序章 泥濘の中から
光のない朝だった。
夜と朝の境が曖昧なまま、王都の外れにあるヴァルキアス家の屋敷は、雨の音に沈んでいた。
屋根から滴る冷たい水が、石畳をゆっくりと侵食していく。
かつて王立魔導院に資金を供出した名家の庭園は、今や雑草と泥に呑まれた小さな沼地に変わっていた。
レイア・ヴァルキアスは、割れた窓の前で立ち尽くしていた。
足元には、濡れたカーテンと、昨夜までの生活の名残が散らばっている。銀の燭台、紅茶のカップ、刺繍入りのナプキン。どれも昔は「品格」を象徴していたものたち。
今はただの、過去の亡霊にすぎなかった。
父は罪を犯した。
王都の議会において禁呪研究に関与したとして、爵位は剥奪され、投獄された。
母は、心労で床に伏し、そのまま帰らぬ人となった。
そして今日、この家は正式に差し押さえられる。
レイアが「ヴァルキアス令嬢」でいられるのは、この朝で最後だ。
それでも彼女は、いつものように髪を梳く。
母から譲り受けた櫛を手に、白金の髪を整える。
その髪は光を吸い込み、儚い朝霧のように揺れていた。
紅い瞳はまだ澄んでいた。
それは、生まれてからずっと信じてきた「人の善意」を、ぎりぎりのところでまだ疑っていない証。
「お母さま……私、まだ、綺麗でしょうか。」
薄暗い鏡の中、少女は小さく微笑む。
頬は少し痩せ、指先は冷たい。
けれど、その表情には不思議な静けさがあった。
泥に沈みながらもなお、穢れを拒む白蓮のように。
扉の向こうから、粗野な声が聞こえてくる。
「ヴァルキアスの娘はどこだ!」「家財を運び出せ!」
下卑た笑いとともに、重い靴音が近づく。
使用人たちはとっくに逃げ出した。
彼女ひとりが、この崩れた屋敷に残っている。
レイアは、首元にかけた、母が亡くなる前に託した小さなペンダントを握りしめる。
「どんなに暗い場所でも、あなたの中の光を忘れないで。」
その言葉の意味を、当時の彼女はまだ理解していなかった。
それでも、彼女との約束は必ず守ると静かに覚悟した。
扉が蹴り開けられ、荒々しい男たちが雪崩れ込む。
「娘、立て。もうお前の家じゃない。」
男のひとりが、彼女のペンダントを掴み取ろうとする。
しかし、レイアは抵抗しなかった。
ただ、静かに――まるで祈るように、目を閉じた。
「……お好きにどうぞ。」
その言葉に男は一瞬、息を呑んだ。
彼女の瞳の奥にある“何か”を見たからだ。
壊れていない。
絶望の底に沈んでいるのに、決して壊れない光。
それが、彼女を後に「白蓮の魔女」と呼ばせる所以となることを、誰も知らなかった。
――神々が人に魔法を授けたのは、救うためではなく、試すため。
その古い言葉を、この日レイアはまだ知らない。
だがこの瞬間、女神は彼女を見ていた。
泥に咲く白い花のように、あまりにも儚く、そして強い少女を。
その夜、屋敷は焼け落ちた。
誰かが放火したとも、神罰が下ったとも言われる。
翌朝、灰の中からひとりの少女が立ち上がった。
手には焦げたペンダント。
目には、涙ではなく、淡い炎の光。
かつて貴族の末裔だった少女はこの日、すべてを失い――そして、「復讐」を覚えた。




