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第39話 リュナの静かな決意、来たる"色欲"

カクカクハウスのリビングは、今朝も変わらず風通しが良かった。



けれど——今日はどこか、少し違っていた。



直角で構成された、奇妙な形のソファ。


その一角に、リュナはぐでんと寝転んでいた。


半分マットレスのようになったクッションに頬を埋め、上から差し込む朝日に片目を細める。



「んぁ〜……ギャギャッ!!って、耳に障るっすね……」



窓の外から聞こえてくるのは、荒野の魔鳥たちのけたたましい鳴き声。


まるで誰かが喧嘩でもしているかのような騒々しさだった。



そのくせ、家の中は妙に静かだ。


さっき、アルドたちが出発してから、まだ数時間しか経っていないというのに。



「……変に、静かっすね」



ぽつりと落ちたその言葉は、クッションの綿に吸い込まれて、誰の耳にも届かない。



右手では、ネイルヤスリをくるくると回しながら、左手の爪をていねいに磨いていた。


黒マスクはいつもより早く外され、ソファの肘掛けに引っ掛けられている。



マスクがないと、空気が肌に触れすぎて落ち着かない。


けど今日は……どうにも、つける気になれなかった。



そのときだった。



——カツン、カツン。



廊下に響く軽快な足音が、木の床を優しく叩いた。


やってきたのは、ネクタイ付きの前掛けを正しく着けた巨大パグ顔のフェンリル、グェルだった。


相変わらず律儀に直立し、前足だけで銀のお盆を器用に抱えている。



「リュナ様。お茶をお持ちしました」



「おお、気が利くじゃん、グェル公爵〜」



寝返りを打ち黒マスクを装着ながら、リュナは気怠げに手を上げる。


ソファの上で身体を起こすと、寝癖のついた髪がふわりと肩に落ちた。


グェルは静かに歩み寄ると、お盆をサイドテーブルに置き、カップをそっと差し出す。


ハーブティーの湯気が小さく揺れ、添えられたクッキーからはほんのりバターの香りが漂ってきた。



「ほんとうに……お留守番でよかったのですか?」



グェルの声音は、遠慮がちだった。


どこか、リュナの胸の内に立ち入ることを恐れているような、そんな響き。


リュナはそれには答えず、カップをひょいと受け取ってひと口啜る。


ふぅ、と小さく息を吐き、視線を逸らしたままネイルを再開した。



「いーんだよ。あーしはこっちでのんびりしてた方が性に合ってんの」



その言葉は、いつも通りのリュナらしい調子だった。


だけど、ほんの一拍だけ、間が空いた。



グェルは黙ったまま頷いた。だが、すぐに何かを言い出そうとしたように、前足をそっと上げかける。



「……ですが、リュナ様は、アルド坊ちゃんの事を——」



その瞬間。


——バフンッ!!


ソファの上から繰り出された飛び膝蹴りが、サイドテーブルを飛び越え、寸分のズレもなくグェルの顔面に炸裂した。



「余計なお世話だっつの!ブタ犬が!!」



鈍い音と共に、グェルは錐揉み状に回転しながら宙を舞い、ぺたんと落下。


床に寝転んだまま、脚をピーンと伸ばして気絶した。



「ありがとうございますッ!!」



なぜか、感謝の言葉だけを残して。


リュナはふぅっと息をついて、再びソファに身を預けた。


カップの中のハーブティーは、まだほんのりとあたたかい。


けれど、それとは対照的に、胸の中は妙に冷えていた。



(あーしがいない方が……うまくいくこともあるんすよ)



言葉にはしなかった。

けれど、心の奥ではずっと、そう呟いていた。


誰にも言えない想い。


誰にも届かない本音。


それが、静かなリビングの空気に溶けていく。



窓の外、朝日を浴びながら伸びていく草原の先。


まだ見えない旅の道を——リュナは、少しだけ寂しそうに見つめていた。



その頬には、いつもの笑みが浮かんでいた。


けれど、その笑みの奥には、ほんの少しだけ翳りがあった。



——まるで、自分でも気づかないうちに、


ほんの少しだけ、大切なものを置き忘れてしまったような。



そんな静かな朝だった。




 ◇◆◇




 カップの縁を、指先でゆっくりなぞった。


 リュナの視線は、目の前のハーブティーではなく、その向こうの、まだ乾ききっていない書類の山に向けられている。


 昨日、ブリジットが仕上げたばかりの報告書の書き損じだった。


 


 (……報告不備、ね)


 


 唇が、ゆるく吊り上がる。


 役所仕事はどの国も融通が利かない。


 いや、それが当然だ。


 国というのは本来、そういう“面倒くささ”の上に成り立つものなのだから。



 でも——



 あれは、ただの不備じゃない。


 


 ブリジットは、ちゃんと分かっていた。


 咆哮竜ザグリュナの存在が、いかにこの荒野で“脅威”として扱われていたか。


 それを、いま“あたし”がこうして人間の姿で、のほほんと茶を啜ってるなんて、報告できるわけない。


 


 もしも王都に知られたら——



 リュナは間違いなく、“危険指定個体”として処理対象になるだろう。


 いや、それだけじゃない。


 そんな化け物と暮らしているというだけで、ブリジットも、アルドも、王国に睨まれる。


 


 だからブリジットは、“ごまかした”。


 不自然なほどに、ザグリュナの記述を削り落とし。


 代わりに、“領地に住まう高位魔獣の協力が得られた”という曖昧な言い回しに置き換えて——


 


 (……あーしのせいっすよね、結局)


 


 自嘲するように、クッキーをひとつ口に放り込む。


 甘い。ほんのりバターの香りが広がるけど、なんだか今日は、味がしない。


 


 ブリジットは、優しすぎる。


 あの子は、自分のことを“家族”みたいに思ってくれてる。


 かつて命を奪いかけた相手である、自分を。


 それは分かる。ちゃんと伝わってる。


 でも——だからこそ、足を引っ張ってしまっている気がして、苦しくなる。


 


 (兄さんにだって、あーしなんかより、姉さんの方が……)


 


 ブリジットは真祖竜であるアルドの血と力に“適合”している。


 咆哮竜なんかと違って、人から受け入れられる、良い意味で伝説にすらなり得る存在。


 人間として生きてきて、真っ直ぐで、誰からも疑われず、そして何より——彼を見つめる瞳が、綺麗だ。


 


 自分みたいに、黒マスク越しの……どこか引け目を抱えた顔じゃない。



 (そりゃ……惹かれるっすよね、兄さんも)



 ぎゅっと拳を握り込んだ。


 割れたクッキーの欠片が、手のひらにじんわり刺さる。


 でも、それすらも慰めのように感じてしまう自分が、少し嫌だった。



 ふいに、風が吹き込んできた。


 窓が、カタン、と音を立てて揺れる。


 


 リュナはそっと立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。


 そこから見えるのは、いつもと変わらないフォルティア荒野の景色。


 けれど、どこか違って見えたのは、きっと自分のせいだ。


 


 (行っちゃったっすね……)


 


 ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。


 その視線は、昨日まで隣で笑っていたはずの、あの少年が歩んでいった方向へと向けられていた。



 2人と暮らし始めてまだ数ヶ月。


 でも、その数ヶ月は、1000年の孤独すら忘れさせてくれるくらい、輝いてて───


 


 遠く、雲が流れる。


 その先にあるのが王都であり、ブリジットの未来であり、アルドが歩んでいく世界。


 そこに、自分の居場所があるのかは……分からない。


 


 けど——


 


 「…………ま、いーんすよ。あたしは、こっちで見守ってるっすから」


 


 小さく笑った。


 ほんの、少しだけ。


 ……寂しそうな、笑顔だった。




 机の上には、黄色いリボンの付いた小さな小箱。


 渡す機会を失った、贈り物。

 



 風が吹いた。


 草を揺らし、リュナの髪をそっと撫でていく。


 


 それはまるで、旅立った誰かの背中が、どこかで「またな」と言ってくれているような、そんな感覚だった——。




 ◇◆◇




リュナは湯気の立つカップを手に、ソファの上で胡坐をかいていた。



黒マスクは机の上に置いたまま。



窓から差し込む陽光は徐々に角度を変え、部屋の隅に影をつくっていた。



「……ふぃー……」



一口、ハーブティーを啜る。


ミントとレモングラスの香りが鼻を抜けるが、その味すら今は少しぼんやりして感じられた。



(兄さんたち、もう街道に入った頃っすかね)



旅立ちの背中を思い出すたび、胸に小さく、苦いものが浮かぶ。


だが、それもこの家の穏やかな空気が包んでくれる——


 


——バァンッッ!!


 


「ッ!?」



瞬間、空気が弾けるような雷鳴が、荒野の彼方から轟いた。


リュナの手の中のカップが小さく揺れる。


熱い雫が膝の上に落ちても、彼女は動けなかった。



(……今の、雷……!?)



だが、それは自然の雷ではなかった。


この土地で長く生きてきたリュナの本能が告げる。


今の雷は——殺気を孕んでいた。



「……なにか、来たっすね」



低く、呟いたその声には、いつもの軽さはなかった。


音を立ててソファから立ち上がり、マスクに手を伸ばす。



その瞬間——



再び、ズガァァン!!という衝撃音が窓を揺らした。


耳をつんざくような爆音。


それに混じって、かすかに聞こえるフェンリルたちの吠え声——いや、悲鳴。



「グェルっ!?」



弾かれたようにリュナは玄関に駆け寄る。


マスクを半ば口元に引き上げながら、ドアを開け放った。


荒野の空はまだ晴れていた。だが、地面にはグェルを筆頭に、数十体のフェンリルたちが倒れていた。



「……え?」



誰も動かない。

全員、まるで——眠っている。


しかもただの眠りではない。


陶然とした表情、薄く浮かぶ微笑、うっとりとした尻尾の振り……



(……こ、こいつら……何の夢、見てるんすか……!?)



目を疑った。


工事用ヘルメットを被った大型フェンリルたちが、

雷を喰らった直後のはずの戦場で、まるで「いい夢見てます」みたいな顔して、地面に横たわっている。



「っは、なにこれ……マジで異常事態じゃないっすか……!」



ギシ、と地面を踏みしめる音がした。


声のする方へ振り返ると——


巨大な白銀の体。堂々たる体格のフェンリル族の元族長、マナガルムが、


荒野の中心に佇む"異様な男"と、睨み合っていた。


 


男は——黒髪に赤メッシュ。

サングラスをかけ、コートを羽織った軽薄そうな姿。


だが、その立ち姿は、異様に印象に残る。



(……なにあの服装……チャラすぎっしょ……)



そうツッコミたくなる反面、リュナはすぐに本能的な「違和感」に気づく。


“気配”が、まるで見えないのだ。


あの男からは、魔力も殺気も、何も感じない——

なのに、全てのフェンリルを無力化している。



マナガルムが怒声を上げた。



「リュナ殿!! 侵入者です!!」



「……侵入者、って……!」



「我が百の牙、そして我が子グェルまでも……っ! 全て、手も足も出ず……ッ!」



リュナの視線が一気に険しくなる。



風が鳴っていた。



フォルティア荒野の中心部。太陽が角度を変え、倒れ伏したフェンリルたちの影を長く引いていく。


その中で、マナガルムの銀のひげが揺れていた。



「……我が爪牙そうがを、ここまで無力化するとは……」



怒りではない。驚愕でもない。


そこにあるのは、長年の戦士としての本能からくる、畏れだった。



「貴様、何者だ……!?」



対峙する男は、相変わらず薄く笑っていた。



赤メッシュの入った黒髪。開いた胸元からは銀のチェーンが覗き、サングラスは手に提げられている。



まるでこれからライブでも始めそうな軽薄な出で立ち——なのに。



「俺? 名乗る程の者じゃあないよ。」



男は肩を竦めながら、"グリモワル"を片手でひらりとめくる。


すると——




バチバチッ!!


空気が焦げるような音と共に、マナガルムの背後に雷が奔った。


空の彼方、雲ひとつない青空から、まるで地面へ怒りの槍を突き刺すように——雷撃が降り注いだ。




「——"天穿・雷砲(テンウガツ・ライホウ)"!!」




マナガルムが咆哮と共に大地を蹴る。天空より降り注ぐ雷の一撃。


フェンリルの一族、その長のみが放つ極雷の魔法だ。


荒野の空が割れた。


光と音の奔流が、まっすぐ男へと襲いかかる。


だが——




「狼クン。あんた、どんながタイプだい?」




ヴァレンが指をパチンと鳴らす。


グリモワルの一節が金色に輝いた。


 


「——"幻愛変相ミラージュ・ファンタズマ"。」


 


そして。


男が右手をふわりと掲げると、雷はぐにゃりと形を変えた。


まるで"魂"を得たかのようにその雷は方向を変え、空中で螺旋を描き——



やがて、一頭の雌狼の姿をとった。



雷が、優しく、美しい銀の毛並みと琥珀色の瞳を持った“雷狼”へと変貌していた。



「な……っ……!?」



マナガルムの巨躯が震える。


あの姿。あの瞳。あの光——



「……アレクサ……?」



その名前が、口から零れ落ちた。


かつて失ったはずの、最愛の妻の名だった。



「まさか……そんな……いや、これは、幻か……?」



マナガルムの心が揺らぐ。その隙を、男は見逃さなかった。


 


ふわり、と、肩にかけたコートが宙を舞う。


男の右手が、マナガルムの額へと伸びる。


 


「悪いな、狼クン。ちょいと席を外してもらおうか。」




人差し指と中指をそっと額に添える。


 


「——"忘れじの記憶グリット・リコレクション"」


 


その瞬間——


マナガルムの瞳から、涙が零れ落ちた。


彼の体からふっと力が抜け、巨体が地に伏す。


穏やかな寝息とともに、夢の世界へと引き込まれていく。



「っ……!? マナガルム……!!」



リュナが駆け寄ろうとする、その時。


その刹那——


男が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。


サングラスの奥の視線が、リュナの黒マスクに止まる。


そして——ニヤリと、笑った。



「……」



その笑みに、リュナの手がほんの一瞬、止まる。


男は、左手に持っていた分厚いグリモワルをパタンと閉じると、


右手でサングラスを外した。




「……っ」




その顔を見た瞬間、リュナの中で何かが弾けた。




「——あんたは……ッ!?!?」




驚愕と困惑が交錯する。


まるで嵐のような感情が、リュナの胸の中で吹き荒れた——。




"咆哮竜 ザグリュナ"と


"色欲の魔王 ヴァレン・グランツ"


2つの伝説が対峙する。


 


──この時、まだリュナは知らなかった。




この“異変”こそが、後にアルドたちを巻き込む、


“運命の花火”の始まりであったということを——

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