第32話 折れた剣、溢れなかったカレー
——“何か”が、おかしい。
カレーを払ったはずだった。怒りのままに。
そのはずだったのに。
皿は割れていなかった。
カレーは宙を舞っていなかった。
皿の上、盛り付けられた料理は元通りにそこにあり、
その湯気でさえ、一切の揺らぎも見せていない。
「…………え?」
声にならない声が、喉奥から漏れた。
錯覚か? 幻覚か?
だが――それ以上に。
(なぜだ……)
(なぜ……気づけなかった!?)
すぐ目の前、己の間合い――
武人として決して許さぬ、数十センチの至近距離に、銀髪の少年がいた。
——気配に、気づかなかった。
少年はただ、そこにいた。
無表情で、けれど確かな怒りをその目に宿して。
「……アンタ、何してくれてんの?」
静かだった。
静かすぎるがゆえに、その一言は、爆音よりも脳に響いた。
ベルザリオンの背中を、冷たいものが駆け抜ける。
心臓が握り潰されるように圧迫され、肺が悲鳴を上げた。
(これは……恐怖ッ!?)
理解が追いつかない。
だが、本能が叫ぶ。
“この少年は、危険だ”
“この場において、私は下位の存在だ”
五感では捉えられなかった。
視線でも、気配でもない。
だが確かに、己の命が“狩られる側”に転じたと、魂が理解していた。
(……何者だ……こいつ……!?)
膝が、かすかに震える。
だが、止まらない。
この威圧の正体が何であれ、剣士として許される、唯一の選択肢は──
(……やるしか、ない!!)
ベルザリオンの指先が、腰の魔剣へと伸びた。
──シュルッ。
軽い音と共に、抜き放たれる黒の刃。
魔剣アポクリフィス。
その呪われた意志が、主の怒りと恐怖に呼応して、呻くように震えた。
「おおぉおおおおおおおッ!!」
咆哮と共に、一気に踏み込む。
その動作に、無駄は一切なかった。
圧倒的な踏破速度。
“最速”の一撃。
至高剣とまで呼ばれた技量。
振り抜かれた漆黒の斬撃は、空間を裂くように一直線に──
──ピタリ。
止まった。
正確に言えば、“止められた”。
それは──菜箸だった。
銀髪の少年が、無言で片手を伸ばし、菜箸を使って摘むように、その剣を受け止めていた。
一撃は斬れぬまま、ピタリと静止する。
刃と菜箸がぶつかる場所に、金属音は生まれなかった。
まるで空間そのものに飲まれたような、無音の衝突。
「…………」
ベルザリオンの目が、ひくりと震える。
全身に、汗が一気に噴き出す。
(ば……ばかな……私の剣が……菜箸に……!?)
(“殺意”すら、受け止められた……?)
心臓の音が耳を突く。
呼吸が、喉で詰まる。
この距離で、剣が通じない?
では、何が通じる?
魔力?戦術? いや、違う。
(この少年の存在そのものが……)
(“常識”を否定している……ッ!!)
「…………っ……」
言葉が出ない。
膝の震えが止まらない。
アポクリフィスが、微かに悲鳴を上げていた。
それは、呪われし剣の本能──
“圧倒的格上の存在に対する本能的な拒絶”。
少年の目が、ふたたびベルザリオンを射抜いた。
その口元が、ゆっくりと開かれ──
「あのさぁ……本当はこのカレー、ブリジットちゃんとリュナちゃんに最初に食べてもらいたかったんだよ、俺。」
まるで日常会話のような、静かな口調。
けれど、その内容は……じわじわと、精神を締め上げてくる。
「それを、オジサンが“どうしても食べたい!”って言うから、好意で出してあげたのにさァ……」
(そ、そんなこと……言ってない……!)
だが、もう抗議の声すら出ない。
喉が凍りつき、舌が動かない。
「……それを、ぶちまけようとするなんて……」
「剣抜いて、暴れようとするなんてさァ……」
「──それって、最低じゃん?」
アルドの手に、微かに力がこもった。
「これ、もう……不審者として、つまみ出しちゃっても、いいのかな……?」
——その瞬間。
音を立てて、何がが折れた。
──折れたのは、菜箸ではなかった。
……ぽきん。
そんな音が、確かに耳に届いた。
か細く、木の枝を踏んだ時のような、あまりにも軽い音。
だが、その音が意味していたのは——
「…………」
黒き魔剣"アポクリフィス"。
呪いの結晶、罪を喰らい、闇を宿した“剣”。
主と共に幾つもの戦場を駆け抜け、膨大な命を刈り取ってきた、その刃が——
“折れた”。
菜箸ニ本に、あっさりと。
「…………わ……」
声にならない呻き。
呼吸が止まり、視界が滲む。
(私の……私の、アポクリフィスが……)
「わ……わ、ァ……」
喉が震え、思いを言葉にする事すら出来ない。
魂が、冷えていく。
指先が、震えすぎて感覚を失う。
(ち、違う……これは夢だ……幻覚……)
(この剣は……私と同じ呪われ者。呪いに染まり、呪いと共に生きた唯一無二の相棒……)
膝が崩れた。
ガクンと音を立てて、その場に座り込む。
床に落ちた剣の半身が、カラカラと回転し、ベルザリオンの足元で止まった。
光など放たぬその刃。
だが今は、何よりも“弱々しく”見えた。
「ア、ポ……アポ……ク……」
名前を呼ぼうとしても、喉が詰まる。
呼吸が、浅くしかできない。
背筋を汗が流れ、首筋を這い、手のひらにべったりと張りつく。
その様子を、目の前の少年がじっと見つめていた。
無言で。
何も言わず。
だが、こちらには……その視線すら重かった。
(終わった……)
頭の中で、何かが崩れていく音がした。
“この剣があれば、呪いも超えられるかもしれない”
“この剣と共に在れば、死の影を退けられるかもしれない”
その希望が、ひとつの“音”と共に崩壊した。
ぽきん。
ああ、なんて簡単だったんだろう。
何年も握ってきた愛剣。
共に血を浴び、何度も夜を明かし、憎しみにも似た愛着すら抱いた相棒。
そのすべてが、あの一音で、呆気なく──終わった。
「わ……あ……わ、ァ……」
情けない声が漏れた。
声なのか、呼吸なのか、自分でも分からない。
けれど、もう、何も残っていなかった。
ただ――目の前の手に、ぽっきりと折れた“過去”の残骸が握られているだけ。
その時、ようやく、少年が動いた。
表情にわずかな青ざめを浮かべ、折れた剣を見つめながら、小さく呟いた。
「……あっ、やべっ……」
たったそれだけの声。
だが、ベルザリオンには、雷のように響いた。
(……たった……それだけの……)
(……私がどれだけ……この剣を……)
涙が、こぼれた。
剣士としての誇りでもなく。
戦士としての矜持でもない。
ただひとりの“子ども”が、大切な“宝物”を壊されてしまった時の、それに似た涙だった。
「…………ア……」
その名を、どうしても最後まで呼べなかった。
歯がガチガチと鳴り、舌が痙攣し、唇が引きつる。
けれど、どんなにもがいても、もうこの想いは――刃には届かない。
(……さようなら)
(私の……命)
(そして、私の……)
「…………」
ただ静かに。
崩れ落ちるように、その場で、ベルザリオンは震え続けていた。
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(アルド視点)
大変な事をしてしまったかもしれない。
——ぽきん。
明らかに、何かが破壊された、ちょっと背筋のぞわっとするレベルの“折れる音”。
俺は、恐る恐る、手元を見た。
「…………」
……そこには、俺の菜箸キャッチによって真っ二つになった剣の残骸。
しかも、めちゃくちゃ仰々しい装飾が付いてる、
何かかっこいい黒い剣。
え? これってもしかして……
(……俺、まさか……)
(……怒りに任せて、他人の剣、折っちゃった……!?)
俺の中で、警報が鳴りまくる。
いやいやいやいや、待ってくれ。
確かにちょっと“ピキッ”とは感じたけど!
力を入れたのは、ほんのちょっとだけだったし!
剣の方が勝手に折れたって可能性もあるし?
耐久値が残り少ないのに修理するの忘れてた、的な?
……ないか。
いや、どう見ても、俺のせいだね。
「わ……わ、ァ……」
まずい。
オジサンが“ちい◯わ”みたいになっちゃってる。
もはや、戦意喪失とかいうレベルじゃない。
競馬場で全財産スッた人みたいな感じ。
泣き叫んで警備員さんに連れてかれる寸前の人。
この世の終わりみたいな顔して、オジサンは折れた剣を見下ろしてる。
ポロ……と涙。
しかも震えてる。
大の大人が。
こ、これは気まずい……!
ガチ泣きしてる大人ほど気まずい存在はないのよ。
それに……
(分かる。分かるぞ……)
(俺には分かる……このオジサンの剣……)
(めっちゃ……高いやつだ……!!)
研ぎ澄まされた刃、手に吸い付くような柄、鈍く燻るような黒光り。
……完全に“それ系”のビンテージ剣だ。
RPGだったら、ラストダンジョン前の町で売ってるくらいのやつ。
いい歳こいたオジサンがこんなに泣くくらいだ。
さぞ、大事にしてたのだろう。
うぅ……めちゃくちゃ心が痛む……!
……え? これいくらするの?
ひょっとして、俺が弁償しなきゃいけない感じ?
うわあああああ!!
俺、無一文だよ!?
星降りの宝庫からパクってきたお宝はあるけど!
どれが高くてどれが安いのか分かんない!!
弁償なんて無理ゲー!!!
「……よし!」
一度、深呼吸。
俺はパンッと手を叩いて、最大限の“誠意顔”を作った。
「オジサンも俺も!2人とも、ちょっと一旦、落ち着こうか!」
ち◯かわ化したオジサンは、震えながら俺の方を見た。
目、真っ赤。鼻も赤い。ほっぺたまで赤い。
でも、小さくも可愛くもない。
オジサンだからね。
「ご、ごめんね!? 折るつもりはなかったんだけど!」
一歩、にじり寄る。
オジサン、ビクッてなる。
「で、でも、オジサンも悪いとこあったよね?
カレーを一口も食べずにぶちまけようとしたり……
あれかな?欧風カレーじゃなくて、インドカレーを期待してたのかな? でも、好き嫌いはよくないよね?」
「しかも、室内で剣抜こうとしたり……あれは普通にアウトだよ? ね?」
しどろもどろになりながら、言って聞かせる。
説教というより、交渉。
色々なものがかかってる交渉。
「と、とりあえずさ、俺、この剣……どうにか頑張ってみるから!」
「オジサンはちょっと、落ち着いて……ほら、カレーでも食べて待っててよ!」
俺は、折れた剣の破片をそっと抱えて、歩き出す。
(しゅ、修理とかできるのかな……これ)
(土魔法で何とか……ええい、やってみるしかない!)
そんな事を考えながら、キッチンの出口まで来たところでふと振り返る。
まだ呆然と座っているオジサン。
皿の前で、半分幽体離脱したみたいになってる。
俺は、ちょっとだけ笑顔を作って、冗談っぽい口調で言った。
「……あ、でもね?」
「次カレーぶちまけようとしたら、俺も流石に本気で怒るよ〜?」
「こぼさないように、ちゃんとお行儀よく食べてね!」
──────────────────
——静寂。
オジサン……いや、ベルザリオンは、しばらく動けなかった。
あの銀髪の少年……正体は分からない。だが……
"あれ"は、戦っていい存在などでは無かったのだ。
剣も心も折られ、逆らう気力も無い。
言われたとおりに、スプーンを手に取った。
(……こ、これをこぼしでもしたら……)
(次こそは、間違いなく……殺される……!)
だけど、口にしなかったら、それはそれで……
(……結局、殺される……!?)
ベルザリオンの手が、震える。
まるで地雷原を歩くみたいに、スプーンを慎重に動かし——
一匙、口へと運んだ。
——次の瞬間だった。
「ッ……!?」
全身を、銀色の光が包んだ。
その瞬間、彼の中に流れ込んでくる“何か”。
温かくて、力強くて、優しい。
まるで、自分の存在そのものを肯定するような魔力の奔流。
(……な……なんだ、これは……!?)
思わず目を見開くベルザリオン。
手の中のスプーンは、微かに震えていた。
これは……ただの料理ではない。
それは、まるで呪いすら溶かす“祝福”だった。