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第82話 咆哮竜ザグリュナ?それ、あーしだけど。

 月明かりに照らされた木造の廊下に、三つの足音が軽やかに響いていた。


 湯上がりの火照った肌に、夜風が心地よい。


 蒸気の残る浴場の引き戸をくぐり抜け、渡り廊下を歩く三人は、それぞれに簡素な羽織をまとっていた。



 「……つまり、今は停戦中とはいえ、もともと魔導帝国ベルゼリアはエルディナ王国と敵対関係にあったわけでしょ?」



 先頭を歩くブリジットが、湯気に頬を染めたまま鼻息荒く語る。


 湿った髪をタオルでくしゃくしゃと拭きながら、彼女は歩調も心なしか早い。



 「そのベルゼリアが、スレヴェルドを攻め落としたってことは──次は、エルディナ王国に攻めてくる可能性だってある、ってことだよ!」



 足元をパタパタと滑らせながら、ブリジットは背筋をぴんと伸ばす。


 月明かりを浴びたその横顔には、少女らしい不安と、領主としての覚悟が共存していた。



 「……まずは、グラディウス宰相に報告しなきゃだよね!」



 そう言って、彼女は拳を小さく握りしめた。


 その横で歩くリュナは、いつものようにどこか眠たげな目でその勢いを受け止めながら、くすっと笑みを漏らす。



 「姉さんも、すっかりフォルティア荒野の領主が板についたっすねぇ〜」



 濡れ髪を片手でまとめながら、リュナは足取りをゆるめ、ブリジットに歩幅を合わせる。


 軽口ではあるが、そこには確かな喜びが滲んでいた。



 ブリジットが、リュナが、こうして前を歩く姿を──マイネはほんの少しだけ距離を置いて、黙って見つめていた。



 彼女の濡れた金髪は、夜風にわずかに揺れていた。


 羽織の下に見える肌には、湯の温もりとともに、わずかに複雑な感情が浮かんでいた。




 (……本気、なのじゃな)




 無邪気なようで、誤魔化しのない眼差し。


 距離を詰めるでもなく、境界線を強いるでもないその在り方が、マイネの胸を静かに揺らす。




 (こやつら……損得勘定では動いておらぬ)




 それは、かつての自分には考えられなかった価値観だった。


 交渉、貸借、契約。与えれば奪い、奪われれば取り返す──それが、彼女の生きてきた“強欲の魔王”としての常識だった。



 (……じゃが)



 マイネは少しだけ、視線を伏せる。



 (妾を匿うということは、あの巨大な国家ベルゼリアを、敵に回すということ)



 その重みを知らぬはずはない。


 特に、ブリジットのように“責任”を負う立場の者であれば、なおさら。



 (それでもなお、この余裕は……何なのじゃ?)



 思わず、足を止めそうになる。



 (あのブリジットという小娘は、まだ若く、あどけなさを残す子供じゃ)


 (それでも目は、"統べる者"の目をしておる……)



 ふと、前を歩くブリジットが振り返り、にぱっと笑いかけてきた。




 「マイネさんも、湯冷めしないうちに戻らなきゃね!」




 その言葉に、マイネは目を見開き──ふい、と顔をそむける。




 「妾を子供扱いするでない……!」




 わざとらしく吐き捨てたその声に、リュナがニヤリと笑う。



 「ぷくーって顔してるとこ、ちょっと可愛いっすよ?」


 「しておらんわ!」



 ぎゃん、と叫ぶマイネの声が、茜色の廊下に響き渡った。


 けれど、その声に乗る熱は、怒りではなく──ほんの少し、照れ隠しのような。


 夕焼けが、三人の姿をやわらかく照らしていた。




 ◇◆◇




 風が少し強くなり、渡り廊下の簾がふわりと揺れた。


 遠く、虫の音が控えめに鳴いている。


 湯の温もりをまとった三人の歩みは、ゆっくりと夜の静けさの中を進んでいた。


 その沈黙を破ったのは、やはりというべきか、リュナだった。



 「……まあ、そうなってくると、ヴァレンのアホはともかく……」



 ぽそりとした声が、宙に滑るように落ちる。



 「兄さんの協力も、マストっすね〜」



 何気ないその一言に、前を歩いていたブリジットの表情がぱっと明るくなった。




 「うん、そうだね! ヴァレンさんにも……今はちょっと外出中だけど、アルドくんにも相談すれば、きっと良い解決策が出てくると思うんだ!」




 そう言って、タオルで軽く髪を拭きながら振り返る。




 「なんていうか、アルドくんって──考え方がすっごく柔らかいけど、ちゃんと“こうするべきだ”って芯のある答えを出してくれるから……あたし、すごく信頼してるんだ!」




 その瞳はきらきらとした期待に満ちていて、まるで迷いがなかった。


 そして、彼女はそのまま、にこりとマイネに笑いかけた。




 「マイネさんも、きっと大丈夫だよ!」




 まっすぐで、澄んだその笑顔。


 魔王だとか、敵国だとか、そんなことをすっかり忘れてしまうような、真っ白な優しさだった。


 マイネは不意を突かれたように目を瞬き──そのまま、そっぽを向いた。


 けれど、胸の奥がふわりと熱を帯びる。




 (……妾を“大罪魔王の一角”と知った上で、こんな屈託のない笑顔を向けるとは……)


 (妾としたことが……(ほだ)されてしまいそうになるわ)




 思わず口を結び、無言のまま歩みを続ける。


 だが、視線はどこか柔らかくなっていた。


 夜風が頬をなぞる。


 ──そのとき、ふと、心にひっかかるものがあった。




 (……しかし、この者たちがここまで信頼を置く“道三郎”……いや、アルドという男)


 (ベルから話に聞いただけで、直接相見えたことはまだ無いが………やはり、只者ではあるまい)




 脳裏をよぎるのは、その在り方。


 なぜか魔王である己が“測りかねる”という違和感。



 だが、マイネはそれ以上考えを深めなかった。


 なぜなら、前を歩くブリジットとリュナの笑い声が、あまりにも心地よかったからだ。



 ──この時間を壊したくない。



 ふと、そんな感情が、魔王の胸に芽生えていた。




 ◇◆◇




 渡り廊下を抜けた三人は、カクカクハウスの縁側をくぐり、ほのかに灯る室内の明かりのもとへと戻ってきていた。


 まだ湯の香りをほのかに纏ったままの空気に、リュナは小さくあくびを噛み殺しながら、ぽふりとソファへ腰を落とす。


 ブリジットはその隣に座ると、バスタオル越しに長い髪を軽くまとめ上げながら、何か言おうとした──が、その前に、後ろから声がかかった。



 「ふふふ……」



 艶やかな声に、ふたりの視線が揃って振り返る。


 そこには、胸を張ったマイネが、どこか得意げな笑みを浮かべて立っていた。軽く腰に手を当て、その目はどこか挑発的ですらある。




 「妾はもう、道三郎──お主らの言う“アルド”とやらの正体……大方の想像はついておるぞ」


 「えっ!?」




 ブリジットが、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、肩をビクッと震わせた。


 その反応に、リュナは横目でちらりと視線をやる。



 「……へぇ」



 薄く笑みを浮かべつつも、その目は細められ、じわりと“何かを見透かす”ような色を帯びている。


 マイネはその表情に満足げに頷き、リュナの全身を値踏みするように見やった。




 「……ふん、隠しておるつもりのようじゃがな。そこの色黒の小娘からは、僅かだが“竜の気配”が漏れ出ておる」



 「……」




 リュナは無言。まったく否定も肯定もしない。マイネの語りは止まらない。



 「加えて、ベルが言っておったじゃろ。『お主は道三郎の眷属らしき者だ』と……」



 静寂が、部屋の中に満ちる。


 ──そして、マイネは両腕を広げ、ぐるりと一回転した後、ビシィッとリュナの額へ指を突きつけた。




 「導かれる結論は一つッ!!」


 「道三郎の正体とは……かつてこのフォルティア荒野に君臨した災厄の魔竜!」




 指先がピタリと止まる。




 「“咆哮竜ザグリュナ”──じゃろう!!」




 口元にドヤァ……とでも書いてありそうな満面のドヤ顔で、マイネは腕を腰に当て、あごをしゃくり上げた。


 しかし──



 「……あらら」



 ブリジットは、肩をすとんと落とし、ずるっと滑るようにソファの背に崩れた。


 その横で、リュナは棒立ちのまま、じとりとした目でマイネを見つめていた。




 「いや、全然ちげーし」



 「なっ……!?」




 まるで地盤から崩れ落ちたかのように、マイネの顔が凍りつく。




 「ち、違うというのか……!?」



 「いや、つーか、咆哮竜ザグリュナって

 ──あーしだし。」




 リュナはあまりにもサラリと、当然のようにそう言った。




 「……え?」




 マイネは完全に言葉を失い、まるで情報の処理が追いついていない表情で固まった。



 「いや、あーしが咆哮竜ザグリュナ。正真正銘マジモンっすよ?」



 マイネの目がカタカタと震える。



 「う……ウソじゃろ……?」



 そのままギギギ……と機械仕掛けの人形のように動き、ブリジットの方へ顔を向ける。


 ブリジットはというと、困ったように笑っていた。



 「えへへ……そ、そうだね。リュナちゃんは、咆哮竜ザグリュナ……だよ?」



 明るい愛想笑いの裏に、ちょっぴり焦りとバツの悪さが見え隠れしていた。

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