第51話 side ヴァレン・グランツ① ──世界の理、魔王誕生──
世界は、ひとつではない。
無数の“現実”が、《《宇宙》》という名の摺鉢に──幾重にも重なり、存在している。
その《《宇宙》》の名は、『イデア・クレータ』。
それは魂の循環炉にして、万象の墓場。
全ての存在の始まりであり、終わりでもある“仕組み”そのもの。
円錐状にくびれたその形は、上部へ行くほど広がり、自由と多様性を宿し、
底へ行くほど狭まり、重力のような因果と“想い”が凝縮されていく。
この構造の内側には、“世界球”と呼ばれる幾多の世界が浮かんでいる。
それぞれが魂の流れを持ち、その中で、ある者は人として生まれ、ある者は獣として生きる。
世界球たちは、摺鉢の内側の面に沿って、独自の軌道で円運動を繰り返し、ときに他の世界とすれ違う。
──その刹那、境界が曖昧になる。
文化が交差し、言葉が流れ、記憶が、魂が……時には、《《生命体そのもの》》すら迷い込む。
これが、いわゆる“《《異世界転生》》”や“《《異世界転移》》”と呼ばれる現象の正体だ。
だが。
この宇宙の底には、他の世界とは決定的に異なる“地”が存在する。
魂が、巡ることを拒まれ。
上昇ではなく、ただ沈んでいくしかない領域。
──それが、最下層の世界『アル=セイル』。
この世界には、“滑り落ちた魂”が集まる。
強すぎる怒り、消えなかった願い、報われなかった恋。
他の世界で受け止めきれなかった“強い想い”は、重力のように魂を引き寄せ、この底へと堕ちていく。
しかも、この世界の構造は特異だ。
他世界より魔力の濃度が高く、時間は遅く、観測されにくい。
そして──“魂の歪み”を、受け容れる。
アル=セイルは、言わば“魂の吹き溜まり”。
強い欲望、激しい執着、忘れ去られた痛み。
それらを“受け止めてしまった”世界。
そして。
その“欲望”の中でも、最も強く、最も美しく、最も厄介なもの。
それが──《大罪》である。
七つの罪。七つの器。
その魂が、底に堕ちきったとき。
世界は、その想いを封じるために“魔王”を生み出す。
それは、悪ではない。
むしろ、この世界の“免疫”であり、“再生”のための歪な仕組み。
──罪をかかえた魂に、名と器を与えること。
それこそが、“魔王”の起源。
そして、五百年前。
“愛されることなく、誰かの恋を見届けたいと願った、いくつもの魂”が、堕ちた。
それは、無数の物語と結末を、ただ見つめていた魂。
自身の恋を持たず、愛を語ることもなく、
けれど誰よりも、他人の幸せに涙した──
その魂が、ひとつの器へと注がれた。
──名は、ヴァレン・グランツ。
“色欲の魔王”の誕生である。
だがこの魔王は、あまりに特殊だった。
宿した罪が、あまりにも“《《現代的》》”だった。
──誰かの恋を見届けることに悦びを感じる。
──告白の瞬間に涙する。
──キスの演出に拍手し、誤解とすれ違いの苦悩に心を震わせる。
……そう。
“恋愛観察”という名の、歪で無害で、けれど限りなく純粋な"《《色欲》》"。
それが、この魔王の──原点だった。
魂が降った。
ゆっくりと、底へ向かって滑り落ちていく。
イデア・クレータ、その最奥。
無数の世界を滑り落ちて、すべての欲望が堆積する場所。
その中心に──それは“在った”。
◇◆◇
──名前を持たぬ光が、降り注ぐ。
欲望の中でも、とりわけ“他者に向けられた想い”だけを宿した魂たち。
それは、単なる恋でもなければ、性愛でもない。
演劇の恋、文学の恋、漫画やアニメの恋、実在と非在の境を越えた“他人の恋愛”に心を震わせた魂たち。
『この二人、結ばれてほしいな』
『この告白、うまくいって……!』
『あー! こいつ何やってんだよ!そこは手を握れよぉぉぉぉ!!』
──そう願い、そう叫び、時に涙を流した“視聴者たちの魂”。
そのすべてが、ひとつの器に注がれた。
──ヴァレン・グランツ。
世界がまだ混沌の中にあった五百年前、彼は「色欲の魔王」としてこの世に“定義された”。
だが、生まれながらにして“異質”だった。
「色欲」という名を与えられながらも、彼には、誰かを愛する感情が無かった。
人に恋をすることができなかった。
けれど──他者の恋に“強烈に”惹かれる心だけは、確かにあった。
──人が人を好きになる。それを見て、自分の魂が震える。
ただそれだけが、彼にとっての“至高”だった。
たとえば、幼馴染と再会して不器用に言葉を交わす姿。
告白を躊躇う少年の背中を、そっと押す少女。
手を繋ぐ勇気、想いを伝える勇気。
その一瞬一瞬に、彼は感動した。
涙を流したことさえある。
だが、彼自身は──その中に入れない。
舞台の外で見ているだけ。
傍観者。
否、正確には──観客。
「……最高だ。」
ヴァレンは、そう呟きながら、遠くから寄り添う恋人たちを見守る。
“誰よりも純粋に恋を愛しながら、決して恋を知らない男”。
それが、ヴァレン・グランツという“色欲の魔王”だった。
◇◆◇
「結局……俺って、どこの陣営にも属せないんだよなぁ」
しわくちゃになった地図を、ヴァレンは軽く空にかざした。
西の大陸で魔族と人間が紛争を起こしていた頃、
彼はそのどちらにも属することなく、北の果てにある氷原の村にいた。
──1組の青年と少女を見守るために。
「お前と一緒にいたいんだ!……だから、俺と、結婚してくれ!」
「……っ、ば、バカじゃないの……!? でも……はい」
ふたりの指先が触れ合った瞬間、ヴァレンは崖の上からひっそり拍手を送った。
涙をこらえるために、袖で目を拭った。
それが彼の日常だった。
恋を応援する。恋の背中を押す。
それが魔王であるはずの彼の“宿命”であり“喜び”だった。
だから、彼は戦争に加わることはなかった。
“色欲”の名を持ちながら、“欲”のために人を傷つけることを拒絶した。
──だから嫌われた。
「貴様は“色欲”の名を冠しながら、欲しないのか」
「偽善者め。私たちを裏切る気か」
「お前が人間の味方をする理由は何だ?」
他の魔王たちの冷たい視線。
唯一"強欲の魔王"だけは、ヴァレンに近しい考えを持ってはいたが、それでも『仲良く』とまではいかなかった。
七つの玉座で開かれる“定例大罪会議”でも、ヴァレンの発言に耳を貸す者は少なかった。
シンプルに、嫌われて、ハブられていたのだ。
そのことを、彼は少し寂しそうに受け止めながら──
「ま、しゃーねぇよな」
「……いつか俺にも、"ラブコメ"について熱く語り合える友達とか、出来る日も来んのかな。」
「ま、ちと難しいか、そりゃ……」
と、また一人、旅に出た。
誰もついてこない。
部下もいない。拠点も持たない。
だが──彼は、それでも笑っていた。
「出会った恋の数だけ、人生は美しい」
そう信じていたからだ。
彼の旅は続いた。
恋人同士のすれ違いに悩む少女に、変装して助言を与えた。
惚れた相手に渡す手紙を出せない少年に、代わりに走って届けた。
魔物に襲われた幼馴染同士の男女を助け、背中を押してみたりもした。
片想いに泣く男の肩を黙って叩き、立ち去った。
誰も彼を知らない。
彼も名乗らない。
いや、たまには気まぐれに名乗る事もあった。
ただ、恋を見届け、見守り、時にはさりげなく背中を押す──
“観客席にいる魔王”。
そんな生き方を、彼は選んだのだ。
だから──彼には、“友”と呼べる存在がほとんどいなかった。
ただひとつ、奇妙な出会いが起こるまでは。
あの日。
彼がふらりと立ち寄った市場で。
金茶色の髪をした、褐色の肌の少女と目が合った。
その魂が、あまりにも“綺麗すぎる歪み”を抱えていることに、気づいた時──
ヴァレンの世界は、再び少しだけ、変わり始めた。
◇◆◇
潮風が甘く湿った空気を運ぶ、港町シェロナの昼下がり。
陽光に照らされた石畳の道を、ヴァレン・グランツは気ままに歩いていた。
今日の服装は、どこかの世界で流行った“トレンディ”という名の装い。
肩パッド入りの白いジャケットに、七分丈の黒パンツ、胸元が少し開いたシャツ。
センター分けを流した赤メッシュの入る黒髪が、やたらキマっていた。
──まあ、半分はネタである。
だが、彼の心は穏やかだった。
ここ最近は“とびきりの恋模様”にも出会えていないが、
それでも街角で見かける恋人たちや、照れくさそうに肩を並べる少年少女の姿だけで、心がじんわりと温かくなる。
(……いいねぇ、やっぱり人間の恋は。何よりエモい)
そう呟き、路地を曲がったその時だった。
──視えた。
視界の端に一瞬だけ映った少女の姿。
その時、ヴァレンのスキル“魂視”が反応した。
あれは──この街にいるはずのない、存在。
彼女は、金茶の髪を持ち、褐色の肌をしていた。
黒いワンピース姿の少女。
人間の少女に見えるが、その魂の形は──
(……竜? いや、これは……“咆哮竜”の魂だ)
しかも、ただの竜ではない。
圧倒的な存在感を持った“原初”の魔種に近い異質な魂。
それなのに、彼女の表情には、冷たいほどの無感動が貼りついていた。
「お前──独りか?」
気がつけば、ヴァレンは声をかけていた。
少女は驚いたように肩を震わせた。
警戒の色が宿った目がヴァレンを射抜く。
「……なに?」
「いや、別に。そう見えたから」
少女は一歩、後ずさった。
「ごめんごめん、驚かせたな。けど、なんというか……放っておけないオーラ、出てたんだよなぁ」
ヴァレンがへらっと笑いながらそう続けた瞬間だった。
「うるさいッ!どっか行け!!」
少女が思わず叫んだ。地鳴りのような声が、空気を一瞬で震わせた。
周囲の人間がビクッと立ち止まり、虚な目で足早に去っていく。
一瞬、広場の時間が止まったかのように静まり返った。
しかし──ヴァレンは、その“咆哮”を、真正面から受け止めながら、びくともしなかった。
「……ああ、なるほど。これが、“お前が背負ってる呪い”か」
「……ッ!?」
少女が、目を見開く。
“咆哮”は、咆哮竜が発する“無意識の力”。感情に連動し、周囲に命令を与えるスキル。
自分の力を制御できず、無意識に発してしまう。
それは、彼女が孤独を選ばざるを得なかった理由──
「俺に、それは効かないよ。安心しな」
ヴァレンは穏やかに微笑んだ。
少女は、困惑と戸惑いを隠せないまま、そっと口元を押さえた。
「……あんた、何者?」
「んー……俺か? まあ、“色欲の魔王”とか呼ばれてる」
「……は?」
「ククク……わかるぜ、その反応。俺も自分で言ってて意味わかんねぇもん」
くすくすと笑うヴァレンの横顔を、少女は不思議そうに見つめていた。
その日から、彼女は、ヴァレンという名の奇妙な男と、何日か言葉を交わすようになった。
どこか馴れ馴れしく、だけど不思議と安心できる声。
彼はいつも、一歩だけ距離を取って、決して踏み込もうとしない。
けれど──見ている。
“本当の自分”を、最初から気づいているかのように。
◇◆◇
港に、潮風が吹く。
リュナは黙ったまま、波止場に立っていた。
その隣に、ヴァレンが立つ。
ふたりの間に、言葉はなかった。別れは、すぐそこにあったからだ。
「……追手が来る。ちと、面倒なヤツでね。」
「俺がここに長居すると、お前にも、街にも迷惑がかかる」
リュナは無言のまま、少しだけ視線を落とした。
「一緒に来い──とかは、言わない。そんなガラじゃないしな、俺」
「……最初から、分かってた」
「ん?」
「──どうせ、どこかへ行っちゃうって。そういう顔してたもん、最初から」
そう呟いたリュナの横顔に、初めて“年相応の少女”の表情が浮かんでいた。
「そうか……ごめんな。せめて──これだけは、受け取ってくれ」
ヴァレンはポケットから、ひとつの黒い布を取り出した。
艶のある、闇を閉ざすような布。それは、紋章の刻まれた“封魔の口帯”だった。
「これは……?」
「“咆哮”を抑える魔導具だ。力を封じるわけじゃない。……ちゃんと、コントロールする助けになる」
リュナは黙ったまま、それを受け取る。
「……自分の力を、過度に恐れるな」
ヴァレンは真っ直ぐに言った。
「お前の魂の形は、誰かを傷つけるようにできてなんかいない。……ただちょっと、不器用なだけだ」
リュナの目に、わずかに光が宿る。
ヴァレンは笑った。
「いつかさ──お前を、ちゃんと優しく抱きしめてくれるヤツが現れるよ」
「……そんなの、いるわけないじゃん」
「いるさ。空からでも降ってくるって。ほら、ラブコメってそういうもんだろ?」
「なにそれ、意味わかんない」
「俺には、分かるんだよ。」
ふっと、リュナの口元が緩んだ。
ヴァレンは、踵を返す。
「じゃ、元気でな。ザグリュナ……いや、リュナちゃん。」
「──……ヴァレン」
「ん?」
「……また、いつか」
「おう。また“観察”しに来るよ。お前の《《ラブコメ》》、楽しみにしてるからな」
ヴァレンは振り向かずに手をひらひらと振って、そのまま夜の街へと消えていった。
リュナは、しばらくその背中を見送っていた。
胸元に抱えた黒い布を、そっと強く抱きしめながら──
彼女の耳には、風の中に確かに届いていた。
「──俺は“色欲の魔王”だ。“恋をすること”より、“恋を見守ること”に魂を震わせる、世界で一番歪んだ魔王さ」
──その夜、初めてリュナは、自分以外にも“歪んでいる誰か”がいることを知った。
そして、それが少しだけ、嬉しかった。