日常軌道エレベーター
「――今日は『地球の赤道インフラ史』の中でも、国際政治経済と技術史を同時に学べる軌道エレベーターについて取り上げる。
具体的には、先に完成したカリマンタン西沖と、後追いで建設されたケニア沖の二基だ。2100年現在、この二つが地球と宇宙の物流・通信・観測の主軸を担っている。」
地理教員の松田が古めかしい黒板に世界地図の赤道帯を描き、二箇所に丸を付ける。
明忠の机の左に、加藤里奈が椅子を引いて滑り込んできた。
「今日、出席とるの?」
「取らないだろ。夏季講座だし」
「じゃ、となり来た。……眠くなったら起こして」
そう言って里奈は、明忠のペンケースを勝手にどかして自分の端末を置いた。距離が近い。暑さのせいにしておく。
この流れ、何か思い出すと思ったが、凛玖がエクステリアを駆って現れた時も彼の授業だった。
「まず基礎だ。静止軌道の高さはおよそ35,786km。ここに向けて地表からテザーを伸ばし、先端側には重りを付けて遠心力で張力を保つ。重力と遠心力の釣り合いが生じる静止軌道を“支点”にすることで、燃料を使わずに宇宙と地球を行き来できる。」
後方の男子が口を挟む。
「先生、これって理論は20世紀からあったんですよね?」
誰かと思えば大垣ユウトだ。里奈が小声で笑う。
「またでしゃばってきた。教室でも自分がピッチャーだとか思ってるよね」
明忠も笑いそうになって、喉の奥で止めた。
「声出すな。松田に目つけられる」
「え、明忠って先生に好かれたいタイプ?」
「違う。目立ちたくない」
「へぇ。ふーん。じゃあ私が目立っちゃっおっかなー」
さらっと言うから余計なにかやらかしそうで目が離せない。
しかし、積極的に発言をしていくのは彼なりの眠さ対策なのだろうか、とどうでもいい疑問が湧いた。
健軍のALV今カフェには、同日に彼らも呼ばれていたらしい。少人数の導入研修も進んで、週末には留学向け講座の合同研修と銘打ってBBQで合流する見込みだと凛玖が話していた。正直、日本で商社でも行ってろよ、と感じるのが明忠視点ではある。
「そうだ。コンセプトは1960年代にロシアとアメリカの研究者が出している。当時はケーブル材料が存在せず、炭素ナノチューブや超高強度グラフェンの発見を待つしかなかった。」
視点を前方に移すと、窓際で秋月エリナが物憂げな雰囲気で何かを書いている。
AIに聞けばいつでも思い出せるような内容で、メモを取るようなタイミングでもないから問題でも解いているのか講義内容を覚えるために図案化でもしているのだろうか。
秋月とはクラスも違うのであまり接点はないのだが、ほぼ全員がアジア系の黒髪かそれをベースに染髪している中にあって、アッシュグレイの髪や透き通るような肌は嫌でも目を引く。
「秋月さん、ほんと別世界だよね」里奈が囁く。
口調は軽いのに、視線は妙に真剣だった。
「興味あるの?」
「ううん。……ミンちゃんが見てるから、私も見ただけ」
返しが速くて、明忠は反応を選び損ねる。
「見てない。状況把握」
「はいはい、状況把握ね」
地理の講義ではこうして同席しているが、聴講と試験、まれにAIとの実習程度という進行だ。
今週末のBBQで合流すると聞いたが、しゃべっているイメージがわかない。趣味が乗馬で学業も試験上位だったはず。これまたオホーツクとは縁がなさそうだが、見た目は北方系だから何かつながりがあるのだろうか。
安易に聞けない気配があるし、気にするだけ無駄だろう、と考えるのをやめることにした。
「では、なぜカリマンタン西沖が初号機の立地になったか。三つの条件があった。
第一に赤道直下であること。地球の自転速度を最大限活用でき、構造上の負荷を減らせる。
第二に台風の発生が極端に少ない海域であること。コリオリ力の影響で赤道付近は台風がほぼ発生しない。
第三に地震リスクの低さ。インドネシアの多くは環太平洋火山帯だが、西カリマンタンは比較的安定地盤だった。」
黒板に「赤道直下/低台風/低地震」と大きく書く。
「しかし条件が良いだけで建つわけじゃない。国際政治と経済の利害調整が必要だった。カリマンタン軸はインドネシア主導だが、中国が素材技術、アメリカとインドが通信・観測需要、湾岸諸国が保険と資本を提供する形で、複数大国を噛ませた“多国籍SPV”として動かした。
これは、一国依存だと紛争や制裁で止まるリスクがあるからだ。」
前列にいた鷹宮紗良が質問する。
「それって、逆に利害がぶつかって足を引っ張る可能性もありますよね?」
「その通り。初期の運営は何度も資金拠出や運用規格を巡って揉めた。しかし『前段ビジネス』──衛星整備、観測衛星更新、デブリ回収などを先に始めて現金収入を確保することで、参加各国に“今すぐの利益”を配分し、合意を維持したんだ。」
松田が、参考情報を出していたディスプレイの画面をアフリカ東部の地図に切り替える。
「ケニア沖軌道エレベーターはこれを見て動き出した。立地は南緯2〜3度のラム港沖。地震リスクは低く、台風もほぼない。加えてインド洋に面し、インド・米海軍のプレゼンスが強く、保険料を抑えやすい条件があった。
だが建設は遅れた。理由は二つ。
ひとつは治安。沿岸は21世紀半ばまでソマリア沖海賊や越境武装勢力の活動が続き、海上工事が何度も中断した。
もうひとつは資本構造。ケニア軸はインド・米・欧・湾岸の多国籍連合で、合意形成に時間がかかった。」
「結果として、ケニアは制度設計でカリマンタンを上回る。国際利用の非差別化条項や、紛争時の運用停止を国連安保理通告制にするSEN(Space Elevator Neutrality)条約を採用。政治利用による“人質化”を防ぐ枠組みを整えた。
そのため欧州・アフリカ圏の貨物は信頼性の高さからケニア経由が増えている。」
ユウトが無遠慮に質問をなげかける。進行に協力してやってるくらいの気分なんだろうか。
夏季の自由参加教室ということもあり、雰囲気が緩い。本気の受験対策をしている連中はもはや講義を聞かず問題を解き進めているというのもあって発言している組が気が楽なのだろう。
「先生、二基の間に競争はないんですか?」
「いい質問だ。競争というより相互保険関係だ。片方が事故や紛争で止まれば、地球規模の物流・通信が麻痺する。だから価格競争より冗長性の確保を重視し、協調運航している。」
「2100年現在の指標をまとめると──
カリマンタン西:年間輸送量で世界最大。静止軌道ハブから月・火星向けの貨物も大量に出る。
ケニア:後発ながら制度と国際信頼性で優位。欧州・アフリカ・インド洋圏の基幹港。
ロケット発射は全体輸送の1割未満に縮小。多くの衛星・資材はこの二本で輸送される。」
黒板に太線二本を描き、上端を「GEOハブ」、下端を「海上基部」として囲む。
「最後に覚えておくべきは、これが単なる交通ではないことだ。
通信衛星をリレーし、世界中の情報網を支える。
高解像度観測衛星で地球表面を常時監視する。
宇宙太陽光発電で地上に送電する。
つまり、軌道エレベーターは物流・通信・監視・エネルギーの縦軸を一体化した“地球の背骨”だ。
これを巡る立地選び、資本構造、国際条約、保険制度──全てが地理的条件と絡み合って、初めて成り立っている。」
チャイムが鳴る。
「次回は、この二基のエレベーターを通じた火星便《EmberFlight》の地球側運用計画に入る。今や火星探査は科学者だけでなく、物流と地政の問題でもある。」
松田が締めると、静かだが足早に秋月が教室を出て行った。
どちらかというと講義と講義の間はクラスメートに囲まれているようなイメージがあったが、ロンドンの短期留学以降ははた目にも孤立気味、あるいは周囲と距離を置こうとしているように見える。
「……秋月さん、最近ああだよね」里奈が珍しく声を落とす。
明忠は返事を探している間に、里奈が続けた。
「ね。BBQ、あの子も来るんでしょ。変なこと起きたら、私が止める」
「里奈が?」
「私、そういう時だけ強いんだよ」
そう言って、里奈は明忠の机の角を軽く叩いた。
「明忠は、変に正義感出して刺されるタイプだから。横にいな」
確か、秋月の父は投資サークルの顧問だとか保護者向け資産形成説明会で比較的知られた人物だった。
沢渡の発言を発端に始まった火星投資バブルの崩壊については、彼も槍玉に挙がっていたように記憶している。
この進学校、エリート集団としての自己意識が高い熊鷹で娘を一緒くたに叩くような低俗ないじめが始まるのは嬉しくない想像だ。
なんであれ低俗な足の引っ張り合いが嫌でこの学校になんとか滑り込んだ明忠としてはことが起きないで風化するのを願うばかりだ。
ふと、そういえばBBQ招集メンバーには沢渡鈴音もいることを思い出した。
黒板には、赤道にまたがる二本の白線と、それを囲む国名が残った。
「瑞穂重工、なんの会社だっけ。」里奈が眉を上げる。
「重工だしな。機械とかだけど、原発とか作ってるくらいだからデカくて硬いものは関係ありそうだ」
「ふーん。大企業サマでアフリカ出張かあ」
里奈の指が、黒板に残る企業名の列をなぞる。
「ね、ミンちゃん。週末のBBQさ、大垣たちと肉焼いて美味しく食べるだけで終わると思う?」
明忠はごましかけて、やめた。
「……終わらない気がしてきた」
「でしょ。お菓子でも用意しようかな」
遠巻きに見物する気なのだろうか。それにしたって何を?




