西日の差す喫茶店にて-陽炎〈かげろう〉-
連日の猛暑で、コンクリートの街と道路はいまにも溶けてしまいそうだった。
テレビでは熱中症にお気をつけくださいというフレーズを、壊れたロボットのように繰り返している。
一方で、室内では絶えずクーラーの風にさらされ、気力も体力も萎えてしまっていた。
休日だというのに、暗いうちに目が覚めてしまい、枕元のスマートフォンを見ると時計はまだ3時を過ぎたところだった。いくらなんでも起きるにはまだ早いと目を瞑り、それからは夢と現を行ったり来たりしながら朝を迎えた。
身体中にぼんやりとした熱気を溜めたまま、気が付くといつもの喫茶店に向かっていた。
通りを歩いていると、わたしの前を行く、真っ白な長袖とズボンの制服に白い帽子をかぶった背の高いふたりの人影があった。
彼らがわたしと同じ喫茶店へ向かう角を曲がり、その姿が見えなくなると、どこからか湿気を含んだ生暖かい潮風が吹いてきたような気がした。
わたしもその角を曲がり路地へ入ると、ちょうどふたりが喫茶店へ入っていく姿が見えた。
「いらっしゃいませ」
カウンターでテーブルを拭いていたマスターが、いつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。
わたしはどの席へ座ろうかと店内を見回し、「あれ?」と思いながらもう一度見回してみたが、先ほど見たふたりの姿はどこにもなかった。
わたしは不思議に思いマスターに話しかけた。
「すみません。つい先ほど入ってきた方たちはどちらへ行かれたのですか?」
マスターは表情を崩さず、
「あなたさまが、今日はじめてのお客さまですよ」
と答えた。
そんなはずはないと、わたしが、
「さっき白い服を着た背の高いふたりの方たちがお店に入るのを見たのですが……」
と言うと、マスターは店内を見回しちょっと思案顔だったが、はっと何かを思い出すような表情をした。
「前にも同じことをおっしゃっていた方がいました。ま、立っているのもなんですから、お席へどうぞ」
わたしはマスターに促され、窓際は暑そうだったので、カウンターに近い席へ座った。
「コーヒーでよろしいですか? アイスにされますか?」
「ホットでお願いします」
わたしはこの夏はアイスコーヒーを飲むことが多くなっていたが、今日はなぜか熱いコーヒーを飲みたい気分だった。
マスターが言っていた通り、店内にはふたりの気配はまったくなかった。
「前にも同じことをおっしゃっていた方がいらっしゃいました」
カウンターの向こうからマスターが話しかけてきた。カウンターの上でコーヒー豆にお湯を注いでいた。
「どんな話ですか?」
「何年か前の話ですが、確か、白い制服を着た人たちが入っていく姿を見たとおっしゃっていました」
「どんな制服ですか?」
「真夏なのに、長袖の上下だったと言っていましたね」
「帽子はかぶっていましたか?」
「帽子、ですか? そうですね……わたしの記憶には帽子をかぶっている姿がイメージとして残っていますので、そうだったかもしれません。ちょうど今日みたいに夏のとても暑い日だったと思います」
「その方は他に何かおっしゃっていましたか?」
「特に何も……いえ、そう言えば、あれは軍服だとおっしゃっていましたね」
「ぐんぷくっていうと、戦争時代の軍服ですか?」
「ええ、そうです。陽炎のようだった、ともおっしゃっていましたね」
「陽炎ですか……」
「お顔はご覧になられましたか?」
彼らはどんな顔をしていたのだろうか。わたしはその姿を思い浮かべてみたが、どうしても思い出せなかった。それもそのはず、後ろ姿しか見ていなかったのだから、顔なんか分かるはずがなかった。それに、背が高かったから男の人だと勝手に決めつけていた。
「ひょっとしたら、わたしも陽炎を見ていたのかもしれません……」
実際に見たと思っていたから認めたくはなかったが、そう思うより仕方がなかった。
「戦争の時代にこのあたりで何があったのか、わたしはよく知りませんが、街なかを軍人さんが歩いているなんていうのは、見慣れた光景だったのかもしれませんね」
マスターはわたしのテーブルにコーヒーカップを置きながらそんなことを言った。
「それにしても、今日はお客さんがなかなかいらっしゃいませんね」
マスターは入口の方を振り返って言った。
「暑いからでしょうか」
わたしは言ってから、前回来たときは誰もないということはなかったが、今日以上に暑かったのではなかったかと思い出した。
「戦争の時代の話ついでに、わたしの知り合いのご婦人から伺った話なのですが……」
マスターはお盆を手に語り始めた。
「その方がまだ母親のお腹の中にいる時、お父様は兵隊として大陸の方へ出兵することになったそうなんです」
彼は窓の外を見ながら続けた。
「当時はまだなんとか手紙でやり取りができたそうで、そのご婦人が産まれたあとも、ご両親の間で交わされたいくつかの手紙が残っていたそうです。ご婦人の誕生をよろこぶ手紙、名前を決めたという手紙、元気に育っているかと成長を気遣う手紙、しかし、次に届いたのは、お父様の訃報だったそうです。そのご婦人には当然父親の記憶はなく、戦争当時ですので写真もなかったそうです。それで、それらの手紙が唯一の父親の証だとおっしゃっていました。ご婦人はそのうちの一通を形見としていつも持ち歩いているそうで、わたしも一度見せていただいたことがあります」
彼は難しそうな表情をしていたが、わたしと目が合うとふっと表情を緩めた。
「戦争が終わってしばらく経ちますし、わたしのまわりでもそんな話をする人はいませんでしたので、そんな話があるのかとすこしびっくりしたのですが、おそらく似たような話はたくさんあるのでしょうし、それに産まれた時が少し違うだけで、戦争は身近なものだったのだなと感じた思い出です。こんな話をしてしまって、すみません」
マスターは軽くお辞儀をしてカウンターへ戻ると、「音楽がまだでしたね」と言い、次いでいつか聴いたようなゆったりとした温かみのあるトランペットの音が流れてきた。
『誰も好き好んでそんな時代に産まれたかったわけではない』
マスターはそんなことを言いたかったのではないかとわたしは想像していた。
カランカランとドアが音を立てた。
ふと見ると、背の高い男の人がふたり、談笑しながら入ってきた。
「いらっしゃいませ」
ふたりは窓際の席に向かい、わたしは横を通り過ぎる彼らの顔をちらりと見たが、向こうはこちらを気にすることはなく、相変わらず談笑しながら席へ着いた。
マスターが注文を取りカウンターへ戻る時、わたしの方を見て目配せした。
わたしは思い出したようにコーヒーカップを持ち上げ、目を閉じてひとくち飲んだ。苦みの中にある軽い酸味が舌を刺激した。
わたしはゆっくりと目を開け、コーヒーカップを置いた。
窓際にいたふたりのシルエットは、白いカーテンと一緒にゆらゆらと揺れていた。