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第81話 湯煙の3人娘

 天井の高い浴場に、湯けむりがゆらゆらと立ちのぼる。


 カクカクハウスに併設された天然温泉付きの大浴場。


 白い大理石の床が湯に濡れて柔らかく光り、壁には金の装飾が流線を描く。



 旅館か、あるいは王族の湯殿かと見まがうほどの優雅な空間で、三人の少女がぽちゃんと肩まで湯に沈んでいた。




 ブリジット、リュナ、そして"強欲の魔王"マイネ・アグリッパ。


 


 ぽふぅ、と湯面から吐き出された吐息がひとつ。


 湯気の奥で、紫ピンク髪の少女がぐでりと背を伸ばし、湯の中で足をくねらせる。


 


「ふう……ま、そんな訳でじゃな」


 


 ようやく語り終えた──という風に、マイネは頬に手を当てて笑う。


 艶やかに濡れた髪の先が湯の表面をふわふわと撫で、その動きだけでもどこか“余裕”が漂っている。


 


「ベルゼリアの連中が妾の財産を狙い、愚かにも侵攻を仕掛けてきたゆえ……その損害額を“やつらの国を担保として”差し押さえてやったわけじゃ」


 


 さらりと言い切ったその台詞に、ブリジットは思わずぽかんと口を開いた。


 


「さ、差し押さえ……って、国ごと!?」


 


「うむ」


 


 軽く頷くマイネ。


 その様子はまるで「今日はよい天気じゃの」くらいの気軽さで、しかもやや誇らしげでさえある。


 ブリジットは頭の上に「!?」と書かれた漫画的な泡を浮かべそうな勢いで、唇をぱくぱくさせていた。


 


 その隣では、リュナが打たせ湯に打たれていた。


 肩にごんごんと当たる湯の勢いにやや目を細め、のぼせかけた顔でぽつりと口を開く。


 


「……あー、そーいや聞いたことあるっすよ」


 


 湯の滴る前髪をかき上げながら、リュナはつぶやく。


 


「強欲の魔王の魔神器って、“金銭的価値”と“それ以外の全て”を強制的に等価交換する……って」


 


 その言葉に、マイネがぴくりと眉を上げた。


 


「ほう……知っておったのか」


 


 リュナの方を向いたマイネの瞳が、少しだけ細まる。


 その双眸には、評価と、観察と、そして……ほんのわずかな好奇心が宿っていた。


 


「やはり、お主は……」


 


 何かを言いかけて、しかしその続きを飲み込む。


 マイネはふいと湯船の縁に背を預け、上を仰いだ。


 


「……ま、それはまた別の話じゃな」


 


 天井の檜造りの梁を見上げながら、彼女の口元には、どこか寂しげな笑みが浮かんでいた。


 それは、ほんの少しだけ──欲を満たしきれなかった者の、空虚な笑みのようにも見えた。


 


 ぼこ、ぼこ、と泡が湯の底からのぼっては弾ける。


 その静かな音を背景に、マイネ・アグリッパは肩まで湯に浸かり、つい先ほどまでの余裕ある笑みを消していた。


 代わりにその顔には、少しばかりの倦怠と、遠いものを見つめるような視線が宿っていた。


 


「……という訳でじゃな、妾は“我欲制縄マイン・デマンド”の力で、事実上ベルゼリアという国そのものを差し押さえておった訳じゃ」


 


 その口調は相変わらず“なのじゃ口”で、気怠げな雰囲気も変わらぬままだが、どこか言葉に重みがあった。


 背筋の奥に、確かに“権力者”の影があった。


 ブリジットが思わずぴくりと眉を上げる。



 マイネは、湯の中でつま先をひょいと立ててぷかぷかと浮かせたまま、そのまま語り続けた。


 


「民の暮らしも、商人の流通も、軍の装備も……この妾が保証しとった。それはつまり、彼らの“価値”がすでに妾の手の中にあったということじゃ」


 


 リュナが小さく口笛を吹きかけて、けれど結局やめた。


 代わりに静かに目を閉じたまま、湯の波紋を手で撫でる。


 


「それって、ほぼ"支配"じゃないっすか」


 


「ふふ、違わぬ。だが征服ではないぞ? 妾が欲するのは“価値あるもの”じゃ。潰してしまっては元も子もなかろう」


 


 その理屈が成立してしまうのが、魔王たる所以か。


 


「──しかし、じゃ」


 


 マイネの声音が、少しだけ低くなる。


 


「奴らに与する者は皆、妾への負債を返済せぬ限り、妾に手出しなどできぬはずなのじゃが……」


 


 言葉を区切るように、湯を小さく打つように指で撫でて、彼女は続ける。


 


「──一月ほど前、“不可思議な小僧、小娘ども”が現れてから、おかしくなった」


 


 静寂が、ほんの一瞬だけ湯気に凍る。


 


 リュナがゆるく目を開き、ブリジットが首を傾げた。


 


「不可思議な……?」


 


「見た目は、子供……いや若者といった方が近いかの。どこか浮いておった。周囲の物価とも、空気とも、まるで調和しておらなんだ」


 


 その言い回しに、ブリジットの眉がぴくりと動く。


 


 マイネは視線を湯面に落としたまま、ぽつりと呟く。


 


「妾の“魔神器”が、奴らにはまるで通用せなんだ……」


 


 その声には、怒りも悔しさもなかった。ただ、ただ、理解不能なものに触れた者の、底冷えするような不安がにじんでいた。


 


「金銭価値すら、存在しないかのような……まるで、《《この世界の通貨基盤に適応されておらぬ異物》》のようじゃった」


 


 その台詞に、リュナが僅かに目を見開く。けれど彼女は何も言わなかった。


 代わりに、指先で湯をすくい、小さく波を起こして流すだけ。


 


「……結局」


 


 マイネは、わざと軽く吐き捨てるように続けた。


 


「その小娘どものスキルで"紅龍"の封印が解け、奴に妾の“我欲制縄”を奪われてしもうたのじゃ……全く、理不尽な話じゃろ?」


 


 その声は、笑っているようで、笑ってはいなかった。


 悔しさや怒りすらも通り越し、ただ“損失”として処理された記録のように、平坦に語られていた。




 ◇◆◇




 湯けむりがゆるやかに立ち昇るなか、静寂が場を包んでいた。


 湯面に浮かぶ檜玉が、ぽこりと気泡を立てながらくるくると回転する。


 その小さな動きが、どこか妙に耳に残る。


 ──それはまるで、沈黙を泳ぐ心の波紋のようだった。


 


 「マイネさん……そんなことがあったなんて……」




 ぽつりと、ブリジットが口を開いた。


 その声は熱で少し潤み、けれど真っすぐな芯を保っていた。


 つぶらな瞳が、正面のマイネをまっすぐに見つめている。


 敵意も、警戒も、そこにはなかった。


 ただ、過去を背負った誰かへの“敬意”と“共感”だけが滲んでいた。


 


 「はぁ〜……それがアンタの裏話っすか……」




 続けて、リュナが湯船のふちに腕を預け、額を軽く当てながら呟いた。


 声には疲れが滲んでいる。けれどそれは、退屈さや嫌悪ではなかった。


 長い物語を聞き終えたあとの、まるで心の奥で何かが「納得」したかのようなため息だった。


 


 マイネはその様子を見て、目を伏せた。



 (……やはり、こやつは妾を嫌っておるか……

 ま、無理もないがの。)



 期待していなかったはずなのに、なぜか胸の奥に、少しだけ痛みが走った。



 その刹那——


 


 「……しゃーないっすね」




 リュナが、小さく息を吸って言った。




 「姉さん、コイツのこと、とりあえず匿ってやりましょ。」


 


 その一言は、思わず湯気が止まったかと思うほど、マイネにとって衝撃だった。


 


 「……何じゃと?」




 不意に漏れた声は、いつもの自信や皮肉がまるで抜け落ちていた。


 目をぱちくりと瞬かせたマイネに、すかさずブリジットが笑みを浮かべる。


 


 「うん! リュナちゃんもそう言うと思ったよ!」




 そう言って、ブリジットはちょこんと湯船のなかで背筋を正し、まるで正式な発言のように頷いてみせた。


 


 「ちょ、ちょっと待て、お主ら……!」




 ようやく我に返ったマイネが、バシャッと湯を跳ね上げて身を起こす。


 小柄な身体に滴る雫を構わずに、彼女は二人の少女に詰め寄った。


 


 「そ、そんな簡単に決めてよいのか!? 妾は“大罪魔王”じゃぞ!? しかも、“強欲”の名を冠するぞ!? 普通なら、それだけで忌避される存在じゃろうが!」


 


 その必死さに湯気すら押し返されたようで、リュナは顔をしかめて少し身を引いた。


 


 「湯船つかったままバタつくんじゃねーし」




 軽く湯しぶきを払いながら、リュナは目元をタオルでぬぐい、真顔に戻ってマイネを見た。


 


 「いや、キライっすよ。フツーに。」


 


 その言葉はあまりに直球で、マイネはまるで背後から石を投げられたようにカクンと肩を落とした。




 「出会い頭にヒトの顔、札束ではたく様な女、キライに決まってるっしょ。アホなんすか?」


 「ぐ、ぬぅ……!」




 普段ならやり返すところだが、今はなぜかそれができなかった。


 


 「でも」




 リュナはそこで言葉を切ると、まるで“何かを測るような”視線でマイネを見つめ直す。


 


 「その話がマジなら、アンタは“やられたからやり返した”だけっしょ?」


 「それって別に、悪いことじゃないと思うっすよ。」


 


 その声音には、飾り気も脚色もなかった。


 ただ、リュナという少女が思ったままを、そのまま吐き出しただけだった。


 


 「ま、アンタが嘘ついてねーってのが大前提っすけどね」




 さらりとつけ加えられた一言すらも、どこか妙にあたたかかった。


 


 マイネは言葉を失い、唇を半開きのまま固まっていた。


 胸の奥が、じわりと熱い。


 ──湯気のせいではない。


 まるで初めて“対等な目線”で語られたような、そんな感覚だった。


 


 「“大罪魔王”だから悪い、なんて考え方は、あたしはしたくないんだ。」




 ブリジットが湯に肩まで沈みながら、ゆっくりと、しかしまっすぐな声で続けた。


 


 「マイネさんが言う通りなら、あたしは、マイネさんよりベルゼリアの方が、よくないことしてると思う。」


 「……だから、マイネさんが頼ってきたなら、できる限り応えてあげたいと思ったよ!」


 


 その言葉とともに、彼女はそっとマイネの両手を取った。


 湯で火照った掌と掌が触れ合う。


 どこまでも、あたたかくて、やさしかった。


 


 「……」


 


 マイネは一瞬、目を見開いた。


 そして、次の瞬間。


 ふっと、まるで肩の力が抜けたように笑った。


 


 「……お主、思った以上に大物じゃな。」


 「やはり、欲しいぞ。──妾の宝に加えてやりたくなるわい。」


 


 湯気の向こう、ゆらめく光のなかで、マイネの表情が少しだけ綻んだ。


 


 ──湯気の彼方、フッとリュナが笑う声がした。




 「アンタ……全然懲りてないじゃないっすか。」


 「言うたびに余計に欲しくなるのが妾という存在でな、ふふふ……」


 


 大浴場に、のんびりとした湯けむりと、三人の声が漂っていた。

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