第77話 浴場で曝け出す心
──10年前。
黒曜の塔の最上階。
そこは、天井の高いガラス張りの玉座の間だった。
夜空を映す巨大な窓の外では、星々が無数の金貨のように煌めき、下界の街並みがまるで掌に転がる財宝のように静かに輝いていた。
豪奢な絨毯を踏みしめ、ひとりの男が歩みを進める。
黒髪に鋭い眼差しを宿し、重たい黒のコートに身を包むその姿は、明らかに大人の男。
だがその身体の奥には、呪いに縛られた「まだ十歳の少年」の魂が宿っていた。
彼の名は、ベルザリオン。
そして、その玉座の奥に腰かけていたのは、この地を統べる“強欲の魔王”マイネ・アグリッパ――
「……ふむ。来たか、小僧」
その声は甘く響きながらも、どこか突き放すような冷たさを含んでいた。
紫とピンクの髪を二つに分け、赤と黒のビスチェ風ドレスに身を包んだ少女のような外見。
だが、その瞳の奥には、数百年を超える魔王の深淵が、静かに揺れていた。
マイネは玉座に斜めに腰を下ろしながら、金糸のような前髪の隙間から男の姿を見下ろした。
「名を問うまでもあるまい……“魔剣”アポクリフィスを手にした者など、他におらぬ。して、小僧。貴様は何を望む?」
まるで、魂の根を掘り起こすような声音だった。
ベルザリオンは立ち止まり、その漆黒の瞳を真正面からマイネへと向ける。
その目は、まるで――戦場の中でも一歩も退かぬ兵士のような、研ぎ澄まされた覚悟を湛えていた。
「……金でも、地位でも、名誉でもない。そんなものはどうでもいい」
静かに、だが確かに声を放つ。
「俺はただ……生きたいんだ」
マイネのまぶたがわずかに動いた。
「この忌まわしい呪いに、勝ちたい。命を削られるように日々を過ごすのではなく、俺自身の足で、息で、この世界に“在りたい”だけだ」
部屋の空気が変わった。
マイネの赤い唇が、わずかに上がる。
それは嘲りでもなければ、同情でもない――興味。
「……ほう?」
マイネは立ち上がった。柔らかそうなドレスが床を滑るように揺れる。
そのままゆっくりと玉座の段差を下り、ベルザリオンの前に立つ。
彼女の小柄な身体では、呪われた少年――いや、男の姿となった彼の胸元にしか届かない。
だが、目線は真っ直ぐにぶつかる。
「……欲とは、こうも厄介で愛おしいものか」
ぽつりと呟いたその声は、風のように軽やかで、火のように熱を帯びていた。
「妾はこの世のすべてを欲してきた。宝石も、権力も、知識も……命さえもな。だが、貴様の目に宿るそれは……“交換”の対象とはなりえぬ類のものじゃ」
金銭では買えない。論理では解けない。
それは──「生きたい」という、魂そのものの訴え。
マイネは、ふっ……と鼻で笑い、目元に妖艶な光を宿した。
「面白い、小僧」
くるりと背を向け、スカートの裾を翻す。
だが、その足取りはどこか軽やかだった。
「ならば足掻いてみせよ。その欲のままに、妾の下でのたうち、もがき、掴み取ってみるがよい」
振り返りもせず、手をひと振り。
黄金の帳が床に展開され、ベルザリオンの足元に魔力の紋章が浮かぶ。
「妾の“財”となれ、ベルザリオン。命すら金に換える、強欲の城にて──妾は貴様を見定めよう」
その声に、ベルザリオンは微動だにしなかった。
ただ、深く、静かに膝をついた。
「……この命、使っていただいて結構。ですが、心までは売るつもりはありません」
その答えに、マイネは笑みを深くする。
「ふふ……ますます気に入ったぞ、小僧」
こうして。
“金銭”と“命”という、決して等価にはなりえぬ価値が交錯し、二人の主従が生まれた。
それが、すべての始まりだった。
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湯けむりが、ほのかに甘い香りを纏って空へ立ちのぼる。
カクカクハウスに隣接する、立派な木造の温泉施設──その外観は、どこか東方の古き良き風情を宿していた。
天井の高い大広間、整然と組まれた梁、蒸気が仄かに光を揺らす大浴場。
壁には六角形の光るブロックがアクセントのように埋め込まれており、どこか“ゲーム的な整然さ”と“幻想的な癒し”が共存している。
「……これが、湯屋、というやつかのう……!」
身体に巻いたタオルをぴしっと握りしめながら、マイネ・アグリッパがきらきらと目を輝かせた。
耳先までほんのり桜色に染まったその頬は、風呂に入る前からすでに“高温注意”の様相である。
「……これも、道三郎が作った施設なのか……!」
脱衣所を抜け、大浴場の扉を開いた瞬間、彼女はまるで宝箱を開けた冒険者のように呟いた。
——ぴかぴかに磨かれた檜の床、スライム石風の打たせ湯、色とりどりの鉱石が埋め込まれた岩風呂。
湯けむりの向こうでは、カクカクの湯けむり精霊たちがぷかぷかと浮かび、湯温を自動調整しているらしい。
(カレーだけでなく……この様な芸術的な建造物まで創れるとは……!)
(六場道三郎……ベルが惚れ込むのも無理は無い……!妾の配下に是非とも欲しいぞ……!)
マイネは口元をぐいっと引き結び、背筋を伸ばしたまま、完全に温泉設計に感銘を受けた芸術家の目になっていた。
湯気に煙るその姿は、まるで“温泉に恋した魔王”そのものだった。
「……姉さん。コイツ、良からぬこと考えてるっすよ」
ぽつりと呟いたのは、同じくバスタオル姿でマイネの斜め後ろに立つリュナだった。
少し寝ぐせの残る髪を蒸気にくしゃっとなじませながら、あまりにも露骨に“ニヤけている”マイネを、ちらっと睨む。
「えっ、ええと……マイネさん? 顔、ちょっと……怖いよ?」
ブリジットが汗をかきながら間に入るが、マイネの頬がさらにぷくっと膨らみ、目尻は笑っていた。
「ふふ……怖いとは失礼な。妾はただ……美しいものに素直に感動しておるだけじゃよ。これは芸術、文明、叡智の結晶といえるのう。道三郎殿、侮れぬ男じゃ……」
「ほら、やっぱなんか勧誘とか考えてるっしょオメー!」
「……あはは……」
リュナの容赦ないチクリに、ブリジットは曖昧に笑うしかなかった。
しかし、確かに──
どこか常軌を逸していて、けれど恐ろしく情熱的な何かを、この“強欲の魔王”からは感じていた。
だからこそ、知りたかった。
彼女が、“なぜ戦っているのか”を──
◇◆◇
ざぶん、と優しく跳ねた湯面に、天井から差し込む橙色の光が揺らめいた。
木の香り漂う広々とした浴槽の中、湯けむりが薄くたなびき、桃色に染まった空気が、三人の少女の肌をほのかに包み込む。
まるで夢の中のような、静謐で温かな時間だった。
「……ふぅ~~~~~……っ、しみるのう~~~……!」
脱力した声が、しじまを破った。
タオルを頭にちょこんと乗せ、肩まで湯に沈んだマイネ・アグリッパは、魂が半分どこかへ旅立ったかのような顔をしていた。
小さな吐息が口元からふにゃりと漏れ、頬が蕩けるように緩んでいる。
「久しぶりの風呂が、こんな豪華な大浴場とはのう〜……極楽じゃ〜……極楽の中の極楽、もはや天界で湯治しておる気分じゃ……」
「アンタ、完全におっさんっすよ……」
その姿に、壺湯へ半身を沈めたリュナが、ぼやくように言った。
タオルを頭にのせたまま、壺の縁に両腕をだらりと垂らし、片足をゆらりと湯の外へ出している姿は、"強欲"の名を冠しながらも、明らかに全身全霊で“怠惰”を体現していた。
表情もすっかり弛緩しており、まるで温泉成分に心までとろけさせられたかのようだ。
「でもまぁ……気持ちいいのは認めるっすよ……はぁ〜……」
小さく欠伸を噛み殺しながら、リュナは目を細めた。
一方、やや深めの位置で肩までしっかり湯に浸かっていたブリジットは、二人の姿を眺めて、くすりと微笑を浮かべていた。
けれど、その笑みはほんの一瞬で消える。
湯けむりの向こうで、ふと表情を引き締めたブリジットは、マイネの方へと身を寄せるようにして口を開いた。
「ねえ、マイネさん」
「ん〜? なんじゃ〜、妾の愛しき湯友よ〜……」
とろんとした目でマイネが返す。
その頬にはまだ蕩けた笑みが残っていたが、ブリジットの視線が真剣なものだと気づいた瞬間、ふわりとした空気がすっと引き締まった。
ブリジットは正面からその目を見つめて、静かに言葉を紡いだ。
「あなたの領地、スレヴェルドが……魔導帝国ベルゼリアに占領されたって言ってたよね。」
マイネの表情に、一瞬だけ、薄い緊張が走った。
だがブリジットは言葉を止めず、穏やかに、けれども迷いなく続ける。
「それだけじゃない。“あなたが帝国を崩壊寸前まで追い込んだ”って。」
木の湯桶がひとつ、風に吹かれてころんと回った。
ブリジットは静かに、けれど確かな意思をもって言葉を重ねる。
「……私は、あなたを助けたいと思ってる。だけど、助けるって……知ろうとすることから始まるものだと思うの」
「……」
「どうして帝国と敵対していたの? あなたが何をして、何をされて、どう戦ってきたのか……。」
「話せることがあったら、聞かせてほしい。私たちが、あなたのことを本当に“味方”でいるために」
その瞳には、余計な打算も、強制もなかった。
ただ“知りたい”という意志と、“分かり合いたい”という願いが、真っ直ぐに宿っていた。
「……」
壺湯の中で、ごくりと喉が鳴る音がした。
「……姉さん、真面目モード入ったっすね」
と、リュナがぽつりと呟く。
湯に浸かったまま、湯の縁にあごを乗せ、片目だけを開けて二人の様子を観察していた。
だが、特に口を挟むことはなく、ぬるま湯に身を任せながら、2人の気配を見守っていた。
湯の中で、さざ波がさわさわと揺れる。
マイネは、しばし沈黙したまま、ぼんやりと湯気の向こうを見つめていた。
やがて、そっと目を閉じる。
そのまま、湯の中で深く、長い息を吐いた。
まるで、その一息が、過去と現在と、胸に押し込めてきたあらゆる記憶の蓋を——少しだけ開けるための合図のようだった。
「……助けを乞うなら、話すのが礼儀かの」
静かに、ぽつりと落ちた言葉は、どこか澄んでいて、そして……寂しげでもあった。
“強欲の魔王”という肩書きからは想像もつかない、思慮と葛藤を孕んだ声音。
それはまるで、“本当の自分”をようやく認めてほしいと、誰かに願う心のようでもあった。
ブリジットは、言葉を返さず、ただゆっくりと頷いた。
まるで「あなたの言葉を待っているよ」と、湯のぬくもりごと受け止めるように。
浴室の中で、しばしの沈黙が広がる。
けれどそれは——
言葉を待つ静寂であり、誰かの心が少しだけ開かれる、前触れの時間だった。
「そうじゃの……。まずは、彼の魔導帝国ベルゼリアの成り立ちと、妾との因縁から、語るとしようか。」
湯船に浸かり、頬を桃色に染めたまま、
"強欲の魔王"マイネ・アグリッパは、
──静かに語り始めるのだった。