ドアマット令嬢を娶った『凶悪侯爵』は白い結婚をご所望です
ずっと、私だけを愛してくれる人が欲しかった。
マチルドはフルカード子爵家で十五年前に生を受けた。
七歳までは楽しく暮らしていた記憶が残っている。父も母も優しかった。
けれど、彼女が五歳の時に母が亡くなり、七歳の時に父が男爵家から後妻を迎え、二歳違いの妹ができた。
父が同じ妹が二歳の年の差である理由を、当時の彼女は理解できなかった。
当時五歳だった義妹は、連れてこられた当初こそマチルドに遠慮をしていた様子だったけれど、継母であるマリナが彼女を冷遇する様子をみて、徐々に態度を変えていった。
最初は本当に小さなすれ違いだったのだ。
マチルドは新しい母であるマリナにどう接していいのかわからなかった。
亡き母を慕っていたからこそ、継母を心から歓迎することが出来ずにいた。
それでも、戸惑いながらも少しずつ歩み寄ろうと頑張った。
だが、マチルドが家庭教師に褒められ、義妹のリラが叱責されるたび、少しずつ義母の態度は冷たくなっていった。
優秀な姉と愚鈍な妹。
マチルドの母は三女ではあったが伯爵家出身であったから、産まれの差だと、母の違いだと陰口を叩くものたちがいた。
その言葉が、少しずつ少しずつ、マリナの心を削っていったのだ。
『貴女の新しいお母様になるの』
優しく微笑んだ面影は、マリナが後妻としてフルカード家の女主人になって一年がたつ頃には消えていた。
『貴女はなんでもできるもの。これはいらないわね』
そう言って、マリナは様々なものをマチルドから取り上げるようになった。
最初は家庭教師に言いつけられた宿題、次に教本や羽ペン。
どんどん取り上げられるものはエスカレートしていき、亡き母との思い出の品にドレスやアクセサリー、最後には部屋と食事まで取り上げられた。
彼女から奪われたものは全てリラに与えられた。
リラは嬉しそうに受け取って、贅沢を享受した。
その頃には、マチルドは使用人と同じお着せを身に纏い、家族の食卓に着くことも許されず、残飯を与えられていた。
どうして、と強く思った。なぜ、と。
(私はただ褒められたかっただけなのに)
父は見て見ぬふりを貫いた。
一度苦言を呈して癇癪を起したマリナを扱いかねていたようだが、そんなことはどうでもいい。
味方になってくれなかった、事実として残ったのはそれだけだ。
不遇な待遇を受けながら、それでもマチルドの心は折れることを知らなった。
元々勝気だった彼女は常に反撃の機会を伺い続けた。
そうして、やっとそのチャンスを手に入れたのだ。
「マチルド、お前とイディア侯爵の結婚が決まった」
呼び出されたのは父の執務室。長く足を踏み入れることを禁じられている部屋の一つだった。
整然と並んだ本棚や埃ひとつないローテーブル。羽ペンやインクが乗った机の上に一枚の書類が置かれている。
「イディア侯爵ですか」
「そうだ。お前でも良いと仰せだ。様々な噂がある方だが、お前に拒否権はない」
そもそも拒否するつもりもない。
この屋敷を出られるのであれば、方法を選んでなどいられないのだ。
数年前から継母のマリナと義妹のリラの行動がエスカレートしている。最近では鞭で叩かれることも珍しくない。
体中、痣だらけだ。中には一年以上消えないものもある。
早々に屋敷を離れなければ、命の危険がある。
(虐待を訴えて動いてくれる方ならいいな)
デビュタントの機会を奪われ続けているマチルドはイディア侯爵がどんな人物なのか知らない。
一縷の希望を持った彼女に、父のワリドは鼻で笑う。
「残虐を理由に縁談を断られ続けた『凶悪侯爵』だが、お前にはちょうど良い」
そんな相手に実の子どもを嫁がせるのか。
もう父にはなんの期待もしていないが、それでも少しだけ心が痛んだ。
僅かに眉を顰めた彼女にワリドが立ち上がり背を向ける。
「一切余計なことはするな。お前はただ、言われた通りにしていればいい」
歯向かうな、抵抗するな、反論をするな。
今までどれだけ言われてきた言葉たちだろう。嫁ぎ先でもそうしろとワリドは言う。
けれど。
(貴方の目の届かないところでまで、従う必要はない)
どんな残虐な相手でも構わない。殺される前に屋敷を出てしまえばマチルドのものだ。
(私は絶対に貴方たちを許さない)
父と継母と義妹を地獄の底に落とすまで、死んでなどやらない。
決意を口にすることはなく、彼女は黙って頭を下げる。聞き分けのいい娘を、いまはまだ演じなければならないから。
必要最低限の荷物すら与えられず、もちろん嫁入り道具なんてもってのほか。
そんな状態でマチルドが嫁入りをしたのはロドリグ・イディア侯爵。
出迎えてくれた彼を見て、悪評の理由に納得した。
ロドリグは強面なのだ。右の目をふさぐ大怪我をはじめ、とにかく顔が怖い。普通の令嬢が避けて通るのも納得だった。
(私は感謝しているけれど。だって他の方が縁談を断り続けたからこそ、私に縁談が来たし、リラに縁談をとられなかったのだから)
顔が怖いことなど、暴力を振るわれることに比べれば些細なことだ。
侯爵家としては質素な結婚式を終えて、彼女は初夜のために体を清めた。
身体に残る痛ましい跡を見せるのに、初夜は絶好の機会だ。
知らない相手に体を開くのは抵抗があっても、復讐のためなら我慢できる。
そう思っていたのだけれど。
初夜を行うはずのベッドの上で彼女に掛けられたのは、意外過ぎる言葉だった。
「え?」
「先ほども言った通り、この結婚は『白い結婚』とする」
一つしかない瞳がまっすぐにマチルドに注がれている。
言葉の意味を飲み込めず、ぱち、と瞬きをした彼女は、傷を隠すために初夜にしては厚着をしていたけれど、まさかそれが理由だろうか。
「旦那様……?」
「いい年をして伴侶がいないのはさすがに体裁が悪いからと、無理を言って嫁いでもらったのだ」
(全然無理はしてませんね?)
父とロドリグの間でどのようなやり取りがあったのかを知らない彼女は、大人しく口を閉じた。
彼女の反応に、少しだけ寂しそうに彼は笑う。
「君の『初めて』は本当に好いた人にとっておくといい。表向き侯爵夫人を演じてくれれば、外で愛人を囲うことも止めない。後継ぎは親戚筋から子供を迎え入れよう」
淡々と話を進めてしまうロドリグの言葉に唖然とする。
(気遣ってもらっているから反論がしにくい!)
さすがの彼女も『虐待の跡を確かめてほしいから初夜を行いたい』とは言い出せなかった。
切り出し方に悩んでいる間に、一人で納得してしまった様子のロドリグはさっさとベッドに横になってしまう。
「疲れただろう。早く寝るといい」
ふかふかのベッドで寝るのは幼少期以来だ。手に触れるほどよい弾力の誘惑が彼女を誘う。
結局その日は一緒のベッドで隣り合って眠ることになってしまった。
イディア侯爵家での暮らしは、いままでの生活が嘘のように平穏に満ちていた。
夜会に出たことがないと打ち明けたマチルドに、ロドリグは侯爵夫人としてのお披露目の場を作ろうとも言ってくれた。
顔は怖いけれど優しい人なのだとすぐに理解できた。
恥を承知で「七歳から貴族教育を受けていないのです」と告げた彼女に、さすがに驚いていた様子だが深く踏み入ることをせず家庭教師を手配してくれた。
(優しい方なのよね)
日中を過ごす日当たりの良い部屋で、ぼんやりとソファに座って考える。
膝の上には読みかけの本が開きっぱなしだったが、彼女の意識は逸れてしまう。
(旦那様のおかげで、毎日が穏やかすぎて……完全に虐待を暴露する機会を逃しているわ……)
心優しいロドリグの傍にいると癒される。
心の奥底では『許さない』と憎悪が燃えているのに、それを口に出せないまま三ヵ月が立とうとしていた。
マチルドが実家での暮らしを話せば、きっとロドリグは憤ってくれる。彼の立場と権力があれば、子爵家など簡単につぶせるだろう。けれど。
(旦那様を悲しませたくないわ)
顔に似合わず優しくて穏やかな彼に心を寄せ始めていたから。だからこそ、彼が傷つく言動を自ら取る気が失せつつあった。
「そういえば、どうして旦那様は『凶悪侯爵』などと呼ばれているのですか?」
夜、寝るためにベッドに入る前に囁かな話をするのが日課になりつつある。
結婚が決まった際にワリドが口にしていた単語がふと脳裏をよぎって、マチルドは素朴な疑問を投げかけた。
ソファで寝酒を口にしていたロドリグが苦笑をこぼす。彼の左手が右の目元の傷に触れる。
「ああ、私の顔が強面だからだな。昔から顔だけで怖がられ、様々な人が離れていった。戦地で怪我をしてからはなおさらだ」
寂しそうに笑う姿に眉を寄せてしまう。戦場での怪我なら仕方ないのではないか。
名誉の負傷、なんて言葉があるというのに。
そんなことを思いつつ、慰めに意味はないと判断してマチルドは別の言葉を口にする。
「愛嬌があって素敵だと思います」
「なに?」
彼女の言葉にロドリグが瞬きをする。そうすると少し幼く見えて、愛嬌が増す。
「極論にはなりますが、暴力を振るわなければ、顔なんて割とどうでもいいです」
実家での酷い暮らしを思い出してしみじみとしながら、マチルドはさらに続けた。
「顔が整っていても暴力を振るう人は大嫌いです。その点、旦那様は最高ですよ」
「ははっ! 確かに、その通りだな!」
明け透けな言葉の何が面白いのか、盛大に笑いだししたロドリグの姿に首を傾げつつ、彼女は「先に休みますね」と告げてベッドに入った。
ふかふかのベッドで寝る時間は、マチルドにとって最高の贅沢だ。
「ああ、おやすみ。マチルド」
今日もまた穏やかに口にされる言葉がくすぐったい。
シーツをすっぽりと頭までかぶって、彼女は赤くなった頬を隠すのだった。
▽▲▽▲▽
生まれながらの凶悪な顔と、戦地で追った傷が原因で婚約も結べなければ、結婚も遠かった。
けれど三十を目前にして、さすがに独身は体裁が悪いと国王から言われたのだ。
国の代表であり敬愛する国王にそう言われては、結婚するしかない。
貴族ならば誰でもいいと、上は公爵令嬢から下は男爵令嬢まで手当たり次第に結婚を打診した結果、話がまとまったのが子爵令嬢のマチルドだった。
(彼女が嫁に来てくれてよかった。なぜか貴族教育が中途半端だが、物覚えはいいし、侯爵夫人の自覚もある。申し分ない)
十五歳で結婚適齢期の令嬢との婚姻がなぜこんなにあっさり決まったのか、首を傾げたことがないわけでない。
嫁いでくる前までは性格に問題があることを覚悟していたのだが、そういうわけでもなかったからなおさらだ。
ロドリグの強面に恐怖しないマチルドと積み重ねる日々は、心に平穏をもたらした。
表情が柔らかくなったね、と幼馴染に言われる程度には、彼はマチルドに心を許している。
(『愛人を作ってもいい』などと、いうのではなかったな)
そんな後悔をしてしまうほどに、彼女を愛していた。だからこそ。
看過できない事実を知ったとき、彼の怒りは爆発する。
届けられた速達の手紙を前に、ロドリグは眉間に深い皺を寄せていた。
「……」
無言で書類を睨んでも、並べられた文字は変わらない。
机の上に乗せられた手紙には、フルカード子爵からの名義で金銭の無心の文字列が綴られている。
(結婚した際にまとまった額を渡したはずだが)
結婚支度金として、子爵家ならば一生暮らすのには困らない金額を渡している。
無理な婚姻だから、と大枚をはたいたのだ。
(だが、嫁いできた時の様子からしてマチルドのためには使われていない)
着の身着のまま、サイズの合わないドレスを身に纏ってイディア家の門をくぐった彼女の姿を思い起こす。
あの時は「子爵家といえど困窮しているのか」と流した。彼女に対する情もまだなかったし、踏み込むのも面倒だったからだ。
体裁を保つための婚姻であり、愛が生まれるなど考えてもいなかった。
あの頃に戻れるなら、もっとマチルドを気に掛けろと自分を殴り飛ばしたい。
(結婚支度金の行方は気になって調査済みだが……これが本当ならどうしたものか)
金銭の無心の手紙の横に並べた、フルカード家の財政の調査書類。
そこにはマチルドのために用意した金の全てを子爵夫人と義妹が豪遊のために使ったとの記載がある。
額に手を当てて深い息を吐く。そのとき、彼の耳に扉を開ける音が届いた。視線を上げると、マチルドが見たことのない種類の笑みを浮かべている。
「マチルド……?」
「父から連絡がありました。旦那様にもっとお金を出すように伝えろ、と」
「!」
彼女の手に握られた手紙らしき紙に眉を潜める。
ロドリグだけではなく、マチルドにまで連絡をしていたのか。
彼女宛ての手紙の検閲はしていなかったが、しておけばよかったと舌打ちがこぼれる。
凶悪な顔をしているロドリグが舌打ちをすると、大の男でも縮こまるものだ。
だが、マチルドはさらに笑みを深めた。
「旦那様、私に復讐の機会をください」
穏やかに紡がれた物騒な言葉に息を飲む。
戦場でよく見た憎悪に燃える瞳をして、彼女は微笑み続けている。
こくり。
つばを飲みこんで「話を聞こう」と伝えるのが、精一杯だった。
▽▲▽▲▽
ロドリグの許可をって、結婚して半年がたつ頃にようやくマチルドのお披露目の夜会が開かれた。
侯爵夫人として慣れないながらも義母となったロドリグの母に助言をもらいながら用意した夜会は――彼女にとって元家族たちを断罪するための場である。
(騒ぎを起こすことは先に謝ったし、許しも得た)
ちらりと隣で来場者と挨拶を交わすロドリグを見上げる。
半年で見慣れたマチルドからすれば余所行きの穏やかな顔をしているが、挨拶にくる貴族たちは軒並み恐れ戦いているようだった。
手負いの魔物を前にしているかのように恐る恐る挨拶をしてく貴族たちを、滑稽だなぁと隣で眺め続ける。
時々、物怖じする様子のない者たちもいたが、彼らは恐らく軍人だ。纏う特有の空気がロドリグに似ている。
ある程度、高位の貴族の挨拶を捌くと、奥からフルカード子爵一家が現れる。
父のワリドに義母のマリナ、義妹のリラ。一家揃ってお出ましとは、ずいぶんと都合がいい。内心で笑みを深めつつ、表面上は穏やかに微笑む。
「お久しぶりです、お父様」
「……久しぶりだな」
少し硬い声音はマチルドの隣にロドリグがいるからだろう。
マリナもリラも彼の強面に委縮しているようだ。
「ずいぶんと贅沢をしているようだな」
上から下までマチルドの姿を見たワリドの一言に、ロドリグが少し殺気立つ。
彼の腕にそっと手を置いて宥めて、彼女は笑う。
「はい。苦労のない暮らしをさせていただいています」
「……お義姉様、もしかして幸せなの?」
マチルドが優しく笑うからだろう、信じられないと声音に乗せたリラの問いに、彼女は優雅に首を傾げた。
ロドリグが手配した家庭教師に貴族教育で教えなおしてもらった仕草だ。
「あら、私たちは新婚よ。幸せでないはずがないでしょう」
「……信じられない」
ぼそりと零された言葉に、あえてマチルドは悲しげに視線を伏せる。
憂う眼差しでリラをみた。
「どうしてそんなことをいうの。……子爵令嬢の貴女が侯爵夫人の私の不幸を願っているの?」
途中から声を抑えつつも、『子爵令嬢』と『侯爵夫人』を強調する。
立場の差を明確にした彼女に、リラは苛立ちをあらわにする。
「アンタなんて、金で買われただけのくせに……!」
吐き捨てるように言われた言葉を待っていた。
内心の笑みを深めて、彼女は視線を伏せたまま毒を吐く。
「その通りね。私を売ったお金でする豪遊は楽しかった?」
声色に嘲りを隠すとさすがに長年同じ屋根の下で暮らしただけはあって、リラには通じたようだった。
彼女たちの様子を注視している周囲は逆の意味で受け取ったようだが。
ひそひそと交わされる会話がフルカード子爵家を悪しざまにいっているのを拾い上げ、彼女はますます内心で笑う。
「もっとお金を送りなさいよ! お父様の手紙を無視して……!」
「どうして?」
「そのための嫁入りじゃない!」
悲しげな声を出すと、とうとうヒステリックにリラが叫ぶ。
周囲の眼差しに気づいたワリドとマリナが止めようと彼女を呼ぶが、すでに耳に入っていない。昔から、リラは短気で我儘だった。
「アンタなんて、金を運んでくるしか能がないくせに!」
ざわりと周囲がどよめく。
リラの言葉だけで、マチルドが不当に扱われているのは伝わるだろう。
ワリドが慌ててリラの名を強く呼ぶ。興奮している彼女は止まらない。
「そもそも気に入らなかったのよ! アタシの婚約者より爵位が高いなんて! さっさと『凶悪侯爵』になぶり殺されればよかったのに!!」
感情のままに叫ぶリラにマリナが悲鳴を上げる。
「リラ!」と叫ばれて、腕を引っ張られて制止されても、彼女は苛立った様子でマチルドを睨むだけだ。
「お母様もお父様も可笑しいのよ!! もっとお金を取るべきなのに! 『凶悪侯爵』に遠慮するなんて! お姉様と結婚するようなもの好きよ?!」
隣から発される殺気がそろそろ止めるのも限界になってきた。その上、十分な言質は引き出した。
そう判断し、悲しげな表情から一転、マチルドはにこりと微笑んだ。
表情を一変させた彼女に、リラがようやく異変を察したのか口を閉ざす。
だが、すでに遅い。
周囲は完全にマチルドの味方となった。
「旦那様、私の家族だと主張する人たちはもっとお金が欲しいそうです」
彼女が隣のロドリグを見上げて口を開くと、彼はようやく、と言った様子で苦々しくフルカード一家を睨みながら告げる。
「結婚支度金は、子爵家ならば一生暮らせる額を渡したはずだ」
「あら不思議ですね。私はドレス一つ持たせてもらえず、着の身着のまま放り出されましたが、お金はどこにいったのでしょう」
マチルドの言葉に、さらに周囲がどよめく。完全に注目の的だ。
楽しくて仕方ない。内心で大笑いしながらも、表情は取り繕い続ける。
「ねえ、お父様、お義母様、そしてリラ。私の結婚支度金を何に使ったのか、いまここでお答えください」
『いま、ここで』と強調した彼女の言葉に、三人が黙り込む。
視線を逸らした彼らに、彼女はため息を吐き出して、あえて腕を隠しているドレスのレースをめくった。
場がしんと静まり返った。
彼女の腕には、半年たっても消えない痛々しい痣がある。鞭で叩かれたただれた皮膚の跡だ。
「私は貴方たちに散々虐待を受けてきました。お金を送る理由がありません」
凛と背筋を伸ばしてぴしゃりと言い放ったマチルドの言葉に、反論できるものはいない。
黙り込んだ彼らとは別の声が場に発される。
「虐待の事実があるのであれば、看過できないね」
人に紛れてずっと様子を伺っていたロドリグの幼馴染――この国の王太子であるスタニック・サンファルの言葉にワリドの顔に絶望が満ちる。青ざめているのはマリナも同じ。
一人、リラだけが花畑の脳内を晒して「まあ! 王太子殿下!」と声を弾ませた。
彼女に蔑みの視線を送りながら登場したスタニックが冷静に事実だけを口にする。
「虐待は事実か?」
「そんなことはありません!」
悲鳴を上げたのは事態の深刻さを理解しているワリドだ。マリナも慌てて追随する。
「その子がはしゃいで羽目を外した際に叱責はしましたが、その程度です! 躾の範疇です!!」
「フルカード子爵家は躾に鞭を使うと?」
「きゃっ!」
事前に事情を全て説明済みであるスタニックは、冷徹な声をだしてリラの腕をとる。
彼女の傷ひとつないすべらかな腕を観衆に見せつける。
「躾で使うのであれば、なぜ彼女には傷がない?」
「その子は優秀で……!」
「へえ、この状況を理解できていないのに?」
嘲りの色はない。ただ、現状を伝えているだけだ。だからこそ、言葉には威力がある。
黙り込んだワリドとマリナを放置し、リラの腕を離したスタニックはマチルドに向き直った。
「虐待は王国の法で禁じられている。後程、教会を交えて事実確認をしたい。辛い過去を思い出させてしまうが、協力してくれるだろうか」
「もちろんでございます」
法で裁かれることこそ、彼女が望んだことだ。
この半年で覚えたカーテシーを披露したマチルドにスタニックが目元を和ませる。
「疲れただろう。少し夜風にあたってくるといい。この場は任せてくれ。――ロドリグ」
「殿下の恩情に感謝いたします」
スタニックの気遣いに深々と頭を下げる。一礼したロドリグに連れられて、彼女は爽やかな気持ちで夜の庭園へと足を運んだ。
「旦那様、本当にありがとうございます」
「気持ちは少しは晴れただろうか」
「はい。この後、彼らが法で裁かれるのであれば、私はもう何も言うことはありません」
晴れやかな気持ちだ。ロドリグには迷惑をかけたが、この場を用意してくれたことに感謝しかない。
王太子であるスタニックを引き入れてくれたことを含め、彼女にはできすぎた夫だった。
「……旦那様」
「ああ」
夜風が興奮して火照った肌に気持ちいい。そろそろ現実に向き合わねばならない。
美しく咲き誇る花たちから視線を上げて、ロドリグに向き直る。そして、彼女は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「頭を上げてくれ。どうしたんだ」
「旦那様の風聞に傷をつけました」
肩に置かれた手に、少しだけ力がこもった。頭を深く下げ続ける。
「私の我儘を聞いていただき、心から感謝しています。この後の処分はなんなりと」
「処分、とは」
「離縁でも、なんでも。全てを受け入れる覚悟です」
明らかに非はフルカード一家にあるとはいえ、夜会という社交場で騒ぎを起こした事実は残る。
ただでさえ『凶悪侯爵』などといわれのない誹謗中傷を受けているロドリグのイメージをさらに下げてしまった。
マチルドは虐待された側とはいえ『そういう家族』を持っていることも、今後マイナスに働くだろうことは想像に難くない。
「……頭を上げてくれ」
低い声が唸るように告げる。そっと頭を上げた彼女をロドリグが抱きしめる。
「旦那様?」
「『白い結婚』を撤回したい」
「え?」
間の抜けた声がこぼれた。ぎゅうぎゅうと痛いほどに抱きしめられる。けれど、その痛みは甘さを伴って彼女の全身を刺激した。
「君が外に愛人を作るのも嫌だ。もちろん、私も君以外は愛さない」
「あの、旦那様……?」
「私に君をくれないか」
抱きしめられたままだが、腕の力が緩む。
間近で見つめるロドリグの表情は切なくて、瞳には恋情が燃えていた。目を見開く彼女の唇に、触れるだけのキスが落とされる。
「?!」
「これからは、私が君を守る。二度と理不尽な目には合わせない。だから、どうか」
君が欲しい。
希われて、嫌だと思うはずがない。母が死んで以来、誰にも必要とされなかったのに。
ぽろり、と。涙が一筋目じりから零れ落ちる。
じっと彼女の様子を伺うロドリグに、下手くそな笑みを作る。喜びと、嬉しさと、少しの独占欲を混ぜた笑み。
「私こそ、旦那様を離せそうにありません」
「!」
「愛しています。旦那様」
ロドリグの背中に手を回して、ぎゅうと抱き着く。
きっと今夜は寝れないわね、と幸福に満ちた気持ちで考えるのだった。
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