭載量は不明だけど、満タンじゃないほうがおかしいね。さらに再装填分もあるはず。即応可能状態。

 残りの二つはIFV。歩兵戦闘車はわかるかな?>


「……戦闘車両が3台」


 声が、思ったより低く出た。


 <多くはない。編成も、まあ一般的ではない。

 突破速度最重視の結果戦車や自走榴弾砲が入るところがMLRSになったのかもしれないね。

 ただし、“使いどころ”としては十分>


 リーゼの声が、わずかに冷たくなる。


 <第三。

 敵部隊はだいたい3波で構成されているということがわかった。

 第一波。今もうカディクチャンをやや遠巻きに囲っている歩兵中心の部隊。

 第二波。こことカディクチャンの間。MLRSも3台いてP504の道路で移動中。

 さらにここから国境側15kmくらいの地点に本命と思われる第三波。こっちにもMLRSは3台いる。

 アルカガラ~カディクチャン>


 地図上にマーカーが点滅する。

 第二波はあとすこしでカディクチャンにつきそうだが10㎞程度手前の地点。

 第三波、P504のさらに西、おそらく射程ギリギリの地点。


 <カディクチャンを直接狙える位置。

 現在は射撃待機。

 理由はいくつかある――撃てば、位置が割れる。

 突撃直前の勝負時に撃ちたいんだろうね。それで守備に隙が作れるから。

 そして配置がわからないから無駄打ちしたくないというのもあるかな>


 鈴音は、背筋に嫌なものが走るのを感じた。


「……まだ、撃たれてないだけ?」


 <そう。

 今は“撃てない”んじゃない。“撃てるけど、撃っていない”>


 その違いが、重い。


 <補給線は寸断。

 前進部隊は足止め。

 だから、砲兵は“決定打”を温存している>


 リーゼは、はっきり言った。


 <このままだと、カディクチャンは詰む>


 鈴音は、しばらく言葉を失った。


 風が吹き抜ける。

 雪解けの湿った匂いが、コクピットのフィルター越しにも伝わってくる気がした。


「……つまり」


 ようやく、声を絞り出す。


「アルカガラのカチューシャをどうにかしないと撃ち込まれる。そこが撃たなくても当然奥の砲兵がもっと撃つ。

 撃たれたら、守備隊も原子炉もまとめて終わる」


 <正解>


 リーゼは淡々と肯定した。


 <理想は、アルカガラを完全制圧。

 次善は、潜伏してMLRS――まあ私もカチューシャって呼ぼうかな――を奪取して奥の砲兵に撃ち込む。

 最低条件は――カチューシャを“使わせる”か自滅させること、だね。

 幸い、反独立派とやら持ち込んだカチューシャは伝統に従って条件が悪くても使えることを優先してるから、

 私の指示通り動かしてくれれば乗っ取りは可能だよ>


 鈴音は、思わず笑ってしまった。

 乾いた、現実逃避に近い笑いだ。


「増援、ゼロですよね」


 <うん>


「味方の誘導砲撃も?」


 <開戦時にだいぶ削られたからね。少なくとも私たちが欲しいタイミングでは期待しない方がいい>


「……撤退だけ考えたら、正解は?」


 <“何もしないで逃げる”>

 リーゼは即答した。

 <でも、それは君にとっては演習の失敗条件だよね>


 HUDの隅で、経過時間が静かに進む。


 雪解けの森は、何も変わっていない。

 鳥の声も、風の音も、さっきと同じだ。


 だが、戦況だけが、一段階深く沈んだ。


「……無茶ですね」


 鈴音は、そう言ってから、前を見た。


「でも、やらないと終わる」


 <そうだね>


 リーゼの声は、否定も肯定もしない。


 <だから次は――“どうやって生き延びさせるか。自分も、逃げ込む先も”を考える段階だ>


 遠くで、濁流の音が続いている。

 それは、もう止まらない。


 エクステリアは、夕暮れの森へと静かに歩き出した。


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