第38話 花咲く日常に、ひとひらの風
(ブリジット視点)
——カクカクハウスの朝は、鳥の鳴き声ではじまる。
といっても、フォルティア荒野の鳥って、いわゆる「チュンチュン♪」とかじゃなくて
「ギャアアアア!!」
みたいな、あんまり爽やかじゃないやつなんだけど……。
それでも、目を覚ますにはちょうどいい。
ここに来てから、すっかり私はこの音に慣れちゃってた。
「ふぁ……あ……」
大きく伸びをして、カーテンを開ける。
外には、黄金色の朝日が広がってた。どこまでも続く大地と、霧をまとった森。
ふいに風が吹き込んできて、頬をくすぐる。
今日も、いい天気だ。
少し前までは、「いい天気だな」なんて思える余裕なんて、私にはなかった。
ここへ来て、アルドくんやみんなと一緒に過ごすようになって——ようやく、そう思えるようになった。
ベッドの上で、ごろんと横になる。ぼふっと顔にかかる枕の匂いに、つい笑みがこぼれる。
(……あたし、今、ちゃんと、生きてる)
ほんの少しだけ、目を閉じた。
だけど——その静寂は、コンコン、という控えめなノックの音に破られた。
「ブリジット様、失礼いたします」
声の主は、グェルくんだった。
こう見えて、彼はとっても丁寧。
パグ顔で愛嬌たっぷりなのに、仕草は律儀で、それがまた可愛いんだから。
身体はちょっとだけ、大きいけど!
「どうぞー」
寝癖を整える間もなく、返事をすると、グェルくんは扉の隙間からひょこりと顔をのぞかせた。
「エルディナ王都より、急報が届きました。ご本人様宛ての、正式な通達です」
「……え?」
私は、思わず身を起こして、手渡された文書を両手で受け取った。
上質な紙。王都の紋章が押された封蝋。
その重みだけで、なんとなく——“ただの連絡じゃない”って、分かった。
胸の奥が、きゅっとなる。
ぱき、と封蝋を割って中を開いた。
文面には、淡々とした王国語が並んでいた。
『新設ノエリア領の管理に関する届け出書類の不備が確認されました。
至急、以下の公文書を持参の上、王都中央行政局まで来訪されたい。』
不備。
来訪。
……王都まで、行かなきゃいけない。
読み終えた瞬間、なんだか胸がざわざわした。
たぶん、どこかで覚悟はしてた。
領主っていう立場は、ただ名乗るだけじゃ務まらないって、分かってたし。
でも……いざ「来い」って言われると、どうしてこんなに、胸がぎゅうっとなるんだろう。
「……分かった。ありがとう、グェルくん」
できるだけ明るく微笑んで、そう返した。
グェルくんはこくんと頷いて、ぱたんと静かに扉を閉めていく。
再び一人になった部屋で、私は手紙の文面をじっと見つめていた。
視線の奥で、遠い王都の街並みが浮かぶ。
私の家族。
懐かしい街並み。
偉そうな貴族たち。
そして——
「アルドくん……」
彼の顔が、ふいに頭に浮かんだ。
この書類をどうするか、報告しなきゃいけない。
でも、心のどこかで、それ以上の何かを感じてる。
——王都に行く。
それだけで、何かが変わる予感がした。
……いい意味で、変わればいいな。
あたしは、小さく息を吐いて、立ち上がった。
「さてと……」
髪を整えて、鏡に向かう。
この一歩が、きっとまた何かの始まり。
そう信じたくて、私は小さく、鏡の中の自分に笑ってみせた。
「行ってこようかな、王都へ」
心の奥に、小さな決意が芽生えていた——。
───────────────────
(アルド視点)
「ふむふむ……つまり、領地管理に関わる書類提出ってことか」
俺は、カクカクハウスのダイニングテーブルに肘をついて、ブリジットちゃんの差し出す書簡を読んでいた。
手紙の文面は整っていて、言葉遣いも丁寧だ。けど内容はめちゃくちゃ堅苦しい。
絵に描いたようなお役所仕事だ。
「エルディナ王国中央登録所にて、行政資格の追加認可と管理権限の更新が必要です」って。
うん、要するに「一度、街の役所行ってこい」って話ね。
「ごめんね、アルドくん……あたしが代表って形になってるから、どうしても行かなきゃいけなくて……」
ブリジットちゃんが、申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「気にしないでいいよ。ブリジットちゃんが頑張ってくれてるおかげで、この領地は上手く回ってるんだから」
実際、ブリジットちゃんの説得により領民として迎え入れたフェンリル達のおかげで、フォルティア荒野の開拓は驚くほどスムーズに進んでいる。
今も、『安全第一』と書かれた黄色いヘルメットを被った5m級のブルドッグやコーギー達が、カクカクハウスの周辺の土地の整地作業をしてくれている。
絵面はシュールだが、流石は伝説の魔獣フェンリル。
風魔法や土魔法を器用に使って、どんどん土地を開墾してくれている。おりこうワンちゃん達だね。
「それに、ちょうどいい機会かも。俺、まだこの世界の都市部って見たことないし」
素直にそう思ってた。
フォルティア荒野に降りてきてから、ずっと森と草原と遺跡三昧。
人の街並みをこの目で見たことすらない。
先のベルザリオンくんとの邂逅でも思い知ったが、俺はあまりにもこの世界の常識を知らな過ぎる。
真祖竜の力に頼ったパワープレイである程度の事は乗り切れるにしても、ここまで無知すぎるとそろそろ何かド派手にやらかしそうで怖い。
───それに、
この世界の文明がどこまで進んでるのか、インフラはどうなってるのか、技術レベルは……料理の幅は……!
未知への好奇心が刺激されて、胸が高鳴るぜ!
俺だって、久しぶりに旅したいよ!
このままじゃ、タイトル詐欺になっちゃうしね!
「じゃあ……ついてきてくれるの?」
「もちろん。ブリジットちゃん一人じゃ心配だし」
「うぅ……ありがとう、アルドくん……!」
ぱぁっとブリジットちゃんが嬉しそうに笑う。
その顔を見ると、自然とこっちも笑ってしまうんだよな。なんていうか、こう……うん、可愛い。
「それなら、お供にボクのことも連れて行ってください!」
テーブルの下から元気な声が上がった。
そこにはミニチュアダックスサイズのフレキくん。
金色の首輪をキラリと光らせながら、ぴょこぴょこと足を揃えて跳ねている。
「ボクも、人間の文化を勉強しておきたいんです!」
「ブリジットさんと一緒に、皆が仲良く暮らせる領地を作るためにも!」
確かに、フレキくんなら"縮小"スキルを使えば、ただのミニチュアダックスフンド……小型犬にしか見えないし、簡単に連れて行けるね。
「うん、心強いよ。……さて、あとは」
自然と、視線がリュナに向いた。
黒マスクの少女は、椅子に深く腰掛けたまま、こちらをじっと見ていた。
でも、何も言わなかった。
その無言が、なんだか妙に気になった。
「リュナちゃんも、どうする? 一緒に行かない?」
俺がそう聞くと、彼女はわずかに間を置いて、首を横に振った。
「んー、今回は留守番でいいっす。」
「あーし、街はけっこう慣れてるし。今回はどうせブリジット姉さんの用事だし、兄さんとフレキっちがいれば、それ以上の護衛はいらないっしょ?」
「……そう?」
ちょっと意外。喜んでついてくるかと思ったのに。
「それに……なんか街って人多いし、魔力の流れもせわしなくて、苦手なんすよ。こっちの方が、落ち着くっすね」
彼女の言葉は軽い調子だったけど、その目の奥にある感情までは、俺にはうまく読み取れなかった。
……なんだろう。いつもより少し、遠い感じがする。
「じゃ、そういうことで。あーしはのんびりお留守番してるっすね〜」
リュナは背を向けて、自分の部屋の方へ歩いていく。
軽い足取りに見えて、その背中には、ほんの少しだけ——迷いの影が揺れていたような気がした。
出発の準備を進めていると、リュナちゃんがひょいっと顔を出してきた。
いつの間にか黒マスクを着け直していて、いつものあの「リュナちゃんモード」だ。
「兄さん、姉さんも、道中気をつけてくださいっす」
「うん。リュナちゃんも、留守番よろしくね」
ブリジットがにこやかに手を振ると、リュナも片手を上げて応えた。
その一瞬。
ブリジットの視線が、ほんの一瞬だけリュナの顔をじっと見つめる。
「……?」
リュナはすぐに視線を逸らして、いつものようにふざけた調子で、
「フレキっちが街中でベラベラ喋って騒ぎにならない様にしてくださいね!パッと見ただの犬なんすから、皆びっくりしちゃうっすよ!」
「ぼ、ボク、そんなヘマしませんよ!」
フレキがキャンキャンと反論し、リュナが笑う。
「なによそれ?」
俺が笑うと、ブリジットちゃんもつられて微笑む。
でも、ブリジットちゃんの目元には、ほんの少しだけ寂しげな色があった。
たぶん、彼女には何かが伝わっていたんだろう。
リュナちゃんの「言葉にならない気遣い」が。
そして、それを無理に聞こうとはしないブリジットちゃんの優しさが、そこにはあった。
——俺だけが。
そのやり取りの意味に、気づけていなかった。
でも、それはきっと。
この旅が終わる頃には、少しはわかるようになってるんじゃないか——
そんな予感が、胸の奥に残っていた。
◇◆◇
朝のカクカクハウスは、いつもよりほんの少しだけ静かだった。
窓から差し込むやわらかな陽光。
朝食の香りはもう消えていたけれど、木の床に残った微かな温もりが、この家に流れる空気の穏やかさを物語っていた。
玄関の扉を前に、俺は深呼吸をひとつ。
昨日のうちに荷造りは済ませた。
肩には小さなリュック。
中身は最小限の携帯食と、フレキくん用のミルク菓子。
それと、リュナちゃんが描いてくれた手書きの地図。
俺の隣には、しっかりと装備を整えたブリジットちゃん。
彼女の荷物は冒険者仕様の丈夫な革製バックパックで、食料も予備魔導石も完璧に詰め込まれている。
こういう時のブリジットの段取りの良さには、いつも感心させられる。
「兄さん、ちゃんと地図持ったっすか?」
ふと顔を上げると、玄関の柱に片手を添えて立っていたリュナが、俺の腰袋を顎で示して言った。
その言い方は、いつもの軽口混じりのトーンだったけど——
何だろう。ちょっとだけ、声が低かった気がする。
「うん、バッチリ。リュナちゃんが描いてくれたやつ、めっちゃ丁寧だったよ。あれがあれば、迷子になんてならないさ」
「ふふん、当然っすよ。方向音痴の兄さんのこと、見越して書いたっすからね〜」
そう言いながら、リュナは笑った。
でもその笑顔は、どこか張り付いたような気がした。
そのまま、俺と目が合った。
ほんの数秒だった。だけど、その目は——
すぐに逸らされた。
ああ、そういえば。
さっきから彼女、ずっと玄関の敷居から一歩も出てきてない。
いつもなら、「あたしも行くっすよ〜!」って真っ先に飛び出してくる子なのに。
今日は、違った。
「……姉さん、ほんとに無理しないように。今の時期の街、けっこう騒がしいっすから」
リュナは、ブリジットにそう言った。
口調は変わらず穏やかで、けれど、その目線はほんの少しだけ遠くを見ていた。
「うん、大丈夫。アルドくんが一緒だし、ね?」
ブリジットちゃんは明るく答えていた。
けれど、彼女もどこかで気づいたのかもしれない。
視線が一瞬だけリュナちゃんの手元へ泳いでいた。
俺の心に、小さなざらつきが残った。
言葉にできない。
でも、確かに——何かが、引っかかっていた。
(……どうしたんだろ、リュナちゃん)
でも、今は聞けなかった。
それが、彼女の“選んだ距離”だということが、なんとなくわかってしまったから。
「それじゃ、行ってくるよ。リュナちゃんも、無理しないでね」
「うん。気をつけてっすよ、兄さん。ブリジット姉さんも、フレキっちも。」
リュナちゃんは、柔らかく笑った。
それは、あの黒マスクの下に隠れていた頃と変わらない、どこかあたたかい笑顔だった。
……でもやっぱり、ほんの少しだけ遠くに感じた。
「いってきまーす!」
俺の肩に乗ったフレキくんが、前足をぴょいと振って元気に挨拶する。
その声に、玄関先の空気がわずかに和らいだ気がした。
そして俺たちは、フォルティア荒野をあとにした。
リュナが見送るその姿が、視界の端に小さく残っていた。
手は振ってくれていた。けど、その笑みは……どこか、少しだけ寂しげだった。
——何か、言いたいことがあったんじゃないか。
そう思いながらも、俺はその背中に声をかけることはできなかった。
風が吹いた。
草木の香りが混じる、爽やかな風だった。
旅が始まる気配と、どこか置いてきてしまった何かの余韻を背負いながら——
俺たちは荒野を歩き出した。