マガダン州入門講座
鈴音の思考が、もう一段ギアを上げた。
演習が実践段階に入る前に、情報を集め、最低限の作業体制を組まなければならない。
「……少し落ち着け、私。
まず直面してるのは、ヴィヴィアンのサポートが外れたこと」
切断直前まで進めていた索敵と脅威判定。
そもそも十分な情報が揃っていなかったのだ。やり直しになるのは当然だった。
「それを済ませて、次。
可能なら並行して、手持ち装備と協力者の状況確認。
最低そこまで出来ていれば……あとは走りながらでも対応できる」
一気に張り詰めたせいで、指先がひやりと冷える。
呼吸は乱れていない。だが、神経だけが先走っている。
視界の端に、搭乗者の装備情報が重なって表示された。
鉱物研究者用のエクステリア。民生ベースだが、前線運用を前提にした補強と改修が施されている。
「……通信事情を考えると、搭載AIだよね。
音声入力で大丈夫?」
一拍の間。
感情を挟まない、淡々とした応答。
<開拓前線支援AI。
個体識別名――“YUKI”です>
映像は出ない。
テキストと音声のみのインターフェース。抑揚も、余計な言い回しもない。
完全に“道具”として設計されたAIだ。
それでも――名前が付いている。
その事実だけが、この時代の人とAIの距離感を、逆説的に示していた。
「いきなりメタな質問で悪いけど……
このパイロットの振りをするには情報が足りない。
演習条件を直接聞いてもいい? 座標、時間、意図、制限事項」
<演習運営AIより割り込みます。
本件は運営上の質問と判断されました。
題材となった搭乗者の属性や時代考証を、受講者が模擬する必要はありません。
引き続き、演習のFAQおよび趣旨説明を行いますか?>
「それって、進行中の演習は止まる?」
<演習は進行中です。
受講者の個別操作では停止しません。
体調不良などについては、外部スタッフに申し出てください>
「オッケー。じゃあ運営AIとの質疑応答は終了。
YUKI、進行中の場面説明。索敵状況、主な脅威と対策を簡潔に」
<質問は一度に一つとし、回答方針を提示してください>
一瞬、思考が止まった。
――ああ、そうか。
鈴音は、一拍置いて理解した。
YUKIは不親切なのではない。
処理性能が低いわけでもない。
ただ――こちらの思考の流れを、前提としていない。
問いを投げ、答えを受け取り、次に進む。
この時代――あるいは、ローカル処理で条件の悪い環境では、それがAIとの正しい付き合い方なのだ。
思考を並走させる相手ではない。
必要な時に、必要な分だけ呼び出す「装備」。
「……了解」
短く応じ、無意識に呼吸を整える。
問いを分解し、順序を決め、頭の中で司令部を組み直す。
――やれる。
やれるけど。
ヴィヴィアンがいた頃より、確実に思考のギアが一段落ちている。
……正直、めちゃくちゃテンションが下がった。
頭の回転速度そのものは変わらない。
質問も回答も早い。だが、AI側の思考は浅く、遅い。
その差分を、鈴音の脳が埋めている。
本来考えるべき対象とは別に、AI向けの“翻訳”が常に発生し、オーバーヘッドが重い。
それでも――人は慣れる。
やがて視界の隅に、演習用のUIが浮かんだ。
「次の場面へ」の選択肢と、残り時間。
シミュレーター上では五分。
設定上は、およそ三十分の移動時間らしい。
ようやく、冷静さが戻る。
――整理。
搭乗者はドミトリー・セルゲーエヴィチ・ポポフ。
ユジノサハリンスク出身、二十三歳。大学院で鉱物学を専攻している。
時代は二〇八〇年前後の春。
この地域では、春が何月なのか曖昧になる。七月だったか、そんな感覚だ。
本日は奨学金と引き換えの実務兼研究。
コリマ川支流で砂金の残存状況を調査し、サンプル採取を終え、僻地の通信施設へ向かう途上。
差し迫った脅威は、今のところ検出されていない。
ただし現在地は、マガダン州北西部の国境付近。
ドローンを中心とした威力偵察が常態化している地域だ。
エクステリアは旧型だが、前線向けに整備・改修済み。
稼働時間と装甲は増しているが、機動性は犠牲になっていない。
輸送はトラック二台とエクステリア随伴。
歩兵装備は同型ライフルと改良型のカモフラージュコート、そして採掘用の爆薬。
エクステリアには多くのオプションが載っている。
排水用装備、武装のない偵察ドローン二機。
斧、チェーンソー、スコップ。
頭部センサーと連動した肩載せ対空射撃システム。
ワイヤーモジュールと射出ネット――ただし、撃ち落とせる距離まで来られたら、もう遅い。
脚部には、泥濘対策のスノーシュー状装備。
トラックには砕石、金属マット、簡易橋材。
ラスプーチッツァ対策は、万全とは言えないが、想定内だ。
「……やっぱり脅威はドローンか」
歩兵相手なら、携帯ミサイルでもなければ、この装甲は抜けない。
だが空は違う。
「あと三分ある。
まず周辺地形を拡大して左モニタに。
並行して――演習当時の世界情勢を、マガダン州中心に三分で説明して」
鈴音は、もう迷っていなかった。




