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黒い檻  作者: きてつれ
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第三章

月曜日。


 水野はここ一週間の記憶が曖昧だった。足の治療に行き、手も大分回復してきたものの、衝撃的な体験に鬱々とふさぎ込んでいた。心療内科への受診も、もうしばらくしていない。ただひたすらに死人のように怠惰に過ごしていた。


 神崎が逃げたことも監視カメラの映像から把握していたが、水野にとってもはやどうでもいいことだった。


 重力に負け、地面に伏している水野。髭の手入れもせず、髪の毛もぼさぼさのまま。天井を眺めては、時折あの老婆の気味の悪い笑顔が浮かぶ。それをかき消そうと、叫ぶ、塞ぐ、泣く。


 水野はぼんやりとした中で、不思議とお腹が空き、立ち上がった。


 冷蔵庫へとふらふら、ふらふらと歩いて、屈んだ。


 小さな冷蔵庫の中は肉でいっぱいだった。パックに入った肉、肉、肉、肉、肉、肉……。野菜はどこにもない。牛乳にジュース、お茶は側面の場所にある。


 水野はなんとなく『イチボ』と書かれたステーキ肉を取り出して、キッチンに持って行った。


 フライパンを取り出し、軽く水で洗ってから、水気をキッチンペーパーでふき取る。コンロの上に置き、油を適量入れる。


 火を入れ、フライパンに十分熱が通ったら、パックから肉を取り出して焼き始めた。


 じゅうじゅう、ぱちぱちと油が飛び散りながら、焼いていく。片面に焼き色が付き、裏返す。


 水野は虚ろな目のまま焼き色のついた肉を見つめる。


 もう片面も焼けたことを確認して、皿にのせた。


 水野はそのほかの白米や汁などを一切用意せずに、ただ肉の乗った皿をテーブルまで運び、そっと置いた。キッチンの棚からナイフとフォークを取り出して、皿の横に並べる。


 水野はしばらくじっと見つめていた。じっと。じぃっと。焼き色はついている。立ち昇る香りを水野は嗅ぐも、全くにおいを感じなかった。


 水野はまたじっと肉を見つめた。


「これは何の肉だ? 松下」


 空へと水野は言った。何の返事も返ってこない。


「そうか。これはイチボだったか。尻の方だったか? 尻? まぁいい。松下、お前もしっかり食え」


 水野はそういうとナイフとフォークを持ち、右から肉を切り始めた。一通り全てを切り終えて、水野は再び肉を見つめる。


 中の赤みが見えている。肉汁が溢れだしている。真っ赤な肉。


 水野は右手にフォークを持ち替えて、右端の肉を刺した。それを口へと運び、食べる。


 にっちゃにっちゃと咀嚼する。やわらかい食感だが、しかし味がない。肉の匂いもしない。水野は何を食べているのかさえ、分からないままに口を上下に動かしている。


 肉。肉。肉。…………人肉。


 水野はあの洞窟の老婆が人を食べている瞬間を思い出して、急に吐き気に襲われる。胃が急に上へと動き、水野はトイレに駆け込む前に、嘔吐した。


「おえぇぇええぇぇぇ……………。ぅおぇぇぇぇ…………」


 吐瀉物を見て、更に嘔吐する。止まらずに胃酸が吐き出される。口の中でぐちゃぐちゃにされた肉の塊だけが、固形物として吐瀉物の中にあった。


「松下。肉を食うな。あれは人肉だ。見ただろ、あいつらは俺らを家畜のように喰う。俺たちは捕食者なんだ」


 胃酸に焼かれた独り言が部屋に響く。


 水野はしばらく蹲り、つんとしたにおいを嗅ぎ取れるようになってから、雑巾を持ってきて吐瀉物の処理を始めた。


「薬剤の味がしたんや。ほんままずかったわ」


「うるさい」


 そして掃除を終えた後、冷めたステーキを持って、ゴミ箱へ捨てる。調理場に置かれていたパックも同様にゴミ箱に捨てた。


 そのパックには『イチボ 緑 200g』と書かれてあった。


 水野は重力に負け、また天井を眺めた。そしてまた眠った。



 月曜日。


 水野はここ一週間の記憶が曖昧だった。足の治療に行き、手も大分回復してきたものの、衝撃的な体験に鬱々とふさぎ込んでいた。心療内科への受診も、もうしばらくしていない。ただひたすらに死人のように怠惰に過ごしていた。


 水野は椅子に座り、ひたすらテーブルに置かれた箸箱を見ていた。ひたすらに。ずっと。時間も気にせずに。何本も入っている箸やスプーン。テーブルクロスは幾何学模様が描かれている。そこに猫。寝ころんだり、伸びたり、丸まったり、シッポを立てたり。絵の中でも自由気ままに。


 水野はよだれが垂れていることに気づいた。そして自分のお腹が空いていることにも気づく。


 重い肩を丸め、猫背になりながらふらふらと歩く。


 冷蔵庫の前で屈み、扉を開ける。


 冷蔵庫の中は肉ばかりだった。パックに入った肉、肉、肉、肉、肉…………。野菜は玉ねぎがあった。パン粉にバター、牛乳も揃っている。ケチャップも何故か牛乳の隣にあった。


 水野は素材を一つずつキッチンに持って行った。


 調理場に素材を並べ、まな板を持ってくる。三種類もある包丁の内、一番手になじんだものを持つ。


 玉ねぎの皮をむき、ゴミ箱へ捨てる。剥いた玉ねぎを細かいみじん切りにする。


 フライパンに油を多めにひいて、熱する。ある程度まで熱したのちに刻んだ玉ねぎを入れ、塩も入れる。


 水を少しだけ加えて、玉ねぎ全体に火を通しつつ、焦げそうになったら水を加え、玉ねぎがきつね色になるまで炒めた。


 粗熱を取っている間、水野は『モモ』と書かれた肉を取り出して、別のまな板に置く。


 肉を薄めにそぎ落として、それを細かく切り分け、疑似的な挽き肉をつくる。


 ボウルにその挽き肉を入れ、玉ねぎを加える。牛乳、パン粉、塩、コショウを適量加えて、混ぜ合わせる。


 ある程度混ぜたのちに空気を抜く作業をしてから、形を整える。水野は一つの大きなハンバーグの種を見つめる。


 熱したフライパンで焼く。焼き色がついてから裏返し、蓋をして十分くらい待った。


 水野は虚ろな目で焼き上がるのをじっと見つめていた。


 タイマーが鳴り、焼けているのを確認して、アルミホイルで包んだ。


 フライパンにバターを入れ、ケチャップを混ぜる。ピチピチとケチャップが跳ねてくるのを全く気にせずに、水野は一通り混ぜる。


 アルミホイルからハンバーグを出して、皿にのせ、ソースをかける。


 水野は白米も汁も一切用意せずに、テーブルにその皿を置いた。席に着き、箸箱に手を伸ばし、箸を取った。


 深みのある赤色のソースとともに立ち上ってくる香り。水野は何もにおいがしなかった。


 水野はまたじっとハンバーグを見つめた。


「松下。ハンバーグだ。合い挽き肉だろうか?」


 空へと水野は言った。もちろん、何の返事も返ってこない。


「そうか? 俺は十割の方が肉らしくて好きだが。蕎麦も十割のほうが圧倒的においしい。…………それとこれとは別だ? それもそうだ」


 水野はそういうと箸を持ち、ハンバーグを真ん中で割った。肉汁があふれ出てくる。角を一口サイズにして、口へと運ぶ。


 もぐもぐと咀嚼する。しかし、味がしなかった。水野はぼーっとしながら口を上下に動かしている。


 なんの肉かもわからずに、二口、三口とハンバーグを口へ入れて、食べる。


 人肉。肉。肉。人肉。


 水野はあの工場にあった加工された肉や死体、あの蜘蛛老婆のそばにあった死体のその腹から出た腸が想起されて、次第次第に吐き気が催してくる。気持ち悪さが最高点に達し、吐瀉物が喉元まで上ってきていた。トイレへと歩き出そうと、席を立った時に、一気に決壊し、水野はその場で嘔吐した。


「ぅおえぇえーー」


 何色とも取れない吐瀉物が霞む視界の中、克明に映り、更に吐き気を催す。止まらず胃酸を吐き出した。


「おえぇぇぇぇえ………」


 ハンバーグがミンチに戻ったようにバラバラとなった肉片が、吐瀉物の中にボロボロと転がっている。


「松下。生焼けだ。喰うなよ。病気にかかるかもしれない。それに……」


 水野は回収した瑞希の陰茎を思い返し、更に吐き散らした。


 ポツリ、ポツリと手から滴る胃酸や唾液などの混合液がしたたり落ちる。水野はしばらくじっとしてその様子を見ていた。つんとした酸のにおいも感じ取れず、口の中にある吐き出したくなる味もせず、何も感じないまま。


 そうして一時間ほどが経ち、水野はようやく片づけを始める。雑巾を持ってきて、服を着替えて、手を洗い、口を濯ぐ。冷たくなったハンバーグを皿ごとゴミ箱に捨てる。


「本当にうれしそうな顔で『ありがとう』って、それで、いっぱい食べてくれて」


「うるさい、うるさい。あいつは、あいつは……死んでねーだろうが」


 水野は調理場に置かれたパックを捨てる。


 パックには『モモ肉 瑞希 200g』と書かれてあった。


 水野は椅子に座り、再び箸箱を見つめる。足を組んで、頬杖をついて。



 月曜日。


 水野はここ一週間の記憶が曖昧だった。足はほぼ完治し、手は以前と大差ない。が、衝撃的な体験に鬱々とふさぎ込んでいた。心療内科への受診も、もうしばらくしていない。ただひたすらに死人のように怠惰に過ごしていた。


 水野はソファに寝そべっていた。寝そべり真っ黒なテレビ画面を見ている。何にも映っていないのに、笑みを浮かべたり、悲しみの表情を浮かべたり。真っ黒の画面には水野自身が反射していた。


 水野はふと我に返り、空腹であることに気づいた。


 けだるそうにのしのしと歩く。


 冷蔵庫の前でしゃがみ、扉を開ける。


 冷蔵庫の中は肉で占めていた。パックに入った肉、肉、肉、肉…………。十二パックの卵があった。牛乳は切れているが、ケチャップはまだあった。


 水野は卵を二つ、真空パックの『腸詰』を取って、キッチンに持って行った。


 フライパンを出し、油を少量注ぎ、火を入れる。コンロにチッチッチッという音の間隔がほんの僅か長く聞こえ、もうじき電池が切れそうだった。


 フライパンが十分に熱くなった頃合いで、フライパン全体に油を馴染ませ、そこへ卵を落とす。殻はそのままゴミ箱へ捨てる。


 ジュウゥゥゥと卵が熱される音とパチッパチッと油が跳ねる音の中、真空パックからソーセージをフライパンの真ん中に入れる。


 フライ返しを使って、卵とソーセージの領域を分ける。


 水野は無表情のままぱちぱちと跳ねるのを見つめる。


 ソーセージの方は時折転がして、火を入れる。卵は裏返して、黄身が固まらない程度に焼いてから、皿に上げる。


 ソーセージに火が通ったのを確認し、皿に無造作に乗せる。


 水野はいつものことながら白米も汁も、パンさえも用意せずにテーブルにその皿に置いた。椅子に座り、箸をとる。


 一般家庭の朝食の一部のような感じになった。水野はすこし眉を顰めて、香りを嗅ぐも何もにおわない。


 水野はじっと卵とソーセージを見つめた。


「松下。お歳暮のソーセージを焼いたんだ。ハムでも良かったんだが、ソーセージもいいな。塩分は多いし、癌のリスクが上がる? そんなの気にして喰ってるのか? 人生損するぜ」


 空に向かって水野は会話を始めた。誰もいないのに。返事は何もなかった。


「朝食はパン派かご飯派のどっちだ、松下。…………食わない? しっかり食べないと体がもたないぞ? ……太ってるのは今、関係ないだろ」


 水野はそういうと箸を持って、卵から食べ始める。半熟の黄身に白身の部分をつけて口に入れる。卵は二つともささっと食べ終えた。しかし、何の味もしなかった。


 ソーセージの方を食べる。パリッと一口食べる。口の中で肉汁が溢れた。もぐもぐと食べ進め、一本、二本と食べ進めていく。


 肉の腸詰。人肉の腸詰。小腸。幼子の。


 突如として水野は猛烈な吐き気に襲われる。


「ぅおえ」


 今食べたソーセージを吐き出した。ボトリ、ボトリとソーセージの残骸が床に転がる。激しい動悸が水野を襲う。めまいもして、世界が揺れる。


「ぅぉ、ぅおえええぇぇぇぇ…………」


 手を口に当て押さえても、ゲロがその隙間から漏れ出てきた。思わず、吐き出した。ポタポタと手から滴り落ちる。


 水野にはその吐瀉物が血に見えた。血濡れた手、そしてその床に転がるのはあの少女の死体。首辺りから血がだらだらと流れ出ている。裸に剥かれ、服はその辺に捨てられている。何よりも絶望に満ちた、光を失った目と表情。


「ああ、これは僕がやったんだ……」


 どうしようもなく水野は興奮して、勃起していた。吐瀉まみれの手で服上から軽く擦る。


「あぁ、気持ちいいや。ね、水野さん」


 水野はそう言って、ニヤリと笑った。


 つんとしたにおいが水野を現実に戻す。ふと無表情に戻り、水野は何事もなかったように後片付けを始める。服を脱ぎ、雑巾を持ってきて、散らかった床を拭く。口を濯ぎ、手を洗ってから、服を着る。陰茎のようなソーセージをそのままゴミ箱へと捨てる。


「その子が気にいったん? 自分勃起しとるんちゃうん? ええ趣味持ってはるなぁ。……気持ち、分かるで?」


「あぁ、うるさいな。お前には関係ないだろ」


 水野は調理場にあったパックを捨てる。


 パックには『腸詰 薔薇色 200g/4本』と書かれている。


 水野はソファに寝転がり、テレビを見る。真っ黒な画面を見ながら、口角を上げて。



 月曜日。


 水野はここ一週間の記憶が曖昧だった。足はほぼ完治し、手は以前と大差ない。が、衝撃的な体験に鬱々とふさぎ込んでいた。心療内科への受診も、もうしばらくしていない。ただひたすらに死人のように怠惰に過ごしていた。


 水野は子供の部屋のベッドで眠っていた。明かりを消し、目を閉じて、胎児のように丸まって。扉は開いており廊下の電気が差し込んでいる。桃色を基調としたぬいぐるみが水野を睨んでいた。


 水野は空腹により目を開ける。目をぱちぱちとさせ、大きく背伸びをする。


 四つん這いになりながら、のそのそと動く。


 冷蔵庫の前で座り込み、扉を開ける。


 冷蔵庫の中は肉がたくさんあった。パックに入った肉、肉、肉…………。他には特に見当たない。


 水野は『リブ』と書かれた真空パックを手に取り、キッチンへ向かった。


 オーブンレンジ用の角皿を取り出して、その上に『リブ』を並べる。骨を平行にそろえ、三枚。かなり多めの脂身が見える。塩と胡椒を振る。


 オーブンレンジに角皿を入れ、操作してスイッチを入れる。


 ブオォォーンという鈍い音とともに『リブ』が過熱されていく。


 水野はオーブンレンジの前に座って、じっと見つめている。二十数分という文字を見ながら、うとうととして水野はそっと目を閉じた。


 ピィーピィーというオーブンレンジの鳴き声に起こされ、水野はミットを装備して、開ける。


 熱風と共に煙がキッチンに立ち上った。水野は角皿を取り出し、調理場に置く。角皿は『リブ』から出た油で満たされている。


 水野は大きめの皿三つに『リブ』をそれぞれ乗せた。それを一つずつテーブルの各椅子の前に置く。一つ足らなかったが、水野は気にすることなく自分の席に着いた。


 水野はじっと皿の置かれていない空席を見つめている。


「松下。こういう料理は食べたことないのか? よくテーマパークとかでも売ってるぞ? …………行かない? はぁ、彼女くらい作っていって来いよ。金なら出してやらんこともない」


 水野はまっすぐ空を見つめて話しかけた。誰もいないテーブル。返事は勿論なかった。しんと静まりかえる。


「お前も勉強ばかりしてないで、たまには遊んでもいいんだぞ?」


 水野はそういって骨を掴み、ぎっとりとついた脂身にかぶりついた。ジュワッと汁が溢れてくる。頑張って噛み千切る。ねちねちとして、脂っぽい感じが口の中を支配する。しかし、何の味もしない。


 水野はあの蜘蛛老婆の隣にあった廣瀬ともう一人の女の死体を思い出して、涙が出ると同時に、猛烈な吐き気が込み上げてきた。肌の露出した死体。関節が可笑しな方向へと曲げられ、腸がむき出し。一方は下半身がなく、胸が片方食べられていた。食べられて、いた。


「うっ、うぉっ、おぇぇぇぇ……」


 皿の上に胃酸は吐き散らす。白い脂身もそこにあった。頭痛が水野を襲う。


「おえぇぇ、おぇぇぇ」


 出もしない胃酸を吐こうと胃が動く。


 胃酸まみれの『リブ』を水野は見つめている。涙と唾液がポツリポツリと皿に零れる。


 水野にはそのリブの外側にある突起物が、乳首のように見えた。更に吐き気が増していく。水野は手で口を拭いた。


 深くため息をついて、胃が治まるのを待った。待っている間水野は、ただ空席を見つめていた。


 雑巾を持ってきて床やテーブルを拭いた。口を濯ぎ、手を洗ってから、ズボンを脱ぎ、新しいのと取り換える。『リブ』は一つずつゴミ箱へと投げ捨てた。


「○○なんかはよく胸を見られるって。私のよりもずっと大きいので、そういうことを聞きますよ?」


「大きいから良いってもんでもないだろ…………」


「僕は大きいのが好きですよ?」


「……うるさいんだよ! ……誰だよ、お前」


 皿を洗い場に置く。調理場のパックを思い切り、ゴミ箱へと投げつける。


 パックには『リブ 美鈴 500g』と書かれてあった。


 水野はスタスタと子供部屋へと戻り、電気もつけずにベッドに転がった。そして勉強机の方を見ながら、ゆっくりと目を閉じた。机の上には通学用の決められたカバンがあった。



 月曜日。


 水野はここ最近の記憶がなかった。足を怪我したことも、手に包帯を巻いていたことももはや覚えていない。が、夢か現か判別の付かない衝撃的な体験の情景ばかりが脳裏に浮かび、鬱々と心を蝕んでいた。心療内科への受診も、精神科への受診も、考えにない。ただ、呆然と死人も同然に動かなかった。


 水野はやせ細っていた。以前はやや太り気味だった体重も今や見る影もない。風呂に入ることも無くなり、体臭がきつく、肌も荒れていた。


 水野は玄関で三角座りをしていた。靴箱の前には靴は五足あった。水野はその中のローファーが怖くて仕方なかった。ずっと睨みつけている。


 水野は空腹に気づき、立ち上がった。そのローファーを見ながら後ずさりし、廊下を早歩きする。トイレの扉が半開きだった。二階への階段は真っ暗だった。


 冷蔵庫の前に立ち、扉を開ける。


 冷蔵庫の中には肉があった。パックに入った肉、肉…………。他の具材は見当たらない。牛乳も空っぽだった。


 水野は『肝臓』と書かれた真空パックを取って、キッチンに向かう。


 キッチンにある大きな冷蔵庫の中を見てみるも空っぽだった。水野は部屋の中にあった観葉植物を適当に千切り獲った。


 まな板、包丁を取り出して、『肝臓』、観葉植物の葉と茎を適当な大きさに切った。


 水野は特に何も考えず、フライパンに油をひき、火を入れた。肝臓を下処理もせず、フライパンへと放り込んだ。


 じゅうじゅうとしっかり焼き色が付くまで『肝臓』を加熱する。


 水野は虚ろな目のままその『肝臓』を見つめた。


 ある程度火が通った頃合いで観葉植物を入れ、混ぜ合わせる。近くにあった醤油とオイスターソースを適当に入れて、よく混ぜた。


 全体に火が通ったのを確認して、皿に乗せる。レバニラのような何かができた。それをテーブルの自分の席の前に置く。そして、箸を取ってから席に着いた。


 水野はじっとレバニラのような何かを見つめている。


「松下……。これはなんだ? レバーみたいだが、この野菜はなんだ。気味の悪い色をしている。……松下?」


 水野は空を見つめる。誰もいない。返事もない。


「あの子は可愛らしいな。愛想もあっていい。お前も少しは愛想の練習をしておけ」


 水野はそういってレバーを一つ、箸で摘まんで口へと運んだ。しっとりとした食感にやや弾力がある。血の味やら臭みなど含め味やにおいは、水野には一切感じられなかった。


「おえぇ……」


 水野はどろどろのレバーを吐き出した。皿の上からまだ食べられたレバニラ擬きをコーティングする。


 更なる吐き気が水野を襲う。廣瀬のニコッと笑った顔が脳裏から離れない。廊下で頭から血を流して倒れている姿も。


 水野は咄嗟に振り返る。誰もいない。吐き気がして急いでトイレへと駆け込もうと廊下と居間を遮る扉の前で、嘔吐した。


「ぅおえぇぇっ」


 びちゃびちゃと床が濡れる。


 息が絶え絶えになって、涙が溢れてくる。


 水野は何故涙が出てくるのか、全く理解できずにいた。そしてただ、そのぼやけた吐瀉物を眺めて続けた。


 気持ちが沈んでから、雑巾を持ってきて床を拭き始めた。レバニラ擬きと吐瀉物のソースが乗った皿をそのままゴミ箱に捨てた。


「はー、暖かい。ふふ、なんだか気が緩んできちゃいました」


 水野は幻聴に惑わされて、辺りを見回す。


「廣瀬きいろ? きいろ? どこにいるんだ? きいろ?」


 調理場にあるパックを取って、ゴミ箱へと投げ入れた。


 パックには『肝臓 廣瀬きいろ 100g』とあった。


 水野はまた玄関前で座り込む。電気も点けず、暗闇の中の並んだ五足の靴を見つめながら。二足のローファー。



 月曜日?


 水野は支離滅裂な記憶に苦しんでいた。足を食べて、手も食べた。肝臓も、小腸も、ステーキも、ミンチも、人のあらゆる部位を食べた気がした。水野が特段怖がっていた蜘蛛老婆も、存在していないものとして、いいやむしろあの場にいたのは水野自身で、水野があの女子高生二人を食べたものだと、認識していた。


 水野は鍋が食べたくなって、具材を用意した。色々な野菜らしきものを持ち、コンロに鍋を乗せる。


 出汁に具材を入れ込む。そして冷蔵庫から取り出した。肉。


 真空パックには『ハツ』、『シマチョウ』、『タン』とそれぞれ書かれていた。


 『ハツ』、『シマチョウ』は鍋に入れた。『タン』はフライパンで焼き色をつけた。


 水野はビールを開けて、ぐびぐびと飲んだ。鍋に火が通ると、立ったまま箸でつつく。『タン』も皿には乗せず、フライパンの中からそのまま取って、口に入れた。


 なんの味もしないのにもかかわらず水野はおいしそうに食べていた。


「私はおいしい?」


 水野は亡霊の声が聞こえて、背筋が冷やりと凍った。


 持っていたビール缶を落とす。その場で蹲り、水野は泣き出した。


「違うっ、違うんだ! あれ、俺はなんで泣いているんだっけ? 違う! 俺は君を、君が大好きだから、食べたいくらい好きだったんだ。だから、だから…………。でも、これは俺じゃない。俺は食べたいだなんて……思ったこともない。本当なんだ……。信じてくれ。俺は……」


「私たちはおいしかった?」


「嫌だっ! 嫌だ! やめてくれ。もう、本当に、やめてくれ。やめてください。お願いです。もう誰も何も、言わないでください。お願いします。お願いします。お願いします…………」


「私たちはおいしかった?」


 亡霊たちが水野を睨む。水野はひたすらに蹲っていた。耳を塞ぎ、目を瞑り、口もぎゅっと閉じて。


 そして水野は気を失った。


    ◇


 インターホンの音がした。水野は呪われたような表情で、ゆったりゆったりと玄関へ向かう。途中、足に何かが引っかかって転んでも。


 玄関の扉を開けると、そこには山南がいた。至って普通の服装で、軽く笑みを浮かべ、水野を見る。水野はその様子に冷やりと汗をかき、逃げたい衝動に駆られていた。


「最近、連絡もなく、街で見かけることもなくったので、会いに来ました」


「ぁあ、そぅでしたね」


 水野は目が泳いで、声も裏返っていた。山南はそんな水野の、不精髭を生やし、臭いもきつく、服もボロボロ、な姿を見て、優しく言った。


「どうです? 気晴らしに喫茶店でも。散歩代わりになって、運動もできますよ? 行きますよね?」


「ぁあぁ、そぅします」


 水野はそのまま鍵もかけず、山南の後ろをついていく。サンダルを履き、トボトボと歩きながら。


「今日はいい天気ですね。いい散歩日和という奴ですね。枯れた木たちも綺麗ですよ?」


「あぁあ、あ、そ、ですね」


「街に出るのはいつぶりですか? 私の後ろを歩いているとはいえ、ひどいにおいです」


「わ、わかんない」


「それに見てください。みんなが、みんながあなたを見ていますよ? 変わり者のあなたを。嬉しそうですね?」


「ああぁぁ、はぃ」


 山南は水野の方を一切見ずに、街から少し外れた場所へと進む。


「ほら、交差点ですよ。水野さん。あと一歩、大きく一歩、踏み外せば、死ねますよ? ほら、飛び込まないんですか? ここは直進する人が多いのに」


「ぇえあ? いや、いや、いや」


「死にたくはないですものね? 生物ですから。なら、こちらへおいで?」


 山南は横断歩道の向こうへとささっとわたり、手を叩いて水野を呼んだ。


 信号が赤に変わるも、水野はまだ横断歩道の途中だった。


「ほら、そのまま止まっていても死ねませんよ? ほら、ほらおいで」


 水野は言われるままに山南の元へと歩いた。


「はーい。よくできました。さて、青山智和さん。お前は、『水野秀和』だ。……さて、水野さん。警察署へ行きましょうか?」


「……え、ああ。はい、山南さん。行きましょう?」


 そういうと山南は水野を連れて、警察署へ入り、水野を自首させた。


四章へ続く。

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