第313話 温かな友情、歪んだ信仰
ルセリア中央大学、第十三号館オープンカフェ。
午後の陽射しはやわらかく、煉瓦敷きの中庭に並ぶ丸テーブルの上へ、まだらな木漏れ日を落としていた。
風が吹くたび、白いパラソルの縁がかすかに揺れ、学生たちの笑い声と、食器の触れ合う小さな音が混ざり合う。
その一角で、ラグナ・ゼタ・エルディナスは、いかにも優雅といった所作で紅茶のカップを傾けていた。
向かいの席には、佐川颯太がどかっと椅子に腰を預け、アイスコーヒーの様な飲み物をストローでかき混ぜている。
二人の間には、すでに何十分も続いているらしい、妙に熱の入ったゲーム談義の余韻が残っていた。
「いや、でもさ。ラグヒス3の終盤で、あの天空要塞に突っ込む流れはやっぱ最高だろ。ああいう『ここからラスダン行きます!』って演出、ベタだけどテンション上がるじゃん」
颯太が身振りを交えて言うと、ラグナは小さく肩をすくめた。
「演出は認めるよ。でも、総合的な完成度なら4の方が上だね。戦闘バランスも、キャラの掘り下げも、隠しダンジョンの作り込みも、明らかに洗練されている。3は勢いで押し切ってる部分が多い」
「いやいや、4の終盤はちょっと詰め込みすぎだって。あと裏ボスまでの導線が意地悪すぎる」
「そこがいいんじゃないか。やり込み勢へのご褒美だろう?」
「お前みたいな天才ゲーマー基準で語るなって」
颯太が呆れたように笑うと、ラグナもまた、少しだけ口元を緩めた。
「それを言うなら、颯太だって相当やり込んでるじゃないか。ラグヒス2の最短低レベルクリアなんて、普通はやろうとも思わないよ」
「いや、あれは動画で見たら面白そうだったから……」
「しかもちゃんとクリアしてるんだから大したものさ」
そんなふうに、まるでごく普通の男子高校生のように、二人は楽しげに言葉を交わしていた。
王子だの大会だの宿命だの、そういった重いものとは無縁に見える、束の間の日常だった。
そして、その空気を少しだけ変えたのは、颯太の何気ない一言だった。
「──つーかさ、ラグナ」
ストローを口から離し、颯太がテーブルに肘をつく。
「こんな呑気に俺とお茶してていいのか? いよいよ明日、本戦の試合形式の発表だろ?」
ラグナは、紅茶の水面を見下ろしていた視線を上げた。
それから、いかにも余裕たっぷりといった微笑を作る。
「誰に言ってるんだい? 颯太」
金髪を揺らし、彼は気障なくらい自然に胸を張った。
「僕は“大賢者王子”ラグナ・ゼタ・エルディナス。その程度のことで緊張したりすると思うのかい?」
そう言って、優雅にカップを口元へ運ぶ。
いかにも“らしい”返答だった。普段のラグナを知る者なら、ああまた始まった、と苦笑するところだろう。
けれど、颯太はすぐには笑わなかった。
少しだけ黙り込んでから、彼は本当に何てことのない口調で言う。
「いや、そりゃするだろ。緊張くらい、誰でも」
ラグナの手が、ぴたりと止まった。
カップの縁が、彼の唇に届く寸前で静止する。
「──天才で主人公な、ラグナ・ゼタ・エルディナスだって、さ」
一瞬だけ、風の音がやけに大きく聞こえた。
ラグナはそのまましばらく動かず、やがてゆっくりとカップをソーサーへ戻した。
かちゃん、と小さな音が鳴る。
「……颯太」
その声は、さっきまでより少しだけ低かった。
「僕はね……四年前に開催された、前回の“統覇戦”……第一王子、アルベリク兄さんから、直々に“参加を禁止”されたんだ」
颯太は目を瞬いた。
「──えっ? 参加を……禁止?」
「そう」
ラグナは苦笑する。
だがその笑みは、自慢話をする時のそれとは少し違っていた。
「理由は、僕が出場すると圧勝してしまい、他の参加学生たちのモチベーションが保てないから、だったのさ」
颯太は思わず「うわ……」と小さく漏らしかけて、慌てて口を閉じた。
ラグナはそんな反応すら予想の内だとでもいうように、肩をすくめる。
「実際、前大会は僕が参加していたなら、圧勝で僕が優勝していた事だろう。そのくらい、他の参加者と僕の間にはレベルの開きがあった」
さらりと言ってのけるその口調に、誇張はない。自信でも虚勢でもなく、ただ事実を事実として述べているだけの響きだった。
「そんな結果が見えた大会、僕だって願い下げさ」
ラグナはカップの取っ手を指先でなぞる。
「適正レベルを遥かに上回った状態でイベントに挑んでも、イージー過ぎてつまらないだろ?」
「あー……まあ、それは、分かる」
颯太が苦笑混じりに頷く。
「隠し武器全部揃えた後の序盤ボス戦みたいなもんだもんな」
「そういうこと」
ラグナは一度だけ笑った。
けれど、その笑みはすぐに消える。
彼の視線が、ふと自分の右手へ落ちた。
白く長い指先。
何でも掴めそうな、器用で、強く、そして今まで一度として敗北を前提にしたことのない手。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
ラグナは一拍遅れてそれに気づき、左手でそっと右手を包み込む。
その仕草を見た颯太は、何も言わなかった。
ラグナは俯いたまま、ぽつりと呟く。
「だけど……今大会は、違う」
中庭のざわめきが、遠くなる。
「今の僕には……叶えたい夢がある」
左手の力が、少し強まる。
「そして……打倒すべき、宿敵がいる。それも、僕の全力をもってしても、確実に『勝てる』と断言出来ない程の強敵が、ね」
颯太は言葉を挟まない。
ただ、静かにラグナの横顔を見つめる。
(アルドさんの事か……)
心の中でそう思いながら。
ラグナは、自分の震えを抑え込もうとするように右手を強く握った。
「──勝敗の決まった戦いなんて、つまらない消化イベントだと思ってた」
その言葉には、どこか自嘲が混じっていた。
「けど……勝敗の分からない戦闘ってヤツが、こんなに緊張するものだったなんて……こんなに、怖いものだったなんて……久しく忘れてたよ」
風が吹く。
パラソルの影が揺れ、ラグナの顔にまだらな陰影が落ちた。
「……笑えるだろ?」
彼は少しだけ口元を歪める。
「普段あれだけ余裕ぶっておきながら、いざ勝敗の分からない勝負に挑むとなったら、この有様さ」
左手に握られた右手は、今もわずかに震えていた。
ラグナは内心で、自分自身を罵倒する。
(──何故僕は、颯太にこんな話を……)
あまりにもみっともない。
あまりにも“主人公らしくない”。
(いや、友達に自分の弱さを見せる事で、自分を慰めようとしているのか、僕は……)
かっこ悪いな。
そんな自己嫌悪が、胸の奥へじわりと広がる。
だが、その空気を破ったのは、颯太の静かな声だった。
「──かっけぇな、ラグナ」
ラグナは、はっと顔を上げた。
「──えっ?」
颯太は、いつもの少し気の抜けた笑顔で、けれど真っ直ぐにラグナを見ていた。
「皆からの期待に応えて、でも内心では、ちゃんと怖さも抱えててさ」
彼はストローをくるくる回しながら続ける。
「それでも、その怖さに立ち向かって、自分の弱さにも向き合える様になって、って……」
颯太はそこで少しだけ照れくさそうに笑った。
「それこそ、本物の“主人公”って感じがするぜ、俺にはさ」
その言葉を聞いた瞬間、ラグナは不意に目頭が熱くなるのを感じた。
胸の奥に、何か柔らかいものが触れたような感覚。
不意打ちだった。
誰かにこんなふうに言われるなんて、思ってもみなかった。
「な、何を言うんだ颯太! き、急に……っ!?」
誤魔化すように早口で返す声が、少しだけ上ずる。
颯太はそれを見て、わざとらしく肩をすくめた。
「いや、だってさ。ちょっと抜けてた方が主人公っぽくね? ラグナ、割とそんな感じあるよな〜」
「な……っ!? ば、バカな!? 僕は、完璧最強の、主人公……で……」
言いながら、ラグナの言葉がふと止まる。
完璧最強。
主人公。
その二つの言葉が、頭の中で噛み合わず、わずかに軋んだ。
(──あれ?)
ラグナは、わずかに目を細める。
(確かに、颯太の言う通り……“主人公”って、そういうものだよな……?)
勝てない相手がいて。
怖さがあって。
揺らぎがあって。
それでも前へ進む。
そういう存在の方が、物語の主人公らしいのではないか。
(完璧、最強ってのは……“主人公”とは違うんじゃないか……?)
自分がずっと信じてきた“主人公像”に、ほんのわずかな亀裂が入る。
その違和感はごく小さく、けれど妙に胸へ引っかかった。
颯太は、そんなラグナの表情の変化を見ながら、内心でそっと息を吐く。
(──ラグナは、自分の事を“ラグヒス6”っていうゲームの主人公だと思い込んでる)
でも。
(そんなゲーム、俺が知る限り、存在しない)
その事実は、やはり不気味だった。
ただの勘違いとも思えない、何か深い"歪み"。
ラグナという人間の中にある、根本的なズレ。
(──この“歪み”が何を意味してるのか、俺には分からない)
けれど。
颯太は、目の前で少しだけ戸惑っている友人を見る。
(俺はもうラグナの友達だ)
アルドやブリジットや、玲司のことだってある。
全部を全部、手放しで応援できるわけじゃない。
むしろ、危うさを感じる部分はある。
それでも。
(何かあったら、力になってやりたいんだよな)
そんなことを思いながら、颯太はわざと軽い調子で「ま、ほどほどにな」と言って、残りのドリンクを啜った。
ラグナはまだ少しだけ考え込むような顔をしていたが、やがて小さく笑い、「……善処するよ」と返した。
その笑みは、いつもの完璧な王子のものより、少しだけ人間くさかった。
◇◆◇
その日の夜。
王侯貴族用の豪華な大学寮、その一室。
広い窓の向こうには、夜のルセリアが宝石箱のように広がっていた。石造りの建物群に灯る無数の明かりが、夜の闇へ静かに滲んでいる。
その景色を背に、ラグナはバスローブ姿で窓辺に立っていた。
片手には、大きなワイングラス。
赤い液体が揺れ、室内の暖色の灯りを受けて艶めく。
どう見てもやりすぎな気障さだったが、本人はそれを欠片も疑っていない。
ラグナはグラスを軽く傾けながら、夜景の向こうへ目を細める。
(いよいよ明日、本戦の形式が決まる)
その瞬間を思うだけで、胸の奥がひりつくように熱くなる。
(アルド・ラクシズとの決着の時も、近づいているって事か)
予選会での激闘が、鮮明に脳裏へ蘇る。
常識を外れた膂力と魔力制御。
読めない戦い方。
余裕を見せながら、底の見えないあの男の目。
ラグナは、ふ、と薄く笑った。
武者震いにも似た感覚が、腕を伝っていく。
(──アイツは、恐らくまだ力の全てを見せてはいない)
それはほぼ確信だった。
あれほどの男が、予選の時点で切り札を全部見せるとは思えない。
(だが、それは僕も同じ)
グラスの中の赤が、小さく揺れる。
(……本戦では、どちらが勝つかは──)
「『本戦では、どちらが勝つかは分からない』なんて弱気なこと考えてらっしゃるんですかぁ?」
間延びした声が、不意に部屋の入口から響いた。
ラグナは、びくりと肩を震わせる。
振り向くと、そこに立っていたのはリゼリアだった。
だが、いつものメイド服ではない。
真っ白なローブ。
夜の灯りを受けて、その布地は幽霊のようにも、神官の衣のようにも見えた。
そして何より、表情が違う。
いつもの明るく愛らしい笑顔ではない。
薄く、やわらかく、けれどどこか妖艶で、熱の低い笑み。
ラグナは一瞬驚いたものの、すぐに平静を装う。
「り、リゼリア……? ど、どうしたんだい? こんな時間に」
わざとらしいほど自然にグラスを傾け、咳払いをひとつ。
「いくら僕専属のメイドとはいえ、こんな時間に男の部屋を訪ねるのは感心しないな」
しかし、リゼリアはその言葉にも動じなかった。
ふわり、と一歩。
静かに部屋へ足を踏み入れる。
「……『どちらが勝つか分からない』『でも、実力が拮抗した宿敵に出会えて、充実している』」
やわらかい声。
なのに、その内容は妙に冷たい。
「そんな考えを持つラグナ様は……リゼリア的には、解釈違いなんですよねぇ〜……」
ラグナの眉がぴくりと動く。
「お、おい、リゼリア?」
彼女は答えず、ゆっくりと距離を詰めてくる。
白いローブが床を擦る音が、妙に大きく聞こえた。
「ラグナ様はぁ〜……」
一歩。
「ラグナ様は、もっと……」
また一歩。
「誰よりも強くて、圧倒的で……皆の上に立たないと、ダメなんですよぉ〜」
気づけば、リゼリアはラグナの目の前まで来ていた。
その顔が、すぐ近くにある。
ラグナは思わず一歩下がりかけ、窓辺に身体を止められる。
「な、なななっ!? り、リゼリア!? きょ、今日のキミ、何かおかしくないかいっ!? よ、酔ってるのかい!?」
顔が赤くなる。
耳まで熱い。
こんなに近づかれたことなどない。
しかも相手は、自分を慕う専属メイドだ。
年頃の男として平然としていられるわけがなかった。
けれどリゼリアの目は、恋する少女のそれではなかった。
もっと別の、もっと危うい光を湛えている。
「おかしい?」
彼女はくすりと笑う。
「違いますよぉ、ラグナ様。リゼリアは、ずっとずっと……正しいラグナ様を望んでいただけです」
次の瞬間、リゼリアはそのままラグナの唇へ、自分の唇を重ねた。
「──っ!?」
ラグナの思考が真っ白になる。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
柔らかい感触。
甘い香り。
至近距離で触れる吐息。
だが次の瞬間、ラグナは喉の奥へ何かが流れ込んでくる感覚を覚えた。
液体。
冷たく、重く、異様な気配を持つ何か。
「……っ、げほっ……!?」
ラグナは激しくむせ返り、反射的にリゼリアを突き放した。
よろめきながら口元を袖で拭う。
「──リゼリア、僕に……何を……飲ませた?」
苦しげに問うその視線の先で、リゼリアは恍惚とした微笑みを浮かべていた。
その手には、小さな空き瓶が握られている。
ラグナの瞳が、見開かれた。
それは見覚えのある小瓶だった。
かつて“覇空塔”第二十階層のボス撃破報酬として手に入れた、"イベントアイテム"。
"堕竜の血"。
「そ、それは……っ!?」
ラグナの喉が引きつる。
「リゼリア、何故……!? ぐ、あ……ァァァァァッ!?」
言葉の途中で、全身の内側から激痛が突き上げた。
熱い。
いや、熱いという表現では足りない。
煮えたぎった銀そのものを、無理やり血管の中へ流し込まれたような灼熱。
骨が軋み、内臓が悲鳴を上げ、神経がひとつひとつ焼き切れていくような痛み。
ラグナはワイングラスを取り落とした。
床に落ちたグラスが甲高い音を立てて砕け、赤い液体が飛び散る。
その隣で、ラグナ自身も膝をついた。
「ぐっ……ぁ、ああぁ……ッ!!」
喉の奥から血が込み上げる。
咳き込んだ拍子に、赤い飛沫が床へ散った。
その瞬間。
ラグナの身体の内側から、銀色の魔力が爆発するように噴き出した。
「……っ!?」
室内の空気が震える。
カーテンがばさりと揺れ、窓ガラスがびりびりと鳴る。
銀。
ただの銀ではない。
夜空の星を砕き、融かして、濃密な奔流に変えたような、純粋で圧倒的な銀色の魔力。
それがラグナの全身から立ち上り、彼の輪郭を呑み込んでいく。
リゼリアは、その光景を見ながら、満足そうに唇を綻ばせた。
「うふふふふ……」
うっとりと。
本当に幸せそうに。
床へ手をついて苦しむラグナの額が、ぐ、と盛り上がる。
皮膚の下で何かが蠢く。
骨が軋む嫌な音。
そして次の瞬間、ラグナの額から、二本の銀色のツノが、にょきりと生え始めていた。
「が、あぁぁぁぁッ……!!」
絶叫が、豪華な寮の一室へ響き渡る。
その姿は、もはやただの人間ではなかった。
けれど、リゼリアの瞳には恐れなど一片もない。
ただ、憧れと、恍惚と、信仰だけがあった。
「そうです……それでいいんです、ラグナ様……」
白いローブの裾を揺らしながら、彼女は一歩だけ近づく。
「ラグナ様は、誰よりも特別で……誰よりも強くて……誰よりも上に立つ存在じゃないと、ダメなんですからぁ……」
銀の魔力が、さらに膨れ上がる。
床に散った血も、砕けたグラスの破片も、夜景を映していた窓も、その光に照らされて異様な色を帯びる。
ラグナは床へ爪を立てるようにして身体を支えながら、荒い呼吸の中でかろうじて顔を上げた。
その瞳には痛みと困惑と、そして隠しきれない何かが燃えていた。
けれど、その正体を問うには、あまりにも遅すぎた。
銀色の角は、なおも静かに伸び続けていた。




