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氷堰2

 谷底の空気が、妙に重い。

 水の匂いがする――冷えた鉄分と、腐葉土の酸っぱさ。そこに、氷の“古い”匂いが混ざっていた。冬のあいだ凍りつき、春の水を腹に溜め込んだまま、まだ割れ方を決めていない氷。


 エクステリアの視界に、黒い水面が広がる。

 川そのものは細い。だが、谷の狭窄部に詰まった氷と流木が、川を“止めて”いた。


 天然の氷堰。


 水は堰の上流側で鈍く膨らみ、鏡のような水面が森の影を写している。

 下流側は、別の川みたいに落差がついて、泡立つ音だけが細く聞こえた。


 鈴音は操縦桿を握り直した。

 掌の汗が、シミュレーターの滑り止めに引っかかる。


「……目視できた。これが“推定氷堰”」


 右のサブモニターに、地形図と高度断面が固定される。氷堰の座標に、薄い円が重なっていた。誤差――百数十メートル。GPS妨害下では上出来だ。


 左のサブモニターに、リーゼが膝を抱えて座っている“画像”。

 視線だけが妙に生々しい。


 <開始前に確認。目的は二つ>

 リーゼの声が、淡々とした熱を帯びる。

 <一、爆薬は最後まで温存。“春の事故”に寄せる。

 二、崩すのは氷堰そのものじゃない。“氷堰が崩れる条件”を作る>


「条件……?」


 <割れ目の誘導、支えの除去、そして――逃げ道の準備>

 リーゼが指を立てる。

 <質問。あなたが今いちばん怖いのは何?>


 鈴音は、反射で答えた。


「崩した瞬間に、こっちが飲まれること」


 <正解。だから“正面に立って殴る”のはやらない>

 リーゼは軽く顎を上げた。

 <壊す前に、逃げる。壊すために、逃げる>


 鈴音の視界に、半透明の作業レイヤが被さる。

 地形の高低差、踏み固め、泥濘、倒木――それぞれが“速度低下係数”として色づく。


 <三十秒単位で刻む。手を動かすのは機体。刻むのは私。決めるのはあなた>

 リーゼが言い切った。


 シミュレーターの片隅で、経過時間が進む。00:22:12。


 ---


 <まず、立ち位置の判定。止まって>

 リーゼの声に合わせて、エクステリアが停止する。


 足裏の接地センサーが、腐葉土の沈み込みを数値化する。

 左足――沈下 3.2cm。

 右足――沈下 4.1cm。

 泥の層が薄いところと厚いところが、同じ一歩の中で混ざっている。歩き続ければ、わずかな誤差が姿勢制御に積もる。


 <ここはダメ。崩壊時、逃げる方向が“水に向かう”>

 リーゼが画面上で、矢印を引いた。

 鈴音のいる地点から安全地帯へ向かう矢印が、途中で氷堰の下流側へ折れている。


「じゃあ、どこなら?」


 <氷堰の“側面”。右岸の高まりだね。樹根がある場所>

 リーゼの矢印が、森の縁に向く。

 <根は邪魔に見えるけど、逃げるときは“掴める構造”になる。ぬかるみでは、平地より根のほうが信用できる>


 鈴音は短く息を吐いた。


「……了解。右岸へ回り込みます」


 エクステリアが、静かに歩き出す。

 歩行モードを“低騒音・低排熱”に落としてあるせいで、サーボ音は鈍く、代わりに足裏の吸いつく音が目立つ。


 氷堰に近づくほど、空気が冷える。

 水面のすぐ上は、別の季節の温度だ。


 <地形の微地形を更新。転倒リスクの高い箇所をハイライト>

 リーゼが、淡々と表示を切り替えていく。


 <右岸、倒木二本。苔の下に凍結層の残留。踏み抜き注意>


 厚底の靴を履いた人間以上に当てにならない足裏の感覚をつい頼みにしながら、一歩一歩進んでいく。

 

 ---


 事前の安全策——ワイヤーと「退避のロジック」、と次工程が提示された。

 右岸の高まりに出る。

 足元は、腐葉土の下に小石が混じり、沈み込みが減った。沈下 1.1cm。


 <ここが作業ベース。次>

 リーゼが、指を立てる。

 <退避方向の確定。走らない。歩幅を伸ばす。障害物を消す。

 崩れる前に、逃げ始める。そのために“ワイヤーで引く”>


「ワイヤーって……氷堰を引っ張るの?」


 <氷そのものじゃない。“最後の支え”を引っ張る>

 リーゼが地図を拡大する。

 氷堰の側面――流木が絡んでいる箇所が、黄色でマーキングされた。


 <氷堰は氷だけでできてない。流木が骨。石が歯。氷が接着剤。

 骨を抜けば、接着剤が剥がれる。剥がれた瞬間に水圧が仕事をする>


 鈴音は唇を噛んだ。


「……それ、うまくいけば爆薬いらない」


 <うまくいけばね。だから、うまくいかない時の逃げも作る>

 リーゼが、こちらを見た。

 <ワイヤーは“引くため”と同時に、“引かれて逃げるため”でもある>


 鈴音の視界に、ワイヤーモジュールの仕様が出る。

 高張力ケーブル。

 射出グラップル。

 モーター・ウィンチ。

 最大牽引――重機用途としては控えめだが、ロープワークとしては十分。


 <アンカーを二つ。一本は作業用。一本は退避用>

 リーゼが言う。

 <一本で欲張ると、切れた瞬間に全部終わる>


「アンカー……木でいいの?」


 <生木の根元。直径二十センチ以上。二本、別方向。

 雪解けで地盤が緩いから“木の太さ”じゃなく“根の張り”を見る>

 リーゼは、淡々と、しかし妙に楽しそうだ。

 <ほら。授業のレイヤ4。“型”。この森の木にも型がある。根の張り方にも>


 鈴音は舌打ちしそうになって、やめた。

 今は、嫌なご褒美に付き合ってる余裕はない。


「了解です。アンカー二本。ワイヤー二系統」


 リーゼはつまらなそうだ。

 言葉が上滑りするのを感じる。

 でもそれでいい。今は刻まれた工程を進める。


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