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第92話 第二王子グェル① ──小き牙の誓い──

 岩肌むき出しの渓谷を縫うように、ひとつの集落があった。



 四方をそそり立つ崖に囲まれ、外界から遮断された自然の要塞——それがフェンリル族の里、"牙裂(がれつ)隠谷(いんこく)"である。


 雪が積もっても、嵐が吹きすさんでも、この里の者たちは凛として立っていた。


 ——王の血を引く、誇り高き魔獣の一族。


 牙は鋼のように強靭で、肉体は疾風のようにしなやか。


 “王狼”マナガルムに率いられ、彼らは他種族を凌駕する覇気を備えていた。


 


 だが。


 


 その谷に、ひときわ小さな鳴き声が響いた日。


 誰もが、その赤子の“弱さ”に眉をひそめた。


 


 「……第二王子、ですか」


 「こりゃあ、また……随分と小さな声で啼くんですねぇ」


 


 産声を聞いた者たちは、互いに顔を見合わせた。


 マナガルム王の妃アレクサが命と引き換えに産み落としたのは、体も魔力も、驚くほど“か細い”仔だった。


 


 「グェル……」




 マナガルムは、そっとその赤子に寄り添う。


 王狼が、まるで氷細工でも持つかのように、震える前足で、そっとその頭に触れる。


 


 「お前の名は……グェルだ。吠えよ、我が小さき牙。いつか、お前も世界を噛み砕く日が来る……」


 


 その目は、深い悲しみに濡れていた。


 


 妻を喪い、望んだ子が“未熟”な姿で生まれた——それでも、マナガルムはひとときも抱く手を離さなかった。


 彼は、グェルの弱さを“恥”とせず、“宝”とした。


 


 ……しかし、王の慈しみとは裏腹に、里の空気は冷たかった。


 


 ◇◆◇


 


 「第二王子ってさ、全然吠えないよな〜」


 「魔力も薄いって噂だぜ? 王族のくせに情けねぇ」


 「兄貴のフレキ様の方が断然すげーもんな。

──ちょっと胴は長いし足は短いけど、潜在魔力は桁違いだ!」


 


 耳が良いフェンリルに、陰口は届いていた。


 言っている本人たちは囁いたつもりでも、グェルにはちゃんと聞こえていた。


 ——聞こえて、しまっていた。


 


 「う……うう……ぅぅ」


 


 六つの歳のグェルは、岩陰でひとり丸まっていた。


 顔には浅い皺。背にはふわふわの毛。まだ幼いパグの赤ちゃんそのものだ。


 魔力量の計測で、また“下級”の判定が出た。


 試技の石板は、彼の魔力をほんのわずかしか読み取らなかった。


 兄フレキが触れれば金に光った石は、グェルが咥えてもくすんだままだった。


 


 「ボクだって……頑張ってるのに……」


 


 前足の肉球をぎゅっと握り、唇を噛む。


 叱るでもなく、励ますでもなく、父マナガルムはいつも優しかった。


 だがそれが、逆にグェルには苦しかった。


 


 (……なんで、怒ってくれないの)


 (ボクが、情けないから? 諦めてるの……?)


 


 大きすぎる父の背中。


 胴は長いが魔力も大きい兄の影。


 比べられることすらない自分の、ちっぽけな存在。


 

 「うぐっ……ぅ、ぅぅ……」



 声を出すまいと我慢していた涙が、つうっと頬を伝った。


 


 そのとき——


 


 「……グェル?」


 


 低く、優しい声がした。


 


 顔を上げると、そこに父マナガルムがいた。


 その巨大な体が、谷の夕陽を背にして立っていた。


 


 「そんなところで、何をしておる」


 「……べ、べつに……なんでも、ないよ……」


 「ふむ」


 


 マナガルムは一歩近づき、膝を折ってグェルと目線を合わせる。


 


 「泣くな」


 


 それは命令ではなかった。

 命令ではないからこそ、胸に沁みた。


 


 「お前は、よくやっておる。誰がなんと言おうとな。……母上がな、生きておったら、きっと抱きしめてやっていた」


 


 ぽん、と大きな前足が、グェルの頭を撫でた。


 その肉球は、少しだけ震えていた。


 


 「……お前の魔力は、確かに小さい。だが……魔力の大きさが、“王”のすべてではない。牙は力だけで輝かぬ。……それを、これからお前が教えてくれればよい」


 


 「……ちち……うえ……」


 


 ぼろぼろと涙があふれた。


 誇らしい言葉だった。


 けれど、幼いグェルには、それが“優しすぎる”と感じられてならなかった。



 (ボクは……もっと、叱ってほしかったんだ)


 (自分みたいになれって……言ってほしかった)

 


 ——でも、言わなかった。


 


 言えなかった。


 


 父の優しさは、すべてを包むからこそ、苦しかった。


 その腕の中で、グェルはただ、泣いた。


 


 それが、彼の最初の記憶だった。


 


 谷間の里で、小さな牙が生まれた日。

 その牙が輝く日が来ることを、まだ誰も知らなかった。




 ◇◆◇




 グェル・フェンリルには、三つ歳上の兄がいた。


 名はフレキ。


 茶色の毛並みと引き締まった長い胴体を持つ、五メートル級のダックスフンド型フェンリルだ。


 幼い頃のグェルにとって、兄はすべてだった。


 賢く、優しく、そして強い。


 誰よりも潜在する魔力の質が高く、それでいて誰かを傷つけることを何よりも嫌う、穏やかで澄んだ瞳の持ち主だった。




 「いいかい、グェル。力は“誰かを助けるため”に使うものだと、ボクは思うんだ。」


 「わかった! ボクも兄様みたいなフェンリルになるんだ!」




 兄の背中を追い、岩山を駆けたあの日の記憶は、今でも脳裏に焼き付いている。


 だが──その憧れは、やがて別の感情へと姿を変えていった。



 グェルが年を重ねるごとに、周囲との“差”は明白になっていく。


 他の若獣が次々とスキルを覚醒させていく中、彼の魔力は沈黙したままだった。


 ようやく目覚めたスキルも"毒耐性"という、所謂ハズレスキル。


 身体も劣り、敏捷さも欠けていた。


 魔力探知の訓練では、たった一匹の草虫さえ見失うことが多々あった。



 ──何故だ。


 ──ボクは王族なのに。



 その一方で、フレキは堂々とした姿で皆の前に立っていた。


 獣の本能に囚われず、フェンリルの誇りと知恵を保ったまま、他種族と対話する外交にも携わり、若くして長老たちから一目置かれる存在となっていた。




 「フェンリルが変わらなきゃ、この世界は変わらない。ボクはそう思うんだ。」



 「……ふん。兄様は、争いが怖いだけだろ」




 グェルはいつしか、兄の語る“融和”の理想を、冷めた目で見るようになっていた。



 (戦えば勝てる。力があれば、誰にも踏みにじられない……)


 (それを持っている癖に、兄様は使おうとしない。なんて臆病な……)



 その想いはやがて、嫉妬へと変わった。


 持たざる自分に対する、持つ者への痛烈な劣等感。



 「兄様ばっかり、みんなに期待されて……」


 「なんでボクは、魔力が少ないんだよ……!」



 ある夜、訓練に参加できなかった苛立ちから、谷間の岩壁を引っ掻いた。


 小さな爪では、石を傷つけることすらできなかった。



 「グェル」



 背後から聞こえた声に振り向くと、そこにはフレキがいた。


 いつものように穏やかな瞳で、弟を見つめている。



 「……なんだよ」


 「泣いてるのかと思って」


 「泣いてないしッ!」



 怒鳴った声が、霧に吸い込まれる。


 フレキはそれ以上は言わなかった。ただ、小さく笑って、弟の頭に鼻先を当てると、静かに踵を返して去っていった。


 その背中に、グェルは追いつけなかった。


 追いつこうとも、しなかった。


 自分がそこに並べる存在じゃないことを、きっとどこかでわかっていたから。



 ──それでも、心の奥底では願っていた。


 ──兄様と、もう一度並んで歩けたら、と。




 (魔力が少ないボクは、きっと……フェンリル族の長にはなれない)


 (本当に相応しいのは、兄様だ)



 霧深き谷の夜、ひとり星を見上げながら、グェルは静かに呟いた。


 白い吐息が宙にほどけて消える。


 その視線の先には、ただただ輝く星空があった。


 遥か彼方、決して届かない光──それは、兄・フレキの背中に重なる。



 (でも……兄様は、あまりにも優しすぎる)



 グェルの胸に、抑えきれない焦燥が芽吹いていた。



 (他種族との融和なんて……そんな甘い考えを持つ者なんて、このフォルティア荒野には他にいる訳がない)


 (この地では、力がなければ喰われる。譲り合いも理想も、牙を向ける者たちには通じない)



 ──だからこそ、動かなければならない。


 兄でもなく、父でもなく。今は、自分が。



 (ボクが……父様を補佐して、他のフェンリル達を導かないと……!)



 決意を固めたグェルは、身体を鍛えることよりも先に、“仲間”を知ることから始めた。


 谷の外れに住む気難しい隻眼の老獣に頭を下げて、戦術の基礎を教わった。


 若いフェンリル達と共に狩猟に赴き、誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで残って訓練場を整備した。


 失敗すれば、笑われた。


 的を外せば、後ろで尻尾を振られた。


 それでも、顔を上げた。



 「吠えるだけの王になんか、ボクはならないッ」



 そう叫んで、彼は走り続けた。


 最初は、誰も彼を“王の器”とは見なさなかった。


 だが、戦場では違った。


 仲間の位置を誰よりも早く察知し、最短での援護を飛ばす。


 撤退戦では、無駄のない指示で全員を生きて帰還させた。


 彼の“魔力の薄さ”は、時として逆に幸いした。


 魔力探知に引っかからず、戦場では“影”の様に敵の裏をかけた。


 それらが積み重なり、やがて若きグェルは──


 フェンリルの部隊《百の牙》の部隊長に就任するに至る。


 その名は、谷を越え、荒野にまで響いた。



 「おい、見たかよ? あの小せぇフェンリルの王族」


 「尻尾ちょん切れてても、あの睨みは本物だ」


 「次の族長は、案外、あいつかもな……」



 陰で囁かれるそんな声に、グェルは耳を傾けない。


 ただ、彼は空を見上げる。


 夜空は広く、星は今日も遠い。



 (ボクは……兄様にはなれない)


 (でも、“兄様とは違う道”で、王に……いや、それよりも)



 風が谷間を抜けた。


 吹き荒れるような鋭い風ではなく、頬を撫でる、優しい夜風だった。



 (ボクは……皆を、守れる存在になる)

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