表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/1

序章 泥濘の中から

 光のない朝だった。

 夜と朝の境が曖昧なまま、王都の外れにあるヴァルキアス家の屋敷は、雨の音に沈んでいた。

 屋根から滴る冷たい水が、石畳をゆっくりと侵食していく。

 かつて王立魔導院(アカデミア)に資金を供出した名家の庭園は、今や雑草と泥に呑まれた小さな沼地に変わっていた。


 レイア・ヴァルキアスは、割れた窓の前で立ち尽くしていた。

 足元には、濡れたカーテンと、昨夜までの生活の名残が散らばっている。銀の燭台、紅茶のカップ、刺繍入りのナプキン。どれも昔は「品格」を象徴していたものたち。

 今はただの、過去の亡霊にすぎなかった。


 父は罪を犯した。

 王都の議会において禁呪研究に関与したとして、爵位は剥奪され、投獄された。

 母は、心労で床に伏し、そのまま帰らぬ人となった。

 そして今日、この家は正式に差し押さえられる。

 レイアが「ヴァルキアス令嬢」でいられるのは、この朝で最後だ。


 それでも彼女は、いつものように髪を梳く。

 母から譲り受けた櫛を手に、白金の髪を整える。

 その髪は光を吸い込み、儚い朝霧のように揺れていた。

 紅い瞳はまだ澄んでいた。

 それは、生まれてからずっと信じてきた「人の善意」を、ぎりぎりのところでまだ疑っていない証。


 「お母さま……私、まだ、綺麗でしょうか。」


 薄暗い鏡の中、少女は小さく微笑む。

 頬は少し痩せ、指先は冷たい。

 けれど、その表情には不思議な静けさがあった。

 泥に沈みながらもなお、穢れを拒む白蓮のように。


 扉の向こうから、粗野な声が聞こえてくる。

 「ヴァルキアスの娘はどこだ!」「家財を運び出せ!」

 下卑た笑いとともに、重い靴音が近づく。

 使用人たちはとっくに逃げ出した。

 彼女ひとりが、この崩れた屋敷に残っている。


 レイアは、首元にかけた、母が亡くなる前に託した小さなペンダントを握りしめる。

 「どんなに暗い場所でも、あなたの中の光を忘れないで。」

 その言葉の意味を、当時の彼女はまだ理解していなかった。

 それでも、彼女との約束は必ず守ると静かに覚悟した。


 扉が蹴り開けられ、荒々しい男たちが雪崩れ込む。

 「娘、立て。もうお前の家じゃない。」

 男のひとりが、彼女のペンダントを掴み取ろうとする。

 しかし、レイアは抵抗しなかった。

 ただ、静かに――まるで祈るように、目を閉じた。


 「……お好きにどうぞ。」


 その言葉に男は一瞬、息を呑んだ。

 彼女の瞳の奥にある“何か”を見たからだ。

 壊れていない。

 絶望の底に沈んでいるのに、決して壊れない光。

 それが、彼女を後に「白蓮の魔女(ニムフェア)」と呼ばせる所以となることを、誰も知らなかった。


 ――神々が人に魔法を授けたのは、救うためではなく、試すため。

 その古い言葉を、この日レイアはまだ知らない。

 だがこの瞬間、女神ネメシスは彼女を見ていた。

 泥に咲く白い花のように、あまりにも儚く、そして強い少女を。


 その夜、屋敷は焼け落ちた。

 誰かが放火したとも、神罰が下ったとも言われる。

 翌朝、灰の中からひとりの少女が立ち上がった。

 手には焦げたペンダント。

 目には、涙ではなく、淡い炎の光。


 かつて貴族の末裔だった少女はこの日、すべてを失い――そして、「復讐」を覚えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ