第49話 魔王、人生最長の10分間
打ち込まれた一撃は、雷鳴のようだった。
鳩尾に突き刺さった拳が、内臓をまとめて抉ったかのような衝撃。
肉体だけではない。魂までもが震えるような
──そんな一撃だった。
魔王ヴァレン・グランツは、吹き飛びかけた意識を無理やり繋ぎながら、ゆっくりと膝をついた。
(……マジかよ……)
声にならぬ呻きが喉の奥でにじんだ。
かつて「勇者」と呼ばれた者と剣を交えたこともある。
火竜の王の咆哮を真正面から受け止めたこともある。
数百年という時を生き、戦い、時に死にかけ、魔王として生を重ねてきた。
その自分が──今、こんなにも呆気なく打ち抜かれるとは。
(いや……違う。打ち抜かれたんじゃない……)
ヴァレンは、腹を押さえながら視線を上げた。
あの少年。真祖竜の力を秘めた少年──アルド。
あの一撃は、明らかに《《手加減されていた》》。
全力ではない。殺す気などない。
それでも、このダメージ。
(……やっぱり、怒らせちゃいけなかったなぁ……)
どこか遠くを見るような目で、ヴァレンは自嘲気味に笑う。
《《あの時》》、確かに“忠告”は受けていた。
──"彼"を怒らせるな。死ぬ事になるぞ。
分かっていた。分かっていたはずだったのに。
(……けど、どうしても……聞いてみたかったんだよな)
あの男の“魂”が、どんな言葉を放つのか。
どれほどの想いを、心の奥に抱えているのか。
それを知りたくて――確かめたくて。
“色欲の魔王”という宿命が、彼を突き動かしていた。
欲望。それは単なる快楽や刺激ではない。
人の心の“最も奥深くにある想い”──それに触れたいという、止めようのない衝動。
それこそが、彼の持つ“罪”。
(……業が深いな、俺も)
笑おうとして、腹の痛みに呻いた。
指先が震える。冷たい汗が額を伝う。
それでも、左手はゆっくりと、腰のポーチに触れた。
大切な“《《それ》》”だけは、守らなければならない。
(……たとえ、この身が滅びようとも)
中身が見えないよう、そっと手のひらで押さえる。
軽い。その存在が、逆に重い。
(……はぁ……)
深く、ゆっくりと息を吐いた。
顔を上げる。目の前には、こちらを真っ直ぐに見つめる“真祖竜”。
逃げ場なんて、最初から無かったのかもしれない。
けれど──
(……そうか、なら)
ヴァレン・グランツは、静かに笑った。
夜の風がロングコートを揺らす。
(ここからが本番だ。俺の魔王人生で一番長く感じる──“10分間”の開幕だ)
唇の端に、笑みを浮かべたまま。
魔王は再び、立ち上がった。
───────────────────
(アルド視点)
……こいつ、まだやる気だな。
腹を押さえて顔を歪めながらも、ヴァレン・グランツは、左手の本──あの“魔本”をそっと開いた。
ページが風にめくられ、夜の空気がざらりと震える。
その指先が、再び赤い光を帯び始めた瞬間、俺は無言で足を止め、呼吸を整える。
──来るぞ。
大罪魔王の"本気"が。
「"心花顕現"」
ヴァレンの声が、風に溶けて流れた。
その直後だった。
「──"獅子座流星群"」
ヴァレンの指が、またあの奇妙な軌跡を宙に描いた。すると──
夜空の星が、まるで命を持ったように煌めき、ヴァレンの周囲から光球が一斉に現れた。
そのひとつひとつが、流星のような軌道で──俺へと、降り注ぐ。
さっきの流星攻撃とは比べ物にならない。
速さも、数も、密度も。
もはや、星空そのものが俺を狙って堕ちてくるみたいだ。
だけど。
俺は、怖れない。
両手を広げ、"スキル"を発動する。
──見せてやるよ。
《《真祖竜の戦い方》》ってやつを。
「──"竜泡"。」
口元に静かに乗せたその言葉だけで、世界が変わる。
ぽう、と浮かぶ。
いくつもの、シャボン玉みたいな泡が。
まるで命を持つように、俺の周囲でふわふわと現れ、浮遊し、踊るように回転する。
ひとつ、またひとつ。
どこから現れているのか、もうわからない。
泡たちは、迫り来る光球にそっと触れ――
ぱしゅ。ぱしゅぱしゅ。
その音は、まるで息を呑むみたいな、儚い破裂音だった。
瞬間、泡は光球を飲み込み、ぎゅうっと小さくなる。
錠剤ほどのサイズに圧縮された流星たち。
ひとつ、またひとつ。俺の周囲の空間は、いつしか無数の小さな泡で満たされていた。
俺はゆっくりと右手を差し出す。
泡たちは、その掌に向かって整列するように集まり──すっと、収束していく。
まるで、“意志”があるかの様に。
俺は顔を上げる。
目の前には、煌めきが残るだけの夜空。
口を開け、無言で舌を出す。
魔王の生み出した流星を内包する、錠剤大の泡たちを、パラパラと舌の上に乗せていく。
ころころと転がす感覚。
ひんやりしていて、ほんのり甘く感じた気がした。
錯覚かもしれない。
そのまま──ゴクリ。
飲み込む。
喉の奥を通る感触が、妙に心地よかった。
俺はそのまま、ヴァレンに顔を向けた。
視線を、まっすぐにぶつける。
「……ごちそうさん。」
ヴァレンの表情が、ピクリと動いた。
驚きというより、もはや──畏れ、だった。
自分が放った煌めく“流星”の嵐が、
まるで何でもないかのように、“喰われた”。
「こいつは……ヤバいね……」
その言葉に混じって、小さく息を吐く音が聞こえた。
汗の粒が、ヴァレンの顎を伝って落ちる。
……俺は、ゆっくりと、ただ一歩を踏み出した。
足音すらしないほど静かに。
この流れを、俺は壊さない。
でも──止めるつもりもない。
ヴァレンの意志が尽きるまで。
俺は、“喰らって”、前に出る。
どこまでも。
どこまでも、真っ直ぐに。
◇◆◇
ヴァレンが、ひゅ、と一歩後ろに下がった。
動作は軽やかだが──あれは、明確な“防御の姿勢”だった。
その手に構えた"魔本"のページが、またもや風を巻いてめくられていく。
指先が、宙に優美な軌跡を描く。
「"心花顕現"。」
「──"電飾冥王獣"。」
呪文が紡がれると同時に、足元の石畳が、柔らかな光を放ち始めた。
まるで劇場の舞台が開幕するような華やかさだった。
色とりどりのネオンが路面を走り、輪郭が生まれる。
──そして、現れた。
一体目。象のような巨体に、身体じゅうに張り巡らされたネオン管。
鼻の先からは、淡い桃色のライトが点滅している。
もう一体は、熊。
大きな体躯。背中からイルミネーションのような羽飾りが伸びて、きらきらと瞬いていた。
どちらも、子どもが喜びそうなポップでカラフルなデザイン。
──だが。
俺は、その光景をただ、瞬きもせずに見つめていた。
「……ナイトパレードかよ。」
言葉に温度はなかった。怒りも、興奮もない。ただ、“処理”を告げるように淡々と。
魔獣たちが、電子音の様な咆哮を上げながら突進してくる。
風圧と光が交差し、足元の芝が吹き飛ぶ。
でも俺は、一歩も退かずに──
地面を、蹴った。
一瞬で視界が上昇する。
魔獣たちの頭部が、手の届く距離に迫った。
俺は何の迷いもなく、象のような魔獣の頭を、ガシ、と片手で掴んだ。
その質感は、まるで温もりのない硬質プラスチックだった。
……右目の端に、もう一体の熊の魔獣が映る。
俺はもう一方の手をすっと伸ばす。抵抗も、軋みもない。
まるで、そこに“質量”がないかのように、スムーズに掴めた。
その瞬間──
「悪いけど、チャラ男と2人でパレード見る趣味は無いんだよ。」
俺の声だけが、静かに夜空に浮かぶ。
2体の頭を掴み、力任せに引き寄せる!
ゴシャァァァアアアン──!!
爆発的な音とともに、2体の魔獣の頭が、互いに叩きつけられた。
その一撃に、火花と電飾の光が四散する。
ネオンの帯が千切れ、羽飾りが宙に舞い、象の鼻がまるで飴細工みたいに砕けた。
……一瞬だった。
抵抗も悲鳴もない。
ただ、まるで壊れやすいおもちゃのように。
──割れた。
静寂が戻る。
目の奥が一瞬、白くなった。
音すらも追いつけないまま、俺は地面に着地する。
石畳が、わずかに軋んだ。
そのまま顔を上げ、ヴァレンに視線を送る。
彼は、一瞬だけ、身を固くした。
その苦笑は、もはや“諦め”に近いものだった。
「……2体まとめて、一撃かよ……!」
笑う唇の端が、かすかに震えていた。
顎先を伝った冷や汗が、星の光を反射して、銀にきらめいていた。
俺は、ひとつ呼吸をして──
また、歩き出す。
ゆっくりと。足音すら立てず、ただ“確実に”。
止まるつもりは、ない。
この脚は、止めない。
あんたがどう抗おうが。
あんたがどんな攻撃を出そうが。
俺は、それを“処理”して、ただ、前に出る。
この先に“答え”があるなら──
そこまで、歩いて行く。
ただそれだけのことだ。
◇◆◇
「……アルドくん。あんた、本当に“いい男”だな」
ヴァレンの声は、痛みを堪えながらも妙に晴れやかだった。
腹を押さえる指先は白く、肩で荒く息をしながら、それでも口元は笑っていた。
けれど、その目だけは──静かに、確かな熱を湛えていた。
「──月の女神も、あんたに“恋”しちまったみたいだぜ?」
そう言った瞬間だった。
左手に抱えた黒革の魔本が、ザッと風を巻いて開かれた。
紙が捲れる音が、不自然なほど大きく耳に残る。
風が逆流するように冷たくなり、まるで空気そのものが凍るかのような気配が、地面から伝ってきた。
それは“魔力”じゃない。
もっと深く──もっと原始的な、魂の根源から湧き出すような、名状しがたい力。
“誰かの願い”が、濃密な色を持って顕現しようとしている。
(……来る)
俺は一歩も動かなかった。
拳も構えず、ただその場に立ったまま──息を潜めて、ただ見つめた。
ヴァレンが右手を高く掲げた。
夜空に向かって、真っすぐに。
二本の指が、紅の矢のように星へと突き刺さる。
「──"月姫得恋"」
ヴァレンの呟きと同時に、指先から赤色の光が放たれた。
それは夜空へとまっすぐ伸び、雲ひとつない漆黒のキャンバスを真っ二つに裂く。
その瞬間──
空が、歪んだ。
静かに浮かんでいた満月が、ぐにゃり、と波打つようにうねり始める。
まるで巨大な水面に石が投げ込まれたように、中心から渦が生まれ、輝きが変質していく。
やがて、渦の中心から現れたのは──“輪郭”。
しなやかな腕。
優美なラインの頬と唇。
胸元に手を添え、金の髪をたなびかせる、神話から抜け出したような美しき女神の姿。
「……!」
俺は思わず、足を止めて見上げた。
月そのものが、金色のエネルギーの塊として擬人化されている。
──いや、違う。
あれはただのビジュアル演出じゃない。
“愛”の名を借りた、超高出力のエネルギー体だ。
しかも……こっちを、見てる。
目が合っている。完全に“俺だけ”をターゲットにしている。
「月の女神の《《愛の告白》》、キミはどう受ける!?」
ヴァレンの声が月下に響く。
女神の表情は、まるで恋する乙女。
頬を染め、潤んだ瞳でこちらに手を差し伸べ──
《《抱きしめに来ようとしている。》》
(……これは、なかなかインパクト凄いな。)
"色欲の魔王"ヴァレン・グランツの、
文字通り『必殺ロマン砲』ってとこか。
その名の通り、“想いを受け止めたら即落ち”という可能性も否定できない。
塔の下から、観客たちのざわめきが風に乗って届く。
「うわ、なにあれ!?」
「え、でっかい女神!?」
「花火!?演出!?」
「めちゃキレイじゃない!?」
演出と勘違いした人々の歓声。
それでいい。無駄に不安を感じる必要は無いからね。
凄まじい力の奔流。
魔力とは違う、《《何らかの力》》。
流石だよ、大罪魔王。
世界最強の一角と言われるだけあるね。
でも──
女神の両手が、そっと、優しく伸びてくる。
抱擁の直前。
それは、最も心を揺さぶる一瞬だ。
だが、俺は──
ズバッと一歩、前に踏み出した。
相手が月の女神だろうが何だろうが、
《《愛の告白》》だというなら、それなりの返事をしなくちゃならない。
俺の声が夜空に響き渡る。
「──ごめん!!
俺、気になってる子がいるんだ!!
──しかも2人も!!」
胸の奥に灯った“感情”が、銀色の光へと変わる。
ブォンッッ!と音を立てて広がる魂の奔流──
《《銀色のブレス》》。
それはまるで、衝撃波!
俺の魂叫びがそのままエネルギー化して、一直線に天へと伸びた。
“月の女神”の両手にぶつかる──!
ギュウウウッと空気が軋むような音!
衝突点で光が爆ぜ、空全体がきらめいた。
銀の衝撃波が、金色の女神を押し返す。
女神の表情が、すっと変わった。
驚き。
戸惑い。
そして──ほんの少しだけ、寂しそうな笑み。
……ああ、なんだろうな。
言葉じゃなくても、伝わってくる。
「そっか。ありがとう」って、そう言ってくれた気がした。
次の瞬間。
彼女の身体は、パァァーンと、
金色の光の粒となって崩れていく。
羽衣が、髪が、頬が、まるで流星のように細やかに砕け、
夜空にきらめきながら、静かに消えていった。
満月は、何事もなかったように元の形に戻り、
また、ただの“月”に戻っていた。
──静寂。
「……ウソだろ……」
地上に目を戻すと、ヴァレンが絶句していた。
指差していた右手は、宙をつかんだまま。
彼の目の焦点はどこにも合っていなかった。
「俺の“月の女神”が……告白への《《お断りコール》》一撃で……?」
膝を崩し、ふらりと後退するヴァレン。
片手で地面を支えて、ようやくバランスを保っている。
「アルドくん……キミ………《《スパダリ》》にも……程があるだろ……。」
苦笑まじりの言葉が漏れる。敗北の実感。
額には汗。髪は乱れ、目尻には何かしらの涙の気配すらあった。
俺は少しだけ肩をすくめ、静かに言った。
「さすがに、気になる相手が3人ってのは……ちょっと多過ぎるからね。」
「──ククク……完敗だな、これは。」
力を使い果たしたのか、観念したのか、
"色欲の魔王"ヴァレン・グランツは、
地面に両の手を着いて、大きく息を吐いた。
"真祖竜"と"大罪魔王"の戦い。
決着が付いた瞬間だった。