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黒い檻  作者: きてつれ
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第二章

長めです。

「それで何もしゃべらない、か……。困ったな。連れてきたときは活きがよかったんだがな。二日も経てば、元気もなくなるか」


「そうですね。自分が言っても特に反応しなくなりましたから。情報もこれ以上は得られそうにありませんね」


 水野は口に手を当てて考えている。松下は気楽そうに水を飲んでいた。


「もう一度、あの工場に行ってみます? まだ何かあるかもしれません。自分もあまり探せていなかったので……」


 唸る水野。松下の目を見つめて、逸らし、また見つめた。


「逃げた宮地はどこへ行った?」


 松下は気まずそうに小さな声で言う。


「それがS県との県境でして……。そこらへんには山しかないですね。おそらく気づいて捨てた可能性が高いと思います」


 紛らわすように松下はサンドイッチを口に頬張った。もぐもぐと口を動かしている。


「あるいは殺されて捨てられた、か。どちらにしろ、そこへ行ってみないといけない」


「マジですか。絶対何にもないと思いますよ」


 水野は深くため息をついた。松下は下を向き、「すみません、すみません」と何度も謝った。


「はぁ、謝る暇があるなら、とっとと聞き込みにでも行ってこい!」


 松下は残りのサンドイッチを持って、そそくさと部屋から出ていった。水野はスマホに保存した殺害状況と出荷状況のメモを見返し、少し悩んだ後、カップに入れたコーヒーを飲み干した。そして聞き込みに出かけた。


 水野は山南の元を訪ねようと街中を歩いていた。山南からもらったとある写真を見つめている。すると偶然にもその写真に写った男が水野の目の前を通った。水野は慌てて声をかける。


「すみません。少し尋ねたいことがありまして」


「えっ。俺ですか? 何です?」


 水野は写真を見せて、「これはあなたですよね」と聞いた。その男は「えぇ、まぁ」と怪訝そうな顔をする。水野は警察手帳を出して、素性を明らかにしつつゆっくり話し始めた。


「瑞希さんの彼氏さんですね。突然、申し訳ありません。とある事件がありまして、その調査のために聞き込みをしているんです。どうか、ご協力お願いします」


 男は水野の姿を一度まじまじと見つめ、不安そうな声で言う。


「……瑞希がなにか事件に巻き込まれたんですか? 一昨日から連絡がつかなくて」


「直接話す前に、まずはあなたのお名前を確認してもよろしいですか?」


「赤井です。赤井弘樹です。それで瑞希になにがあったんですか?」


「申し上げにくのですが、瑞希さんはお亡くなりになられました。猟奇的な事件に巻き込まれてしまって」


 赤井は絶句した。目を泳がせて、あからさまな動揺が出ていた。


「えっと、悪い冗談ですよね? 一昨日までいつも通り学校に来て、話していたんですよ?」


「信じられないでしょうが事実です。ここでの立ち話も体が冷えますから、近くのファミレスにでも入りましょうか?」


「…………ええ、とりあえずは、そうします」


 二人は黙りながら近くのファミレスへ入った。昼のピークが過ぎ、店内はちらほらとしか客はいない。二人は窓ガラスから往来がよく見える端のテーブル席へ案内されて、座った。


 水野がタブレットでコーヒーや軽くつまめるものを頼んでいる。赤井は特に何かを頼むわけでもなく、じっと下を向いていた。


「注文しないんですか? 一応、奢りますよ?」


「あっ、いえ、大丈夫です。……あぁ一応、ジュース、頼んでもいいですか?」


 赤井はタブレットで炭酸ジュースを頼んだ。二人は飲み物が来るまでは特に何も話さないままだった。店員が飲み物を持ってきて、両者とも一口、二口と含み、十分に口内に水分が行き渡ったところで、赤井がまず尋ねた。


「それで、本当なんですか。瑞希が死んだって。事故じゃないんですよね」


「ええ、詳しい状況を言えませんが、亡くなったことは間違いないです。それも何かの事故などではなく、明らかな事件に巻きまれた。これは人間社会における闇の一つでしょう」


 赤井は滲み出た額の汗を手で拭き、ジュースを飲む。


「人間社会の闇、ですか? その、言いにくいのですが、人身売買とかあるいは強盗殺人とか何でしょうか?」


「人身売買、まぁ、言ってしまえばそういう側面もありますね。ただ、一般には軽いもので、いいえ、軽いものなどでは決してないのですが、売春がそれに当てはまります。よく一般にイメージされるのが、臓器の売買でしょうけれど」


 赤井は言葉を失った。じっと水野を見つめ、水野の言った言葉の意味を推測して出た自分の結論を受け入れられない様子であった。水野は淡々と続けて言う。


「率直に言うと、人身売買の中でも極めて異端、異様で猟奇的な人肉を食べるほうです。ただ、これは信じがたいものでしょうから、聞き流してください。上の人間の考えることなど、一人間が分かるはずもありませんから」


「食べる? 食べるって、食べるですよね? 人が牛とか豚とかを殺して、食べる、それですよね? えっ? 人が人を食べる? なんで? なんの意味があって? ええと、意味がわかりません」


 赤井は戸惑った様子で意味も分からず笑みを溢していた。


「まぁ、そういう反応をするでしょうね。一人の人間による殺人で、その殺害に明確な動機があれば、そいつに対し憎悪を向けることができる。ただ、その動機が人知を超えたようなものだった場合は、その限りではない。まして、人肉を食す人間など考えたくもない。それなら恨みを持って殺してくれた方がマシだ、といった倒錯が起こるほどに」


「えっ? いや意味がわかりません。なんで瑞希なんですか? 瑞希が一体何をして、そんなとち狂ったことをされなきゃならないんですか? というか、それ、本当なんですか? 悪い冗談とかじゃ許しませんよ」


 赤井は明らかに動揺して、口に手を当ててブツブツと呟いている。


「本当です。この目で見ましたから。瑞希さんがバラバラの死体になっていたところを。他の人もそうです。瑞希さん以外にも、悲惨な目にあっている人がいました」


「でも、ニュースにはなっていない。こんな猟奇的な事件、マスコミが喰いつかないはずがない。視聴率がとれるから。……お前は嘘を言っているな」


「それはそうですよ。だって、喰う人間が一般人な訳ないじゃないですか。あり余るほどの金や権力、地位がある人間がそれを買って、食べている。警察の上層部だって、従うほかない。いいや、もしかすると同じように食べているのかも。だからこそ、こうやって違法であっても、俺が本来なら行方不明として扱われる人間をその死に様を明らかにしている。俺が奴らを潰すために」


「あんた頭おかしんじゃないのか。警察なら上司に報告しろよ。どんな事件でも違法なことしてまで、なんで隠すんだよ」


 水野は深くため息をつく。


「だから言っているでしょう。上に報告すれば、それだけでも揉み消される可能性がある、と。確実に確固たる証拠を集め、それを以て裁く。その使命に俺は従っているだけだ」


「証拠はないんだよな。それじゃあ、ただのお前の妄言だ。瑞希は生きている。話はもう終わりですね。じゃあ、これで――」


「世界のどこを探しても瑞希さんはもういませんよ。現実を今すぐに受け入れろとは言いませんが、この世界が残酷なことに変わりないですよ。捜査に協力してくだされば、瑞希さんの魂も浄化されるでしょうに」


 水野はコーヒーをすする。赤井は立ち止まり、大きく息をついてから再び席に着いた。


「……瑞希のことを語らないでほしいものですね。水野さん」


 赤井は水野を睨みつける。水野は何事もないようにコーヒーを飲んでいる。


「一応、男同士ですよね? 写真では確かに可愛らしい女の子には見えますが、胸はないが、喉は出ている」


「悪いですか? 俺は瑞希を愛している。昨今の活動とかで変なイメージを持たないでください。慎ましく愛し合っているだけなので」


「愛し合う、か。……異常性癖。あいつも確か……」


 赤井は目を見開いて、大きな声で言った。


「人のことをそんな風に言うのはやめてください!」


「声が大きいな……」


「……すみません。ですが、そんな変人みたいな言い方はないでしょう」


 水野はコーヒーを飲み干して、赤井と目を合わせる。


「別にあなたのことではないですよ。ところで、瑞希さんと性交したことはありますか? 捜査したときの情報なのですが、その、死体をバラす人間が男女問わずに疑似的な、いいえ、死姦ですね、まぁ死体と性交していたわけなんですけれども……というかしていましたね、それで、そのなんでするんですかね? ……ごめんなさい。上手く言い表せないんですが、単純な疑問でして」


 赤井は気味悪さを感じてか、顔が引きつっていた。


「えっと、まぁ、あるにはありますけれど、そんな犯罪者の心境なんて知りませんよ。何なんですか。聞き込みとかをしたいんじゃないんですか?」


「あぁ、すみません。話が逸れてしまいましたね。それで、最近、瑞希さんの周りで気になった事とかありませんか?」


 赤井は下を向き、ジュースを見つめている。そして顔を上げてゆっくりと話し始めた。


「そういえば、瑞希の父親の様子がおかしいって、瑞希から聞いたことがあります。精神的に参っていて、時々変なスイッチが入ったように豹変して暴れ出すとか、天命が云々と言って家を飛び出したりするとか、収まったと思ったら部屋の隅で固まっているだとか、そんな感じのことを聞きました。その、言うのはアレなんですけど、瑞希を殺して売ったのって父親なんじゃないんですか?」


「……現時点では分かりません。そもそも殺して売ったのかさえ、分からない状況です。奴らがどこから仕入れて、どこへ運ぶのかも、何のために、誰が欲してなのか、全てが分からない。ただ、それでもはっきりしているのは、人がどこかで殺され、いなくなっていること。それで、他にはありませんか? 些細なことでもなんでもいいです。瑞希さんについて」


 赤井は腕を組んで悩みだす。脳内で瑞希との会話や情景を思い出しながら、その中での違和感を探している。それを見つめる水野。しばらく二人の間に沈黙が流れる。水野はそっとやさしく聞いた。


「例えばですけど、瑞希さんって普段はどういう服を着ているとか、どういう話が好きだとか、好きな食べ物は何かとか、そういう他愛のない話をしてくれても構いませんよ。意外なところにヒントがあるものですから」


「……そうですね、どういう服を着ているか、と言われるとあまりスカートは履きたがらないですね。短パンだとか、ニーハイとかと一緒に好んで履いているし、服もシックな感じで見ていてお洒落だなーって。やっぱりメイクにはこだわりがあるなって思いますね。男なんでよくわかんないんですけど、素顔も端正で綺麗だと思うんですけど、って、そっかもう会えないのか……」


 声が震え出して、涙が零れそうになる赤井に、「なんか、すみませんね」と謝る水野。声を震わせながらも赤井は続けて言う。


「ハンバーグが好きって話してて、ミンチを使った料理が基本的に好きだって。僕は普段あんまり料理しないんですけど、頑張って作った時は、本当にうれしそうな顔で『ありがとう』って、それで、いっぱい食べてくれて、それで…………なんで、瑞希なんですか。瑞希が何をしたって言うんですか。男性同士だから? こんなことが起こる世界なんておかしいです。……ホント、狂ってる」


 赤井は涙を流して、拳を握りしめている。


「たった一パーセントにも満たない確率の更にその一パーセントの確率で巻き込まれたのが、瑞希さんだったんです。おかしな世界ですよね。そこらを歩く人にも平等に当てはまりうるのに、なぜか瑞希さんが選ばれた。何かの意志でもあるのでしょうか」


「それで捜査の方は順調に進んでいるんですか? 瑞希を殺した奴、売った奴、全員を捕まえてください。そいつら犯罪者がこの世にいるなんて、到底納得できない」


「それには同感です。……けれど、『閉じていた黒い檻』が壊れたんでしょうね」


「へ? どういう意味です?」


「いえ、なんでもありませ――」


 水野がふと外を見ると、往来を行く山南と目があった。山南は軽く会釈すると、そのままファミレスの中に入ってきた。


「水野さん。探しましたよ。私に連絡だけ入れて何をされているんですか?」


「あぁ、すみません。聞き込みをしていまして、こちらが瑞希さんの彼氏の赤井弘樹さんです」


 赤井は「どうも」と涙を拭いて、素っ気なく頭を下げる。山南も「あぁ、こちらも瑞希がお世話になっています」とよそよそしく返事をした。山南は水野の隣の席に座った。その時丁度、水野が頼んだフライドポテトが来た。水野は自分の方へと少し近づける。


 赤井は山南の顔を見るなり、じっと固まり、首を傾げて尋ねた。


「あの、すみません。山南さんでしたよね。自分、K大学の生徒なんですが、山南さんはK大学で教鞭をとられていますよね? 民俗学の教授で、僕は受講していないんですが、瑞希が受講してて……」


 山南は目を丸くして「えぇ、そうです。民俗学を教えてはいます」と謙虚に答えた。水野は感心したように首を縦に振った。


「意外な共通点もあるものですね。同じ大学の教授と生徒。……それで山南さん。一応は事件解決に一歩前進した、といったところです。ですが、敵がどこにいて、どれほど潜んでいるかが分からない以上は詳しく言うことはできません」


「わかってはいます。あなたも警察官なら守秘義務があるはずですから。できる限りでいいので、教えてはくれませんか?」


「では、まず瑞希さんの遺体についてですが、驚かないで聞いてくださいね。……バラバラにされて全ては回収できませんでした」


 当惑した表情の山南を見て、赤井も下を向く。


「えっと、バラバラというのは切り落とされたってことですよね? また何のために?」


「食べるために、です」


 山南もまたその意味が分からず、絶句した。ただ、一息入れると淡々と話し出した。


「一部の民族や部族では、確かに食人行為をすることもありますが、ここ日本では儀式としてすら聞いたことがありませんね。飢餓や戦争ではあり得ますが、現代医学からしても危険な行為にほかならないはずです。なのに、食人。一体何のためなのか、理解できません」


 山南の話に赤井は下を向きながらも軽く頷いていた。


「まぁ、そうでしょうね」


「なにかその行為の証拠とかはないんですか」


「物的証拠として瑞希さんの遺体の一部はあります。本来なら鑑識に回して確認を取るべきなんですが、事情もありますから、今ここに」


 水野はコートの上から胸ポケットを触る。


「驚かないでくださいね」


 水野は胸の内ポケットから真空パックに入った瑞希の陰茎を取り出し、フライドポテトの隣に置いた。二人は凍りついたように固まり、呆然とそのパックをみつめていた。赤井は生気のない声で言う。


「えっと、これはなんですか」


「書かれている通り、瑞希さんの陰茎です。咄嗟でしたのでこれしか回収できませんでした」


 赤井は口を強く右手で抑えて、込み上がってくる吐瀉物を吐き出さないようにとダッシュでトイレへと駆け込んでいった。吐き出す音が水野と山南だけに届く。山南はまじまじと見つめている。水野もポテトを一つ取って口に入れた。


「あの、これは本物なんですか? 私は男性ではないので、こういったものに関してそこまで詳しくはないものでして……」


「すみませんね。レプリカを疑うかもしれませんが、確かに現場で回収したものです。写真でも勿論よかったのですが、最近は加工技術も上がっていますから、信用性がないと判断しました」


 水野はそっと内ポケットにその陰茎の入ったパックを戻した。しばらくして、赤井が顔を真っ青にしてトイレから帰ってきた。


「あんた、イカれてるよ。こんなオモチャの模造品まで作って、俺の愛する人を侮辱して、何がしたいんだ! 瑞希を殺したのはお前なんじゃないのか。じゃなきゃ、そんなもの持てるはずもない。お前が瑞希と俺のストーカーなんだろ! 警察に通報してやる。この精神異常者め!」


 赤井は胃を抑えながら、水野を睨みつけた。水野はいたって冷静に話す。


「ですから、驚かないでくださいね、と前置きしたでしょう? それに俺は警察だ。疑われているのはむしろあなたの方ですよ? あなたは本当に瑞希さんの彼氏さんですか? それは幻覚ではありませんか? むしろ、あなたが何らかの精神疾患を患っているのではありませんか?」


 赤井は憤慨して、言葉にならない暴言を水野に吐き捨ててファミレスを出ていった。ざわめきが途絶え、店内が静まり返った。赤井が店を出てから十数秒ほど経つと、周りにいた客は赤井の怒り心頭だった表情について、ひそひそと小声で言い合っている。山南も声のボリュームを抑えて水野に言った。


「大丈夫なんですか? あの子、大分怒っているようでしたけど、本当に通報されませんか?」


 水野は何も気にせずに、ポテトを食べていた。


「大丈夫ですよ。ああいうタイプの人間は現実が受け入れられない子供ですから、しばらくすれば落ち着いて事実を受け入れるようになりますよ」


 ポテトを食べえると、水野は腕時計を見て、「そろそろ行きますね」と言い、一万円札を一枚、机に置いてファミレスを出た。残された山南は頬杖をつきながら、早歩きをする水野の姿をガラス越しに見ていた。


 凍てかせる風が吹き抜ける。公園内のブランコが独りでに動く。水野はコートが靡くのを見ながら、スマホで松下に電話する。


「どうだ、進捗はあったか?」


「いえ、特には。有益な情報はないですね。被害者家族やその周辺の人が意外と冷たくて、行方不明かそもそも興味なしって感じが多いですね。やっぱり。それで水野さんは神崎から何かでました?」


「あー、俺も聞き込みをしていた。水黄色の彼氏さんと会ってな。ボロカスに言われた。特にこれと言った情報もない。山南さんにも会ったが、まぁこれといった情報があるわけじゃないからな」


 電話越しに松下が「すみません」と何かに謝っていた。


「松下? まぁ、やっぱり明日の早朝に、宮地を追うぞ。そこに何かあるかもしれん」


「あっ、え? マジですか? じゃあ登山用の靴とか買わないといけない感じですね。水野さん、そんなの持ってます?」


「一つある。まぁ、かなり早めに行くから、今日中に用意しとけよ。じゃ」


 そういって水野は電話を切った。公園のベンチに座り、空を眺める。透き通るような空色には雲一つない。風に揺られ声を出す木々の音色の中、水野は神崎に言われたこと、赤井に言われたことを思い返していた。


「頭がおかしい、イカれてる、か。黒い檻。口が勝手に動いたな。……俺って頭おかしいのかな…………」


 水野は胸ポケットの辺りを触る。


「いいや、おかしいのはこいつだ。こいつらだ。ここだけがこの世界と断絶している。……いや、それでも世界は残酷なはずだ」


 水野は立ち上がり、神崎を幽閉している部屋へと戻る。そして、尋問を再開した。


    ◇


 水野と松下はS県との県境まで車を走らせる。途中、三回ほど休憩を挟みつつ、目的地付近までは高速道路で、そこからは下道で山道を行けるところまで進めた。日の出る前に出発して、九時過ぎに到着した。車を砂利道に止め、買った朝食を食べる。


「GPSの座標点はどのくらいだ?」


「えっと、少し離れてますね。ここからだと、こちら側の茂みの方へ入っていって、三四十分は歩かないと近づけませんね」


「紙の地図は忘れんなよ。なかったら遭難するからな。方位磁針も」


「はいはい、二人分ありますよ。等高線を見ても、結構平坦なところを指してますからね。ただ、そこまでの道の勾配が激しいですね」


 水野と松下はそれぞれ準備を済ませ、車を出た。


 木々が深く生い茂り、閑静が極まっている。厚手のコートに動きやすいパンツを履き、登山用の大きな靴、水を入れた大きめのリュックを背負って二人は、茂みを掻き分けて入っていく。


 疎らに生えた木々たちは瘦せ細そっている。上の方には直立した木によって日が遮られ、鬱々とした外見とは裏腹に中は薄暗く、どんよりとした雰囲気が漂っていた。傾斜もきつく、枯葉の絨毯が足を取って、動くのを阻害する。


 水野たちは山の斜面に沿いながらも、つづら折りの道を上るように一歩ずつ進んでいく。ひたすらに山の勾配を上っては下り、整備すらされていない獣道を歩いた。


 途中、持ってきた方位磁針とGPSの座標点、車の座標点を記した等高線付きの紙の地図に現在地を何度も書き込む。その現在地が目的の場所に近づいていくにつれ、茂みが一層深まり、日も射さないようになってきた。


「もう少しですね、水野さん。あと百メートルくらいですかね。いや、しかっし、こんなところまで逃げますかね。宮地は。ガリガリで運動もできなさそうですけど」


「ああ、そうだな。こんな山奥まで入れる体力もなさそうだが、そもそもここに捨てる必要はないはずだ。海なり川なりにでも捨てておけばいいからな」


 水野は地図を見ながら、目的地のおおよその位置を予測していた。


「だからこそ、罠の可能性もある。平らな場所だからな。このまま稜線に沿って進むぞ。上から見下ろすぞ」


 二人は尾根に出て、そのまま稜線に沿って足を進めた。目的地のやや北西に位置する場所に着く。特に目立ったものもなく、水野は下を覗く。下は約十六、七メートルの崖だったが、目的地の地面付近は木々が邪魔で詳細は分からなかった。


「それじゃあ、下に行くぞ。警戒はしておけ」


「はい……」


 水野は来た道を戻り、下にある目的の地を目指す。順調に下りていく中で、誰かがいることに気づき、手を挙げ松下に伝える。松下を近くまで来させ、確認をさせる。水野が小声で言う。


「間違いなく女が手を後ろに縛られて男に連れられているよな。向こうはこっちには気づいていない。気付かれないように追うぞ」


 水野と松下は先に目的地付近の木の陰に隠れて、様子を伺っていた。松下にしゃべらないようにジェスチャーし、顔だけ出す。


 覆面を被った黒づくめの男に連れられた制服を着た女子高校生。目隠しをされている。その男は宮地がGPSを落とした場所であり、水野たちの目的地である場所へと一直線に向かって、歩いている。


 水野がじっと見つめる中、松下ががしゃがんだ姿勢に疲れ、姿勢を変えようと右足を動かしたときに、パキッと枝を踏んづけた。加えて、咄嗟に「あっ!」と声も挙げてしまった。黒づくめの男は水野たちの存在にはまだ気づいていおらず、辺りを見回して警戒していた。


 水野が松下を「馬鹿野郎」と声を出さずに口だけを動かして伝えたが、松下は焦ったのか、大きな声で「すみません!」といつもの癖で言ってしまった。黒づくめの男は水野たちの方を見て、その女子高校生を置き去りにして、反対方向へと逃げていった。水野は追いかけようとするも、枯葉に隠れた根っこに足を引っかけて転んでしまった。松下は木の陰で息を殺している。


 水野は顔や服についた泥を払う。


「松下! お前のせいで逃げられたぞ!」


「あぁ、すみません、すみません……。足が痺れちゃって……。それに怖くて、腰ぬかしちゃいました」


 水野は深くため息をつきながらも、松下に手を差し伸べ、思いっきり引っ張って立たせる。そして女子高校生の方へと慎重に歩きつつ話す。


「まぁ、仕方ない。それよりも、だ。とんだ置き土産だな。松下、一応周囲には注意しろ。ここは開けていて見つかり――」


 水野は背後に視線を感じ、咄嗟に振り向いた。闇の中に潜むナニカが水野を見つめている。得体の知れない生物がヘドロを吐き散らしながら畝っている姿を見た時の心臓を直に触られる気持ち悪さが水野を襲った。叫びたくなる衝動を抑えて、水野は「松下、周辺に何かいるか?」と声を抑えて聞いた。


「えっ? いや、いないと思いますけど。……汗、そんなかいてましたっけ? ……疲れたんですか?」


 松下は周囲を見回しているものの、水野の感じるナニカは見えていない様子だった。


「いや、いないなら、いいんだ。それより、ちょっと周りを見てきてくれないか? 不安要素は消しておきたい」


「え? 一人でですか? さっきの黒づくめに遭遇でもしたらどうするんですか! 二人で行きましょう?」


「なら、そっちの方角はいい。俺たちの来た方を一応、見てきてくれ」


 松下は水野の顔色が悪いのを察して、「はぁ、分かりました」と承諾した。


「顔色悪そうですけど、風邪でもひいたんじゃないんですか? 僕には気をつけろって言うくせに」


「いいから早くいってこい!」


「はいはい、行ってきますよ」


 水野はナニカのいる方を指さして、松下を向かわせた。そして、銃をいつでも打てるように、松下とナニカの様子を観察しようとするも、そのナニカはスッと闇の中へ姿を隠して見えなくなった。


「あの工場にもいたな。奴らか? 闇の組織ってのも、根が深いもんだな。映画の撮影隊の方がまだマシだ。それよりも……」


 水野は突っ立ったままの女子高校生の縛られた縄を解き、目隠しを外した。女子高校生は水野の姿を見るなりすぐに下を向いた。


 お下げ髪は毛先につれやや色の変化があり、全体的に明るい茶色で、顔は軽めのメイクを施されている。胸はやや膨らみがある程度で手先や足先はすらっと細長い。スカートの下は黒いタイツで寒さを防ぐ服装ではあった。外見にこれといった暴行箇所もなく、ひどい扱いは受けていない様子だった。


「ええっと、こんなところで何をしていたかって聞いてもいいかな。信じられないかもしれないが、一応俺らは警察で、別の捜査でここに来たんだ」


 水野は警察手帳を見せる。女子高校生は水野の方を見て、眉を顰めながら口を開いた。


「……警察、なんですね。なんでここにいるのかは私が聞きたいくらいです。だってあの人が連れ去って、ここまで連れてこさせたんですから」


「一応、名前を聞いてもいいかな? 行方不明者だったらこちらとしても捜査しやすくなるからね。俺は水野秀和だ」


 その女子高校生は口を噤み、泣きだしそうになりながらもか細い声で言った。


「……廣瀬きいろです。ここはどこなんですか?」


「ここはI県とS県の県境で山中だ。登山道も大分離れていて、大抵人は入り込まない。それで聞きたいことが山ほどあるけど、とりあえずここを下ろうか」


 廣瀬は警戒してか首を縦に振らない。目を泳がせ、体を震わせている。


「えっと、寒い? コート貸そうか?」


「いえ、大丈夫です」


「まぁそういわずに」


 廣瀬は水野が近づくとその分だけ後退った。


「あー、まぁそうだよな。見知らぬ男には変わりないもんな。……じゃあ、どうする? このまま一人で彷徨うのか? さっきの男もどこをうろついているか分からない。凍死か餓死したいんなら、ご自由に」


「い、いえ、そういうつもりじゃないんです。無意識に後退ってしまっただけで。……それに、その、私の親友のお父さんにすごく似てて。あ、あの信用はしています。警察手帳、見せてもらいましたから。ですから、その……」


 廣瀬は急にもじもじとし始めた。水野は首を傾げる。


「ああ、そうなのか? その親友の子の名前は? あるいはその親父さんの名前は?」


「えっとお父さんの名前はわからないです。私の親友は美鈴。青山美鈴です。唯一無二の友達です」


 水野は目を見開いた。


「みすず!? その子の漢字って、美しいに鈴か? だとしたら……」


「? そうですけど、やっぱり美鈴のお父さんなんですか? でもなんでこんなところに……。というか、警察官だったんだ」


「いや人違いに変わりはない。俺は水野だ。青山じゃない。ってことは同じ名前なだけの可能性もあるのか。山南さんの娘ではないもんな」


 一人でぶつぶつと呟きだした水野の姿を見て、くすりと廣瀬も笑みが零れた。


「なんか、刑事っぽいかも。マンガとかドラマで見るやつみたい」


「うん? 何か言ったか?」


「いいえ。それより寒くなってきたのでコートを貸してください」


「えっ、あ、ああ……」


 水野はコートを脱いで廣瀬に着せた。


「はー、暖かい。ふふ、なんだか気が緩んできちゃいました」


「随分と態度が変わったな? さっきと全然違う」


「それはそうです。ジロジロと人の体を舐めまわすように見てくるから、襲われると思って身構えてたんですからね。ほら、男の人って女の人の体ばっかり見てるじゃないですか。美鈴なんかはよく胸を見られるって。私のよりもずっと大きいので、そういうことを聞きますよ?」


 廣瀬はジトッとした目で水野を見つめる。水野はやや早口でしゃべる。


「いや、あれは外傷がないかの確認をしていただけだ。もし怪我があったら、車まで歩くのも困難の場合には、救助を呼ばないといけない上に、君を連れてきた連中もどこかに潜んでいる可能性もある。動けるかの確認のためにすぎないんだ」


「まあ、そういうことなんでしょうね。からかってしまってごめんなさい。安心してきました」


 水野も胸を撫でおろした。


「まぁ、なんだかんだ信用してもらえてよかったよ。それじゃあ、一緒に山を下りようか。松下も呼ばないと……」


 水野が松下を呼ぼうとしたその時だった。


「うわああああああああーーーー!!」


 松下の叫び声が山中に響き渡った。水野が指した方角とは別の位置から発せられた声に、背筋が寒くなる水野と廣瀬。


 水野はまたぶつぶつと呟き始めた。


「松下……。どうしよう。助けに行くべきなんだが、この子もいる。廣瀬さんだったよな。名前は、きいろ。……きいろ!? 『黄色4番』って確か、何々きいろだったよな。あのリストにあった名前の子って、この子か! そうだとしたら、ここはもしかすると……」


「あ、あの、どうしましょうか? さっきの叫び声は一体……。えっと、水野さん?」


「ああ、とりあえず、車へ行こうか。一応連れがいてね。そいつに周辺を見回ってもらっていたんだが……」


 水野は恐る恐る松下の声がした方へ足を進めていく。鬱蒼とする木々が互いに手を伸ばし合う中、その先、光に照らされた崖とそこに洞洞と開いた洞窟の入口があった。


 人一人がしゃがまずとも進んで行ける程の高さに、横幅もかなり広い。まるで化け物が自然に擬態しつつ餌が勝手に入り込んでくるのを待つかのような強烈に惹き付ける魔性の引力に、どこまでも神秘的に感じてしまう自然の荘厳な立ち振る舞いが合わさり、二人の人間はただ茫然と立つほかなかった。ただそれでもその人間二人は本能より、近寄ることさえ身を危険に晒すことになると理解してはいた。が、それに勝る深い好奇心が危機察知を阻害した。


「あ、あの、その連れの人はもしかしたらこの洞窟の中で、足を滑らせてしまったのかも。蛇に足を掴まれたとか、蝙蝠の糞が頭についたとか。様子だけでも見に行きませんか?」


「君は何を言っている。さっきまで襲われていたんだぞ? 明らかに危険だ。松下がここにいるとも限らない。それに何も持っていないだろ? 洞窟内は真っ暗だぞ」


 廣瀬は制服のポケットからスマホを取り出した。


「灯りなら、これで。充電も余裕があります。それになんとなく、ここに惹かれるんです。この中に真実があるんじゃないかって。私の真実が。……あれ、私、なに言ってんだろ…………」


 廣瀬はふらふらとしながらスマホのライトを頼りに洞窟の中へと入っていった。水野が止めようと手を伸ばすも、廣瀬には届かなかった。


 水野もスマホの充電が十分にあることを確認して、廣瀬の後を追う様に洞窟へと足を踏み入れた。


 洞窟内は隔絶された空間のように、外とは異なりやや暖かく、湿っぽい。風に揺れる木々の音もなければ、カサカサと動く野生動物の音もない。ただただ静まり返り、聞こえる音は自分の靴音や心音のみ。地面はガタガタと岩鼻が出っ張り、均された道の感覚ではとても進めない状態だった。足を引っかけながらも慎重に進む水野。先に入った廣瀬の姿はどこにも見当たらない。


 二十分程度、足元や前方を照らしながら水野は、淡々と洞窟の奥へと進んでいた。後ろはもう暗闇が広がるだけであった。


 水野はナニカの視線を背後に強く感じてはいるものの、恐怖感故に振り向けずにいた。暗闇から背中をぐさりと指す冷たい目線。閉所へと入り込んでいく感覚に加え、口周りに布を重ねられるような、呼吸のしづらさが増していくばかりだった。


 しばらく進むと、ぼんやりと明かりが見えてきた。水野は急がずにゆっくりと足を進め、光が当たる壁を右へと曲がると、ガラリ大きく開けた場所へ出た。


 天井が崩落して、そこから日の光が差し込んでいる。人間がいかに光を時に美として、時に信仰の比喩として、時に真理の姿として表すのかが端的に理解できるほどに、光が洞窟内に生の息吹を送る。中央には崩れた岩の残骸が草に覆われ、数輪の花を咲かし、その下には奥から流れてきた地下水が溜まっている。湿っぽい空気もなくなり、名状しがたい特有の匂いは心の解放を促してくる。轟轟たる滝の音が内臓まで響く。無機質で苦しい先までの洞窟とは別世界であった。


 水野は息を飲む。先ほどまでの息苦しさが無くなり、自然風景の美しさに心を打たれる。


「美しい……」


 水野は自分が声を発したとさえ気づいていない。


 ポツリ。水野の頭に水滴が落ちる。水野はやっと意識が戻り、辺りを見回して廣瀬や松下がいないか探し始める。


 先へ進むために下の岩が密集している場所へと下りる。濡れないように水が流れているところを飛び越え、大きな岩を掴む。日の光を浴びながら岩の間を飛んではすり抜け、水野はようやくその空洞の奥に着いた。


 近くから水が湧き出ている。水野は手袋を外し、そっと手を当てる。


「冷たっ!」


 手を振るって水を飛ばしつつ、「何やってんだろ」と冷静に水野自身の行動について言った。深くため息を付き、虚ろな目のまま振り返ると、松下が怯えた様子で水野を見ていた。


「うわっ! って、松下! お前、大丈夫だったのか! というか、なんでここにいる。勝手にどっか行きやがって」


 松下も安心したようすでへなへなとその場に座り込んだ。


「あぁ、よかったぁ。……すみません、水野さん。結構、訳あってここに入ってしまったんです」


「俺はお前に聞きたいことが山ほどあるんだ。勝手に入った件もそうだし、その訳とやらだし、とにかく色々と。が、俺もお前も一旦、落ち着こう。深呼吸だ」


 水野と松下はそれぞれ深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。


「それで、一つずつ聞こうか。廣瀬、あぁじゃないな、例の女子高校生がいただろ? その子がこの洞窟に入ってしまったんだが、見かけなかったか?」


「いや、わかんないです。たぶん見かけてないと思います。僕は見晴らしのいいここで怪物を見張ってたんですよ」


「か、怪物? それって黒いやつか? 闇の中に隠れているあの気持ち悪い奴」


 松下は少し首を傾げた。


「いえ、たぶんそれじゃないです。僕のはとにかくでかくて、足も腕も長くて、そのくせ胴体は首と同じくらい細いんです」


 松下はジェスチャーも交えて水野に伝えるも、水野はあまり想像できていないようだった。


「顔は見たのか?」


「いえ。背後から掴まれそうになって、咄嗟に走ってこの洞窟へ逃げ込んだんです」


「よくあの道を走れたな」


 水野は見回す。変わらず絶景が見える。


「でかいって言ってたが、どれくらいだ? 三、四メートルくらいか? それ以上か? 場合によってはここの方が安全って可能性もある。とりあえずはいなさそうだが……」


「ええっと、五メートル程離れていても見上げていたので、四メートルくらいじゃないですかね。でも四足歩行してきたと思うので、洞窟内に潜む可能性の方が高いかもしれません」


「マジか。……あの子もおそらくかなりの情報を持っている。ここら辺を何度も捜査するにしても、時間がかかりすぎる。……松下。ここの捜索をやってもいいか? 一時間もしない。俺たちも日暮れ前には車に着きたい。だから、あと二時間で五時だ。一時間以内に探す。お前も怖いだろうが、俺はあの子を連れ戻したい。いいか?」


 松下は下を向いた。そしてすぐさま、水野の方を向き真っ直ぐ目を合わせる。


「水野さん。本当は今すぐ帰りたいです。でも、あなたが言うのなら、仕方ありません。あなたのことを分かってあげられるのも、僕くらいですから。さっさとその子を見つけましょう」


「おう!」


 水野は松下に手を差し出し、松下もそれを握る。


「それで、その女子高校生はどんな服装ですか? 見つけやすい位置に居ればいいんですけど」


「ふつうの女子高校の制服だ。髪は明るい茶色で、黒いタイツを履いている。スマホを持ってこの洞窟に入った」


「じゃあ、主に白色を探せばいい感じですね。それにしてもよくここに入りましてね。その子」


 水野と松下は洞窟の更に奥へと進んでいく。


「本当にそうだ。確かに入りたくなる雰囲気はあったが、いくら何でも装備もなしに洞窟に入るほど理性が吹っ飛んでいるとは。なんか、変な感じだったな」


 二人分のスマホで前方を照らすと、怪物の牙のように生えた鍾乳石があった。


「あれは、鍾乳石か。ならここは鍾乳洞か。惜しいな。怪物さえいなけりゃ、ここも観光地として整備出来たろうに」


「そうですね。どれもこれも綺麗で幻想的で荘厳で、そして何よりも恐ろしい。僕も少し探索していまして、あの大空洞の付近には小さな、とは言っても人が余裕で入れるほどですが、穴がたくさん開いていました。だから、結構続いていると思いますよ」


 ゆっくりと進み、時計を確認しながら奥へ奥へと進む。


「それで、その女子高校生、廣瀬きいろって言うんだが、その子の名を聞いてなにか思い当たらないか?」


「えっ? ……あぁ、あの輸出リストみたいなのに確か書かれてましたっけ。しかも鍵括弧で。ええと、確か、『黄色4番』でしたよね。その子だったんですか。……道理で」


「そうだ。だからこの辺りに組織のアジトがあるかもしれない。宮地を追ってきた結果がこれだ。思いもよらない収穫があるものだろう?」


「本当にそうですね。でも、もしアジトがここだとしたら、宮地はここまで逃げてきたってことですよね。肝心の宮地はどこにいるんでしょう?」


「さぁな」


 あと三十分と時間が迫ってもなお、廣瀬の姿が見当たらない。水野は立ち止まり、先へ進むか引き返すか逡巡していた。松下は不安そうに周りを見回す。


「あ、あの。水野さん。なんか偶然にも人が通れる空間が多くないですか? ふつうランダムに進めば、どこかしら行き止まりにあたるはずでしょ。なのに、こんなに通りやすくなるもんなんですかね」


「あ? あぁ、たまたまだろ。そういう時もある。そもそも、組織のアジトに改造してあるならそうなるもんだ。それよりも松し――」


「み、水野さん……」


 情けなく弱弱しい声で水野を呼ぶ松下。水野が振り返り、スマホのライトを当てると、松下の胴体が大きな手に掴まれていた。手は斜め横の空いている穴から伸びている。


「松下!」


 水野は足を進めようとするも、凍りついたように動かない。


 萎れ、黄みがかった黒く汚れた大きな手。爪は鋭く伸び、土色に黒色がぽつりぽつりと斑点のように浮かんでいる。


 その怪物の手は松下の胴を指の腹で撫でている。何を掴んだのかを確認するように。


「あぁ……。水野さん。助け――」


 怪物の手がギュッと松下の胴を握り、松下は吐瀉物をまき散らした。


「ああああああああ!!!!」


 怪物の手はものすごい力で松下を穴の中へと引きずり込んだ。


「あああああ!! たすけて!! ぃやだ! いやだぁ!」


 松下が死を嫌がる悲痛な叫び声を上げる。咄嗟に近くに生えていた鍾乳石を掴むも、止まらずに肘の部分で千切れた。


「松下! 松下ぁあああ!」


 水野はただ叫ぶしかなかった。松下が掴んだ鍾乳石には右腕の肘より先だけが残り、千切れた部分からは血が滴っていた。


 水野は震えが止まらない足を叩いて、叩いて、叩きまくった。内出血を起こし、じんと痛みが凍った足を溶かす。水野は叫び声を上げながら、松下が引きずり込まれた穴へと飛び込んだ。


 穴は滑り台のような構造になっていた。水野は足でブレーキをかけながら、慎重に下りる。


 穴の出口が見えた時、その先から声が聞こえる。しゃがれた老婆のような声ともうひとつ、聞き慣れた関西弁の男の声。


「それでぇ、どうなんだい? わたしが頼んだ、例のおなごはいつくるんだい? こんな窶れたわっぱをたのんだ覚えはないがねぇ~」


「もうしばらくお待ちください。あなた様が食べたがってはります例の女は解体中でして、ええ感じの活け造りにしてみよとおもてます」


「ははは。いいねぇ、いいねぇ。やっぱり生が一番だからねぇ~。さてと、じゃあこのわっぱでもいただくかね」


 水野はちらりと穴から顔を出して様子を見た。近くには木箱が乱雑に積まれている。そして右斜め先の壁際に怪物が大きなボロボロの木製の椅子に腰を下ろしている。


 その怪物は全長が四から五メートルほどで全身が黒ずんでいる。顔は胴体よりも大きく、目が複数個あった。長く白い髪は地面まで伸びている。胸はやせこけていて、骨が浮き上がっている。対して腹部はブクブクと太り、その先から四対の手が伸びている。まるで蜘蛛のような老婆であった。


 その隣には血濡れた作業着姿の宮地の姿があった。


 その蜘蛛老婆は気絶している松下の胴体から生えている、腕や足を、まるで子供が無邪気に虫の手足を千切るように、引っ張り千切ってはバキバキと服ごと食べた。そして達磨のようになった松下を頭から、ぼりぼりと咀嚼音を立てながら、食べ進め、ついには松下を完全に食べてしまった。


 水野はその異様な光景を目の当たりにしながらも、止めに入ることさえ頭に浮かばなかった。そして震えが止まらずにいた。覗き見ることさえ、固まってしまって止めることができない。


「ああ、やっぱりおいしくない。男の肉は喰いたくないねぇ。口直しに良い小娘の、それもうんと若いのはあるかい?」


「ええ、もちろん。ええ感じに体に詰められるようにしておきました。内臓も各部位に分けとります」


「顔はどうなっている? できれば見ながら食べたいねぇ」


「はは、そこは抜かりなく。首は飾れるように細工させてもろてます。目ん玉も入れ込めますし、頭は容器代わりにもできます」


 蜘蛛老婆は一本の左手で頭を掻きむしっている。腹の下部分から何かしらの液体がだらだらと出て、口からもよだれが垂れていた。


「ああ、いいねぇ、いいねぇ。やっぱり君たちのところが、一番要望が通るし、一番わたしの欲が分かってる。いいねぇ。いいねぇ」


「ありがとうございます。今後とも御贔屓に」


「ああ、分かってるよ。お金の工面と生存の工作だろう? それもちゃんと言っておくよ」


「はい、ありがとうごうざいます。それで、その件なんですが、どうもネズミが入り込みよったらしく、それで作業が一時中断してもうてる状況なんですわ。どないかしていただけませんか?」


 蜘蛛老婆の動きがぴたりと止まり、緊張が走った。


「ああぁ? それは許せないね。わたしははやくたべたいんだがねぇ。このまま町に降りて、幼子と女でも連れ去ろうかなぁ~」


「堪忍を。薔薇色はすでに発送してますから、明日になれば食べれます。どうか堪忍してください」


「はあぁ。まぁあ、それならいいかなぁ。あとで消すように言っておくよぉ。それで、その子はどんなんだい」


 蜘蛛老婆がぞっとする不気味な笑みを浮かべている。宮地も苦笑いしている。


「十二です。外産なんですが、これがまたお人形さんみたいで。やっぱり生にしはるんですか? あれは焼いてもおいしそうやと思いますよ」


「どうしようかなぁ。ああ、よだれが止まらない。顔がいいのかぁ。顔でも舐めながら、手足を食べようか。いいや、それとも腸詰のように詰物にしようかなぁ。ガブリと食べてもよさそうだねぇ……」


 水野はだんだんと気分が悪くなり、少し穴の奥へと戻った。口を押えて、鼻で大きく息を吸う。


 もう一度覗き見ようとしたときに、前方の下の方に、同じ制服が二枚捨てられているを見つける。一方は綺麗なままだったが、もう一方はズタズタに引き裂かれている。


 近くに積まれた木箱も注意深く見てみると、「菫色」と書かれている。もう一つ文字の見えそうな木箱を覗こうと、体を伸ばし、足を動かした。自ら靴紐を踏んでいたせいで、水野は大きく前へと転んでしまう。


 水野は腹を思い切り打ちつけた。ちらりと蜘蛛老婆の方を見ると、ぎょろぎょろとした目と合った。真っ赤な目のその中にある吸い込まれそうなほど真っ暗な黒目。


 目線を外し、蜘蛛老婆の椅子の隣を見るとそこには、先ほどまで探していた廣瀬が半裸で壁にもたれ座っていた。ただ、その顔は口を中心に上と下に裂けていた。右肩は噛み砕かれ、その先はなかった。腹も引き裂かれ内臓がすすり食べられたように出ている。スカートと黒タイツは履いてはいるものの、あり得ない方向へと折り曲げられていた。


 更にその隣には見知らぬ下半身のない裸の女が倒れている。胸が大きいものの、片方の乳房が噛み千切られていて、肋骨が浮き上がっていた。そして、その二人は手をつないでいた。


 老婆が呆然と水野を見つめる中、近くにいた宮地が叫ぶ。


「こいつです。俺らの解体を邪魔したやつです」


「……ああ、そうかい、そうかい。なら、殺そうかぁ」


 にちゃりと笑みを浮かべる蜘蛛老婆に水野は足の震えが止まらなかった。自分を奮い立たせ、起き上がる水野。無意識に来た道の穴ではなく、別の穴へと走る。


 金切り声を上げながら蜘蛛老婆がその巨体をずしんずしんと動かし、迫ってくる。


 水野は一切振り返らず、ひたすらに前だけを見て必死に逃げる。


「きぇぇぇぁぁぁああああ!!」


 蜘蛛老婆の手を間一髪で躱し、穴の中へと入り、死ぬ気で駆けあがる。破裂しそうなほど、心音が水野の中で響く。


「ゔぁぁぁあああ!!」


 老婆の憤慨する声が水野の背中を刺す。暴れ回る音が地響きとなって揺らす。


「堪忍です! ほんま堪忍ですって!!」


 宮地が痛々しい悲痛な叫び声を上げ、水野の心を追い詰める。


 片足の靴が脱げようと、手袋が千切れ、岩肌が生身の手に刺さり血を流そうとも、水野は穴を上った。


 穴から出るとそこは大空洞だった。光が閉ざされ、死んだように沈み、ひゅうひゅうと風の音ばかりが支配する。


 水野は川に足を突っ込もうが前進し、来た道を戻る。


 真っ暗闇の中をひたすら走る。足の裏に岩が食い込み、血を出そうとも水野は走る。転んで手を付いても、すぐに立ち上がり走り出す。


 ようやく洞窟の出口の光が見え、水野は限界以上に走り、外へと出た。


 日が沈みかかり、薄青ぐらい森の中、木が悲鳴を上げ、風が泣き、土が牙をむく。


 水野は本能のままに走った。転げ落ちそうな急斜面を全力で下り、全力で駆けあがった。息も絶え絶えになってもなお、恐怖から逃れるために走った。走った。走った。走った。


 枯葉の絨毯に足を取られても、足の感覚がなくなり、前進に激痛が駆け上がっても、日が沈みもう何も見えなくなっても、水野は走り続けた。


 そうして全身泥だらけで、足の裏は見るに堪えない程の血まみれ、手のひらも皮がずる剥けで、血が滲み出ている、満身創痍の中、車の前までたどり着いた。


 急いでエンジンをかける。Uターンして、アクセルを踏もうとしたときに、バックミラーに蜘蛛老婆が写り込んだ。水野の方を見て笑っている。


「ああああああああ!!」


 水野は叫びながら、車を猛スピードで発進させた。もうバックミラーに老婆はいない。


 気づけば水野は自宅の玄関前に突っ立っていた。足がズキズキと痛み、手先も感覚がない。足を動かそうにも肉離れしていて、激痛が走る。鍵を取り出して、扉を開け、残った気力で飛び込む。


 這ったまま脱衣所に行き、服を一通り脱いで、風呂場に入った。シャワーを浴びて、泥を落とす。


 ざあぁー、ざあぁーとシャワーの音を水野は目を閉じて聞く。


 松下がボリボリと食べられた瞬間が脳裏に焼き付いたまま取れない。


「ああああああああ!!」


 水野は発狂してかき消そうとする。しかし、再び今度はあの蜘蛛老婆の薄気味悪い笑みが想起される。水野は頭を抱えて、床のタイルに打ち付ける。


 ゴン、ゴン、ゴン。鈍い音が響く。


 水野は頭が揺れ、意識が朦朧とする。なんとか風呂場を出て、体を拭く。這って着替えを取りに行き、頑張って着る。特に何の治療もしないまま、水野は死んだように床で意識を失った。


三章へ続く。

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