速さとカタチ
雨はやむ気配がなかった。降っているというより、空が濡れている。健軍の商店街を歩くと、看板の色がひとつずつ水に溶けて、にじんだ輪郭だけが残る。
林明忠は、傘の縁から落ちる水滴を数えながら歩いていた。数えるのは落ち着く。受験のときもそうだった。問題を読む前に、ページの余白や行間を見て呼吸を整える。自分の中の小さな機械に、回転数を揃える時間を与える。
「ここ、で合ってるんだよね」
隣で里奈が端末を見上げた。雨で濡れないように保護フィルムを張っているのがわかる。画面の上には、例の通知が一つだけ浮いている。
〈P.Lily 奥の席。18:10〉
〈Whisper〉
前回来たのはユウトたちだ。だから明忠と里奈は、外側の輪だ。にもかかわらず招待が来た。これは「選別」でもあるし、「補完」でもある。凜玖がその場で言葉にしなくても、ALVはそういう仕組みで動いている。
「合ってる。……てか、ここ通る人みんな、普通に気にしてないのが怖いな」
里奈が小さく笑う。怖さを笑いに変える癖は、彼女の強さでもある。
ピンク色の看板。猫耳のイラスト。〈コンセプトカフェ P.Lily〉。入口のガラス戸には、今日のおすすめと、ポイント還元のQRと、利用規約の短い要約が並んでいる。店の規約は、どこも似たような文体だ。だが一行だけ、妙に硬い。
〈記録は利用者本人に帰属します〉
里奈がそれに気づいて、目を細める。明忠も見たが、見なかったふりをした。自分が今どこへ歩いているのか、言語化すると現実味が増すからだ。
ベルが鳴り、雨の音が一段薄れる。コーヒーと揚げ油の匂いが鼻腔に入る。カウンターの向こうで、制服姿のスタッフが二人、軽い声で会話している。客層はバラバラだ。制服の学生もいれば、作業着のままの大人もいる。観光客っぽい老夫婦までいる。健軍の、いつもの日常にしか見えない。
「いらっしゃいませー! お二人? あ、予約……」
声が途中で、明忠の胸の奥に引っかかった。
里奈のほうが早く反応した。視線が、そのスタッフの名札へ走る。ポップな手書きの字体。
〈Lync〉
そして、その名札を止める葉っぱの形のピン。緑が蛍光灯に反射して、小さく光る。
「……凜玖さん?」
里奈が言うと、スタッフ――凜玖は、にかっと笑った。笑顔の速度が、普通の接客のそれではない。目だけが先に笑って、頬が追いつく前に口角が上がる。
「おっ、来た来た。はい、二名様ね。奥、空いてる。――傘そこ、濡れるからこっち。里奈ちゃん、靴下の端、濡れてるから替えある。明忠くん、端末、雨で一回だけ誤作動してる。セーフモード入れといて」
「え?」
「だいじょぶだいじょぶ、ほら、見て」
凜玖はカウンターの端末に指を滑らせ、同時に店内の状況を目で一周した。視線が止まらない。止まらないのに、情報が落ちない感じがある。言葉が、注文票みたいに正確に出てくる。
「奥の席、今から五分で片付く。そこのお兄さん、氷多めって言ってたのに普通の来てる。――はい、すみませーん、交換します! ちょっとだけ待っててね!」
凜玖は、明忠と里奈を手で促しながら、別の客に軽く会釈し、氷のグラスを一つ掴み、厨房の奥へ消えた。消えたと思ったら戻ってきた。手にはタオルと、乾いた替えの靴下の小袋がある。
「はい、里奈ちゃん。靴下。こっちの奥で替えよ。明忠くんは……そっちの席、背中が冷えるからクッション。あ、飲み物どうする? コーヒー? 甘いの? 砂糖は、頭が熱いときは効くよ」
里奈が、言葉を探している顔をする。明忠も、遅れて同じ顔になる。
学校で見た凜玖は、違った。落ち着いた先輩。視線の圧で人を静かに動かすタイプ。あの凜玖が、今はこうだ。奔放で、軽くて、速い。速すぎる。まるで自分の体に、余分な歯車が入っているみたいに動いている。
「……凜玖さん、これ、源氏名ってやつですか」
明忠がようやく言うと、凜玖は肩を揺らして笑った。
「源氏名って言い方、古い。けど、まあ正解。ここではLync。リンク。繋ぐ方。――名前ってね、使い分けるものなんだよ。場所に合わせて。自分を壊さないために」
言い終わる前に、凜玖の視線がカウンターへ戻る。注文票が増えている。彼女は、笑顔のまま指を二回鳴らし、別のスタッフに短い指示を飛ばした。音だけで通じる感じがある。
「はい、奥。こっち」
凜玖が先に歩き、明忠と里奈が続く。店の奥の扉。前回ユウトたちが通ったという、裏への入口。扉を開けた瞬間、空気が変わった。油とコーヒーの匂いが切れ、乾いた樹脂と、循環風の匂いがする。
壁際に二列の簡易レーン。天井のレールに吊られたターゲットフレーム。壁面にはスコアボード。畳三枚ぶんほどの多目的スペースが、ただの裏部屋ではないと主張している。
ここは「遊び場」ではない。遊びの形をした計測室だ。
「ここでさ、前回ユウトたちに遊んでもらった。今日も、ちょっとだけ。――でもその前に」
凜玖は、言いかけて、言葉を止めた。
止めたのは、何かの演出ではない。彼女の身体が、一瞬だけ失速した。高速回転していた歯車が、噛み合いを変える時の、ほんの短い空白。
明忠は、その空白が妙に怖かった。速いものが止まると、止まり方がわかってしまうからだ。止まる場所が、深い。
「……二人とも、雨で冷えた?」
凜玖が聞いた。さっきまでの軽口とは違う声だった。温度が低い。落ち着いている。学校で見た凜玖の声に近い。
「まあ、ちょっと」と里奈が言う。
「うん。じゃあ、まず、座って。……こっち、温かいの出す」
凜玖は壁の端末に指を当て、飲料のカートリッジを選び、保温モードを起動した。カップが二つ出てくる。湯気が上がる。甘い香り。柑橘系。目の奥が少し楽になる匂い。
「これ、なんですか」と明忠が言う。
「気分安定用。市販品。合法。――ねえ、明忠くん。里奈ちゃん。今日ここに呼ばれたの、たぶん、ユウトたちとは別の理由」
里奈が小さく息を吸った。明忠も同じ。呼ばれた理由を言語化されると、逃げ場がなくなる。
「凜玖さんが、言いたいことあるってことですか」
明忠の声は、自分でも硬いと思った。受験面接の声だ。安全な声。
凜玖は、笑った。さっきの笑いではない。軽いのに、皮肉がない笑い。自分の硬さを笑うような。
「ある。……というか、言わないといけない。たぶん、Whisperにそう言われてる。あと、私が自分で言いたい。――両方」
凜玖は椅子に腰掛けず、立ったまま、レーンの端に寄りかかった。体は落ち着いているのに、指先だけが小さく動いている。止まれない部分がある。止まれないのに、止めようとしている。
「学校でさ、私、落ち着いて見えるでしょ」
里奈が頷く。明忠も頷いた。あれは本当にそう見えた。凜玖は、意図的に場を整える人間に見えた。
「それね、仮面。あの仮面がないと、私、日本だと……すぐ“変なやつ”になる」
凜玖はそこで、言葉を探した。探す速さが遅い。珍しい。
「小さいころから、”落ち着かない子”って言われてた。今なら検査してラベルつけて終わりかもしれないけど、私のころはさ、もっと雑だった。『落ち着きがない』『話を聞け』『周りに合わせろ』。――で、合わせようとして、合わせきれなくて、叱られて、また合わせようとして……その繰り返し」
凜玖の視線が、壁のスコアボードへ飛んだ。数字の並びが、何かの記憶を引っ張ったみたいに見えた。
「面白いのはね。私、できないわけじゃないの。むしろ、できる。テストもそこそこ。運動もそこそこ。だから余計に、『できるんだから、ちゃんとしろ』って言われる」
里奈の眉が少し動いた。わかる、という顔だ。彼女も、似た種類の圧を知っている。
「で、私は“ちゃんとする”を覚えた。ちゃんとするって、つまり、自分の衝動を封じること。思いつきを飲み込むこと。体を固めること。――それを続けるとね、便利だよ。日本では。先生も親も安心する。周りも安心する。私も、表面は楽」
凜玖はそこで、笑って見せた。笑いが浅い。表面の笑いだ。
「でも、体は知ってるんだよ。嘘ついてるって。ずっとブレーキ踏んで走ってる感じ。熱くなる。焦げる。で、ある日、ぷつって切れる」
明忠は、自分の背中が少し冷えるのを感じた。話が、綺麗すぎない。凜玖は「成功談」に寄せていない。そこが怖い。
「切れたとき、どうなるんですか」と里奈が小さく聞いた。
「……人による。私の場合は、動けなくなる」
凜玖の声が、少しだけ低くなった。蛍光灯の音が聞こえる。循環風の音も聞こえる。店の表側の笑い声が、壁越しに薄く混ざる。
「動けなくなるって、ほんとに。ベッドから起きれないとか。ご飯が味しないとか。部屋の隅の埃の動きだけ見て一日終わるとか。――そういうの、たぶん、みんな知ってるでしょ。『鬱』って名前で」
明忠は頷けなかった。頷いたら、何かに触れてしまう気がした。
「私、最初は“自分が弱い”と思ってた。日本ではそう言われやすいから。ちゃんとできないなら弱い。休むなら甘え。――でもね、北のほうに行って、前線に行って、価値観が変わった」
凜玖は、体を少し傾けた。重心が変わる。言葉が、少しずつ速くなる。彼女の“本来のリズム”が戻ってくる。
「前線ってさ。人が足りない。完璧な人材なんて来ない。そもそも来れない。雪で道が閉じたら、補充もない。部品も遅れる。通信も遅れる。――だから、必要なのはね、“一発で正解”じゃなくて、“手数”」
凜玖は、指を二回鳴らした。音が、彼女の思考の句読点みたいだった。
「試して、失敗して、直して、また試す。その速度。あと、瞬発力。『今やる』って決めたときに体が動くこと。――私、それだけは得意だった。得意っていうか、勝手に体が動く。止められない」
里奈が、ふっと笑った。さっきの凜玖の接客の速さが、ここで意味を持ったのだろう。
「それが、重宝された。初めて、『落ち着け』じゃなくて、『動けるのいいね』って言われた」
凜玖はその言葉を、少しだけ噛みしめた。噛みしめるほどの重さがある。
「……それ、嬉しいですね」と里奈が言った。
「嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。で、怖い」
凜玖は、笑って、すぐに真顔になった。
「前線はね、褒めてくれるけど、守ってくれない。守る余裕がない。だから私、学んだ。『自分一人分の世界観』ってやつ。――自分の取扱説明書。どこまで動いたら熱くなるか。いつ休まないと切れるか。何を食べたら回復するか。誰と喋ると回復するか。逆に誰と喋ると焦げるか」
明忠は、その言葉が胸に刺さった。取扱説明書。自分一人分。彼は、いつも「正解の説明書」を探してきた。日本式の、皆が同じページを読める説明書。自分だけの説明書を作る、という発想自体が、まだ怖い。
「里奈ちゃん、明忠くん。ここが大事なんだけど」
凜玖は、急に明るい声に戻った。戻り方が、上手い。仮面の切り替えだ。でも、今はそれが嘘に見えなかった。仮面は嘘ではなく、道具だ。
「私はね。開拓で“自由になった”って話をしたいわけじゃない。自由って言うと、みんな気持ちよく聞くから。でも、自由って、放置と紙一重。放置されたら、人は壊れる」
その言葉で、明忠の背中の冷えが、別の形に変わった。恐怖ではなく、理解に近い。
「だから、自由が成立するには、仕組みがいる。――仕組みって、難しい言葉にすると契約とか制度とかになるけど、もっと簡単に言うと『助けが気分じゃなくて、手順になってる』ってこと」
凜玖は、壁の端末を指した。そこには、射撃レーンの設定画面が開いている。安全項目が並ぶ。マズル、指、アイウェア、射線。チェックが入っている。手順が、気分を越える。
「前線って、こういうのがないと死ぬ。だから、私は“自分の手順”を作った。――で、ALVは、たぶん、それを社会に拡張したいんだと思う」
凜玖は言い切ったあと、わずかに肩をすくめた。自分の言葉が、Whisperの台本に寄ったことを自覚しているような仕草だった。
里奈が、黙ってカップを持ち上げた。柑橘の湯気が、彼女の眼鏡を少し曇らせる。明忠も同じようにカップを持ち上げ、口をつけた。甘さが喉を通り、体温が少し上がる。
「……凜玖さん」と明忠が言った。
「ん?」
「それ、前線に行く人だけの話じゃない、ってことですよね」
凜玖の目が、少しだけ細くなった。評価の目だ。明忠の言葉が、ただの理解ではなく、自分の未来に触れていることを見ている。
「そう。……で、そこが日本では一番怖い。みんな“自分の説明書”を作ってない。作る必要がないように、社会が組まれてるから。だから、作り始めるときに、めちゃくちゃ怖い」
里奈が、明忠を見た。視線に、何か言いたいことがある。だが言わない。言うと、明忠の心の奥の“未公表”に触れてしまうからだ。二人の間に、言葉にならない約束がある。
凜玖はその空気に気づいたのか、わざと軽口に戻った。
「というわけで! 今日はね、君たちの“説明書作り”の最初のページ。超簡単。遊び。測定。――あ、安心して。いきなり重い話してごめんね。私、こういうとき、ブレーキの位置がバグる」
凜玖は舌を出しそうな勢いで笑って、すぐにスイッチを入れ直した。
「ほら、アイウェア。二人とも。これ、似合うよ。――で、今日は射撃じゃなくて、もっと簡単なやつにする。反射のテスト。判断のテスト。怖くない。……たぶん」
「たぶん、って」と里奈が言って、やっと笑った。
「だってALVだもん。たまに悪趣味」
凜玖が肩を揺らす。明忠は、笑えなかった。悪趣味、という言葉が、冗談のようで冗談ではないからだ。
だが、笑えない代わりに、明忠は少しだけ姿勢を正した。自分の中の機械が、回転数を揃え始める音がする。怖い。でも、逃げるほどではない。
凜玖が壁の端末を操作すると、天井のターゲットフレームが静かに動いた。光点が二つ、三つ、点滅する。音が鳴る。単純な、しかし確実に脳を揺らすリズム。
「ルール。光ったらタップ。音が鳴ったら止まる。止まれなかったら、その場で笑う。――それが今日の“勝ち”」
「止まれなかったら勝ちじゃないんですか」と明忠が言うと、凜玖は首を振った。
「前線では、止まれない人は死ぬ。……でも日本では、止まれない人は潰される。だから、その間の道を探す。笑えるくらいの失敗を、手順にする」
凜玖が言った瞬間、また一瞬だけ、彼女の速度が落ちた。落ちたあと、すぐに戻る。戻るのに、さっきより少しだけ静かだ。ブレーキの位置を、ちゃんと確かめている。
明忠は、その小さな調整に、妙に救われた。凜玖は「特別な人」ではない。壊れない神話ではない。壊れかけたことがあり、だからこそ手順を作った人だ。
里奈がアイウェアをかけながら、小さく呟いた。
「……ねえ。凜玖さんって、怖いけど、ちょっと羨ましい」
凜玖は聞こえたふりをしなかった。笑って、真正面から受け取った。
「羨ましいは、危ない。羨ましさはね、嘘つくから。でも、いい。羨ましいと思ったなら、そこが入口。――明忠くんも、そうでしょ」
明忠は、答えられなかった。心臓が一瞬だけ跳ねた。自分の中の未公表が、気配として浮いた。
凜玖はそれ以上踏み込まない。踏み込まないのが、彼女の優しさなのか、訓練なのか、あるいはWhisperの台本なのか、明忠にはまだ判断できない。
「さ、始めよ。Ready?」
凜玖が言う。
明忠は頷いた。里奈も頷いた。
光点が点滅を始めた。音が鳴る。手が動く。止まる。止まれない。笑いが出そうで出ない。出ない笑いが、喉の奥に引っかかる。
そして明忠は気づく。
ここにいる間、彼は「正解」を探していない。探しているのは、自分の取扱説明書の最初のページだ。
それが怖い。怖いのに――不思議と、息ができる。
外の雨音は、もう遠かった。
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