第312話 少女が見た『神』
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薄暗い荷台の中で、少女は膝を抱えていた。
粗末な木板で組まれた大型護送馬車の荷台には、簡素な鉄格子の檻がいくつも押し込まれている。
揺れに合わせて鎖がじゃらじゃらと鳴り、獣の臭いと汗の臭いと、乾いた血の臭いが、むせ返るように淀んでいた。
少女の足首には、冷たい鉄の枷が嵌められている。
枷から伸びる鎖は檻の床へと固定され、たとえ鍵が開いても、そう簡単には逃げられないようになっていた。
周囲にも、大勢の人間や亜人が同じように押し込められている。
まだ幼い子供。痩せこけた女。
歯を食いしばって睨みつける男。
ただ虚ろな目で前だけを見ている老人。
そのどれもが、もはや“人”というよりは、運ばれる荷物に近かった。
少女は、その中でもひときわ小さかった。
年の頃は十二ほど。
髪は汚れと煤でくすみ、着ている布切れ同然の服は何度も破れ、泥と埃で色が分からなくなっている。
そして何より、顔の左半分には、見る者が目を逸らしたくなるような火傷痕があった。
頬から耳元にかけて赤黒く爛れ、皮膚は引きつり、元の輪郭を歪ませている。
それは彼女にとって、鏡を見るたび、誰かの視線を感じるたび、自分が“まともな側”にはもう戻れないのだと思い知らされる印だった。
だが、今の少女にとっては、そんなことすらどうでもよかった。
俯いたまま、膝に額を押しつける。
馬車は揺れる。鎖が鳴る。
誰かがすすり泣く。
どこかで咳き込む声がする。
それらすべてが、遠かった。
もう、どうでもよかった。
次にどこへ売られるのか。
どんな相手の手に渡るのか。
何をされるのか。
生きていられるのか、死ぬのか。
何一つ、考える気になれなかった。
考えたところで変わらない。
抗ったところで、殴られて終わるだけだ。
泣いても、叫んでも、誰も助けてはくれない。
そういうことを、少女はもう十分すぎるほど知っていた。
「へへ……」
不意に、すぐ外から下卑た笑い声がした。
馬車の入口近くに腰を下ろしていた見張りの男が、鉄格子の向こうに押し込められた女たちや子供たちを見回しながら、いやらしい笑みを浮かべる。
「心配すんな。お前らは大事な商品だ。誰も取って食ったりしねぇからよ」
言葉とは裏腹に、その目つきは舐め回すようだった。
他の奴隷たちが身を強張らせる気配が伝わる。
すすり泣きが、ひとつ増えた。
けれど少女は、顔を上げなかった。
聞こえていた。
意味も分かっていた。
それでも、何も感じなかった。
恐怖ですら、もう、遠い。
ただ早く終わればいい。
何でもいいから、全部終わってしまえばいい。
そう思っていた、その時だった。
轟音が響いた。
馬車全体がびりっと震えるほどの衝撃。
外から何かが激しく弾け飛ぶ音と、馬の嘶き、それから怒鳴り声。
「な、何だ!?」
見張りの男が慌てて立ち上がる。
「魔物の襲撃か!?」
少女はようやく、ほんの少しだけ顔を上げた。
馬車の隙間から、外の光が細く差し込んでいる。
いつもなら鬱陶しいだけのその光が、今は妙に眩しかった。
外では、怒声が飛び交っていた。
剣戟の音。
荷車が倒れる音。
何かが爆ぜる音。
見張りの男は舌打ちし、腰の剣を引き抜くと、荒々しく荷台から飛び降りていった。
「おい、てめぇら、勝手な真似すんじゃねぇぞ!」
そんな捨て台詞だけを残して。
だが、その声が遠ざかってから、ほとんど間を置かずに──
「ぐ、ぐあぁぁぁーーっ!?」
男の悲鳴が上がった。
それはすぐに途切れた。
何か重いものが地面に倒れる鈍い音がして、外が、妙に静かになる。
少女は、差し込む光へ無感情な瞳を向けた。
何が起きたのか、分からない。
でも、いつもとは違う。
それだけは分かる。
やがて、馬車の外から、場違いなくらい呑気な声が聞こえてきた。
「──サブクエスト、『違法奴隷商を討伐せよ』クリア……っと」
少年の声だった。
若い。しかも、緊張感がない。
「しかし、まさかあんな強力な剣士が護衛に付いてるなんて、ちょっとだけ想定外だったね」
その言い方は、まるで畑仕事でも終えた後みたいに軽かった。
「とりあえず……現段階でクリア出来るサブクエは、これでほとんど終わっちゃったかな」
少女はまばたきをした。
サブクエスト。クリア。
何を言っているのか分からない。
けれど、その意味の分からなさが、逆に恐ろしくもあった。
次の瞬間、荷台の扉が開いた。
外から差し込む光が、一気に濃くなる。
薄暗い檻の中に、白い陽の筋がまっすぐ流れ込み、その向こうにひとりの少年が立っていた。
十五歳くらいだろうか。
金色の髪は光を受けて柔らかく輝き、整った顔立ちは、この汚れた荷台の中にはひどく不釣り合いだった。
衣服にも乱れはほとんどなく、むしろ外で戦ってきたばかりとは思えないほど、余裕のある空気をまとっている。
その姿を見た瞬間、荷台の中の誰もが息を呑んだ。
汚泥の中に、ひとりだけ別の世界の生き物が紛れ込んできたみたいだった。
少年は中へ入ってくると、檻に捕らえられた奴隷たちを軽く見回し、少しだけ眉を上げた。
「やっぱりいるよねぇ、違法奴隷達」
声音には怒りも憐れみもなかった。
ただ、想定通りの結果を確認しただけの淡々とした響き。
「ま、彼らの処遇はベルノア兄さんに任せるとして……っと」
そう呟いた後、少年は何気ない仕草で、光る指先を擦り合わせた。
そして、パチン、と小さく指を鳴らす。
その瞬間だった。
ガチャリ、と一斉に音が鳴った。
ひとつではない。
ふたつでもない。
荷台の中に並んだすべての檻から、同時に鍵の外れる音が響いたのだ。
さらに、足首を締めつけていた枷まで、まるで誰かが見えない手で鍵を開けたように、次々と外れて床へ落ちていく。
「え……?」
「な、何が……」
「足枷が……!」
ざわめきが広がる。
誰も状況を理解できない。
少女もまた、呆然としたまま自分の足元を見た。
さっきまで確かに食い込んでいた鉄の輪が外れ、床に転がっている。
あまりにも簡単だった。
あれほど重く、あれほど冷たく、自分から自由を奪っていたものが、たった一度の指鳴らしで消えた。
信じられなかった。
奴隷たちが恐る恐る檻の扉を押す。
きぃ、と軋んで開く。
もう誰も、彼らを閉じ込めてはいなかった。
少女はそれでも、すぐには立ち上がれなかった。
足枷がなくなっても、身体が自由を忘れている。
逃げていいのかも分からない。
これは罠ではないのか。
また捕まるのではないか。
そういう怯えが、骨の奥に染みついていた。
その時だった。
少年の視線が、ふと少女へ落ちる。
少女はびくりと肩を震わせた。
整った顔。綺麗な服。
まっすぐこちらを見る目。
そのどれもが、自分とは違いすぎた。
少女は反射的に、顔の左側を手で隠した。
見られたくなかった。
この爛れた火傷痕を。
醜いものとして、気味悪がられるのが怖かった。
せっかく現れた“何か”にまで、嫌な顔をされたくなかった。
だから俯く。目を伏せる。
消えてしまいたいような気持ちで、身体を縮める。
しかし、少年はすぐには何も言わなかった。
「うーん……」
短く、考えるように顎へ手を当てる。
それから、何かを思いついたように、今度は左手の指を軽く鳴らした。
パチン。
その瞬間、少女は頬に熱を感じた。
焼けるような熱ではない。
むしろ逆だ。
冷たく張りつき、自分の一部として固まっていた醜い痕が、内側からじんわりとほどけていくような、不思議な感覚。
「……あ……?」
少女は思わず顔を上げた。
頬に手を触れる。
引きつった皮膚がない。
盛り上がりもない。
爛れた感触も、ひきつれも、何もない。
指先が滑らかに動く。
恐る恐る何度も触って、確かめる。
頬。耳の横。こめかみ。顎。
どこにも、あの火傷痕がない。
「うそ……」
声が震えた。
今までどれだけ洗っても、隠しても、祈っても消えなかったものが。
自分を“売り物としても半端で、女としても醜い”と笑った連中の視線の根っこだったものが。
この少年は、たった一度、指を鳴らしただけで消してしまった。
胸の奥で、何かがドクン、と強く脈打った。
死んでいたはずの感情が、突然流れ込んでくる。
熱。眩しさ。泣きたくなるような衝動。
それから、自分でも意味の分からない高鳴り。
少女は、少年から目を離せなかった。
火傷が消えたことへの驚きより先に、この人を見ていたいと思った。
見失いたくない。
この光が、自分の前から消えてしまうのが怖かった。
「あ……」
喉がうまく動かない。
でも、どうしても聞きたかった。
「あ、貴方は……?」
消え入りそうな声。
それでも少年には聞こえたらしい。
彼は少女へ向き直ると、少しもためらうことなく、晴れやかに笑った。
自信に満ちた、まぶしい笑みだった。
「僕かい?」
当然のように、自分が誰であるかを告げる顔。
「僕は、ラグナ……ラグナ・ゼタ・エルディナス」
その名を名乗る声には、一切の迷いがなかった。
まるで、自分が何者であるかを、生まれた時から疑ったことすらないみたいに。
そして彼は、きらきらした、あまりにも無邪気な目で言った。
「この世界の……主人公さ」
その瞬間、少女は理解した。
いや、理解したと思い込んだ。
この人は違う。
ここにいる誰とも、自分とも、奴隷商とも、今まで自分を踏みにじってきた連中とも違う。
理不尽も、苦しみも、絶望も、そんなものをすべて踏み越えて、突然目の前に現れた“正しいもの”。
火傷を治し、檻を開け、枷を外し、
地獄みたいな世界に、当たり前の顔で光を差し込んだ存在。
"神"だ、と少女は思った。
神様なんて見たこともない。
祈っても何も変わらなかった。
助けを求めても、誰も来なかった。
でも、もし神がいるのだとしたら、きっとこういうふうに現れるのだと思った。
この少年こそが、自分にとっての神なのだと。
何の根拠もなく、ただ本能で、そう確信してしまった。
ラグナは自然な仕草で、少女へ手を差し伸べる。
「──キミは?」
その手は綺麗だった。
剣を握って戦った直後のはずなのに、不思議なくらい迷いがなく、まっすぐで、汚れていないように見えた。
少女は、その手を見つめた。
今まで、自分へ差し出された手なんて、ろくなものではなかった。
殴るための手。
髪を掴む手。
値踏みする手。
無理やり顎を上げさせる手。
そんなものばかりだった。
でも、この手は違う。
触れてもいいのだと思った。
掴んでも、振りほどかれないのだと、なぜか信じられた。
少女は両手を胸元でぎゅっと握り、それからおずおずと、その手に自分の手を重ねた。
あたたかい。
たったそれだけで、喉の奥がつまった。
目の奥が熱い。
泣きそうなのに、泣き方を忘れてしまったみたいで、うまく涙が出てこない。
それでも少女は、精一杯、彼を見上げた。
さっきまで死んだようだった瞳に、今は信じられないほどの光が宿っている。
「──リゼリア」
自分の名前を口にするのが、久しぶりな気がした。
それは、呼ばれるための名前ではなかった。
売り物として管理されるための記号みたいなものになっていたから。
でも今、この少年の前で名乗るその言葉だけは、ちゃんと“自分”だった。
「リゼリア、です……!」
ラグナは、その名を聞いて満足そうに頷いた。
「そっか。リゼリア、ね。いい名前じゃないか」
その何気ない一言に、少女──リゼリアの胸はまた大きく鳴った。
胸の奥で、熱が燃えていた。
それはもう、諦めの冷たさではない。
憧れ。敬愛。信仰。
名前のつかない、あまりにも強い何か。
きっと、この先何があっても忘れない。
檻の中で、終わっていたはずの自分に手を差し伸べた少年のことを。
その名を。
その笑顔を。
この世界の主人公。
ラグナ・ゼタ・エルディナス。
リゼリアは、生まれて初めて、自分から誰かの後を追いたいと思った。
この人は"神"だ。
この人は、世界の頂に立つべき人。
この人の役に立てる何かに、自分もなりたい。
その願いが、まだ幼い胸の奥に、深く、深く、沈んでいく。
それがやがて、信仰と呼ばれるものへ変わるのだと。
それがいつしか、彼女の生き方そのものを決めるのだと。
この時のリゼリアは、まだ知らなかった。




