第73話 "強欲"来たりて、香りに誘われ
「……いやいや、ちょ待って?」
リュナは両手を軽く挙げながら、一歩後ずさる。
川辺に立ち尽くしている“執事服の騎士”ベルザリオンの、あまりに真剣すぎる表情に思わず眉をひそめた。
「ブリジット姉さんは、確かにあーしらのボス的存在っすけど……」
そこまで言って、リュナは肩をすくめる。
「その……六場道三郎? ……誰っすかそれ? そんなヤツ、うちにはいねーよ?」
黒マスクの下で口を尖らせながら断言するリュナの言葉に、ベルザリオンは明らかに困惑の色を浮かべた。
「そ、そんな筈は……!」
そのまま目を見開き、必死に訴えるように声を重ねる。
「人智を超越した力……美しく輝く銀色の御髪……」
「私は、あのお方の姿を、《《あの時》》以来、一時たりとも忘れた事はありません!」
その頬を伝うものが、熱い想いによる涙であることは明白だった。
「……ベルよ」
ふいに、不機嫌そうな声が後方から割り込む。
呟いたのは、ベルザリオンの後ろに立っていた、派手な地雷系ファッションの少女──地の底から湧き上がるような眼差しでツンと唇を尖らせていた。
「妾より、そいつの事の方が……尊敬してるっぽく、ないか……?」
低く刺すような声色だったが、ベルザリオンはまるで聞こえていないかのように無反応だった。
リュナはそれを聞き流しながら、ふっと表情を和らげた。
「銀色の髪、ねぇ……」
呟くように言いながら、彼女の頭にはすぐに一人の人物が思い浮かぶ。
(あー……これ、兄さんのことっすね、たぶん)
数秒の沈黙の後、口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
(……どうせまた、何かテンパって適当に嘘ついたんすね。あの人、そういうとこあるから……)
そして、ひとつ息をついたあと──
「……あーね、把握。」
そう言って、リュナは改めてベルザリオンの方へ目を向けた。
「その……道三郎?って人、多分、あーしのご主人様っすわ」
瞬間、ベルザリオンの顔がパァッと明るく輝いた。
「やはり、そうでしたか!!」
感極まった様子で拳を握り締める彼に、リュナは片手を腰に当てつつ、もう片方の手で額をトントンと軽く叩いた。
「……それにしても、何であーしが兄さん……その、“道三郎”の眷属だって思ったんすか?」
問いかけに、ベルザリオンは神妙な面持ちで目を閉じた。
そして、彼の胸元に収められた一振りの銀色の剣──“アポクリフィス”を大切そうに抱きしめる。
「……私とこの愛剣アポクリフィスを、永きに渡る“呪い”から救ってくださったのが、あのお方なのです」
リュナの目がわずかに細められる。
剣から放たれる無言の威圧感──なるほど、確かに只者ではない気配がある。
「我が愛剣……"真竜剣アポクリフィス"を、真の姿へと打ち直してくださったのも、あのお方……道三郎殿なのです」
その声には、剣士としての誇りと、救いへの感謝が滲んでいた。
リュナは思わず目を細め、胸の内でつぶやく。
(あー、なるほど……その剣……兄さんが、何かしたヤツなんすね)
(……そりゃ、ヤベー気配するはずだわ)
肩をすくめつつも、口元に浮かぶのは、どこか誇らしげな笑みだった。
──銀色の髪。仮の名。偽りの道三郎。
だがその影響は、こうして異なる運命を動かし始めていた。
◇◆◇
澄んだ川の音が、会話の余白に静かに流れている。
ベルザリオンは、リュナの前に跪くように片膝をつくと、鞘に収めたままの"真竜剣アポクリフィス"をそっと掲げた。
その仕草は、まるで神前に宝を捧げる祈りのようだった。
「……アポクリフィスは、謂わば“あのお方”の眷属も同じ……」
低く、だが芯の通った声で彼は続ける。
「そのアポクリフィスが……貴女に刃を向ける事を、断固として拒絶した」
そして、静かに目を開き──リュナの金の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「それは即ち、貴女が……あのお方にとって、“大事な存在”だからに他なりません」
その言葉に、リュナの肩がピクリと震えた。
「……え、ええ〜……?」
思わず首をすくめながら、リュナは顔を逸らす。うっすらと、耳まで赤く染まっていた。
「……あーしが、兄さんにとっての、“大事な存在”〜……?」
恥ずかしさを隠すように手を振りつつ、上目遣いでちらりとベルザリオンを見る。
「ま、まぁ〜……その雰囲気も? なきにしもあらず? みたいな〜……?」
照れ笑いを浮かべたまま、身をくねらせるようにして足先で地面をこすり、肩を上下に揺らしていた。
その様子を後ろから見ていた地雷系女子は、眉間にくっきりと皺を寄せると、
「……チッ!!」
あからさまに苛立ちの舌打ちを響かせた。
しかし、当のリュナはそれに全く気付かず、どこか上機嫌な笑みを浮かべたまま、ポンと手を打った。
「よーし、いっすよ!」
自信満々に胸を張ると、両手を腰に当て、快活に言い放つ。
「兄さんのとこまで、案内してやるっすよ!」
その言葉に、ベルザリオンは顔を輝かせるようにして立ち上がり、深く一礼した。
「……寛大な対応、心より感謝いたします!」
その姿勢からも、心からの敬意が伝わってくる。
だが、その空気を切り裂くように──背後から、冷たい声が響いた。
「話は終わったか? ほれ、さっさと案内せい」
地雷ガールである。
どこか上から目線で腕を組み、細かく編まれた黒と赤のネイルをカチカチと指先で打ち鳴らす。
「……あ?」
リュナの眉がピクリと跳ね上がる。
ふたりの視線が、スッと交錯する。
「……何じゃコラ?」
「……テメー、何すかその態度?」
ジリ……と、距離を詰めるようにして、互いに顔を寄せる。
リュナの金の瞳と、マイネの潤んだ紫の瞳が、バチバチと火花を散らした。
──犬猿。もとい、竜猿の仲、ここに誕生。
ふたりの間に、空気がピンと張りつめていく中、ベルザリオンは慌てて手を振りながら割って入る。
「お、お二人とも……っ! ここは一旦、休戦と致しませんか……!?」
まるで爆弾処理班のような繊細な動きで、両者の間に立ち尽くす。
リュナはふっと息をついて、わずかに顔を背けた。
「……何なんすか?この偉そうなバカ女は?」
「妾こそ、こんな下品な小娘と一緒くたにされとうはないわ!」
──休戦成立、とはいかず。
だが、同行の約束は結ばれた。
その道が、どんな因縁を呼ぶかは──まだ、誰も知らない。
◇◆◇
陽だまりの道を、三人の影がゆるゆると延びていく。
先頭を歩くリュナは、ふんわりとした足取りで先を行きながら、ときおり後ろを振り返る。
「ほい、見えてきたっすよー。あれが、あーしらの拠点、カクカクハウスっす〜」
開けた道の先に現れるのは、丸みという概念を捨て去った、直線のみで構成された家——通称「カクカクハウス」。
命名者であるアルド本人も、なせこの様なデザインになったのか、実は未だに理由はよく分かっていない。
その異質な建築を目にしたベルザリオンは、目を見開いて立ち止まった。
「こ、ここです……!」
息を呑み、感情を押さえきれぬように声を震わせる。
「ここで……私は……“あのお方”に救われたのです……!」
胸元に手を当て、まるで信仰告白のように言葉を紡ぐベルザリオン。
だが、その横で——
「…………」
彼の主人である地雷系女子は、不機嫌そうに眉をひそめていた。
頬をわずかに膨らませ、長い睫毛の下からベルザリオンを鋭く睨む。
その視線には、嫉妬とも、苛立ちともつかぬ微妙な色がにじんでいた。
(……なーにが、“あのお方に救われた”じゃ……)
口には出さずとも、心の中では毒が滴る。
とはいえ、その毒を撒く暇もなく──彼女の鼻先が、ピクンと震えた。
「……!? ……こ、この香りは……っ!?」
クンクンと、小動物のように鼻を鳴らし、急に身を乗り出す。
鼻先から伝わってくるのは、複雑に混ざり合った香辛料と肉の旨味、そしてどこか懐かしさすら感じさせる——
「……スパイス……スパイスの香りじゃと……!? まさか……カレー!!?」
顔を赤らめ、興奮で全身を震わせるマイネ。
その瞳はまるで恋する乙女のように潤んでいた。
その様子を見ていたリュナが、やや呆れた様子で玄関の扉を押し開ける。
「たっだいまっす〜〜!」
すると、間を置かずしてリビングから元気な声が返ってくる。
『リュナちゃん、おかえりー!』
声の主はブリジット。今日も変わらずハツラツとしていた。
続いて、キッチン奥から聞こえてきたのは、どこか気の抜けた男の声。
『おー、帰ったか! そろそろ戻る頃だと思って、カレーの準備しといたぜー』
「……っ!!」
その瞬間だった。
「わっ……!?」
何の前触れもなく、地雷ガールが風のように走り出した。
まさに一直線、一直線!
スパイスの源と思しきキッチンへ向かって、タタタタタッ!と軽やかな足取りで駆けて行く。
「って、テメーー!!?」
リュナの絶叫が、室内に響き渡る。
「いきなり何処行くんすか!? ちょ、待てコラァァァ!!」
怒鳴りながら後を追うリュナ。
「お、お嬢様ァ!? ご無体な……っ!」
ベルザリオンも慌てて駆け出すが、主に追いつく事は叶わなかった。
だが、彼女の足取りは迷いなく、まっすぐにカレーの香りへと吸い寄せられていく。
彼女の瞳は、まさに“恋に落ちた女のそれ”だった。
キッチンに足を踏み入れた瞬間、地雷系少女の鼻腔を、香辛料と肉の香りが貫いた。
(……この蠱惑的で芳醇な香り……ま、間違いない……っ!!)
鮮烈なスパイスの香りの奥に潜む、どこか懐かしい甘味。
まるで夢の中でしか味わえなかった、あの至高の記憶の再来。
地雷系少女の喉が、音を立てて鳴った。
(これは……“道三郎のカレー”じゃっ!!)
心を奪われた彼女は、無意識のまま調理台へと歩み寄った。
そこには、白シャツに黒いスラックスを着こなし、スタイリッシュなエプロンを身にまとった男の背中。
巻いたキッチンバンダナから覗く後れ毛と、スッと通った背筋。
その手元では、香り立つルゥが丁寧に皿へと盛り付けられている。
(おお……この美しき所作……もはや芸術の域……)
マイネは思わず、そっと男の肩を叩いた。
「そこな給仕の男……!妾に、そのカレーを献上せよ……!なに、タダとは言わん……礼ならホレ、この通り……」
腰のポーチから札束を取り出し、男の頬を叩こうと近づけていく。次の瞬間──
「ん?何だ?お客さんが来てるのか?」
男が振り返る。
その瞬間、マイネの全身が凍りついた。
「──ゲェッ!!?」
盛大な悲鳴と共に、札束がばさっと宙に舞う。
「ヴァ………ヴァレン・グランツ!?」
「な、何故、貴様がここに……ッ!?」
全身を強張らせながら、後ずさるマイネ。
その頬は青ざめ、口元はひきつった笑みを浮かべている。
男──ヴァレンは、無造作にサングラスを指で押し上げながら、ゆっくりとマイネの顔を見下ろした。
「……ん? お前、ひょっとして……」
サングラスの奥、目が細められる。
そのとき、パタパタとリビングから数人の影が駆け込んできた。
ブリジットが腕にフレキを抱えたまま、驚いた表情で尋ねる。
「ど、どうしたの!? ヴァレンさん!」
続いてリュナが不機嫌そうに顔をしかめる。
「ん? ソイツ、おめーの知り合いっすか?」
ヴァレンは眉を上げ、ふっと唇の端をつり上げた。
「知り合い……って言うか……」
そして、楽しそうにこう言い放った。
「──コイツ、俺の同類。」
その一言に、マイネの肩がピクリと震える。
次の瞬間、後ろにいたベルザリオンが慌てて一歩前に出る。
「……紹介が遅れて、誠に申し訳ありません……」
マイネを庇うように一礼しながら、声を整える。
「お嬢様は……我が主は、“大罪魔王・第三の座"に着くお方……」
「“強欲の魔王”──"マイネ・アグリッパ"様です……」
静寂が走る。
「え、えぇぇーーーっ!??」
ブリジットが思わず声を上げる。
「……また”大罪魔王”かよ……一人いりゃ十分っすよ、そんなもんは……」
リュナが額に手を当てて、呆れ気味にぼやく。
その一方で、マイネは(やば……やばばば……)と内心で叫びながら、「はわわわ……」と謎の音を発し、視線をあちこちに泳がせている。
──なぜなら、彼女は今、とある事情で、自身の"魔神器"を手放していた。
魔王としての本来の力を発揮できぬ状態で、他の魔王と邂逅してしまったのだ。
(よりにもよって、あのヴァレンと遭遇するとは……ついてないにも程があるじゃろ……)
そんなマイネに、ヴァレンはカレーの鍋をひょいと持ち上げながら言った。
「……とりあえず、お前もカレー食う?」
その問いに、マイネは一度目を閉じて深く息を吸い込み──
「……特盛でいただこうかの」
諦めにも似た覚悟の表情で、そう答えた。
彼女──"強欲の魔王"マイネ・アグリッパの中で、「逃げる」でも「威圧する」でもなく、
今はただ「食う」ことが、最も賢明な選択肢だという結論が下された瞬間だった。