第61話 託される未来、見届ける者
──ルセリア中央公園。
夜は深まり、噴水の音だけが静かに響く。
その芝生の上に、ひとりの老紳士がいた。
深紅の詠唱服を着たその男は、堂々とした姿勢のまま──しかし、まるで何かに服従するかのように──正座をしていた。
宰相、グラディウス・ヴァン・ヴィエロ。
エルディナ王国の重鎮。
“王国の頭脳”と呼ばれるこの男が、芝生の上に膝を折っているという光景は、どう考えても異常だった。
──そして、彼の真正面。
少し戸惑いながらも、同じように正座をする銀髪の少年がいた。
アルド・ラクシズ。
(な、なんでこのおじいちゃん、いきなり正座してるんだろ……)
と心中で呟きつつも、あまりに真剣な空気に飲まれて、自分も座らざるを得なかった。
芝生の感触がじわじわと膝に染み、体勢の不慣れさに内心ではぐらついている。
一方のグラディウスは──魂の震えを抑えるのに必死だった。
ただの少年にしか見えない。
それなのに、さっき“運命視”で垣間見た魂の光──
あれは、理屈を超えていた。
神殿の神像を直視したときのような、あるいは、禁書を読んでしまったときのような。
それは、まさに“見てはならない光”だった。
(──名も知らぬ少年。だが、あれほどの光を持つ者は、見たことがない)
(正体は一切読めぬ……だが、ただひとつ確かに言える)
(この相手には……絶対に、逆らってはならない)
老宰相の判断力は健在だった。
威圧も高圧も意味をなさない。
それどころか、失礼が過ぎれば“何か”を起こしかねない──そんな直感が、彼の背を冷や汗で濡らしていた。
そして、もうひとり。
その様子を傍で見ていた女──魔導長官ミルダ・フォンもまた、困惑と警戒の入り混じったまなざしを少年に向けていた。
グラディウスがここまで萎縮するなど、過去に一度も見たことがない。
無言のまま、彼女も宰相の隣に正座をする。
芝生に立てられた三者三様の膝──それは、もはや儀式のような風景だった。
──その時。
トコ、トコ、と芝の音を立てて、ちいさな影が駆け寄ってきた。
それは、ブリジットに抱えられていたはずのミニチュア・ダックスフント──フレキだった。
「アルドさんのことなら、大丈夫ですよ」
まっすぐグラディウスの前に来ると、ちょこんとお座りして言った。
犬が、喋った。
「すごい人ですけど、すっごく優しい人なんです。だから、安心して大丈夫ですよ」
その声は、あまりに自然だった。
作り声ではない。魔道音声でもない。
まるで、元から言葉を知っている“生き物”の声だった。
「……ぬ……っ!?」
グラディウスの瞼がピクリと動く。
そして反射的に、魂を見る“視線”を呼び起こしかけ──しかし、すぐにやめた。
(いかん……今、視たらまた目が……)
理性が彼の手を止めたのだった。
だが、判断するには十分だった。
(……他に目が行って気づかなかったが……この子犬……魂の光めっちゃ強い……!)
(それに……普通に喋ってるし……!!)
アルドという少年の隣にいて当然のように言葉を操る子犬──
それが、どれほど“世界の常識”から逸脱しているかを、宰相はよく知っていた。
そんな彼の思考をよそに──
そのアルドが、困ったように微笑んだ。
「えっと……その、俺に何かご用でしたか?」
その瞬間、グラディウスの背筋がピンと伸びた。
「お……お初にお目にかかります」
声が、震えた。
「私は……エルディナ王国の宰相、グラディウス・ヴァン・ヴィエロと申します……」
「ど、どうも……ご丁寧にありがとうございます。アルド・ラクシズと申します……はい」
正座したまま、ふたりは丁寧に挨拶を交わす。
その姿はまるで、謁見の儀式そのものだった。
──が。
(えっ? 宰相?)
アルドの頭が、一瞬で追いつかなかった。
(って、めちゃくちゃ偉い人じゃん!! ……なんで正座してるの!?)
混乱が、またひとつ、芝生の上に増えていった──。
◇◆◇
──夜の静けさに包まれた公園の芝生の上で、異様な光景が展開されていた。
エルディナ王国宰相、グラディウス・ヴァン・ヴィエロが正座をし、その真正面に銀髪の少年、アルド・ラクシズが向かい合うように同じく正座している。
その姿はまるで、若き王と臣下の謁見のようでもあり──いや、それ以上に奇妙で、愛らしく、どこか温かな光景だった。
そして──その静寂を破ったのは、アルドの素朴すぎる疑問だった。
「……えっ、宰相?」
ぽそりと呟いたその言葉に、誰もが一瞬、肩を跳ねさせた。
「宰相って……確か、めちゃくちゃ偉い人じゃない!?」
アルドの目が、まるで小動物のようにキョロキョロと左右に泳ぐ。
まず、ブリジットを。
次に、リュナを。
そして最後に──ニヤニヤ笑っているヴァレンを。
「そ、そうだね……」
ブリジットがやや気まずそうに笑い、返す。
リュナはというと、無言でうんうんと頷くだけだった。
一方のヴァレンは、サングラスの奥で笑いを堪えながら、どこか愉快そうにニヤニヤと唇の端を吊り上げていた。
「いやいやいやいや!! そんな人、芝生に正座しないでくださいよ!!」
アルドは思わず立ち上がりそうになったが、慌てて座り直し、両手を前に差し出すようにして言った。
「足、崩してください! 崩してくださいってば!」
そして、横で固まっていたミルダにも慌てて声をかける。
「そっちの……えっと、お姉さんも! 正座とか……そんな! そんなぁ!」
困り顔でぺこぺこと頭を下げながら、あたふたと懇願するアルドに、ミルダは思わず口元を緩めかけたが──すぐに真顔に戻して無言で目を逸らした。
グラディウスはちらりとヴァレンの方を見やる。
サングラス越しに、その視線を受けたヴァレンは、ふんふん、と愉快そうに頷いて見せた。
「……そ、そうか。それでは、失礼させてもらうとしよう……」
そう言って、グラディウスはおそるおそる足を崩した。
その口調は未だ敬語に近かったが、ほんの少しだけ力が抜けていた。
アルドは安堵の息を吐きながら、改めて彼と向き合う。
グラディウスの瞳が、鋭く、しかし敵意なく少年を見据える。
もはや“運命視”のスキルは使っていない──二度と使うまいという決意すら感じられるほどの慎重さだった。
「アルドくん……と言ったね」
「は、はい」
「率直に聞こう。君は、ブリジット嬢とリュナ嬢の……“何”なのだね?」
一瞬、空気が止まったように感じた。
アルドの目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
その頬が、ほんのりと朱に染まり──やがて、彼は照れたように、笑った。
「え、えぇ〜……? そんなこと聞いちゃいます?」
頭をポリポリと掻きながら、どこか居心地悪そうに言葉を継ぐ。
「なんて言うか……友達……じゃないな。友達より大事な人? あっ、剛力◯芽さんみたいな事言っちゃった!」
軽い冗談で誤魔化すように笑いながらも、言葉の端々には本音が滲んでいた。
「うーん……家族……みたいな? あっ、変な意味じゃないですよ!? そ、そういうんじゃなくて!」
慌てて手を振るアルドの様子に、グラディウスは頭を抱えたくなった。
(……そういう意味ではないのだが……)
(……あと、剛力◯芽とは、誰だ……?)
だが、何かを察したように彼はゆっくりとブリジットとリュナの方を見た。
二人とも、顔を赤らめながらも──まんざらでもない様子で目を逸らしていた。
ブリジットは指先をいじり、リュナは黒マスクの中で口元を隠しながらも、耳まで染めている。
(……え? そういう事……?)
(この“アルド”という少年のことを、二人とも……?)
グラディウスの心の中に、新たな混乱が生まれる。
が、なんとか理性を取り戻し、咳払いをひとつ。
「いや……そうではなくてだね。君は、その……フォルティア荒野の開拓団の中において、どのようなポジションにいるのかね?」
「あっ……」
アルドは、急に顔を真っ赤にして、うつむいた。
(勘違いして変なこと言っちゃった! 恥ずかしい!)
しばらく俯いたまま黙っていたが、やがてぽつぽつと口を開いた。
「えっと……基本的に家事全般を任されてます」
「朝昼晩のご飯の用意と、家の掃除、洗濯はやってますね」
淡々と話すその姿は、どこか誇らしげですらあった。
「あと、うちには超大型犬──フェンリルが百匹ちょい、いるので」
「その子たちのご飯の準備とか、散歩とか……まぁ、お世話係って感じですね」
言葉を聞くごとに、グラディウスの表情が、どんどん崩れていく。
(……あの魂の輝きで、炊事……洗濯……犬の世話係……!?)
(意味が、わからない!!)
ミルダも横で小さく目を見開きながら、ただ黙っている。
眉間に深く皺を刻んでいるあたり、彼女の中でも情報の処理が追いついていないらしい。
そしてグラディウスは、今一度、確信するのだった。
──この少年、“計り知れない”。
次の問いを発するには、もう少しだけ、心の準備が必要だ──と。
◇◆◇
宵の帳が静かに降りるルセリアの公園。
芝生の上に向かい合う、老宰相と銀髪の少年。その対話の中に、かすかな火種が燻りはじめていた。
グラディウス・ヴァン・ヴィエロは、しばし言葉を探し──やがて、ゆっくりと口を開く。
「……ブリジット嬢からは、君のことを“いつも守ってくれる、心強い男”だと聞いている」
その一言は、まるで芝生に小石を投げたような、ささやかな波紋だった。
だが、アルドにとっては衝撃波だった。
「……えぇっ!?」
驚愕の声を上げて、バッと隣のブリジットを振り向く。
彼女は──目を逸らしていた。
顔を真っ赤に染め、フレキを胸元にぎゅっと抱きしめ、言葉も発さず、ただ視線を宙に彷徨わせる。
「…………っ」
それだけで、十分だった。
アルドの心の中で、理性という名のダムが決壊した。
(あのブリジットちゃんが……“心強い男”って言ってくれたの……!?)
ニコニコ。
いや、ヘラヘラに近い笑顔が、頬を弛ませて止まらない。
「えぇ〜……? そ、そうなんですか〜?」
わざとらしく頭を掻く仕草の裏で、内心は完全に有頂天だった。
だが──グラディウスの眼差しは次の問いを孕んでいた。
「……しかし」
少しだけ、声音が低くなる。
「これから先、ブリジット嬢とリュナ嬢には、様々な困難が待ち構えているかもしれない」
その言葉に、アルドの笑みがすっと消える。
「その時──君は、彼女たちを守りきれると、言い切れるか?」
静かだった。
どこまでも、落ち着いた声色だった。
だが、その奥にあるのは、政治家の問いではない。
これは、一人の“大人”としての問いだった。
アルドは黙って、グラディウスの目を見る。
少年とは思えぬ、静かな目。
そこには、感情の熱も、過剰な自信もない。ただ──「考えよう」とする意志だけがあった。
──だが。
その次の言葉で、空気は一変する。
「たとえば……仮にだが」
グラディウスはちら、と向かって左──一人の男へと目をやる。
「そこの男……ヴァレン・グランツが、彼女たちに牙を剥く、となった時」
言い切った。
「君は、それに対処できるのか?」
ヴァレンの笑みが、音を立てて消えた。
カツ、と石畳の上で肩が震えた音がした。
「……っ」
アルドの目が、ぐるりと回る。
ゆっくりと。
まるで、空気を撫でるように──ゆっくりと。
彼の視線が、ヴァレンに向く。
その瞬間。
「……えっ?」
ヴァレンの背筋がビクゥッと跳ねた。
まるで雷が背中を貫いたかのように、直立不動になる。
「……ヴァレン?」
アルドの声は、静かだった。
けれど、その静けさには奇妙な“重み”があった。
「お前……いいヤツだと思ったのに……」
芝生に手をついていた少年の体が、ふわりと浮き上がる。
「……ブリジットちゃんと、リュナちゃんに……何か危害を加えるつもりなの……?」
その目は、笑っていなかった。
けれど──怒ってもいなかった。
ただ、“尋ねていた”。
「……えっ? やっぱり実は敵だったパターン……?」
ヴァレンの心臓が、キュッと縮まる音がした。
思わず両手をぶんぶんと振りながら、焦燥と混乱の塊のように叫んだ。
「ちがうちがうちがうちがう!!たとえばの話!! たーとーえーばーの話だってば!!」
もう、完全に崩壊していた。
「俺がそんな事するわけないだろ!? 相棒〜!! やだな〜!グラディウスのじいさんったらぁ〜!!
冗談が……上手いんだから〜〜〜!!」
足元に汗が染みてきそうな勢いで、慌てに慌てる色欲の魔王。
アルドは、しばらく無言で彼を見つめて──
ふっと、笑った。
「……だよねぇ!」
にこっ。
いつものような笑顔が、再び芝生の上に咲いた。
「分かってるって! ちょっと乗ってみただけだよ、ほんのジョークだよ! SSRジョーク!」
「ククク……お前のジョークは心臓に悪いぜ、相棒……」
ヴァレンは額からだらだらと汗を流しながら、それでもぎこちなく笑った。
そして。
すぐ隣にいるグラディウスの肩口に、顔を寄せ──
笑顔を張り付けたまま、小さく囁いた。
「……お前、マジでふざけんなよ?
相棒を誤解させて、俺を殺す気か……?」
グラディウスの額に、一筋の冷や汗が伝った。
(──確定だ)
その様子を見ていたミルダも、心の中で同じ言葉を呟いていた。
(この“アルド”という少年……ヴァレン・グランツが心底恐れるほどの存在……!)
誰よりも曖昧で、誰よりも軽薄な“色欲の魔王”が。
今、この瞬間──“怯えていた”。
この少年の、たった一言に。
公園の芝生の上に流れる風は、どこまでも穏やかで。
だがその静けさの中に、確かに、“力”の輪郭が漂っていた──。
芝生の上の空気が、ふっと和らいだ。
先ほどまでの緊張が嘘のように、柔らかな空気が公園を包み込んでいた。
アルドはふと、思い出したように手を打った。
「……あ、そっか」
ぴょこんと正座を崩し、あぐらをかきながらグラディウスに向き直る。
「グラディウスさん、確か……ブリジットちゃんの書類の不備か何かで、わざわざいらしてたんですよね?」
グラディウスは軽く瞬きをした。真面目な表情のまま、ただ黙って頷く。
するとアルドは、にっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。
「それなら大丈夫ですよ!」
晴れやかな声だった。
「ブリジットちゃんは、ほんっと責任感の強い子ですし!」
「リュナちゃんだって、頼れるし優しいし──何より、俺もついてますから!」
その言葉に、グラディウスは思わず肩の力を抜いていた。
ミルダもまた、わずかに息を吐き出して、表情を和らげる。
重々しい緊張が、ようやく解けたのだ。
(……この少年、正体は依然として不明)
(だが──)
グラディウスの胸中には、たしかな実感があった。
(少なくとも、ブリジット嬢とリュナ嬢を大切に思う気持ちだけは……)
(紛れもなく、“本物”だ)
だからこそ、口にする価値があった。
この老いた自分が、宰相として。
未来を託す言葉を。
「……あいわかった」
静かに立ち上がり、まっすぐにブリジットに視線を向ける。
「ブリジット・ノエリア嬢。これからも、フォルティア荒野の開拓──励むように」
少女の瞳が、ぱっと輝いた。
グラディウスは続ける。
「……何かあれば、エルディナ王国が支援することを──宰相として、約束しよう」
「──はいっ!」
ブリジットは嬉しそうに立ち上がり、芝生の上でぺこりと頭を下げた。
その表情は、夜の灯りに照らされて、まるで太陽のようだった。
「よかったっすね、姉さん!」
隣にいたリュナが笑顔で手を取る。
ブリジットも自然にその手を握り返し、二人の少女はまるで子どものように手を取り合って小さく跳ねた。
「やった、やった!」
ヴァレンはその様子を一歩下がって見守りながら、ふっと目元を細めた。
飄々とした仮面の裏に──確かな、あたたかな感情があった。
(まったく……)
(本当に、眩しい奴らだよ)
──そして。
グラディウスは、帰路へと背を向けかけたその足を、一瞬だけ止めた。
誰にも気づかれぬように、さりげなく。
けれど確かに、ヴァレンの耳元へと囁いた。
「……気をつけろ。魔導帝国ベルゼリアが、妙な動きを見せている」
その名が出た瞬間、ヴァレンの表情が微かに引き締まる。
「……彼らが“気になる”なら──」
グラディウスは、一歩、歩みを進めながら言葉を継ぐ。
「お前も……力になってやるのだな」
そのまま、振り返ることなく、彼はミルダと共に闇の向こうへと去っていった。
──しばし、静寂。
芝生に残されたヴァレンは、その場に立ち尽くしたまま、やがてぽつりと呟く。
「……ま、そうなるわな」
苦笑混じりの声だった。
だが、どこか諦めではなく──納得の響きがあった。
「アルドくんがいれば、俺の力なんぞ必要ないとは思うが……」
夜空を見上げる。
星々が、澄んだ光を放っていた。
「この物語の結末は──」
その瞳に、確かな決意が宿る。
「……俺も、見届けたいと思ってたからな」
風が、魔王の黒髪をそっと撫でていった。
誰も気づかぬその胸の奥に、ひとつの“同行の意志”が芽吹いていた。
それが、この先の戦いにおいて、どれほど大きな意味を持つのか──
今は、まだ誰も知らない。
──だが、世界は動き始めていた。
確かに、あの少年と共に。