第33話 癒しの一匙、溢れる涙
銀のスプーンが、わずかに震える手の中で光を反射した。
視線の先には、湯気を立てる——あの皿。
“それ”は、見た目こそ素朴だった。茶色のソース、白い米、カラフルな付け合わせ。
だが、その香りはまるで魔法のように、彼の心に染み込んでくる。
(……この匂い……なんだ……?)
スパイスの刺激。肉の香ばしさ。野菜の甘さ。
だが、それだけではない。そこには、形のない“温もり”があった。
どこか懐かしくて、胸の奥をくすぐるような、あたたかい感覚。
(こんな気持ちになる食べ物が……あるのか……?)
ベルザリオンは、ごくりと喉を鳴らした。
震える指でスプーンを持ち上げ——小さく、すくい取る。
そして、それをそっと口へと運んだ。
── 一口。
その瞬間、ベルザリオンの世界は、変わった。
口の中に広がる、未知の宇宙。
熱く、優しく、静かに染み入るその味は、鋼のように張り詰めた彼の心を一撃で貫いた。
脳がしびれる。胸が熱くなる。心が、緩んでいく。
(……うまい……っ)
それはただの味ではなかった。
まるで、全てを包み込む母の腕のような、癒しの力。
孤独な生にすがってきた剣士が、初めて受け取った「救い」だった。
スプーンを握る手に、熱いものが零れる。
目から。
涙だった。
(ああ……)
(なんで……私は……泣いてるんだ……?)
わからなかった。けれど、止まらなかった。
ベルザリオンは、もう一匙、そしてまた一匙と、夢中になってカレーを口に運んでいった。
涙を拭うこともなく、嗚咽を隠すこともなく。
ただただ、必死に、食べた。
そのときだった。
身体の中から、ふわりと何かが浮かび上がってきたような感覚。
皮膚の下、血管の奥、そして骨の髄から——光が、滲み出した。
「な、に……これは……?」
目の端が眩しい。
手の平が光を宿す。
口の隙間から、淡い銀の光が漏れていた。
それは、まるで魂が浄化されていくような……そんな感覚。
普通なら、恐怖すら覚える光景。
だが——
不思議と、怖くなかった。
(……これは、“悪いもの”じゃない……)
わかった。
直感で。
本能で。
自分の中にあった“何か”が、溶けていくのを感じた。
生まれた時からずっと、付きまとっていた苦しみ。
皮膚に焼き付くような、呪いの感触。
それが、今……ほんのひと匙の食事で、確かに消えていく。
「……こんなことが……本当に……」
スプーンを持つ手が止まった。
皿を見下ろしながら、ベルザリオンは静かに涙を流す。
涙は止まらなかった。
今度は悲しみじゃない。
怒りでも、絶望でもない。
ただ——
嬉しかった。
生きていて、よかったと、初めて思えた。
「……ありがとう……」
誰に向けた言葉かもわからなかった。
けれど、その言葉だけが、自然にこぼれ落ちていた。
それは、世界の調律者である"真祖竜"が、
文字通り魂を込めて作った料理に宿った
"歪んだ魂を調律する力"。
呪いが、解けていく。
命が、整えられていく。
光の粒が、彼を包み込んでいった。
まるで、そのすべてが、
赦してくれているように——。
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(アルド視点)
「……うわぁ、マジでやらかしたかもしれない……」
俺は、ぽきりと折れた黒い剣を手に、リビングにやってきた。
オジサンの剣。ビンテージもの。多分。
正直、めちゃくちゃ高そうだし、オーラもあるし、見るからにヤバいやつ。
あの黒ローブのオジサン(今泣いてる)との間に何か特別な思い出があったことも、あの絶望顔を見れば一目瞭然。
……でも、折れたもんは、もうどうしようもない。
とにかく、なんとか直さなきゃ。
(けど……直すって、どうやんだ……?)
料理は得意だけど、鍛冶屋じゃないし、剣の修理とか経験ゼロ。当たり前だけどね。
金床も、炉も、ハンマーもない。
「……あっ!」
思い出した。
“星降りの宝庫”で読んだ、あの魔術の書——錬金術。
素材と魔力を組み合わせて、新たな物質を創造する古代技術。
(確か……補修素材と一緒に魔法陣に並べて、魔力を通せばいいんだったっけ?)
だが、問題は“素材”。
何を使えばいいのか分からない。
家の中には、それっぽいものはなさそうだし……
(……あっ。ひょっとして、あれなら……?)
ふと、思い出す。
料理前、清潔のために切った自分の爪。ゴミ箱に捨てたやつ。
人型で切ったとはいえ、俺の爪は“真祖竜”の身体の一部だ。
(……竜の爪って、よく物語では剣の素材になることあるよね?)
かなり迷った。かなり、かなり迷った。
だって、どう見ても汚ったねえゴミなんだもん。
でも、今はそれしかない。
「……まぁ、切りたてだし、そんなに汚くはないはず……」
俺は、ゴミ箱から爪を回収して、魔法陣を描いた紙の上に並べた。
剣の破片と、爪。
そして、自分の魔力を込めて——
「錬成、発動……っと。」
光が、部屋を満たした。
風が起こり、魔力の波が一瞬、空間をゆがめる。
目を開けると——
そこにあったのは、銀色に輝く、一振りの剣だった。
「……えっ、こんなんだっけ……?」
黒い刃だったはずなのに、今は神々しいほどの銀色。
装飾も精緻で、まるで勇者の剣。
デザインの方向性が全く違う。
「いや、ちょっと待って……これ、完全に別物じゃない?」
俺は慌てて鑑定スキルを起動した。
《真竜剣アポクリフィス》
説明:真祖竜の祝福を受け、呪いに打ち勝ったアポクリフィスの真の姿。
………何これ?
ゴミ箱から取り出した爪混ぜて錬金したら、何か伝説の武器みたいなのが出来上がってしまった。
俺の中で、またしても警報が鳴った。
直したどころか、明らかに最初と別物に仕上がってしまっている。
ひょっとしたら、あのオジサンが愛着があったのは、以前の黒くて厨二病チックな禍々しいフォルムだったのかも知れない。本人も黒ずくめだったし。
そうなってくると、性能がどうとか、そういう問題ではない。
たとえば、汚れた黒い車を修理に出して、返ってきたらピッカピカの銀色に塗装されていたら、持ち主はどう思うだろうか?
余計な事すんじゃねぇ!とキレるかもしれない。
(これ……オジサン、受け取ってくれるかな……?)
ドキドキしながら、俺は剣を両手で抱えて、キッチンへと戻り始めた。
◇◆◇
真竜剣アポクリフィスを両手で抱えながら、俺はそろりとキッチンの扉を押し開けた。
「ただいま戻りましたよ〜。……って、ん?」
視界に飛び込んできたのは、スプーンを握ったまま硬直している黒ずくめのオジサン……?の姿だったはずなのに。
なんか……すげえ、光ってる。
「……えっ、何これ」
スプーンを持ったまま、膝をついて上を向き、目と口からびっかびかに銀色の光が漏れ出してる。
……えっ、本当に何これ。
うーまーいーぞー!!っていうリアクション?
あれって料理漫画的表現じゃなくて、実際にあるんだね。いや、そんな訳ない。
でも、当の本人はというと、ピクリとも動かない。
皿の上のカレーはちゃんと完食されてた。けど、それすら霞むほど、今のこの状況は異常だ。
「……いや、マジで何が起きてんの、これ……」
俺は呆然としながら、しばらくその光景を見つめていた。
そして——
「って、えっ、待って。光、強くなってない!? ていうか、発光量、上がってない!?」
気のせいじゃなかった。
さっきよりも、空間が明るくなってる。
眩しい。目がチカチカする。
肌に感じる魔力の流れも、どんどん強くなっていく。
………えっ、自爆とかする感じ?
オジサンの魔力、妙に集中してるし。
なんかこう、バーン!って爆発しそうな、そんな雰囲気。
いくら家がマイ◯ラっぽいからって、そこまで再現されても困るんですけど!!
いやいやいやいや、俺はいいけどさ!?俺は多分耐えられるけどさ!?
でも、家は!? カレーは!? 今朝から半日かけて煮込んだ俺の最高傑作のカレーは!?
俺は慌てて、鍋の前に立って、両手を広げるようにしてカレーを庇う。
家はどうせ修理できるけど! 鍋の中のカレーだけは! これだけは! 絶対に守る!!
しかし、次の瞬間。
光は、収束し始めた。
風が止み、音が消え、世界が静かに落ち着いていく。
そして——
そこに、ひとりの青年が立っていた。
黒髪の、端整な顔立ち。
まるで鍛え上げられた彫像のような身体。
目元は涼しげで、でもどこか物悲しげで。
……って、あれ?
「オジサン……が……イケメンになった……!?」
思わず口から漏れた言葉に、自分で驚いた。
なにそれ、どういうこと? さっきまでシワシワで頬もこけて、背骨も曲がってる感じだったのに。
いやいや、ほんと、誰?
カレーはアンチエイジング効果があるって聞いた事はあるけど、こんな即効性のあるもんなの?
そもそも、アンチエイジングってこういう事だっけ?
その青年——いや、元オジサンは、ゆっくりと顔を巡らせ、窓の方へと歩いていった。
カクカクハウスの窓。小さな正方形のガラスに、自分の姿が映る。
彼はそれを見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
……そして、次の瞬間。
ぽろ、ぽろ、ぽろ、と。
涙が、零れ落ちた。
また泣いてる。
でも、今度の涙はさっきの涙とは意味が違ったみたいだった。
それを目の当たりにした俺は、ようやく、そっと声をかけた。
「……あのー、ちょっとよく事態が把握できてないんだけど」
青年がこちらを振り返る。
「お兄さん、さっきのオジサン……だよね?」
返事はなかった。
でも、その目が「はい」と言ってた。
「えっと……一応、剣も直ったんだけど……」
俺は、そっと両手で持っていた剣を差し出す。
銀に輝く、真竜剣アポクリフィス。
もう、以前の姿ではない。
「……何か、全然別物になっちゃったけど……」
言い終わる前に、その青年は剣を受け取っていた。
そっと、愛おしむように。
そして、震える手で胸に抱きしめると——
膝から崩れ落ち、声を上げて、泣き崩れた。
「……あ……ああ……アポクリフィス……っ」
震える声が、床に落ちる。
涙が止まらない。
まるで、生きている間ずっと溜めてきた何かが、今やっと零れ落ちたみたいに。
事態は全く把握できてないんだけど。
俺は……もう、何も言えなかった。
手に持っていた布巾を、ぎゅっと握ったまま、ただ立ち尽くす。
やがて、青年は、膝をついたまま俺の方へと手を伸ばし、
ガッと、俺の手を両手で握りしめた。
「ありがとう……っ」
「本当に……ありがとう……ございます……!!」
滂沱の涙の中、必死に絞り出したその声。
それは、剣士の誇りでも、戦士の義務でもなかった。
ただの、一人の人間の、心からの感謝だった。
俺は戸惑いながら、でも、ほんの少しだけ肩の力を抜いて、笑った。
「よく分かんないけど……どういたしまして」
そして、そっと言った。
「カレー、気に入ってくれたなら……よかったよ」
光に包まれたキッチン。
香るスパイスと、銀に染まる空気。
世界が、少しだけ、優しくなった気がした——。