第54話 side ヴァレン・グランツ④ ──主人公たる器──
風が少し、冷たさを帯び始めていた。
ルセリアの夜。
街は祝祭の賑わいに包まれているというのに、月だけが静かに、冷ややかな光を地上へと注いでいた。
展望塔の広場、その一角に設けられたベンチに腰を下ろし、ヴァレン・グランツはロングコートの襟をゆるく正す。
風に揺れる髪をかき上げ、彼は高く仰いだ夜空に、ふと目を細めた。
祭囃子、屋台の声、遠くで笑い転げる子どもたち──そしてときおり上がる、まだ練習の段階なのかもしれない小さな花火の破裂音。
人々の幸せなざわめきの中に、彼の存在は溶け込みもしなければ、気づかれもしない。
──それで、いい。
むしろ、それがいい。
彼は笑った。ため息とも、自嘲ともつかない小さな吐息をこぼしながら。
「……やれやれ、しくじった、か」
そう。これは、誤算だった。
───────────────────
およそ半刻前。
王都ルセリアの繁華街、とあるホテルの前に、ヴァレン・グランツは立っていた。
あの少女──ブリジットの伝言を、あの少年──アルドに届けるだけのつもりだった。
ほんの些細な“導き”。
それだけで、恋の種火は着火する。
彼はただ、それを見届けるためにここへ来た。
いつものように、舞台袖から物語の主役たちを眺めているはずだった。
──だが、そこにいた。
想定外の存在。
ちっこいワンコ。
だが、その正体はフェンリルの若き王、フレキ。
見た目はマスコット。けれど、あの目。魂を視る眼差し。
短い足に長い胴、それでいて、あれは本物の“忠義”を携えていた。
……その眼で見据えられた瞬間、ヴァレンの中の“魔”が小さく警告を鳴らした。
──この犬、ただ者じゃない(※フェンリルです)
彼は笑いかけた。
それが、失敗だった。
油断して、手を伸ばした。撫でるつもりだった。
──ペロ。
舐められた。
その一瞬で、すべてを看破された。
(……舌で真実を嗅ぎ取るなんて、そんな探偵犬あるかよ)
思わず笑いそうになった。けれど、内心では感嘆していた。
こういう忠誠は、いい。
不器用で、直線的で、けれど、嘘偽りのない魂のあり方。
ラブストーリーと同じくらい、こういう“守り方”には胸を打たれる。
だから──彼は、決めた。
この犬(※フェンリルです)を巻き込みたくない。
ならば、“出会い”を演出してやればいい。
彼は軽く指を払った。
空気が揺れる。
世界の糸が、ほんの一瞬だけ交差した。
──"運命交叉"。
街のあちこちから、犬たちが現れた。
ブルドッグのような唸り声をあげる短足獣。
もふもふとしたポメラニアン似の毛玉爆弾。
遠吠えをあげて走ってくる柴犬似の獣。
どれもが、なぜか目を輝かせて、フレキへと駆け寄ってくる。
「アルドさん! ボクは、大丈夫です! ボクに構わず……この人を──」
きらめく毛並みと雌犬たちの群れに飲み込まれ、フレキは見事に“さらわれて”いった。
ヴァレンは、その光景を見送って、肩をすくめた。
(……これで少しは静かになるかな)
──しかし。
彼の前に残った青年が、まっすぐな視線を向けてきた。
鋭くも澄んだ、隠しようのない目だ。
「……質問に答えてくれる? お兄さん」
声音は静かだった。
だが、その底には、確かな“怒り”と“疑念”が滲んでいた。
「──あんた、ブリジットちゃんに……何をした?」
その一言で、空気が変わった。
祝祭のざわめきの裏で、別の幕が──静かに上がったのだ。
(すまないね。君へのサプライズを、君に教える訳にはいかないんだ。)
(……さぁ、始めようか。君という“主人公”の物語を)
◇◆◇
──銀と赤の火花が、空を割った。
ふたりの蹴りが交差した瞬間、衝撃波が石畳を揺らし、街灯の灯火がわずかに揺れる。
ヴァレンは跳ねるように身を翻し、街灯の先端に着地した。
脚の裏に伝わる衝撃と、その中に込められた“重さ”に、思わず息を呑む。
(……これで魔力を使ってないって……ウソだろ?)
こいつは、魔王である自分を相手に『戦っているつもり』ですら無い。
むしろ、なるべく怪我をさせずに捕らえようとする気遣いすら見える。
魔力どころか、殺気すら込められていない。
ただ“追いかけてくるだけ”の蹴り。
それが──この威力。
「Ladies & Gentlemen!──あと1時間ほどで、大花火大会が始まります!」
軽くマジックボイスで宣伝をかます。通行人たちの目を引き、祭り客たちは「おお〜!」と空を見上げる。
混乱を避け、誰一人傷つけない。
決して、恋する者達の妨げとなってはいけない。
それが、“色欲の魔王”としての美学だった。
そして──それは、追ってくる少年も同じだった。
アルドは誰も巻き込まず、どんなに地の利が悪くても、スキルも魔法も一切使わない。
身体能力も、周囲に迷惑をかけないギリギリまで抑えている。
(……まじで、完璧だな君……!)
どこまでもストイックで、冷静で、優しい。
街の屋根を伝って走るその背中に、ヴァレンは震えるほどの感動を覚えていた。
(……観客ウケ抜群! これは主人公だろ……!)
気がつけば、展望塔の参道が見えてきた。
坂の途中に灯る提灯が、二人を迎え入れるように揺れている。
風が、夜の訪れを告げる。
(──さあ、アルドくん。君の“魂”を、そろそろ見せてもらおうか)
ヴァレンの口元が、ゆっくりと綻ぶ。
今、恋の舞台が整った。
◇◆◇
アルドが深く吸い込み、酒を霧状に吹き出す。
松明の火が、そこに──
──ビィィィィィイイイイイッッ!!!
白熱した炎が一直線に吹き上がり、夜空を貫く。
まばゆい閃光が広場を照らし、その中にふたりの影が、重なった。
そして──その炎の中から、現れたのは。
「──ブリジット……ちゃん……?」
「……リュナ、ちゃん……?」
アルドの目が、見開かれる。
そこにいたのは、たしかに“彼女たち”だった。
──ドレス姿のブリジット。
──水面のように微笑むリュナ。
ふたりは火の中から、ゆっくりと歩み出てくる。
“《《両方》》”が現れた。
(……どっちかじゃなく……2人とも?)
ヴァレンの口元が、笑みに変わる。
いや、もはや歓喜すら通り越した陶酔だった。
「ククク……ハハハハハ!!」
──出た。
──2人同時に出現。
“幻愛変相”
対象の“《《最も理想とする恋人像》》”を、相手の想いの乗った攻撃を材料に再構成する技。
ここまで明確に《《2人同時》》に描き出すとは──
(やっぱり君……最高だよ、アルドくん!)
(“どちらか”ではなく、“両方を完全に等しく本気で想っている”……そんな男が、この世に実在するなんて……)
ヴァレンの目が輝いていた。
まるでロマンス演劇のクライマックスを見ているかのように。
──観客の目だった。
「──こりゃあ、器確定だね」
◇◆◇
月が空高く昇り、夜風が展望塔の広場を静かに撫でていた。
満月の光が、空中に舞うように実体化していた“月姫”の姿を照らし出す。
儚く、幻想的な美しさを持ったその女神は──
アルドの言葉を浴びた瞬間、ふわりと微笑み、そっと手を振って、光の粒となって消えていった。
「──ごめん!! 俺、気になってる子がいるんだ!!」
「──しかも、二人も!!」
その言葉が、夜空を切り裂く風のように響いた。
叫びじゃない。
けれど、どんな魔法よりも強く、まっすぐな“想い”だった。
ヴァレン・グランツは、その場に立ち尽くしていた。
肩を落とし、目を見開き、ぽかんと口を開けたまま。
──敗北。
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
"月姫得恋"。
満月の魔力を借りた、彼の“奥の手”の1つ。
美しき月の女神を高出力のエネルギー体として具現化する大技。
それに“耐えられた”相手は、過去に数えるほどしかいない。
けれど──
「……っ、く……っふ……ふふっ……はははははは!!!」
吹き出した。
腹の底から笑いがこみ上げてきた。
敗北の中にある、限りない歓喜。
自分が見たかったものが、そこにあった。
それが、嬉しくて仕方なかった。
「アルドくん……キミ……《《スパダリ》》にも程があるだろ……!!」
崩れ落ちるように地面にしゃがみ込み、ヴァレンは顔を覆った。
その手の中で、震える笑い声が止まらない。
胸の奥が、じんわりと熱い。
まるで、上質なラブコメの最終回を《《描き終えた》》直後のあの感情。
良かった……この結末で本当に良かった──そんな、満たされた涙。
(……両方を選ぶって……言葉にすりゃ簡単だけど……ちゃんと“本気”で言えるヤツ、なかなかいねぇんだよ……)
(ごまかしたり、逃げたり、鈍感を装ったり……みんなそうする中で……)
(キミは、真正面から、両方に向き合う覚悟を選んだ……)
ヴァレンの唇が、ゆるやかにほころぶ。
(──これが、真祖竜……いや、"アルドラクス"って男か……)
人の枠を超えた力。
でも、それよりも強いのは、“心”だった。
風が吹き抜ける。
誰もいない夜の展望塔。
ヴァレンは、地面に四肢を付き、伏していた。
そして──腰元の、小さなポーチをさする。
その中にあるのは、手作りのクッキー。
ブリジットと一緒に焼いた、素朴で、ちょっと焦げた、でも温もりのある味。
(……届けてやらなきゃな。キミに、彼女の想いを)
(──彼なら、2人ともを幸せにできる)
満ち足りた瞳で空を見上げながら、
彼はゆっくりと歩き出した。
ラブコメ観察者にして、色欲の魔王。
使命は果たされた。
あとは──この物語の続きを、主人公に委ねるだけ。
風に舞う祭囃子の音が、夜空を焦がす。
その音がどこか、祝福の鐘のように感じられたのは──きっと気のせいじゃない。