第48話 囚われた心、曝け出す魂
──なんなんだよ……これは……。
展望塔がすぐそこに迫る、参道の終盤。
石畳の道は人影もまばらになり、祭りの喧騒が遠くに霞んで聞こえる。
冷たい風がそっと吹き抜ける中、俺は立ち止まっていた。
目の前にいるのは、ブリジットちゃんと……リュナちゃん。
……の姿をした“何か”。
でも、俺の目には、ただの幻とは思えなかった。
ふたりは俺に向かって、微笑んでいる。
まるで、いつものように、俺の隣に立っていたあの時のように。
ブリジットちゃんは、あの無邪気な笑顔で。
リュナちゃんは、少しヒネたようなイタズラっぽい微笑で。
けれど──その肩先、髪の先、袖の先。あちこちが、淡い炎のようにふわりと揺れている。
輪郭が、空気に溶けるみたいに淡く、でも確かにそこに“いる”。
まるで、焚き火の中に浮かぶ面影。
「……ブリジット、ちゃん……? リュナ、ちゃん……?」
口をついて出た声は、自分でも驚くほどに小さく、かすれていた。
でも、返ってくる声はない。
2人はただ、そこに立っているだけだった。
無言のまま、俺を見つめて、笑っている。
(幻……なのか? いや、それにしては──)
あまりにも“完成度”が高すぎる。
表情も、癖も、指の動きまでも。
それは、どこかで見た記憶じゃなくて──俺の中に、ちゃんと“刻まれている”ふたりの記憶、そのままだった。
胸が締めつけられる。
身体が熱を帯びてるはずなのに、指先は少しだけ震えていた。
(なんなんだよ、ヴァレン・グランツ……。ふざけやがって……!)
さっきまでの軽薄な口調も、余裕ぶった態度も、その奥にこんな“何か”を仕込んでたってのか?
俺は、完全に油断してたんじゃないか……?
でも──そうだ。
あいつは、“大罪魔王”の一人。
リュナちゃんの“咆哮”みたいな超常的スキルを持ってても、おかしくない。
(だったら……もし、万が一……!)
この炎のブリジットちゃんとリュナちゃんが、“本物”の彼女たちの魂を核にして作られているとしたら……?
あいつの左手の魔本が、魂に干渉する魔導書だったら?
この光と炎の存在が、ただの幻影じゃなくて──彼女たちの“中身”そのものだったら?
「……っ!」
頭の奥がきりきりと痛む。視界が揺れるような錯覚に襲われる。
違うかもしれない。ただの幻かもしれない。
でも、可能性がある限り、見過ごすわけにはいかない。
ブリジットちゃん。リュナちゃん。
大切な──いや、もう言い訳するのはやめよう。
あの2人は、俺にとってただの仲間じゃない。
ただの旅の同行者でも、守るべき“誰か”でもない。
俺はあの子たちが笑っていてくれたら、心から安心するし。
俺の隣にいる時だけ、俺は俺でいられる気がする。
──つまり、そういうことだ。
「…………」
心臓の奥で、静かに、でも確かに、決意が灯る音がした。
もしこの魔王が、彼女たちの魂を奪っているなら。
俺が、どうにかして取り返す。
この手で、絶対に。
──それが、俺の“やるべきこと”だ。
◇◆◇
ふと、風が吹いた。
夜の空気がゆるやかに流れて、目の前の光の2人の髪を揺らす。
……その風の向こう。石畳の先で。
あいつがいた。
"色欲の魔王" ヴァレン・グランツ。
ロングコートをなびかせながら、展望塔の方角を見やるように立っていた。
月明かりと街灯に照らされたその姿は、今まででいちばん“魔王らしく”見えた。
「……もう間もなくだ」
あいつの声が届いた。
「花火の時間だ。──展望塔広場で、待ってるぜ」
その言葉を最後に、ヴァレンはふわりと跳躍し、屋根伝いに音もなく消えていった。
あっけないほど静かに。
まるで、誘うように。導くように。
そして残されたのは──
“ブリジット”と“リュナ”。
2人の姿をした、炎の精霊。
彼女たちは、同時にふわりと跳ねるように、俺の方へと飛び込んできた。
──ハグ、みたいな。
「……くっ……!」
反射的に身を翻し、回避に徹する。
当たったらどうなるか分からない。焼けるかもしれない。魂が何かされるかもしれない。
でも、それでも。
「っ……!」
ブリジットちゃんとリュナちゃんの“姿”をした何かを、俺はどうしても──攻撃、できなかった。
何か、心の奥底が拒否してた。
そして。
俺は、気づいた。
──ああ。
俺にとって、あの2人は。
ただの仲間じゃない。
目的を同じくする同志とか、信頼できる家族とか、そういうのでもない。
もっと。
もっとずっと、深くて、あたたかくて。
大事で、守りたくて、そばにいてほしくて。
──そういう存在なんだ。
「……俺、浮気症なのかなぁ……」
ぽつりと呟いて、少しだけ笑った。
あの2人が並んで俺の視界にいたら、そりゃあどっちも選べないに決まってる。
でも──選ばなくちゃいけない時が来るなら、ちゃんと考えるよ。
ちゃんと、“俺の気持ち”で。
「君たちが、本物か偽物かは……分からないけど」
俺は、2人の姿に、まっすぐ目を向けた。
「俺は絶対に、2人を傷付けない」
そう静かに告げた瞬間。
俺の周囲に、シャボン玉のような泡がいくつも、
ふわりと浮かび始めた。
真祖竜の固有スキルの1つ。
「──"竜泡"。」
真祖竜の魔力で作られた、強固な泡。
その泡に包まれたものは、この世界から"断絶"される。
外側からも、内側からも、決して傷付く事はない。
「人通りも無くなってきたし、ちょっとだけ……
──《《本気出すか》》。」
泡たちは浮遊しながら、炎のブリジットちゃん、リュナちゃんを包み込むように近づき──
彼女たちの身体を、ゆっくりと包み込み、すっぽりと閉じ込めた。
そのまま、泡はシュウウ……と、ビー玉くらいの大きさにまで縮んでいく。
2人の姿は、泡の中で、静かに揺れていた。
俺は、その2つの小さな泡を、そっと懐にしまう。
胸の内に、優しさと決意を込めて。
「──待ってて。絶対に、元に戻してやるから」
そして、夜の道を見上げた。
展望塔はもうすぐだ。
すべての答えは──そこにある。
◇◆◇
展望塔広場に足を踏み入れた瞬間、何かが変わった気がした。
……音が、消えた。
賑やかだった参道の喧騒。人の笑い声、屋台の呼び込み、夜風に揺れる紙提灯のざわめき。
それらが、まるで結界にでも包まれたみたいに、俺の耳から遠のいていく。
代わりに訪れたのは、凛と張り詰めた、静けさ。
夜の空気が澄んで、少しだけ冷たくなっていた。
風が吹くたび、髪がふわりと揺れて、頬にかすかな冷気が触れる。
高台にそびえる展望塔──白く、無機質で、まるで天を指すように佇む塔の足元に、ぽつんと置かれた木製のベンチ。
そこに──いた。
色欲の魔王、ヴァレン・グランツ。
ロングコートを羽織ったまま、足を組み、背もたれに身を預けて座っていた。
──背中が、月を見ていた。
その背中は、今まで見た中でいちばん“魔王らしく”見えた。
ふざけたチャラ男の仮面はどこにもない。
静かで、整っていて、妙に品すら感じさせる後ろ姿。
それが逆に──不気味だった。
俺はゆっくりと近づく。
足音は控えめに。視線は逸らさず、慎重に。
でも、ヴァレンは動かない。
まるで、最初からそこに在るべきもののように、ただ空を仰いでいた。
そして、ふと──
月に語りかけるように、低く静かな声を落とした。
「──さっき、炎の中から現れた2人……」
「……彼女たちは、キミにとって“何”なんだい、アルドくん?」
……穏やかな声だった。
不思議と、怒りも皮肉も含まれていなかった。
ただ、まっすぐな問いかけ。
けれど、それが逆に──妙に怖かった。
なぜ、そんなことを聞く?
なぜ、“今”その話を持ち出す?
俺は、胸の中でゆっくり言葉を探した。
どんな風に言えばいいのか分からなかった。
──けれど、心の奥から浮かび上がってきた言葉を、ひとつずつ並べた。
「……ブリジットちゃんとリュナちゃんは──」
言葉に詰まる。けれど、もうごまかせない。
「“大切な仲間”……いや、“《《大切な人》》”だよ」
その瞬間、胸の奥に何かがストンと落ちた。
ようやく自分の本心を、ちゃんと見つけた気がした。
今までぼかしていた気持ちが、はっきりと輪郭を持つ。
“守りたい”とか“助けたい”なんて言葉で飾るまでもなく、
ただ、大事なんだ。
どうしようもないくらい。
ヴァレンはゆっくりと顔を向けてきた。
サングラス越しの視線が、月光の下で鈍く光る。
──笑った。
口元がぐにゃりと歪んで、頬が釣り上がる。
そして、静かに、けれど抑えきれないような熱を滲ませて──爆ぜた。
「ククク……クククハハハハ!!」
突然、芝居じみた笑い声が展望広場に響いた。
いや、ただの芝居じゃない。
まるで、心の底から“喜び”が湧き上がって止まらないとでも言うように。
「そうか!“大切な人”かぁ!!」
「……あぁ、こりゃたまらん!たまんねぇよ、アルドくん!」
ベンチの上で笑いながら身をよじるあいつの姿に、俺は眉をしかめた。
目の奥が、じん、と熱を帯びる。
──何がおかしい。
──何がそんなに、嬉しい。
俺は、今ようやく覚悟を決めて、自分の想いを言葉にした。
それを、なぜ──
まるで他人の恋路を肴に酒を飲むかのように、そんな顔で笑える?
拳を握った。無意識に、力が入っていた。
怒りと疑問と、不安と。
胸の中で混ざり合って、言葉にならない熱が、喉までこみ上げてきていた。
……こいつは、何を知ってる?
俺のことを、どこまで見透かしてる?
そして──あの2人に、何をした?
その時、たしかに感じた。
空気が、少しずつ冷たくなっていく気配を。
それは、夜のせいじゃなかった。
──俺の中に、“怒り”が芽吹き始めていた。
「……ひとつ、聞いていいか?」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
けれど、喉の奥が熱い。
心臓の音が、耳の奥でゆっくりと響いている。
「ブリジットちゃんに……いや、2人に。何をした?」
問いかけた瞬間、ヴァレンがクス、と短く喉を鳴らした。
その音だけで、背筋を撫でられたような嫌悪感が走る。
「……そうだな」
あいつはゆっくりと立ち上がり、ベンチに残るわずかな体温すらも残さぬように、ふわりと身を翻す。
肩をすくめ、首をひとつ傾ける。
「キミも俺の質問に真摯に答えてくれたことだし──」
「俺も、《《答えられる範囲で》》答えようか」
丁寧な物腰。柔らかな口調。
けれど、節々が引っかかる。どこかが……決定的に、ズレている。
「“2人に何をしたか”──ねぇ……」
一拍、言葉を宙に浮かせた後。
ヴァレンは唇の端を、ゆっくりと吊り上げた。
「───“《《男の喜ばせ方》》”を教えてあげた、
ってところかな?」
──バキィッ。
明確に音がした。
自分の拳が鳴った音だった。
無意識に、指が硬直していた。
爪が手のひらに食い込む。血の匂いが、微かに立ち上る。
……あ?
俺の中で、何かが音を立てて切れた。
さっきまでの冷静さが、ぷつんと線を断たれたように消えていく。
胸の奥が、ぐらりと揺れる。
こいつは──何をぬけぬけと。
そうか。つまり、お前は───
俺を、怒らせたいんだな。
距離、およそ十四〜五メートル。
周囲には、誰の気配もない。
花火の打ち上げまで、あと十数分。
──ちょうどいい。
「……だったら」
小さく、息を吸う。肺が震える。
火照った頭の中を、冷たい意志で押さえ込む。
「“ちょっとだけ”──本気で相手してやるよ」
「──半径15m……"竜刻"」
呟いた瞬間、俺の周り、半径15mの球形の世界が、沈んだ。
風が止まり、木々のざわめきが消えた。
夜の音も、星の瞬きも、まるで“置き去り”にされたみたいに遅れてくる。
色のない世界。
空間の粒子が、宙でゆっくりと凍っているような、異様な静寂。
この一秒間。
半径15mの世界は、俺のものだ。
俺は地を蹴った。
空気を押し分ける感覚すらないほど、真っすぐに。
ヴァレンの眼前へ──!
“時間”が動き出す。
景色に色が戻る。
風が吹き返す、その刹那。
──ドゴォッッ!!
「──ッガハッ!!」
俺の拳は、すでに奴の鳩尾に深く埋まっていた。
ヴァレンの身体が“くの字”に折れる。
その瞳が驚愕に見開かれる。
完全に、油断してたな。
その軽口が出ないってことは、相当効いたってことだ。
「くっ……はぁっ……ぅぐ……!」
背後に飛び退き、呻きながら、
ヴァレンは身をよじる。
口の端からは、赤いものが流れ出る。
右手が、とっさに腰のポーチをかばっていた。
──あの中に、何かがある。
何か、ヴァレンが絶対に“守りたいもの”が。
だが、今の俺にとって、それはどうでもよかった。
「……あんたが言ってることが、本当か嘘かなんて、もうどうでもいい」
一歩、前へ。
怒りに芯を焼かれたままの拳を、もう片方も鳴らす。
「でもな」
声が低くなる。感情が、喉の奥から漏れ出す。
「俺の“大切な人たち”を……」
「……あんなふうに、笑いものにするってんなら──」
「覚悟してもらうよ。──“色欲の魔王”。」
バキッ、バキッと、指を鳴らす音が夜に響いた。
ヴァレンは、顔をしかめたまま、片膝をつきながら額の汗を拭う。
ようやく、その顔から“余裕”の仮面がはがれ始めていた。
そして、息の混じった小声で、ぽつりと呟いた。
「……《《あと10分》》、ってとこか……」
「……こりゃ、ちとマズいな」
その言葉の端に──
かすかな“焦り”が滲んでいたことを、俺は見逃さなかった。
次の瞬間、俺は拳を握り、構えていた。
──このまま終わらせてやる。
あんたのふざけた笑いごと、止めてやる。
“魔王”と“真祖竜”。
本気の火花が、今──夜の広場で弾けた。