第64話 side 影山孝太郎① ──導かれし者たち──
春の午後。
窓から差し込む陽光が、教室の床をまばゆく照らしていた。
都内私立・西都学園高校の1年3組。四月の新学期が始まってまもない午後のことだった。
午後の授業が始まる五分前。
教室には、昼休みの余熱がまだ揺らめいていた。
窓の外では、春の陽射しがぼんやりと差し込んでいる。
桜の花びらはもう散り終えて、遠くの校庭にちらちらと舞う影もない。
代わりに、教室内ではまばゆい日差しが反射して、ざわつく机や椅子の音、スマホの電子音がけだるく混じり合っていた。
「ねぇねぇ、ミオってさ、これ知ってる?原宿の"フォトンカフェ"。めっちゃ映えない?」
前列の左側、窓際から三番目あたり。
艶やかな茶髪をゆるく巻いた女子が、スマホを覗き込みながらはしゃいでいた。名前は高崎ミサキ。
髪色に負けず劣らず、声も明るくはじけていた。
「え〜〜めちゃくちゃ可愛い〜っ♡うちらも行こ行こ!てか制服で行ったら最強じゃね?」
隣に座る内田ミオが、画面を覗き込みながら顔を近づける。
長めのカラコンと睫毛の影が、画面の光に照らされてキラキラと揺れた。
「マジで?じゃあ日曜ヒマ?さっちゃんも来るっしょ?」
「あー、ワンチャンいけるかも〜。てかミサキ、またストーリー撮ってるし〜笑」
最後に応じたのは、少し落ち着いた雰囲気の佐倉サチコ。
それでも指先はスマホを器用に滑らせ、タイムラインに流れるカフェやコスメの動画を流し見している。
女子三人組の笑い声が弾けるたび、空気が軽く跳ねる。
──だがそれをどこか、舞台裏から眺めるように見ていた者がいた。
教室の一番後ろ、窓際の席。
いわゆる“主人公席”。
そこに座る男子──"影山孝太郎"は、肘をつきながらその光景を眺めていた。
手元のシャーペンは回すでもなく、ただ親指と人差し指の間でゆるく揺れているだけ。
(……元気だな、ほんと。あいつら)
思っただけで、口には出さない。
出しても、誰かが反応するとは限らないからだ。
視線を少し右にずらす。今度は別の騒がしさが耳に入る。
「だからよ!この前の『異世界メシ神様』、チート過ぎだろ!?野菜洗っただけでスキル爆上がりとか、作者どうしたよ!」
「いやいや、俺は逆にアレ好きだわ。チートって言うか、もう神だしな、あいつ!」
「そもそも“野菜を洗うだけ”って日常の美学だから!異世界でリアル路線に振り切るってマジあり」
「わかる!あと、ヒロインのリリィたんが合法ロリ過ぎて最高!」
前列右側、机を四人で囲むように座るオタクグループ。
メンバーは、快活なオタボイスの石田ユウマ、ちょっとぽっちゃり気味の藤野マコト、メガネがずり落ちそうな久賀レンジ、そして一見まともそうな西條ケイスケ。
会話の内容は……まあいつも通り。
だが、耳を塞ぐ気にはなれなかった。むしろ、慣れてしまっている自分がいた。
(それにしても、異世界ねぇ……)
孝太郎は、ため息混じりに窓の外へ目を向けた。
流れる雲の形を目でなぞる。
しばしの無言。
彼の存在は、まるで風のようにクラスの誰にも引っかからず、通り過ぎていく。
良くも悪くも、“普通”で、“そこそこ”。
勉強も運動もできる方だ。
顔だって、悪くはない。
……だが、何かが足りない。
主に、存在感が。
それを彼自身が、最もよく分かっていた。
(まあ、俺には関係ない話か)
目を細めたそのときだった。
「……あーもう!鬼塚、またそんな座り方してる!」
教室の前の方で響いた声に、孝太郎は思わず顔を上げる。
声の主は、クラスの女子委員長、天野唯。眼鏡の奥の瞳が怒りで細くなっている。
「ああ〜、こりゃ落ちても知らねーぞ〜。背もたれギシギシじゃねーかよ、あれ」
と、隣の男子委員長、佐川颯太が苦笑しながら続けた。
二人が見ているのは、教室後方、廊下側最後尾の席。
──鬼塚玲司。
机に足を投げ出し、椅子を後ろにギシギシと揺らしながら、両手を頭の後ろで組んでいる。
口元にはいつものように無愛想な線だけが浮かんでいた。
天野唯が詰め寄ろうと一歩踏み出しかけた時、鬼塚はちらりとこちらを見やる。
……目が合った。
……様な気がした。
(うわっ)
孝太郎は思わず視線を逸らした。
まるで小動物のように、咄嗟に逃げる本能が働く。
(今時こんなテンプレ不良、ホントにいるんだな……)
そんな思考が頭をよぎる。
でも、たぶん、誰もが鬼塚には触れない。関わらない。
そういう空気だった。
そして、そんな彼を少し離れた席から観察している自分もまた──
誰からも、触れられない存在だった。
(……まぁ、俺も似たようなもんか)
孝太郎は、小さく笑った。
誰にも見られない笑みを、こっそりと、ひとりで。
──それは、変わらぬ日常のはずだった。
だが、このあと訪れる“非日常”が、すべてを一変させるとも知らずに。
◇◆◇
鬼塚玲司が投げ出した足を降ろすことはなかった。
天野唯の声にも、佐川颯太の苦笑にも、一切の反応を示さず、ただ窓の外をじっと見ていた。
教室の喧騒のなかにあって、彼の存在だけがどこか異質だった。
風景に馴染まぬままに、彫像のように沈黙を守っている。
(まるで……この空間に、興味がないみたいだ)
そう思ったのは、影山孝太郎だった。
彼はまた、そっと目線を上げて鬼塚を見た。
先ほど一瞬だけ目が合った相手。あの目の奥にあった、深く濁った黒。
あれは——何かを見捨てた者の目だった。
「も〜う、鬼塚くん! せめて座り方だけは普通にしてくれない?椅子壊れたら、また職員室で怒られるの私なんだからね!」
「うっせぇな。教師の肩持つとか、どんだけ真面目ちゃんだよ、委員長さん?」
「委員長だから、真面目にやってるの!」
天野唯が言い返すその声は、苛立ちというよりも──心配に近い。
彼女は真剣だった。クラスの雰囲気、秩序、先生たちとの橋渡し。すべてに気を配っていた。
その表情も、どこか母性を滲ませるように柔らかい。
だが鬼塚は、その優しさにさえ、刺々しい拒絶で返す。
「うぜぇよ。どうせ俺がどんな座り方してようが、お前の人生には関係ねぇだろ」
「……そういう言い方、しないで」
小さな沈黙。
だがその沈黙を、隣の佐川颯太がやんわりとした声で解いた。
「まあまあ。鬼塚、そろそろ先生来るし、な?
一応、授業前だしよ。」
「……チッ」
不良の溜め息と、委員長の眼鏡の曇り。
両者の間にある溝は、あまりにも深く、そして誰もそこに橋をかけようとはしなかった。
そのやりとりのすべてを、孝太郎は静かに見ていた。
(……正義感と、無関心。真っ直ぐな人と、ひねくれた人)
彼らが発する言葉はどちらも本気だ。それは分かる。
だからこそ、互いの心が交わらないのが、なんとなく苦しかった。
(俺は、どっち側なんだろう)
その問いは、誰に向けるでもなく、ただ教室の騒がしさに紛れていった。
その時だった。
教室の前の席で、ふと一人の男子が声を上げた。
「なぁなぁ、もしさ、突然“異世界”とかに召喚されたら、どうする?」
声の主は、だった。目を輝かせ、両手で机をバンと叩きながら立ち上がる。
「やっぱ最初にスキル確認するっしょ!」
「あと、ステータスオープンだよな!」
「俺はまず女神に挨拶かな……ふふふ、エルフ耳の美少女がいい……」
「お前それ“挨拶”じゃねぇし……」
爆笑が起きる。オタク四天王の異世界妄想談義。いつものことだ。
だが、今日はそれに、別の男子が食いついた。
「おいおい、オマエらアホか? 異世界とかリアルであるわけねぇだろ?」
声の主は、野球部のエース、乾流星。いつも目立つ彼が、机をドンと鳴らして笑った。
「……でも、あったら面白くね?」
と、隣の榊タケルが軽口を叩く。
「部活ない日だったら、俺も行ってみたいかな〜」
「俺は無理!スマホないと死ぬ!」
「わかるー!」
クラスが笑いに包まれた。
異世界召喚──それは、たとえ冗談でも、どこか皆の心に刺さる響きだった。
だが、そのなかで、ただ一人だけ。
影山孝太郎は、冷めた目で彼らを見ていた。
(……なんで、そんなに簡単に“行きたい”とか言えるんだよ)
心のなかで、そっと呟く。
(大切な人も、場所も、全部置いていくってことだろ……?)
孝太郎は、机の上に伏せていた左手を、無意識に握りしめた。
(行ってどうする。チート能力もない、自信もない。俺なんか、向こうでもどうせ“目立たないやつ”で終わるだけじゃん)
自嘲気味に、ふっと鼻で笑った。
(ヒーロー願望? 馬鹿か。そんなの、物語の中だけで十分だろ)
だが、彼の笑みは誰にも見えない。
誰も、気づかない。
教室は今、誰かの「異世界」という言葉に、沸き上がっていた。
まるで、何かの“前兆”であるかのように──。
◇◆◇
チャイムが鳴る少し前――。
教室に、ふと、風が吹き込んだ。
(……あれ?)
影山孝太郎は、何の気なしに窓に目をやった。
しかし、窓はすべて閉じている。カーテンも揺れていない。
なのに、教室の空気が……妙だった。
温度が下がったわけでもない。音が消えたわけでもない。ただ、感覚だけが違っていた。
皮膚の表面を撫でるような、薄く、淡く、それでいてぞわりとするものが、背筋を這い上がってくる。
(なんだ、これ……)
周囲のざわめきも次第に止んでいく。誰からともなく、空気を察したように。
教室の隅でふざけていたオタク四天王が声を止め、ギャルズがスマホから顔を上げた。
鬼塚玲司でさえ、初めて驚いたように目を細めていた。
そのときだった。
「……え?」
誰かが小さく声を漏らした直後、
床に、光が走った。
ギィィィッ──という耳鳴りのような音と共に、
教室の床……黒板前のスペースから始まり、あっという間に、一面に円形の紋様が広がっていく。
幾何学模様、ルーン文字、複雑な円が何重にも重なり合い、まるでSFとファンタジーが融合したような巨大な魔法陣が、淡い紫光を放ちながら浮かび上がる。
「な、なにこれ……!」
「CG? ドッキリ? は?」
「床が……光ってる……っ!?」
「おい、誰かふざけてんのか!?」
誰もが叫び、騒ぎ、席を立つ。
だが、逃げ出すことはできなかった。足が……動かない。
まるで、身体が空気に縫い止められたように、膝から下が硬直している。
影山もまた、立ち上がろうとしたが、無理だった。
足が鉛のように重い。いや、《《拘束されている》》としか思えない。
(違う……これ、夢とかじゃない)
彼の目が、魔法陣の中心を捉えた。
そこには、淡く青い炎のような光がゆらゆらと揺らめいている。
(これは──)
「異世界……召喚……?」
不意に、隣の席の佐川颯太が小さく呟いた。
「……マジで……あるのかよ……こういうの……」
その声には、興奮でも好奇心でもなく、かすかな怯えが混じっていた。
そして、次の瞬間。
世界が、裏返った。
空間が、音ごとねじれた。
光と影が反転し、天井と床が入れ替わるような錯覚。
教室の壁が溶け、視界がぶわっと広がったかと思うと、次にはすべてが吸い込まれるように収束していく。
「――っあああッ!!」
「痛いッ、やめろッ!」
「何!? 何なのこれ!?」
「お母さんっ!!」
叫び声が、悲鳴が、四方から飛び交う。
影山は、自分の身体が宙に浮いていることに気づいた。
それでも、不思議と痛みはない。ただ、感覚が――異様だった。
手足の感触が薄れ、皮膚が空気に分解されていくような、そんな錯覚。
(……俺たちは今……“どこか”に連れて行かれてる……?)
そんな思考の直後、
脳が、強制的に──ブラックアウトした。
──全てが、光に包まれた。
……
影山孝太郎が、次に目を開けた時、
そこはもう、“教室”ではなかった。
◇◆◇
──遠くで、何かが軋んだ。
機械のような、風のような、そして何より人間の声のような、いくつもの音が混じりあい、
波のように耳へと押し寄せてきた。
まぶたの裏が、赤い。
いや、紫か。いや、もっと複雑な色だ。
何重にも折り重なった色彩が、まるで意志を持つかのように、影山の視界を押し開こうとしていた。
(……俺は……)
彼の意識はまだ深い霧の中にあった。
思考はまとまらず、身体も重い。
ただ、脳の奥底で「何か大きなことが起きた」という確信だけが、かすかに灯っている。
そして──次の瞬間。
「……ぅ、あ……」
かすかに、自分の声が漏れた。
まぶたが開いた。
天井が、そこにあった。
けれど、それは見慣れた蛍光灯でも、教室の白い天井でもなかった。
幾何学的な金属構造の天井。
浮かび上がる発光回路のような紋様。
中心部には、水晶のような半透明の球体が浮遊しており、青白い光を静かに脈動させている。
(どこだ、ここは……)
ゆっくりと起き上がる。
頭が重い。
背中はまだ教室の床の感触を探していたが、そこは冷たい金属のような感触だった。
左右を見渡す。
自分と同じように、他のクラスメイトたちも次々と目を覚ましていた。
「……うっ……えっ……ええぇ……っ?」
「どこ……? これ……?」
「……なんか、すっごい……SFっぽい……」
「俺、まだ夢見てんのかな……?」
彼らは困惑と混乱の中、震える声でそう呟いていた。
それもそのはずだ。目の前の光景はあまりにも──非現実的だった。
天井の水晶球から伸びる光のラインが、床や壁にまで続き、部屋全体を柔らかく照らしていた。
柱のように並ぶ半透明の浮遊スクリーンには、読めない文字が浮かんでは消える。
空気の香りすら、学校とはまったく違う。
金属と薬草、オゾンの混じったような、澄んでいて、それでいて少し痺れるような匂い。
(……これ……本当に……)
「……異世界、なのか……」
影山は、口の中でそう零した。
その時だった。
「──目覚めたようね。」
響いたのは、凛とした、女の声。
はっとして前方に視線を向けると――そこにいた。
灰銀色の長い髪が、魔力の風に靡いていた。
漆黒のスーツに紫紺のラインが走る、密着型の戦闘服──まるで《《未来の魔法騎士》》のような風貌の女。
そして、背中にはマントを翻し、六名の衛兵たちを従えていた。
顔立ちは整っていて、神秘的な雰囲気を漂わせている。
その瞳は、赤紫のような、魔力を宿した光を放ち……彼女は、確かに“こちら”を見ていた。
「私の名は、フラム・クレイドル。魔導帝国ベルゼリアが誇る、上級魔導官にして召喚管理局の責任者よ。」
クラスの誰かが「えっ、なにその設定……」と呟いたのを、影山は耳の端で聞いた。
でも、それよりも──フラムの目が気になった。
その目は、誰一人見逃さないように、全員を順に観察していた。
教師のようでもあり、研究者のようでもあり……そして何より、獲物を選ぶ狩人のようでもあった。
「異なる世界より来たる者たちよ。ようこそ、ベルゼリアへ」
フラムは笑みを浮かべて言った。その笑みは、美しくもあり、どこか薄気味悪くもあった。
「君たちは、“世界の危機”に抗う力として選ばれたの。だけど、安心してほしい。我々は君たちを悪い様にする気は無いわ。」
騒然とする教室──いや、もう“教室”ではないこの空間に、ざわめきが広がる。
「悪いようにはしない……って……!」
「いや、もう、無理矢理誘拐してるようなもんじゃ……?」
「選ばれたって……俺たちに何ができんだよ……」
フラムはひとつ、指を立てる。
「答えは、これから明らかになる。
まずは、この“魔導院”にて、君たち自身がどんな可能性を秘めているのかを知ってもらうわ。」
そして、ゆっくりと指を下ろした。
衛兵たちが、一斉に前に出る。
「どうか、落ち着いて。君たちは、すでに“異世界召喚”の初期症状を乗り越えたの。
次に行うのは、“適性の測定”だ。君たちの魂の波長を調べ、どの魔導式が最も共鳴するかを確認するだけ。痛みはない」
(魂の……波長……?)
影山の眉がわずかに動く。
何を言っているのか理解できない──だが、それでも「現実」だという感覚は、はっきりと残っていた。
夢ではない。
これは──本当に、《《異世界召喚》》だ。
(マジかよ……)
心の奥底で、何かがずるりと動いた。
怯えでも、興奮でもない。それは、もっと根深い──予感だった。
──何か、ただごとじゃないことが、これから起こる。