猟犬の顎
エクステリアの脚部が低い油圧音を立てて停止した。
「――ここからは徒歩だ」
明忠がそう呟いた瞬間、視界の端に淡い光が差し込む。
〈提案〉
〈間欠通信の維持、および索敵補助のため、ヘッドセット接続を推奨〉
〈エクステリア・ローカルAI・戦闘補助AI〈アテーネ〉を同期〉
「……了解」
短く応じると、耳の内側に冷たい感触が走る。
次の瞬間、周囲の音が整理され、雪を踏む自分の足音、遠くで軋む樹木、風の流れが異様なほどクリアになる。
〈リンク確立〉
〈索敵補助、開始〉
アテーネの声は感情を持たない。
だが、その無機質さが、今は心強かった。
明忠は斜面を選んだ。
最短距離ではなく、あえて回り込むような、緩やかなルート。
初冬のタイガ。
葉を落とした白樺と、常緑のトウヒが混じり合い、足元には凍りかけた苔と浅い雪。
踏みしめるたびに、雪の下で枯れ枝が鈍く折れる。
視界は悪くない。
だが、それが逆に怖い。
〈注意〉
〈遮蔽が少ない。高標高側からの視認リスク〉
アテーネの警告に、明忠は小さく頷く。
――もし誰かが待ち伏せるなら。
この丘の“向こう側”だ。
その頃。
林道沿いでは、エクステリア二機が低速で移動していた。
操縦席にいる里奈が、楽しげとも取れる声を上げる。
「よし、ここ。ちょっと高いね」
「はい、その位置で問題ありません」
エリナは半自動運転に切り替えつつ、視界の隅でドローン映像を監視している。
2機の偵察用軽量ドローンが、互い違いに林道上空を旋回していた。
もう1機はドローン迎撃用で近距離の丁寧な捜索には向いていないので温存している。
里奈がアンカーシューターを起動する。
ワイヤーが鋭い音を立てて飛び、林道脇の倒木に食い込む。
「これを引っ張って……っと」
エクステリアの腕で木材を配置し、基部の一本を抜くことで、盛ってある土砂と木材が流れ出す形だ。
簡易で規模も小さいが、確実に車両の進行を一定時間阻害する罠だ。
「伐採許可、念のため確認します」
エリナがAI執事に問い合わせる。
〈確認済〉
〈当該林道は通信塔メンテナンス用途。周辺伐採に問題なし〉
「問題ありません」
淡々とした報告に、里奈が親指を立てる。
「よっしゃ」
里奈はすっかり土木作業に充実感を感じているようだった。
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一方、明忠。
木陰がやや暗がりになっている繁茂ゾーンを挟んで丘からの斜線を避け、すり鉢状の草場を見下ろす縁となっている地形の手前に差しかかる。
潜伏者に注意して控えめな動きで樹冠に隠れつつではあるが、ドローンから撮影した映像にそれらしい異常はない。
だが、違和感は消えなかった。
〈提案〉
〈林内縁から草場を観測。視線と射線の分離を維持〉
アテーネの助言どおり、明忠は林の影に身を沈める。
――その瞬間、目に入った。
ヘラジカ。
「……でか……」
思わず、声が漏れそうになる。
角だけで人の背丈ほど。
胴体は小型車並み。
筋肉の塊が、草を踏みしめて動いている。
映像や資料で見ていたものとは、まるで違う。
“生きている質量”がそこにあった。
〈射撃可能〉
〈ただし――〉
アテーネの言葉が途切れた。
パン、と乾いた音。
次の瞬間、草場の一角でヘラジカが崩れ落ちた。
「……!」
明忠は息を殺す。
撃っていない。
だが、誰かが撃った。
サイレンサー。
音は抑えられている。
スコープを覗き、必死に射線を探る。
だが、倒れたヘラジカは草に半分隠れ、弾道が読めない。
残った群れが、事態の理解に一拍を要したのち、一気に騒然と動き出す。
――そして。
地鳴り。
群れが、一斉にこちらへ向かって走り出した。
「……嘘だろ……」
だが、すぐに理解する。
緩斜面。
逃げやすいルート。
地元のヘラジカが、それを知らないはずがない。
一見、最大の好機。
だが、撃てない。
距離が詰まりすぎて、スコープを覗けない。
身を晒せば、撃てるが――踏み潰される。
何より、ここで撃てば。
未知の射撃手に、居場所を教えることになる。
「……くそ」
明忠は木の陰に飛び込み、赤外線遮蔽カバーを被る。
息を殺し、体を小さくする。
ヘラジカの群れが、すぐそこを駆け抜ける。
土と雪と、獣の匂い。
一方、林道側。
エリナと里奈は、まだ気づいていなかった。
銃声は届いていない。
だが。
明忠からの応答が、途切れた。
「……異常ですね」
エリナが即座に判断する。
「事前合意プラン、Bに移行します」
二人は林を背に、赤外線対策カバーを展開。
里奈はまだ温存していた迎撃ドローン制御をAIに任せ、捕獲ネットを構える。
そして。
「来る!」
土煙。
ヘラジカの大群が、視界を埋め尽くす。
エリナは一瞬で射撃地点を決め、ライフルを構える。
SVD風のセミオート。
重いが、安定している。
里奈は、ネットを発射。
一頭に絡む。
だが、ヘラジカは首を振り、角で引き剥がす。
「だめか!」
その瞬間。
パン。サイレンサーで抑制された発射音が響く。
一発目が胸を貫く。
シミュレーターとはいえ反動の判定はシビアだ。膝射の体勢は維持できたものの、細身のエリナでは反動を制御しきれず銃口が大きく跳ね上がる。
パン。
二発目がもがくヘラジカの肩から首にかけて叩き込まれる。
立ち上がりかけ、なんとか数歩進み、林道を越えた先の急斜面飛び込み、巨木に激突し、倒れた。
静寂。
〈報告〉
〈目標1頭、活動停止〉
エリナのAI執事が、即座に明忠へ転送する。
明忠は歯を食いしばり、チャットで短く返す。
〈未知の射撃手あり。位置不明。帰投開始〉
帰り道は、来たときの三倍の時間がかかった。
神経が擦り切れるほど、静かに。
やがて、エクステリアに合流。
里奈とエリナは、ヘラジカの巨大さに言葉を失いながらも、手早く役割を分担する。
回収。ヘラジカにアンカーを遠距離から打ち込むわけにもいかず、周辺に神経を使いながら、無駄にリアルな出血表現に閉口しながら、どうにかワイヤーをかけて引き上げた。
索敵。ドローンが襲ってきたり偵察してきたりでもなく、ひたすら沈黙の中でドローンをある程度ローテーションさせながら索敵を続ける。
そしてようやく合流できたところで、撤収を開始する。
侵入者とは遭遇しなかったのいいことに、林道を急行し、開始地点へ戻る。
オホーツク共和国軍への報告が終わったとき。
三人とも、どこか満足していた。
目標は捕獲した。
安全対策は機能した。
侵入者の存在も確認し、報告した。
――“演習としては”。
だが。
明忠の胸の奥には、
あの最初の銃声と、
見えなかった射線が、
いつまでも残り続けていた。




