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第76話 涙ひとしずく

──百年ほど昔の、とある交易都市。


春先の風が吹く、石畳の市場の裏路地。


 


「──エレナを、あんな貴族にやる気かよ」


 


声に怒気はなかった。


だが、その響きには、明確な拒絶と悲しみが混じっていた。


 


赤レンガの倉庫に背を預け、ヴァレン・グランツは苦々しい顔で、眼前の少女を見下ろしていた。



"強欲の魔王" マイネ・アグリッパ。



だがその眼差しは鋭く、計算された王者のような自信と野心を宿していた。


 


「“やる”とは心外じゃのう、色欲の」




マイネは扇子を軽く振り、ふわりと春の花弁を吹き散らす。




「エレナが選んだのじゃ。妾はただ、その背を押しただけのこと」


 


「違うな」




ヴァレンの口調は静かだったが、視線は氷のように冷たかった。




「お前が“利益”の話しかしなかったから、彼女は迷った。『私の才能は国家の役に立つ』ってな」


 


「それのどこが悪い? 」




マイネの唇がわずかに吊り上がる。




「彼女の才は稀有じゃ。金融と物流、両方を操る頭脳。あの者が名門レグナム家に嫁げば、五年で三つの都市の経済が潤うじゃろうて」


 


「じゃあ、彼女の幸せは?」




ヴァレンが一歩踏み出した。




「エレナは“幼馴染のアイツ”とささやかな雑貨屋を開くのが夢だった。金も名声もいらない。日々の会話と、毎朝のパン。それで充分だったんだ」


 


「くだらん」




マイネは一言で切って捨てた。




「恋など気の迷いじゃ。幻想にすがるより、才を活かす方が、世界はよほど潤う」


 


ヴァレンの手が震えた。拳を握る。


だが殴りはしない。ただ、静かに目を閉じると、呟いた。


 


「……やっぱり、お前と俺は平行線だな、」


 


マイネは答えなかった。



扇子を閉じる音だけが、二人の間に乾いた音を響かせた。


 


空は青く澄み、木々の梢が揺れていた。



けれど二人の間には、もうその風は届かない。


 


──それが、1人の少女を巡る、二人の魔王の“別れ”だった。




────────────────




 夜の帳が下りた屋敷の中、灯されたランプが赤銅色の光を揺らしていた。



 カクカクハウスの応接間──重厚なソファと手入れの行き届いたテーブルが並ぶ中、2人の影が対峙している。


 一方は、完璧な所作でティーセットを運び入れる執事姿の青年、"至高剣"ベルザリオン。


 その背筋はまるで刃のように伸びており、ひとつの乱れも許さぬ完璧さがあった。



 対するは、やや気だるげな風情を纏いながら、角張ったフォルムのソファに斜めに腰掛けた男、"色欲の魔王"ヴァレン・グランツ。


 サングラス越しに、彼は青年を静かに見据えた。


 


「……キミのことは、相棒から──キミが呼ぶところの“道三郎”から、チラッと聞いてはいたよ」




 カップを揺らす音が、静かな部屋に響いた。




「以前、相棒にこっ酷くやられて……それから救われたそうじゃないか」




 ──瞬間、ベルザリオンの手が、カップを置く動作の途中で僅かに止まる。


 すぐに何事もなかったように動作を続けるが、そのわずかな動揺は、ヴァレンの目には見えていた。




「……仰る通りです」




 青年の声は低く、落ち着いていた。しかし、その奥には深い屈辱と、誓いのようなものが潜んでいる。


 あの日の記憶──自らの剣を、菜箸二本であしらわれ、膝をつき、無様に泣き崩れた己。



 だが同時に、それ以上の恩も受けた。



 折られた剣──《アポクリフィス》は、“真の姿”へと打ち直され、


 呪いに蝕まれていた魂は、あの方が作ったカレーで解き放たれた。




 救いとは、かくも理不尽で、優しい。


 


 ヴァレンは、そんな彼の様子を見ながらも、追い打ちをかけるように、静かに言葉を紡いだ。


 


「……ならば、薄々気づいてるんだろ?」




 サングラスの奥──隠された瞳が、確かに射抜くような鋭さを帯びる。




「相棒が、どれだけ“人智”を超えた存在かを。人としての形をしていながら、決して人の域にいない存在だってことを」




 ベルザリオンは答えない。ただ、その拳をテーブルの下で強く握り締める。




「それに……聞いた話だと、キミは過去の罪を悔いて、魔王軍を抜け、新たな人生を歩むと、相棒に誓ったはずだよな?」




 テーブルを挟む距離で、ヴァレンの声音が一段階下がる。


 その口調は穏やかでありながら、怒りではない“違和感”のような何かを帯びていた。


 


「なのに──どうしてまだ、“強欲の魔王”マイネ・アグリッパの側にいる?」


 


 沈黙。


 ベルザリオンの口元が、わずかに歪む。


 それは苦悶か、羞恥か、言い訳か──定かではない。


 


 ヴァレンは、あえてその空白を埋めずに、さらに言葉を続けた。


 


「俺がどうこう言う権利はないさ。キミに何の恩も恨みも無い、ただの第三者だからな」




 茶化すように肩をすくめるが、その眼差しには、僅かな怒気が宿る。




「けどな……自分の発した“誓い”すら守れず、

そのくせ都合が悪くなると相棒の……“強者”の力を頼る──」


 


 サングラス越しに、ヴァレンの顔が冷たく笑った。


 


「……それじゃ、流石に筋が通ってないってもんじゃないかい?」


 


 その一言が、応接間の空気を凍り付かせた。



 ベルザリオンは……動かない。



 握った拳は、なおも震えている。


 声も、言葉も出せないまま、彼はただ、静かにその言葉を受け止めていた。


 


 だがその表情には──明確な“動揺”が浮かんでいた。


 まるで、心の奥に仕舞っていた何かを、えぐり出されたような。


 


 そして、それが次の言葉へと、繋がっていく。




 重ねられた沈黙の中で、しばしの間、時だけが過ぎた。



 やがて──執事の青年は、深く、ひとつ息を吐いた。



 それはまるで、胸の奥に張りついていたものを、そっと手放すような音だった。


 


「……ヴァレン様の仰ることは、ごもっともです」


 


 落ち着いた声音だったが、その響きには僅かに揺れがあった。


 己の過去を否定せず、他者の忠告を真っ直ぐに受け止める誠実さ──それが彼の本質なのだろう。




「……あの時──道三郎殿のカレーによって、“魂の呪い”から解放された瞬間……」




 あの日の記憶が、青年の瞳に浮かぶ。


 呪詛に満ちた己の命に、初めて“明日”という概念が与えられた瞬間。




「私は……マイネ様の元を離れるつもりでおりました」


 


 ヴァレンの眉が、僅かに動く。


 が、言葉を挟まず、ただ続きを待った。


 


「ですが……そのことを“お嬢様”──いえ、マイネ様にお伝えしたとき……」




 ベルザリオンの言葉が、一瞬だけ途切れる。


 沈黙が、重く、感情を孕んだ空気として漂った。


 


「……私は、初めて、マイネ様が“涙”を流されるのを見たのです」


 


 その瞬間、ソファに座っていたヴァレンの視線が、わずかに動いた。



 反応は最小限だったが──サングラスの奥で、その目が確かに「ん?」と訝しんでいた。



 肩の力が少しだけ抜け、肘を背もたれに預ける仕草。


 表情を変えぬまま、だが明らかに“聞く姿勢”が変わっていた。



 ベルザリオンは、それに気づかない。


 


「……マイネ様は、私の呪いが解け、若返り寿命が伸びたことを……まるで“ご自身のこと”のように、喜んでくださいました」




 言葉を発しながら、ベルザリオンの胸元に、うっすらと手が添えられる。


 その仕草は、紛れもなく“心”を指していた。




「私は……長らく、あの方の傍に在りながら……あのような表情を、見たことがなかったのです」




 苦悶でも、憤怒でも、欲望でもない──

 素顔の、誰かの幸福を願うかのような、涙。




「私が“新たな人生を歩みたい”と告げたとき……マイネ様は、初めは“快く送り出す”と仰ってくださいました」




 その言葉の余韻をかみ締めるように、ベルザリオンは静かに目を伏せる。




「けれど──その瞬間、あの方の目から……ひとしずく、涙が落ちたのです」


 


 ──言葉を失う。


 


 ヴァレンは、その瞬間、グッとサングラスを押し上げた。


 


(……マイネ・アグリッパが……? あの強欲の魔王が?)


 


 彼の脳内に、ツインテールに地雷系ファッションを纏い、「妾はな、この世のあらゆる富を手に入れるのじゃ〜」などと高笑いしていた女の姿が思い浮かぶ。




(部下の出立ごときで、涙を流した……? ……マジで?)


 


 片方の眉がわずかに跳ね上がる。


 そして、ヴァレンは──興味を隠さなくなった。


 口元には、ごく微かに笑み。


 だがそれは、嘲りでも侮りでもない。


 まるで、自分が知らなかった“面白い本の第2章”を発見した時のような、


 そんな知的好奇心をくすぐられた男の顔だった。


 


(……おいおいおい……それって……)


 


 右足が軽く揺れた。


 どこか浮ついたその反応は、彼が“本気で何かを面白がっている”証拠だ。




(もしや、アイツ……ベルザリオンくんに……?)


 


 その予感は、決してただの勘ではなかった。


 そしてヴァレン・グランツは、ひとつ確信したのだった。


 


 ──これは、アツい展開になってきやがった。




 ◇◆◇




 重たい沈黙が、ふたりの間に降りていた。


 ベルザリオンは静かに椅子の背に寄りかかり、背筋を正す。


 長い睫毛の影が瞳に落ち、指先は膝の上で硬く重ねられている。


 その姿はまるで、己の心の底に沈んだ真珠を、深海からすくい上げようとする者のようだった。




「……その御姿を見て、私は……気付いてしまったのです」




 その声は小さく、それでいて、芯があった。


 霧の奥で灯る篝火のように、揺れながらも確かにそこにある熱を孕んでいた。




「……自分の気持ちに、です」




 一語一語を確かめるように、ベルザリオンは言葉を紡いだ。




「呪いを受けた身である私を……“有用である”という一点で徴用し、そばに置いてくださったお嬢様。利で動くお方だと、私はそう理解していたつもりでした。しかし……」




 その瞳が、ゆっくりと細められる。




「マイネ様は、私の呪いが解け、寿命が延びたと知った時……心から、嬉しそうに笑ってくださったのです。あの方が、他人の幸を“自分の幸せ”のように喜ぶお姿を、私は初めて見ました」




 少し間があった。唇が、何か言いかけてはまた閉じられる。




「その時……私は、悟ったのです」




 ベルザリオンは目を伏せた。




「……私にとって、あの方は、もはや“主”ではないのだと」




 ──ガタン!


 乾いた衝撃音が空気を裂いた。ヴァレンが勢いよく椅子を蹴って立ち上がった音だった。




「ちょ、ちょっと待て!!」




 指差すでもなく、テーブルに手をつくでもなく、ただその場で立ち尽くしながら、ヴァレンは顔をこわばらせていた。



 だがその表情は驚愕だけではなかった。



 どこか……高鳴る胸を抑えきれない少年のような、それでいて絶対に見逃したくない、恋の芽生えを見つけた読者のような──


 そんな複雑な感情がないまぜになっていた。




「えーと……ベルザリオンくん? 今の話って……つまり……ひょっとして、あのマイネを、“女性として好きになっちまった”みたいな……そういう話をしようとしてるのかい?」




 鼓動が、ヴァレンの耳の奥で跳ねている。


 まさか、あの氷のような合理主義者、マイネ・アグリッパに、恋愛沙汰のフラグが立っていたとは。


 

 ベルザリオンは、恥ずかしげに目を伏せた。




「……いえ、忘れてください。これは……このような状況でする話ではありませんでしたね」




 その言葉には、自嘲と、それでも抑えきれない想いの影が滲んでいた。




「いやいやいやいや!!」




 ヴァレンが慌てて身を乗り出す。後方に倒れた椅子が、床に軽い音を立てて転がった。




「そこ、すっごく重要だから!!

"このような状況下"だからこそ、

すっごく重要だから!いやマジで!!」


「キミからすると、俺が何言ってるのか分からないかも知れないけど、その話の詳細如何(いかん)で、キミたちの運命が変わるかもしれないよ?」


「もうちょっと!そこんとこ、もうちょっと、詳しく話してくれないかな?照れとか、いらないからね?素直な胸の内を話してごらん?」




 尋常じゃないテンションで食いつくヴァレンに、ベルザリオンはビクッと肩を揺らす。


 まるで乙女ゲームの隠しルート選択肢を見つけたプレイヤーのように、ヴァレンの目が輝いていた。


 ラブの匂いには敏感な、色欲の魔王の本領発揮である。



 ベルザリオンは一瞬、呆気に取られたような表情を見せたが、やがて小さく息を吐き、ゆっくりとうなずいた。




「……そうですね。私は……お嬢様を──マイネ・アグリッパ様を……異性として、好いているのだと、思います。」




 それは、まるで祈りのような言葉だった。


 人知れず胸に灯していた想いを、今ここで静かに、誰かに告白する──


 それだけのことに、どれほどの勇気が要っただろうか。




「……だからこそ、私は……あの方を、お守りしたいのです」




 その言葉には、剣のように真っ直ぐな決意があった。


 主従の関係ではなく、人と人として──ベルザリオンは、確かに今、自分の気持ちに名を与えたのだ。


 それを聞いたヴァレンは──案の定、嬉々として目を見開き、拳を握りしめていた。




(──きた、きたきたきた!! そうなってくると、俄然話は変わってくるぜ……!?)


(──『恋を知らない強欲お嬢様』と、『呪いから解放されたイケメン剣士執事くん』の、上司と部下の禁断のラブストーリー……だと……?

──いやいや、そんなもんさぁ……)


(──控えめに言って………最高だ!)




 ベルザリオンは一度だけ、静かに息を吸い込んだ。


 そして、まるでその息を決意に変えるかのように、椅子を離れて立ち上がると、きびすを返し、ヴァレンの正面へと歩み出る。


 その動きには、魔王に仕える者としての厳格さよりも、ひとりの人間としての誠意が滲んでいた。




「……色欲の王、ヴァレン・グランツ様」




 静かながらも芯のある声が空気を震わせる。




「無理を言っているのは、重々承知しております。けれど……」




 ベルザリオンはその場で膝を折り、背筋を伸ばしたまま、深々と頭を垂れた。




「どうか……どうか、お嬢様のために、ご助力を願えませんでしょうか!」




 その額が床に届かんばかりの勢いで伏せられる。


 彼の姿はまさに、忠臣のそれだった。


 だがそれ以上に、そこには、恋い慕う者の必死な想いが込められていた。




 ヴァレンは一瞬、目を瞬かせた。


 まるで想定外の展開に軽く目を丸くしたような表情。


 しかしそれも一拍だけのこと。


 すぐに口元をニカッと吊り上げ、得意げに親指を立てた。




「──オッケー! 任せなさい!」




 それはまさに、太陽のような快答だった。


 ベルザリオンは顔を上げ、目を見開いたまま固まる。



「え、ええっ!? い、いいのですか!? いえ……その、ありがとうございます!」



 驚きと喜びがないまぜになった表情で、彼は思わず立ち上がる。


 普段は常に冷静沈着である彼の顔に、少年のような安堵と笑みが浮かんでいた。


 その胸中には戸惑いもあった。


 

(……どうしてそこまで即答を? この短期間で、ヴァレン様にどんな心境の変化が……?)



 だが、その疑問は、ヴァレンの軽やかな脳内では想像もされていなかった。




(ククク……。そんな真剣でラブい空気を目の前で見せつけられたら、手伝わないわけにはいかないじゃあないの。)




 そう心の中で呟きながら、ヴァレンはふっと鼻で笑うように息を吐いた。


 その表情はどこか朗らかで、そして少しだけ誇らしげだった。


 気まぐれな魔王を演じつつも、胸の奥では──


 “愛”の気配に誰よりも敏感な男としての、確かな情熱が燃えている。




(ブリジットさんやリュナ、それに……相棒がどう動くかはまだ分からないが……)


(少なくとも俺は、このベルザリオンくんの恋路を、全力で応援してやるよ)


("色欲の魔王"ヴァレン・グランツの名に賭けてな)




 その視線がふと、遠くを捉える。


 扉の向こう、大浴場の方向。そこで何が起きているかは、まだ知る由もない。


 だが、確実に──物語の歯車は、新たな方向へと動き始めていた。




(……さて、ブリジットさん。キミは“強欲の魔王”マイネ・アグリッパを、どう見る?)




 その口元には、悪戯を思いついた少年のような笑みが浮かんでいた。


 何かが始まる、その予感を楽しむかのように。

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