第57話 咆哮の涙、優しき手料理
「すごーい! ヴァレンさん、本当に“大罪魔王”だったんだね!」
そんなことを言って、パチパチと嬉しそうに拍手するのは──
俺の正面に座る、浴衣姿のブリジットちゃんだった。
赤と白の和柄に、金の髪をアップにまとめた彼女は、ほんの少しだけ酔いの入った笑顔で、今夜いちばん輝いて見えた。
それを聞いて、隣でグリモワルをしまっていたヴァレンが肩を竦める。
「おいおい、今さらかい?」
「だってさ〜、ほら。最初に会ったときは、どっちかっていうと“チャラいお兄さん”って感じだったから……!」
「ククク……それは否定しない!」
ヴァレンは豪快に笑って、またZ◯MA風の炭酸酒を一口。
……というか、絶対ちょっと酔ってるな、あの魔王。
「……あれ? でもさ、ブリジットちゃんって、前に“大罪魔王”って名前聞いて、ちょっとビビってなかったっけ?」
俺がふと思って、聞いてみた。
そしたら、ブリジットちゃんは「あ」と口を開いて──ちょっと照れくさそうに頬をかいて、笑った。
「うん……たしかに最初は、怖いなーって思ってた」
「“大罪”って言われると、なんかこう……世界を滅ぼすような、怖い人たちなのかなって……」
「でもさ──リュナちゃんと一緒にいたヴァレンさんを見て、ちょっと思ったんだ」
彼女はそう言って、リュナの方をそっと見た。
「ちゃんと話せば、リュナちゃんとも“家族”になれた」
「だったら、魔王だからって怖がるのは……それこそ、失礼だったなって」
そう言って、またふんわりと笑う。
その笑顔は、ほんとに、なんていうか──ずるいくらい優しかった。
「……っ」
向かいで、リュナが唐揚げを咥えたまま固まった。
その隣、ヴァレンも酒瓶を傾けかけて、手が止まっている。
ふたりして、ぴたりと動きが止まったあと──同時に、胸を押さえて、目を伏せた。
(……あ、今、何か刺さったな)
俺は思った。2人とも、表情に出すぎなのよ。
……いい子すぎる……!
リュナちゃんとヴァレンの内心の叫びが、もはや顔に出てる。
リュナちゃんなんて、黒マスクの下で絶対に顔赤いぞ。耳の先がちょっと赤くなってるし。
ヴァレンはヴァレンで、酒瓶を額に当てながら「うっ……眩しい……LHPが高すぎる……」とか小声で言ってるし。
そのLHPってなんなの。
でも──なんとなく、わかる気もした。
「……ブリジットちゃんらしいね」
俺はそう言って、苦笑まじりに呟いた。
彼女はいつだって、まっすぐで、まっすぐすぎて、危なっかしいくらい人を信じて──
だけど、だからこそ、救ってしまう。
その姿に、誰かが勝手に心打たれて、勝手に救われる。
──まさに今のリュナちゃんとヴァレンがそうだったみたいに。
だからきっと、ブリジットちゃんなら──
(俺が、“真祖竜”だってことを話しても……きっと、受け入れてくれるんだろうな)
前世の誕生日の話を覚えてて、手作りのクッキーをくれたあの子なら。
(……でも)
でも、それでも、言葉にするのはまだちょっと怖くて。
俺は薄く笑って、ジョッキに口をつけた。
微炭酸のフルーティな味が、喉に優しく流れ込んでいく。
(もう少しだけ──)
(もう少しだけ、このままでいさせてほしいな)
そう心の中で呟いて、そっとグラスを置いた。
──静かな、優しい夜の真ん中。
ひとときの安らぎに身を預けるようにして、俺たちはそれぞれの“想い”を噛みしめていた。
◇◆◇
「いやー、ブリジットさんのLHPはやっぱ高いよねぇ〜!」
ヴァレンがZ◯MA風の炭酸酒をくいっと煽りながら、唐揚げをつまみに満足げに語る。
「そりゃもう、リュナが“身を引こう”としちゃうのも、無理ないってば!」
「おまっ!? なに言って……!?」
リュナの目が一気に見開かれる。
顔がみるみる赤くなり、唐揚げを取り落としそうになりながら、ヴァレンに食ってかかる。
その慌てぶりに、ブリジットちゃんはキョトンとした顔で見つめ、俺もつい「え、なになに? どういうこと?」と首を傾げた。
──それが、まずかった。
「いや〜それがさぁ、相棒──実はね?」
ヴァレンが笑顔のまま、口を開きかけた、その瞬間。
「お前、黙れよ!!」
ガンッとテーブルが揺れるほどの声量だった。
リュナが叫んだ。
唐揚げの衣がパリッと崩れる音が、やけに鮮明に響いた。
その声は、普段の彼女の怒鳴り声とは“何か”が違っていた。
重く、鋭く、刺さるような“命令”。
「──!! リュナさん、マスクが……!」
フレキくんが叫ぶ。テーブルの端で、耳をぴんと立てたまま震えている。
リュナちゃんの顔を見る。……そうだ。
今、彼女の顔には──あの黒いマスクが、ついていない!
「──!」
ブリジットちゃんも、俺も、そしてヴァレンも一斉に目を見開いた。
“咆哮”。
それは、リュナちゃん──咆哮竜ザグリュナが、千年もの間、人との距離を作り続けてきた呪いのようなスキル。
たった一言でも、それを聞いた者は否応なく支配される。
「黙れ」と言えば、皆が黙り、「動くな」と言えば、誰もがその場に凍りつく。
そして今──
居酒屋の空気が、止まった。
──ように、思えた。
「……っ」
俺は思わず周囲を見渡した。
ボックス席の隣、カウンター、奥の座敷──人がいる。
酒を飲み、料理を食べ、誰かと笑ってる。
……話し声が、消えていない。
ざわざわとした店内の空気は、何も変わっていなかった。
「な……なんで……?」
リュナちゃんが小さく震えながら、自分の口元にそっと手を当てた。
その瞳は、揺れていた。
炎のように燃え上がる感情ではなく、凍りついた水面が静かにひび割れるような、そんな震え。
──たしかに、言ったはずだ。
「黙れ」と。
それは彼女にとって、これまで幾度となく“絶対”として響いた命令だった。
目を合わせるだけで、声を発するだけで、周囲の人間が息を呑み、沈黙し、意志を手放す。
肉親も、敵も、知らぬ間に距離を取り──
それは、孤独と引き換えに得た、彼女だけの力だった。
けれど今──
何も、起きなかった。
「咆哮が……発動しない……?」
リュナちゃんの声はかすれていた。
驚き。混乱。恐怖。期待。歓喜。
さまざまな感情が、その一言に込められていた。
向かいに座るヴァレンが、黙ったまま小さく首を振った。
けれど、彼の口元は固く結ばれていた。
サングラスの奥の目が、ほんの僅かに見開かれている。
まるで──言葉が出せずに困っているように。
俺は、はっと息を呑んだ。
(……効いてる。ヴァレンには、“咆哮”が効いてる──!)
マスクなし。制御不能なはずの“声”。
同格以上の相手には通じず、弱者には否応なく効果を発揮してしまうスキル。
それが、ヴァレンという"強者"には届きながらも、周囲には──波紋すら広げなかった。
「……しゃ、しゃべっていいよ」
リュナが、おそるおそる、か細く呟く。
その声音は、まるで自分に許可を出すかのように震えていた。
その瞬間。
「ぷはぁああああっっっ!!」
ヴァレンが椅子にもたれかかるようにして大きく息を吐き、汗ばんだ額を腕で拭う。
「くっ……マジで……ガチで効いたな……! 久々に魂ごと圧かけられたぜ……!」
息を整えながら、彼は苦笑してテーブルに肘をつき、深くうなずいた。
「──リュナ。お前、“咆哮”のコントロール……できるようになってるんじゃねぇのか?」
その言葉は、ふわりとリュナの耳に届いて──
次の瞬間。
ぽたり、と。
頬を伝った涙が、一滴、音もなくジョッキの影に落ちた。
「……え?」
リュナは、自分の頬に触れる。
濡れた指先を見て、ぽかんとした顔で目を瞬いた。
「な……んで……?」
まるで、異変に気づけなかった機械が、ようやく動き始めたかのように──
彼女の肩が、小さく震えだした。
涙は、次々と零れていく。
止めようとしても止まらない。
拳を握っても、歯を食いしばっても、喉の奥から溢れる震えが止まらない。
「──っ、う……うぐ……っ……!」
声にならない嗚咽が、かすかに漏れる。
千年という時間のすべてが、今、彼女の胸に押し寄せてきた。
「リュナちゃん……!」
ブリジットがすぐさま席を立ち、リュナの隣に滑り込むように座ると、そっとその肩を抱いた。
「……よかったね……!」
それは、とても優しい声だった。
まるで、長い間冬眠していた心を、春の陽射しが包むような声。
その言葉に、リュナはぎゅっと目を閉じて、ブリジットの腕を強く握った。
「……う、うわぁあああああん!!」
ようやく、声が出た。
それは、少女のような。赤ん坊のような。
何よりも正直な、泣き声だった。
この世界で、何百年と生きてきた彼女が──
ようやく、声を許されて。
ようやく、“誰かに抱きしめられて泣く”ことが、できた。
「リュナちゃん……リュナちゃん……!」
ブリジットも、涙を浮かべて彼女の背中を撫で続ける。
隣で見ていた俺は、何も言えなかった。
ただ、こみあげる何かを必死に抑えながら、グラスの水を握っていた。
(……よかった)
心の底から、そう思った。
言葉にならない想いが、胸の奥でくるくると渦を巻いていた。
フレキも、小さな体をぴたっと座布団に伏せて、じっとふたりを見つめていた。
その目元に、かすかに光るものがあったのを、俺は見逃さなかった。
──幸せって、こういうことなんだな。
俺は、泣いている彼女たちの隣で、ひとつ、深く息を吐いた。
そして、小さく──微笑んだ。
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(ヴァレン視点)
──夜のざわめきが、少し遠くに感じられた。
居酒屋の一角。席を囲む灯りはまだ暖かく灯っていたが、そこに流れる空気は、どこか別世界のように澄んでいた。
リュナが泣いていた。
唐揚げの油がほんのり香るテーブルの上、浴衣の袖に顔をうずめて、ブリジットにしがみつくようにして、大粒の涙をこぼしていた。
ぐしゃぐしゃになったその顔は、今まで見たどんな魔物よりも──いや、どんな人間よりも“生きている”と、ヴァレンは思った。
「……よかったな、リュナ」
誰にともなく、そう呟いた自分の声が、妙にくすぐったく響いた。
だが、同時に胸の奥に、微かな違和感があった。
──おかしい。
リュナの“咆哮”は、あれほど強大だった。
それが、今この空間で“制御された”というなら、それはとてつもない変化のはずだ。
心のどこかで引っかかっていたその違和感に、ヴァレンはそっと意識を集中させる。
目を閉じるまでもなく、己の中のスキルを呼び出した。
"魂視"。
魔王として生まれ持った、数少ない“真のスキル”のひとつ。
それは、対象の魂の状態を見る術。
彼はゆっくりと視線を向けた。
泣き続けるリュナへ──その魂の奥底へと、意識を沈めていく。
──そして。
「……なるほど、そういうことか」
ヴァレンの瞳が、わずかに見開かれた。
そこにあったのは、銀色の膜のような光。
まるで繭のように、やさしく、やわらかく──リュナの魂を包み込んでいた。
それは歪みを正し、擦り切れた部分を繕い、乱れた波形を穏やかに整えていた。
魂というものは、本来むき出しのまま存在している。
愛や憎しみ、希望や絶望といった感情の蓄積によって、形を変え、時に歪み、時に砕ける。
だが──
この少女の魂は、まるで誰かが時間をかけて、丁寧に、毎日すこしずつ磨いていったような──そんな気配を持っていた。
(これは……自然治癒じゃない。外部からの“継続的な癒し”による回復だ……)
そして、ヴァレンの脳裏に浮かんだのは──ただひとり。
この少女のそばにずっといた、少年の姿。
「……相棒、お前……」
目の端でちらりと見る。
アルドは、今まさにうるうると目を潤ませながら、リュナの背中をそっと撫でていた。
優しい手つきで。まるで、大切な宝物に触れるように。
だが、彼に自覚はない。
自分が、どれだけのものを、どれだけの愛を、この竜少女に与えていたのか。
(数ヶ月──)
彼女と過ごした日々。
その間ずっと、アルドはリュナに、手作りの食事を作ってきた。
毎日、欠かさず。温かく、丁寧に。
彼女の好みを気遣い、栄養を考え、何より「美味しいって言ってもらえるように」と心を込めて。
(なるほど……魂に直接作用する、“真祖竜の祝福”……!)
その料理には、竜の“根源”が込められていた。
真祖竜が紡いだ愛情というエネルギーが、少しずつ、少しずつ──
彼女の魂の歪みを溶かし、癒し、整えていったのだ。
──それは、奇跡ではなかった。
むしろ、極めて地道な、手間と時間の積み重ね。
だが──だからこそ、それは奇跡だった。
誰かが意図して起こせるようなものではなく、
ただ純粋に、優しくあろうとした結果、生まれた“奇跡”。
ヴァレンは、そっと笑った。
グラスの中の氷が、カラン、と静かに鳴る。
「……やれやれ。とんでもねぇ奴だな」
誰に聞かせるでもなく、呟いたその声は、どこか嬉しそうだった。
アルドが、涙ぐみながらリュナに言葉をかけている。
フレキまでも、しっとりと目を細めている。
ブリジットが、涙で濡れたリュナの頬をそっと拭っている。
この場所には、温かさしかなかった。
それは、ヴァレンがかつてどれだけ願っても、得られなかったもの。
(リュナ……お前、本当に良かったな)
かつては、力に怯え、世界と隔絶されていた少女が。
今、こうして“祝福されて”いる。
(……でもな)
ヴァレンは、最後にもう一度、リュナの魂に目をやった。
その繭のような銀の膜を包むように、ほんのかすかに、赤いひずみの名残があった。
それは、完全な消失ではない。
むしろ、眠っているだけ。
油断すれば──何かの拍子に、再び目を覚ます可能性もある。
(……だからこそ、相棒)
ヴァレンは、視線をアルドに向けた。
(お前だけは、どうか──あの子を、裏切るな)
それは祈りだった。
魔王である彼が、自分でも思わず驚くほどに、真摯な“願い”だった。
グラスを軽く揺らして、ヴァレンは深く息をついた。
そして、もう一度──そっと、笑った。
その笑顔は、誰にも見せない、心の奥の“兄貴分”としての表情だった。
(……ああ。いい夜だ)
火照る空気と、冷たい酒。
笑い声と、涙と、ぬくもり。
魔王である自分が、ひととき忘れられるくらいに──この時間が、心地よかった。
そうして彼は、酒瓶を掲げる。
誰にも言わずに、心の中で──乾杯した。
“愛という名の、ささやかな奇跡”に。
──そして、それを生み出した少年と少女に。
「……最高だ、お前ら」
静かに、夜は更けていく。