第60話 絆を問う者、絆を誇る者
──夜のルセリア中央公園。
水音が遠くに響き、魔灯の明かりが舗道に静かな影を描いていた。
緋色の詠唱服をまとった一人の老紳士は、噴水を背にして立ち、目の前の少女を見つめていた。
その瞳は、ただの老いを宿すものではない。幾多の戦略と交渉を乗り越えてきた者だけが持つ、鋭利な知性の光をたたえていた。
エルディナ王国宰相──グラディウス・ヴァン・ヴィエロ。
(……あれほどの“蒼”は、初めて見た)
老宰相の胸の奥に、今もなお残響のように広がるあの光景。
“運命視”で見た、ブリジット・ノエリアの魂の光。
それはただ“有益”である、という範疇を遥かに超えていた。
──世界を変える、と断言できるほどの蒼光。
それはもはや“希望”というより、“流星”に近かった。
(そして……)
隣にいた黒マスクの少女──リュナ。
彼女から感じた、まるで神性に近い白の魂。
さらには、その声。あの“咆哮”。
(……ザグリュナ。間違いあるまい)
グラディウスは確信していた。
あれは、かつて一度だけ遠方から観測した、伝説の魔獣“咆哮竜”ザグリュナが放つ支配の声と同質のものだった。
しかし。
この少女が放った“咆哮”は、それとどこか違っていた。
冷酷な支配ではない。
激情による咆哮ではない。
──守ろうとする意思。
それが、確かにあった。
そして、もうひとり。
魔王──ヴァレン・グランツ。
人類にとって“最も忌むべき”存在の一柱でありながら、今この場では無益な攻撃もせず、どこか飄々とした態度で少女たちに肩を並べている。
それどころか、少年のように笑っていた。
人間たちと、肩を並べて。
(……この三者が、共にいる)
(“咆哮竜”と“大罪魔王”、その両者が、あの少女の側に在る……)
これは、歴史の転換点だ。
あるいは、災厄の前兆か。
どちらかだ。
だが、グラディウスは──信じたかった。
ブリジット・ノエリアという少女が、ただの“偶然”によって彼らを引き寄せたとは思えなかった。
──この子は、選ばれた者だ。
彼の眼差しが、ふと柔らかくなる。
だが、それでも確かめなければならない。
言葉にしなければ、判断できない。
だから、グラディウスは静かに顔を上げた。
ブリジットの前に、まっすぐに立ち、老練な口調で問いを投げる。
「ブリジット・ノエリア嬢」
彼女は、はっとしたように顔を上げた。
涼やかな目が、少しだけ緊張に揺れている。
「ひとつ、君に問いたいことがある」
ブリジットは、フレキを抱きしめながら小さく頷いた。
唇を結び、真っ直ぐに宰相の瞳を見返す。
「この二人──“ヴァレン・グランツ”と、“リュナ”という少女──彼らは、君にとって一体……“何”なのだ?」
その声音に、圧はなかった。
ただ、重さがあった。
問いの奥にある“国家”という重責と、未来を見極めんとする厳しさが宿っていた。
ブリジットは目を丸くした。
視線が、ヴァレンへ、リュナへ、そしてふたたび宰相へと移ろう。
だが、やがて──息をひとつ、深く吸い込むと、きっぱりとした声で言った。
「ヴァレンさんは……今日、初めて会ったばかりの人です」
周囲の空気が、少しだけ動く。
ミルダが眉をひそめたのが分かった。
だが──
「それでも、あたしは……友達になれたと思ってます!」
その言葉は、まるで胸の奥に灯る火のように、まっすぐで、温かかった。
ブリジット・ノエリアは、誰の力も借りず、その意志だけで口にしていた。
“私が、そう思ったから”──
その確信に、老宰相の表情が揺れる。
この娘は、ただの理想主義者ではない。
本気で──信じているのだ。
ミルダが声を荒げた。
「あなた……その男が何者か分かっているの? その男は、“大罪魔王”の一柱なのよ!?」
しかし、ブリジットは一歩も退かず、むしろ微笑すら浮かべて言った。
「はい、知ってます」
ミルダは目を見開いた。
そして、ヴァレンは──その様子を見て、ゆるく、静かに目元を細めた。
サングラスの奥で、表情が崩れたのが分かった。
言葉には出さない。
けれど、たしかに“嬉しい”という感情が、彼の横顔に滲んでいた。
──ここから、すべてが始まる。
そう思わせるには、十分すぎる瞬間だった。
次にブリジットはリュナの方を向くと、そっとその細い腕に自分の腕を絡めた。
まるで、世界のどこよりも自然な仕草だった。
けれど、リュナの体はわずかに硬直する。
ふいに訪れた“距離の消失”に、戸惑いが滲んだ。
「リュナちゃんは……」
ブリジットの声が、夜気を震わせる。
その言葉には、強さと優しさ、そして確信が込められていた。
「……あたしがフォルティア荒野の開拓をする中で、出会った──新しい“家族”のひとりです」
はっきりと。迷いなく。
その宣言が放たれた瞬間、リュナの目が見開かれた。
赤い瞳が、一瞬だけ揺れる。
彼女は言葉を発しなかった。ただ、小さく喉が震えた。
「……ね、姉さん……」
ぽつりと漏れた呟き。
それは、彼女が“咆哮竜ザグリュナ”としての長き孤独を破った証だった。
仲間ではなく、同盟ではなく──家族。
その言葉に、どれほどの重みがあっただろうか。
どれほど、飢えていたか。
どれほど、欲しかったか。
けれどリュナは、感情を堪えるように口元をきゅっと結んだ。
顔を逸らす。
涙腺が緩む気配を、ヴァレンがニヤニヤ見ているのに気付いたのだ。
「な、なに見てんだよ、お前……!」
黒マスクの下、唇が震える。
でもその震えは、怒りではなく──限界ぎりぎりの照れ隠しだった。
それを見たブリジットは、何も言わず、リュナの手をそっと握る。
そのぬくもりが、リュナの胸に静かに沁み渡っていった。
◇◆◇
そのやり取りを、宰相グラディウスは黙って見つめていた。
娘のような年齢の少女が、咆哮竜と家族の絆を結び──大罪魔王にすら一目置かれている。
それは、まるで英雄譚の中の一節のようだった。
(……だが)
心の奥底で、老宰相の警鐘は鳴り止まなかった。
希望と呼ぶには眩しすぎる。
光が強すぎれば、必ず影が生まれる。
咆哮竜と、色欲の魔王。
これほどの存在が一国に与すると知られれば、諸外国は必ず“揺れる”。
軍拡か、外交か、あるいは──制圧か。
国家の火種は、往々にして“感情”ではなく“事実”によって着火する。
──ゆえにこそ、問わねばならなかった。
グラディウスは一歩進み、静かに言葉を紡ぐ。
「君の“家族”……リュナ殿、だったね」
リュナが小さく反応する。
その名の呼び方に、彼女は何かを“察した”。
グラディウスが、正体を“識っている”ことを──暗に伝えたのだ。
「君が彼女と家族であると、そう語ったこと。私は宰相として、嬉しく思っている」
言葉は穏やかだった。
けれど、その奥に込められた“重さ”は否応なく伝わる。
「だが……リュナ殿の存在を狙い、彼女自身が──あるいは君自身が、危険に晒される可能性もある」
公然たる敵意ではない。
だが、“国家”という巨大な構造が、時としてそうなることを、彼は知っていた。
「……それでも君は、彼女を“家族”と呼び続ける覚悟があるのか?」
ブリジットは、一瞬だけ目を伏せた。
けれど──すぐに、顔を上げる。
真っ直ぐに、老宰相を見据えて言った。
「もちろんです」
その声は凛として、そして、温かかった。
「リュナちゃんは、あたしの大事な家族です」
「何があろうと、誰が何と言おうと──あたしが、守ります」
その宣言は、誰に媚びるでもなく、誰を責めるでもない。
ただ、自分の“意志”を通すための、真っ直ぐな宣言だった。
リュナはまたも目を潤ませた。
だが、今度はヴァレンに気づかれまいと、ギッとその視線を睨み返す。
「チッ……こっち見んな、ヘラヘラしやがって……」
ブリジットはそんなリュナに気付かず、どこか誇らしげに微笑んだ。
──その光景を、グラディウスはもう一度“運命視”で見た。
そこにあるのは、変わらぬ──いや、先ほどよりもさらに輝きを増した蒼。
嘘偽りのない言葉。
誰かを“守る”ための覚悟。
その光に、老宰相は息を呑み、ほんの一瞬だけ──胸を打たれた。
──この少女は、国を背負える。
いや、国すら超えて、“世界を動かす”可能性を持つ。
だがそれは、果たして吉兆か、凶兆か──
その答えは、まだ先にあるのだろう。
(……まったく。若者というやつは……)
グラディウスは静かにまぶたを伏せ、眉間に刻まれた皺を深くするのだった。
ブリジットは、真っ直ぐな瞳でグラディウスを見据えながら、言葉を続けた。
「それに……あたし達には、いつも守ってくれる、とっても心強い男の子がいますから!」
その言葉に、一瞬だけ空気が止まった。
グラディウスとミルダが、無意識にヴァレンの方を見る。
──だが、当の本人は肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。
「ククク……俺のことじゃないよ」
にやりと口の端を持ち上げ、ヴァレンはわざとらしく胸に手を当てた。
「安心しな、グラディウス。この二人には、俺なんか足元にも及ばない“スパダリ”がついてるんだよ」
「“スパダリ”……?」
ミルダが眉をひそめ、聞き慣れない言葉を復唱する。
グラディウスは混乱した面持ちで、ヴァレンとブリジット、そしてリュナの間を視線で往復させる。
(色欲の魔王──ヴァレン・グランツ。それが自らを“足元にも及ばない”と評する相手……?)
(そんな存在が、本当にこの世に……?)
懐疑、警戒、好奇心──そのすべてが、老宰相の胸をざわめかせていた。
──その時だった。
ふと、ヴァレンが気怠げに肩をすくめ、ちらりと視線を背後に向けた。
その目元が、ほんのわずかに緩む。
「……おいおい、噂をすれば──王子様が帰ってきたぜ」
その言葉に反応して、グラディウスがわずかに首を傾ける。
「……何?」
だがその一言が口を離れるか否かのうちに、ヴァレンが、すっ……と視線を戻して彼の前に立った。
その眼差しには、いつもの軽薄な色はなかった。
鋭い。いや──
真剣だった。
「グラディウス。……悪いことは言わねぇ」
その声音には、奇妙な重みが宿っていた。
ふざけでもなく、皮肉でもない。
それは、“本気”という名のまなざし。
「今からここに来る少年を……お前の“目”で視るのは、やめておけ」
グラディウスが、無言のまま目を細める。
魔導宰相として数多の脅威と対峙してきた彼は、その声に籠められた“含意”を即座に察知した。
「……何故だ?」
ヴァレンは、しばしの沈黙の後、肩をすくめる。
だが、その仕草にもどこか哀しげな慈しみが混じっていた。
「理由は……そうだな。お前の“眼”の使い方を教えた師匠としての、最後のアドバイスってやつだ」
そして──
「……いいか?言うことは、聞け」
グラディウスの目が見開かれた。
記憶の奥に眠っていた、かつての導き手の声が、時を超えて重なった気がした。
しばらくの沈黙。
そして、老宰相は静かに目を閉じた。
「……わかった。使わんよ、“運命視”は」
その声には、どこか少年のような素直さが宿っていた。
ヴァレンは、ふっと口の端を緩め──再び、気怠げな笑みに戻る。
だがその奥には、確かに“深い安堵”の色があった。
魔灯の下、軽やかな足音が石畳を跳ねる。
白銀の髪が夜の光をはじき、少年の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。
アルド。
やや息を切らせた様子で、小走りに駆けてくるその姿は、場の緊張などまるで意に介していなかった。
「ペン買えたよ〜!」
手には小さな袋と、黒インクのサインペン。
そして──擦り切れたような装丁の漫画本。
「この街、ほんとにすごいよね!コンビニみたいな売店まであるなんてさ!」
満面の笑顔で、彼はヴァレンの前にぴょこんと立ち止まった。
「ささっ、ヒカル先生!“恋するカフェラテメモリー”の一巻、裏表紙にサインお願いしまーす!」
その無邪気な声に──
ヴァレンの目が、一瞬大きく見開かれた。
「……おおっ!?」
頬がみるみる緩んでいく。
緩んだ、というより──デレた。
「も、もちろんだとも、相棒っ!!」
両手で漫画を受け取るその仕草は、もはや恋人からラブレターを受け取ったかのよう。
「こ、このページでいいんだな!? いや、でも表紙の裏も捨てがたいし──ううむ、ここはやっぱり……!」
わたわたと漫画を開き、悩み、そしてようやく一ページに決めると、サラサラと達筆な筆跡でペンを走らせた。
「……ほい! 家宝にしてくれよなッ!」
差し出された漫画を抱きしめながら、アルドがキラキラとした目で叫ぶ。
「うおおおぉっ! ありがとうございますぅぅ!! マジで一生の宝物ですぅ〜〜!!」
その言葉に、ヴァレンは肩を抱き寄せ、
「……でも、敬語はやめてくれ、相棒……!」
目元がしょんぼりとしながらも、笑みは緩みっぱなし。
「距離を感じて、寂しくなっちゃうからよ……!」
完全にデレモードだった。
──その様子を、グラディウスは唖然とした表情で見つめていた。
(な、何だ……この少年は……!?)
(あの“色欲の魔王”が、まるで恋に落ちた少年のような顔で……!?)
長年、政治の最前線に立ち、数え切れぬ魔族の報告書を目にしてきたグラディウス。
その彼が、今──初めて、“記録にない顔”を目にしていた。
ヴァレン・グランツ。
“人類にとって最も不可解な魔王”とされる存在が、ここにきて、これほどまでに表情豊かに──楽しげに笑っている。
そして、グラディウスは、デレデレになってる"色欲の魔王"を見て思った。
『"王子様"って、お前にとっての王子様って事なの?』───と。
──見たい。
この少年の魂を、“視て”みたい。
その衝動が、老宰相の指を動かした。
「運命視……!」
次の瞬間。
「あっ……! バカッ!!やめとけって言っただろ!!!」
ヴァレンの絶叫が、公園中に響き渡る。
──だが、遅かった。
グラディウスの眼前に、見えてはならぬものが映った。
刹那、世界が“閃光”に包まれた。
魂の光──それは“見えた”のではない。
もはや、炸裂した。
視界が、爆ぜた。
光が、瞳を焼いた。
「ホギャァァァァァァアアアアーーーーーーッッッ!!!!!!」
グラディウスの絶叫は、もはや悲鳴というより断末魔だった。
目を押さえてその場にバタンと倒れ込む。
ミルダが叫ぶ。
「ぐ、グラディウス宰相ぉぉぉぉぉ!?!?!?!?!?!?」
慌てて駆け寄り、その体を支えるが──
グラディウスの目は真っ赤に染まり、手をばたつかせながら呻いていた。
「うぅ……め、眼が……!私の眼がぁ………! 魂の光が……強……過ぎるッ……!!」
星の残像が、視界を埋め尽くす。
視神経を直撃された“閃光の魂”。
それは、まさに“神霊級”の輝きだった。
──その様子を、アルドはぽかんとした顔で見つめていた。
「えっ………この、ムスカ大佐みたいになってるおじいちゃん………誰?」
首を小さく傾けて呟くその声は、あまりにも純粋だった。
──そして。
ヴァレンは、盛大に頭を抱えた。
「……はぁぁああああああああっ!!!」
両手で自分の髪をくしゃくしゃにし、宙を仰いで叫ぶ。
「だから言っただろうが!!視るなって!!」
その叫びは、公園の夜にいつまでも木霊していた。
星々は、変わらず穏やかに瞬いている。
──だが、地上のこの一角だけは。
確かに、“世界の重心”が動いた場所だった。