第6話 ブリジット・ノエリア
それは、ブリジットが十五の誕生日を迎えた日だった。
王都のノエリア家屋敷——貴族街の奥、金と白の大理石で造られたその館では、祝福の鐘が鳴り響いていた。
彼女は純白のドレスを身にまとい、両手を胸の前で握りしめていた。
「ついに……“女神の祝福”か……!」
十五歳になった人間に与えられる“スキル”——それは、その人の才能を象徴する唯一無二の力。
貴族社会では、未来を決定づける最も重要な通過儀礼でもある。
「やっぱり剣術系がいいなぁ……でも、魔法系も憧れるし……! どうしよ、どうしよ、楽しみすぎて震えてきた!」
ブリジットは少女らしく、純粋にその瞬間を楽しみにしていた。
彼女は努力家だった。
剣も魔法も、人並み以上に訓練してきた。
父に褒められたい、母に認められたい。
兄の役に立ちたい。
ただ、それだけが原動力だった。
——だからこそ。
彼女は、その結果に目を疑った。
《授与スキル:毒無効》
祭壇の女神像が光を放ち、天よりその言葉が下された瞬間。
場の空気が、凍りついた。
「……毒、無効……?」
「……は?」
父、グレゴール・ノエリアは、困惑の表情を浮かべたまま沈黙し、
母、ミレーユはその口元に、呆れと侮蔑を混ぜた冷笑を浮かべた。
「……よりによって、“毒無効”? それで、一体何を目指すつもり?」
「ち、ちがうの! でも、これって……どんな毒にも負けない体になるってことでしょ? だったら、例えば……猛毒の沼とか、毒草だらけの土地でも——!」
「黙りなさい」
ミレーユの冷たい声が、ブリジットの言葉を切り裂いた。
「そのスキルで、ノエリアの名に何の価値を加えられるの? ……こんな、無駄な祝福……」
「そんな……!」
ブリジットの声が、震えた。
笑顔で受け取るはずだった祝福の儀式は、
いつの間にか冷酷な評価の場に変わっていた。
「お前には、ノエリア家の将来を担う資格はない。だが、貴族の名を持つ者として、最低限の使命は果たしてもらおう」
父が差し出したのは、一枚の文書だった。
『未開地フォルティア荒野、開拓指令書』
「——そ、そんな……!」
「あの地を“領地”として確保できれば、お前にも再び居場所があるだろう。……まあ、不可能とは思うがね」
「……ひどいよ、そんなの。」
小さく、こぼれた言葉に、父は何の反応も示さなかった。
それが——十五歳のブリジットが、人生で初めて知った“家族の冷たさ”だった。
あの日の帰り道、彼女は馬車の中でずっと膝を抱えていた。
「……あたし、負けないから」
目に涙を浮かべながらも、ブリジットは小さく呟いた。
「毒にすら負けない体なんだもん、あたしは……だったら、きっと、こんな仕打ちにも負けないんだから」
——その日から。
彼女の“ほんとの人生”が始まった。
誰かに与えられた道じゃない。
誰かに認められるためじゃない。
“自分で選び取る道”を、歩むための人生が。
——そして今、彼女はその道の上にいる。
吹きすさぶ風の中、誰にも頼らず、誰にも期待されず、
ただ“自分の手で世界を切り拓こう”としている。
その姿は、たった一人の少女でありながら。
とても、とても——
強かった。
◇◆◇
フォルティア荒野。
大陸中央部に広がる未開の地。
強大な魔物が跋扈するその土地は、周辺のどの国家も開拓する事が出来ず、"魔王"と呼ばれるこの世界の最強に位置する存在すら寄り付かないと言われている。
吹き抜ける風は乾き、地平線の向こうまで土と岩、そして鬱蒼と茂った森が連なっていた。
そんな荒野の外れ、ぽつんと広がる草地の上に、たった一張のテントがあった。
その前に立つ少女——ブリジット・ノエリアは、両手に腰を当てて大きく息を吸い込んだ。
「——よしっ、今日もがんばろっ!」
彼女はよく通る声で空に向かって叫ぶと、ポニーテールの金髪をふわりと揺らして笑った。
白を基調にした軍服風の冒険装備。その裾は泥にまみれていたが、汚れを気にする様子はない。
……だが、その瞳の奥には、ほんの少しだけ曇りが残っていた。
「……まさか、スキルが“毒無効”ってだけで、こんなところに飛ばされるとは思わなかったけどねー……」
そう呟いて、彼女は笑いながらも腰を落とした。
背中に背負っていた小さな斧を外し、がらんどうの木箱に置く。
手にした水筒の水を一口飲む。ぬるくて、少し砂っぽい。
「でもさ……逆に、ここを切り拓いて“領地”にできたら、すっごくカッコよくない?」
彼女は、誰もいない空間に向かって笑ってみせた。
誰も答えないと分かっていながら、それでも言葉にしておきたかったのだ。
貴族の娘として育ち、王都での生活しか知らなかったブリジットにとって、この地はあまりに過酷だった。
支給された兵士はたったの五人。食料も乏しく、水脈の調査も自分たちで行わなければならない。
それでも、彼女は笑っていた。
笑っていなければ、心が折れそうだったから。
「……あたしを、ちゃんと見ててほしいな……お父様……お母様……」
一瞬だけ、顔を伏せる。
その頬を、一滴の涙が流れた。
けれど、彼女はすぐに立ち上がる。
「泣いてるヒマなんてないもん! あたしはこの土地を“ノエリア領”にしてみせるんだから!」
手にした斧を握りしめ、目の前の草むらに向かって歩き出す。
そんな彼女の背中を、遠くから誰かが見ていたことを、彼女はまだ知らない——
そして、この数刻後。
彼女の人生は、とんでもなく大きく動き出すことになる。
◇◆◇
静かだった森の奥に、異音が走った。
ごごごご……と地鳴りのような振動。
空気が、重くなる。木々が、ざわつく。生き物たちが一斉に気配を消し——
——ガアァァアアオオォォオオッ!!
咆哮が森を割った。
「……う、うそ……!」
開けた草地の先、木々をなぎ倒して現れたのは、黒銀の鱗に覆われた巨大な魔獣。
六本の脚を持つ異形の竜——"咆哮竜ザグリュナ"。
全長は優に十メートルを超え、眼光は猛禽のように鋭く、牙は振り下ろすだけで岩を粉砕するほどの長さ。
まさに、災厄級の象徴。この森の主だった。
「う……あ……」
腰が抜けそうになる。心臓が暴れる。
手が、ぶるぶると震える。握っている剣が、まるで他人の物のようだった。
「ば、バケモンじゃないかよあれぇ……!」
「無理だ無理だ!撤退しようぜ!あんなのと戦ったら死ぬ!」
後方から、騒がしい叫び声が聞こえた。
ブリジットの後ろに控えていた数人の部下たち。
数少ない信頼できる“はず”だった彼らが、恐怖に顔を引きつらせ——
「ブリジット様、すみません!俺たち、死ぬのはごめんです!」
「どうかお元気でぇぇええ!」
ばっ!と森の奥へ駆け出していった。
「——え?」
視線だけが、彼らを追った。
誰も振り返らなかった。
誰も、手を差し伸べなかった。
ひとりきり。
森と大地の間にぽつんと取り残されたブリジットは、ザグリュナの視線のど真ん中にいた。
——あの巨体が、こちらを見ている。
口の端から、煙のような息が漏れる。
次に動けば、きっとブレスが来る。爪が振り下ろされる。牙が食いちぎってくる。
「…………っ」
剣を、両手で握り直した。震える腕に、力を込める。
瞳に涙が滲んだ。けど、それを拭う時間さえ、もう無かった。
死ぬ。
ここで、自分はきっと死ぬ。逃げ道も、助けも、もうどこにも無い。
でも。
「——ここで死んだら、もう何者にも、なれないじゃない……!」
絞り出すように、声が喉を通った。
「認めてもらいたいの……お父様にも、お母様にも、家の人たちにも……。
あたし、ちゃんとやりたいのに……がんばってるのに……!」
ブリジットは、剣を構えた。
両足を地に突き立てるように踏ん張り、立ち向かう姿勢を取った。
顔は青ざめていたけれど、目だけは、まっすぐだった。
「だったら——ここで!倒れてる場合じゃないの!!」
ザグリュナが、うねるように身を低くした。
狩りの姿勢だ。狙いを定め、跳躍の準備をする。
呼吸が、止まりそうになる。
鼓動の音で世界の全てがかき消えそうになる。
だが——
——その瞬間。
どしゃああああああああんん!!!
空から、何かが降ってきて、勢いよく地面に突き刺さった。
ザグリュナとブリジットの中間地点。
地面が砕け、砂塵が舞い、衝撃波でその場の空気が一気にかき乱される。
「きゃっ!?」
ブリジットは思わず尻もちをついた。
風圧が頬を打ち、髪がばさりと乱れる。
反射的に顔を覆った手を、そっとどけて、見上げたその先——
そこには、クレーターのような地面の裂け目の中に、何かが突き刺さっていた。
「……えっ……な、なに……?」
藍色の布地のコート。乱れた白銀色の髪。すらりとした人影。
どう見ても、人間の男の子——だった。
だが、明らかに様子がおかしい。
なにせ、その少年はクレーターの中心に深々と下半身が突き刺さっていたのだ。
「……いてて……いや、痛くはないな。あれ? え、ここどこ?」
クレーターの中心で、男の子はズボッと下半身を引き抜き、服についた土埃を払っている。何事も無かったかの様に。
頭に地面の石ころを乗せたまま、ぽかんとした顔であたりをキョロキョロと見回すその少年は、ブリジットと災厄の魔竜を交互に見ると、頭をポリポリと掻いた。
「あ……すみません。お取り込み中でした?」