第37.5話 歪む"運命"、迫る"大罪"
渓谷を、駆け抜ける二つの影があった。
岩肌を照らす夕陽は赤黒く、長い影を地面に落としている。
その間を、息を切らしながら走る、二人の若い冒険者。
「ハァッ……ハァッ……クソッ、なんでこんな……!」
先頭を走るのは、黒髪を後ろに流した剣士風の青年。
右手には、刃こぼれした剣。
肩口から血がにじんでいた。
「ごめん、リオ……!あたしが……引き受けた依頼なのに……!」
必死に彼の後ろを追う少女、
マリン・レイフォード。
明るい茶髪を短く結んだ、快活そうな顔立ち。
腰には、ホルスターに収まった"魔導銃"が揺れていた。
「謝るな、マリン!」
振り返りもせず、青年――リオ・ゼクシアは叫んだ。
「誰のせいでもない!」
「……あんな、想定外の化け物、誰だって無理だ……!」
背後から、地鳴りのような咆哮が追いかけてくる。
ドガァン!!
岩壁を引き裂くようにして、巨大な影が飛び込んできた。
グリュプス。
鷲の上半身に、ライオンの下半身を持つ強大な魔獣。
それも、普通の個体とは比べものにならない異常成長体だ。
鋼のように硬い羽、鎌のような前脚。
一撃食らえば、地面ごと叩き割られるだろう。
「こっちだ……!マリン、ついてこい!」
リオは鋭く指示し、細い岩棚へと滑り込む。
二人の靴裏が、乾いた音を立てながら石を滑らせた。
(——追いつかれる……!)
マリンは心臓を鷲掴みにされるような恐怖を感じながら、それでも必死に走った。
今、リオが必死で守ってくれている。
絶対に、負けられない。
足を止めるわけには、いかない。
そして、そんな死に物狂いの逃走劇の先に——
彼らは、奇妙な光景を目にした。
岩棚の上、やけに開けたスペースに。
一人の男が、《《寝転んでいた》》のだ。
顔に、分厚い黒い革表紙の本を被せたまま。
まるで、昼寝を楽しんでいるかのように、無防備に。
(えっ……!?)
リオは、急ブレーキをかけた。
マリンも、唖然として立ち尽くす。
「な、何してんだこの人……!?早く逃げないと……!」
思わず叫んだマリンに、リオも同意する。
このままじゃ、あの男も巻き込まれてしまう。
リオは一歩、男に駆け寄ると、声を張り上げた。
「おい、そこのあんた!!逃げろ!!ここは危ない!!」
——風が、ふわりと吹いた。
男の胸元で、はだけたシャツがなびく。
無造作に、赤メッシュの入った長い黒髪を風に遊ばせたその男は、
顔にかけていた本を指でどかし、
シャツの襟にかけていたサングラスを
慣れた仕草で目元にかけ直す。
ゆっくりと。
薄く笑いながら、リオとマリンを見つめる。
「へぇ……」
その呟きは、妙に艶やかだった。
サングラスの奥から光る視線に、リオとマリンは思わず身をすくませる。
何か、ぞくりとするものが背筋を走った。
「な、何してるんだよあんた……!」
リオは戸惑いながら叫ぶ。
「ここは危険だ!グリュプスがすぐそこまで……!」
しかし、男はのんびりと立ち上がり、コートを肩からふわりと落とすだけ。
身構えるでもなく、武器を取るでもない。
それどころか——
「──いい風だな。"恋"を運んでくる様な……な。」
のほほんと、そんな感想を漏らしただけだった。
(……何なんだこいつ!?)
リオは苛立ち混じりに叫んだ。
「冗談言ってる場合じゃない!あんた、武器も持ってないんだろ!?」
「早く逃げろ!!」
マリンも震える声で訴える。
「わ、私たちが食い止めるからっ!」
男は、そんな支え合う二人を見て、口元を緩めた。
サングラスの下で、きっと目を細めている。
(……ああ、なるほど)
(この2人、幼馴染、か)
(……いいねぇ)
そんな感想を抱きながら、男は黒革の本をぱらりと指でめくった。
その仕草には、戦いの緊張感など微塵もない。
ただただ、どこか気怠げで、余裕のある、そんな動き。
——しかし。
次の瞬間、空気が変わった。
ドォン!!
雷鳴のような咆哮とともに、巨大なグリュプスが舞い降りた。
崖を砕き、岩を吹き飛ばす勢いで、三人の前にその影が落ちる。
——死が、そこにあった。
リオは咄嗟に、男の前へ飛び出た。
「下がれ!!」
マリンも、魔導銃を抜き、震える手で構えを取った。
「絶対、守るから……!」
だが。
男は、そんな二人を前に——
ただ、薄く笑っていた。
サングラスの奥で、何を考えているのかもわからないその目で。
静かに、静かに。
笑って、いた。
(……何なんだ、本当に……!)
(この男……一体……!?)
リオとマリンの胸に、言い知れぬ恐怖と不安が湧き上がる。
——だが、彼らはまだ知らない。
この男が、いかなる存在であるのかを。
いや、むしろ。
この男が、どれほど”異常な存在”かを、
知る術など、まだ持たなかったのだ。
◇◆◇
ドガァァン!!
渓谷の地が鳴動した。
岩肌がきしみ、土煙が舞う中、鋼鉄の羽根を持つ巨獣が大地に降り立つ。
「……グリュプス……ッ!」
リオは、血の気が引く思いで呟いた。
夜の帳の中に浮かび上がる、異様に巨大な影。
鋼のように輝く羽根、黒曜石のように鋭い鉤爪。
その異常個体は、7メートルを優に超えていた。
「くそっ……!」
リオは歯を食いしばり、剣を引き抜いた。
無防備なその男を背に庇うように、一歩前へ出る。
(マリンだけでも……)
(絶対、守り抜く!!)
マリンも、顔を強張らせながら魔導銃を両手で構える。
(……怖い……でも)
(リオが、守ろうとしてる)
(あたしだって、隣にいたい!)
震える指先で、引き金を絞った。
「リオ、いくよ!」
「——ああっ!!」
言葉はいらなかった。
互いに、幼い頃から隣にいた。
だから、呼吸のように、心が通じた。
バシュゥゥッ!!
蒼白い魔力弾が、連射される。
だが——
グリュプスは、悠然と羽ばたきだけでそれを弾き返した。
ギャアアアアアッ!!
耳を劈くような咆哮。
黄金の眼に、殺意を滾らせながら——グリュプスは宙へと飛翔する。
「来るぞ!!」
リオが叫ぶ。
マリンは咄嗟に銃を構え直すが、巨大な爪が迫る速度には到底追いつかない。
——殺される。
本能が告げたその瞬間。
ガシィィィッ!!
リオが身を投げ出して、マリンを庇った。
鉤爪がリオの肩を掠め、血飛沫が闇に散る。
「リオ!!」
マリンの悲鳴が響く。
リオは苦痛に顔を歪めながら、剣を構えたまま立ち続けた。
「だ、大丈夫だ……!」
「お前だけは……絶対、守るから……!」
(……バカ……!)
(そんな顔、しないでよ……!!)
震える手で、必死に魔法陣を描く。
小さな光が指先から滲み、リオの傷を癒していく。
「ヒール!!」
だが、回復は間に合わない。
グリュプスは、もう次の一撃を繰り出そうと翼を広げていた。
ギャアアアッ!!
絶望的な影が、二人を飲み込もうと迫る。
(リオも、あたしも——)
(ここで……)
心が、凍る。
呼吸すら忘れかけた、そのとき。
すっ……
二人の前に、その男が、立った。
袖を通さず、肩に羽織ったロングコート。
胸元をはだけたシャツ。
サイドだけを刈り上げた、赤メッシュが混じる黒髪を無造作に流し、サングラス越しにこちらを見下ろしている。
男は、マリンの必死な表情を見た。
傷ついたリオに寄り添い、泣きそうな顔で必死に癒す少女。
——その姿に。
男の口元が、にやりと歪んだ。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……最高だ。」
——まるで、リオが傷ついたこと自体を、楽しんでいるかのように。
空気が、さらに冷たく震えた気がした。
マリンは、背筋に走る寒気に身を強張らせた。
リオも、傷付いた身体で、男を横目で警戒する。
彼は、余裕の笑みを浮かべたまま、手にした本のページをパラパラとめくった。
コートを翻して跳躍したその男は、ふわりと空中で身体を捻った。
鋭く広がったツーブロックの赤メッシュ入り黒髪が、夜気にかすかに揺れる。
サングラス越しの緋色の瞳が、冷たく煌めいた。
その視線は、まっすぐに——
降りかかる猛禽、グリュプスの鉤爪を捉える。
ギャアアアァッ!!
咆哮と共に振り下ろされる死の爪。
だが——
男は、軽やかに、それをかわした。
まるで、踊るかのように。
まるで、風の一部になったかのように。
そして、何の躊躇いもなく。
パラパラと、左手に持った本——"グリモワル"のページがめくれる。
「……いいモン見せてもらった礼はしなくちゃいけないよな」
薄く笑う。
その笑みには、何の敵意も、憎悪もない。
ただ——
純粋な”楽しさ”だけが、滲んでいた。
リオとマリンは、地上で震えるように見上げていた。
あの怪物に、あれほどまでに余裕を見せる人間を、彼らは見たことがなかった。
そして。
男は、ふわりと宙を泳ぐように近づき——
本を持たない方の手。
右手を、そっと。
人差し指と中指——二本の指先だけを、鋼鉄の怪鳥の額へと、軽く、トンと触れた。
「——"運命交叉"。」
低く、静かに、呟いた。
瞬間。
ゴォォォォォオオオオッ!!
目に見えない力の奔流が、渓谷を揺るがせた。
空気が、ざわりと震えた。
リオもマリンも、肺の奥に異物が入り込んだかのような奇妙な感覚に、顔をしかめる。
「……な、に……これ……?」
だが、次の瞬間——
ドゴォンッ!!
轟音と共に、横から。
まるで狂ったかのような勢いで。
《《もう一体の別のグリュプス》》が突進してきた。
その目は潤み。
翼は震え。
甘ったるい奇声を上げながら。
二体の怪鳥は、空中で絡み合い、羽ばたき、もつれ、崖へと——
ズシャァァァァァアァアッ!!!
岩壁を削りながら、転げ落ちていった。
ドガガガガッ!!
ガラガラガラァッ!!
渓谷には、土煙と崩れた岩の破片が舞った。
静寂と轟音が交互に支配する、異様な空間。
リオとマリンは、呆然と立ち尽くす。
何が起こったのか。
どうして助かったのか。
何一つ、理解できない。
ただ。
この男がした"何か"が。
あのグリュプスの"運命"を捻じ曲げた。
それだけは、理解できた。
その恐怖だけが、二人の胸に根を下ろしていた。
男は、ふわりと着地すると、コートの裾を軽く払った。
「……ククク」
そして、心底満足げに微笑んだ。
まるで、自分の仕事に百点満点をつけた子供のような、無邪気な表情だった。
だが——その無邪気さこそが、何よりも不気味だった。
マリンが、震える声で絞り出す。
「た、助けて……くださって、ありがとう……ございます……」
リオも、剣を床に突き立て、震えながら頭を下げた。
マリンが支えになる様に、リオの傍らに立つ。
「俺も……礼を言う……助かった」
男は、ゆるりと顔を向けた。
サングラスの奥から、じぃっと二人を見つめる。
意味深な、底知れない視線で。
(……なんだ、この人……)
(なんで、そんな目で……)
二人の背筋に、寒気が走った。
男は、小さく口元を歪めて笑う。
(……たまんねぇな)
男は、2人に向き合い無造作に言った。
「こんな世の中だ」
「今日一緒にいた相手が、明日も隣にいるとは限らないぜ?」
リオとマリンは、息を呑んだ。
「言いたいことは、言えるうちに言っておけよ?」
「──後悔する事になる。」
それは、
まるで”別れ”を予感させる、呪いの言葉のようだった。
(……なんでそんな、不吉なことを)
(どうして、そんなに冷たく……)
二人は怯えながら、ヴァレンの後ろ姿を見送った。
ふわり、と。
コートを翻し、ヴァレンは渓谷を後にしようとする。
思わず、リオが叫んだ。
「ま、待って!! あんた……あんた、何者だ……!?」
男は、振り返らないまま、言った。
「ヴァレン……ヴァレン・グランツ」
名前。
それだけを、残して。
そして、ニヤリと。
夜闇の中で、牙のように白い歯を見せて笑った。
「——行き先は、フォルティア荒野だ」
その言葉だけを残し、彼は──
"《《色欲の魔王》》" ヴァレン・グランツは、
夜へと消えていった。
リオとマリンは、ただ呆然とその背中を見送った。
まるで、深淵の底を覗いてしまったかのような、抜け殻のような表情で。
——そして、三日後。
この渓谷にいた冒険者の少女。
「マリン・レイフォード」という人物は。
この世界から——
“いなくなる”ことになる。
物語は、静かに。
しかし、確実に。
次なる運命へと進み始めていた——。