氷堰1
エエクステリアの足裏が、雪解けで湿った腐葉土を踏み潰すたび、鈍い吸いつき音がした。
収音は足裏の接地センサー経由――そう考えると妙に生々しい。
硬いはずの地面が、ところどころでスポンジのように沈む。霜柱が溶け、苔と泥が混ざって粘る――歩幅がほんの少しずつ削られていく感覚。
鈴音は、右のサブモニターに地形図を固定した。P504の線が谷を縫うように伸び、その脇を蛇行する支流が何本も絡む。
左には、リーゼが「授業」を終えた直後のまま、膝を抱えて座っている“画像”。視線だけが妙に生々しい。
こちらに気づいたのか、視線が少しだけ穏やかになった気がした。
<制限時間、進むよ>
リーゼが淡々と言った。
<演習は“あなたの行動に沿って”進行。つまり、歩きながら考えるのが正解>
「……分かってる」
鈴音は喉の奥で息を整え、マイクに口を寄せた。歩行の揺れが、シミュレーターで再現されて歯の噛み合わせにまで伝わる。
「じゃあ、判定してください。今から提案するのは、一次目標――カディクチャン合流のための遅滞工作」
言いながら、視線で最寄りの「推定氷堰」のアイコンを追う。距離二・八キロ。標高差は小さいが、谷底の流れは速い。
「(1)この機体と、あなたのサポートで、貯水池もしくは“天然の氷堰”の操作・破壊が可能か」
リーゼは、いきなり即答しない。
代わりに、サブモニターに機体の装備一覧が自動で展開された。スコップ、斧、チェーンソー、ワイヤーモジュール、射出ネット、軽量偵察ドローン×2。肩部の対空射撃システム――ただし弾数は限定的だ。
そして、「採掘用爆薬」の在庫が、控えめに光る。
<(1)可能だよ。条件付きで“十分”>
リーゼは指を一本立てた。
<氷堰は、人工ダムより脆い。破壊手段は三系統。
A:爆薬――最短。痕跡が強い。
B:切削+楔打ち+局所振動――時間はかかるが自然崩落に寄せられる。
C:上流側で水路を切って側面を洗う――一番“災害らしい”けど、地形依存>
エクステリアが一歩、斜面を登る。
樹間から、黒い水面がちらりと見えた。まだ遠いが、冷気が湿り気を帯びて皮膚を刺す気がした。雪解けの匂い――腐った葉、鉄分、泥をシミュレーター越しに感じた気がした。
「(2)その結果、発電所停止とP504封鎖が現実的に起きるか。
特にP504。通れないレベルの水と土砂を“供給”できるか、推定してください」
リーゼは地図上に、赤い輪をいくつか重ねた。
P504が川を横切る地点、盛土で谷を跨いでいる地点、暗渠・小橋の記号。
そのうち一つが強く点滅する――「低地・路肩脆弱」。
<(2)“封鎖”は現実的。条件は「場所」と「時間」だね>
<P504を止めるのに、谷全体を海にする必要はない。
必要なのは、車両が渡れない深さの冠水か、路肩の洗掘で“片側落ち”を作ること>
リーゼが淡々と続ける。
<雪解け期の氷堰は、天然の一時ダム。崩せば“短時間の洪水波”が出る。
効かせ方は二通り。
1) 道路の直上流――だいたい0.5〜3km上流の狭窄部にある氷堰を狙う。洪水波が減衰する前に道路へぶつける。
2) 支流を複数使う――小さい氷堰を二〜三本、時間差で落として「復旧の手」を縛る>
地図上で、氷堰アイコンが二つ、三つと候補表示される。距離がまちまちだ。
リーゼはそこに、細いタイムラインを重ねた。
<水深の目安を言うね。
大型車両の行軍を止めるには、冠水が膝――だいたい0.4〜0.6mを超えると速度が激減し、軽車両は止まる。
それに加えて、泥と流木が混ざれば、装輪は終わる。装軌も点検が必要になる。
道路が盛土なら、片側の洗掘で“通行不能”にできる>
鈴音は、そこで一度だけ視線を前に戻した。
樹間の奥、谷底を横切るような黒い筋――水が走っている。雪解けの流れが速い。
今は小さい。だが、増水すれば一気に牙を剥く。
「つまり……氷堰を“道路に届く距離”で落とせばいい。発電所の停止は?」
<発電所停止は二段階。
第一:取水系を濁水で詰まらせる。これは洪水波でいける。
第二:設備を占拠された状態なら、あなたが止める権限はない。
ただし、送電線や変電設備が泥水で短絡・保護停止する可能性は高い>
リーゼはそこで言い切った。
<目的が“永続破壊”ではなく“一時使用不能”なら、十分成立する>
鈴音はうなずいた。ここは世界観の規定が効く。
「(3)雪解け水や設備不良として、自然災害に偽装できるか」
<(3)可能。やり方で差が出る>
<爆薬は、破片の形と散り方でバレる。
でも氷堰の場合、“自然に割れた”ように見せる余地がある。
切削で亀裂を誘導して、最後は水圧で崩す。
それなら、後から見ても「春の事故」に寄る>
リーゼが小さく肩をすくめた。
<完全に誤魔化す必要はない。
戦場の「事故」は、誰かが利用したって事故のままだよ>
嫌な言い方だ。だが、戦争の現実だろう。
「(4)実行中、常時潜伏できる見込みがあるか」
<(4)“常時”は無理。だが“痕跡を薄くする”ことはできる>
<あなたは今、森の陰にいる。
敵の哨戒網が未完成なら、視線と音と熱だけ管理すればいい。
リスクが跳ねるのは三つ。
A:ドローン。
B:路上の車列。
C:上空の光学偵察>
リーゼの言葉に合わせて、HUDに三つの警戒レイヤが重なる。
エクステリアの排熱、足跡、金属反射――それぞれが「見つかりやすさ」として数値化されていく。
鈴音は、無意識にスロットルを落とした。歩行のサーボ音がわずかに静まる。
「(5)実行後、カディクチャンまでエネルギーが持つか」
<(5)持つ。前提は“走らない”>
<氷堰に接近、工作、離脱。ここまでで最大消費。
その後は、ハイブリッド運用で移動。
あなたの機体は戦闘機じゃない。
歩く、止まる、聞く――それが生存と燃費の両方を稼ぐ>
リーゼは、言い方だけ少し優しくした。
<焦りは電力を食う。あなたも、機体も>
鈴音は鼻で笑いそうになったが、やめた。図星だ。
「(6)事後、軍紀や戦時法規でペナルティを受けないか。
――ここまででわかった前提は“予備役、招集命令あり、未合流”。共和国独自規定が適用されるんだっけ?あらゆる施設破壊が禁止なので0点です、とか言われたくないので確認を入れてください」
リーゼは、ようやく“教官”の顔になった。
指先で空中に、見えない条文をなぞるみたいに。
<(6)共和国規定上は、原則セーフ。条件付きで>
<あなたが言及した独自規定――「招集済み・未合流の自由裁量」は、こういう時のためにある。
未合流の個体に、上から細かい命令は届かない。
だから共和国は“判断補助装置”として私を付けた。ここまでは設計通り>
リーゼは一拍置く。
<ただし、線は引く。
A:不可逆の破壊はダメ。復旧不能にするのは戦術じゃなく破壊工作になる。
B:民間人被害の蓋然性が高いならダメ。
C:目的が合流・遅滞から逸れて、政治的メッセージ化したらダメ>
鈴音は即答した。
「今回は“一時使用不能”。道路封鎖も、遅滞のため。民間人がいないかは一応確認を入れてください。でも、この、民間機のエクステリアが単独で駆り出されてるあたり、他に居ないですよね?火力発電所も、本体は壊さない。……だから、いける」
<うん。だから“やるなら今”>
リーゼが、タイムカウントを指で弾く。
HUDの片隅で、経過時間が無情に進む。00:16:58。しゃべるだけでなく、距離は稼げている。
<敵は哨戒網を“これから完成させる”。
完成したあとに同じことをやれば、独断専行じゃなく自殺になる>
その瞬間、森が途切れ、谷底の水面が広がった。
氷と泥と枯れ枝が折り重なり、黒い水が押し返されている。
天然の堰――氷堰。静かに、しかし不穏に膨らんだ腹。
エクステリアが立ち止まる。
鈴音は、シミュレーター越しに操縦桿を握り直した。クーラーが効きすぎてるのか、現実世界で席に座ってる熊本は真夏なのに、シミュレーター室はクーラーでガンガンに冷えて、画面も雪。指先が冷たい。だが、頭は妙に冴えている。
「……判定、全部出たね」
鈴音は息を吐く。
「じゃあ行きます。まずは“爆薬なし”で崩せるか試す。失敗したら次の手」
<了解。作業工程を三十秒単位で刻むよ。
手を動かすのは機体。制御の提案は私。そして、決めるのはあなた>
リーゼの声が、少しだけ低くなった。
<この物語のはじめからずっと、そうだよ。ドミトリ君も、そうだった。>
過去、同じシチュエーションに挑んだという現地の巻き添え研究者。この演習のモデルになった人。
鈴音の背中に、薄い汗がにじむ。
エクステリアが、氷堰へ一歩踏み出す。
黒い水が、底でうねった。




