第311話 ルシア vs. メガロ・スペクトラ④ ──わたしの事を、どうか……──
白蛇の翼を広げたメガロ・スペクトラの周囲で、くすんだ白色の魔力が濁流のように渦巻いていた。
神々しさにも似た白さだというのに、その実、まとわりつく気配はどこまでも粘ついていて、不快だった。
澄んだ光ではない。誰かの胸の奥で腐りきった感情だけを煮詰め、無理やり輝きの形に固めたような、醜悪な魔力。
砕けた白い石床の上で低く構えたルシアは、その圧を真正面から受け止めながら、細く息を吐いた。
(凄まじい魔力出力……)
額に生えた二本の銀角が、ぴり、と小さく震える。
真祖竜であった頃の己に比べれば、今の身体はあまりにも脆く、あまりにも小さい。
だが、それでもなお分かる。
目の前の存在は、もはや先ほどまでの“魔王”ではない。
空間そのものを支配する、権能そのものの権化。
(でも、これ程の異様な魔力……)
ルシアの銀の瞳が、わずかに細められる。
(ヴァレン・グランツや咆哮竜ザグリュナ、それに……アルドが、気付くはず)
気付かないはずがない。
これほど露骨に歪んだ魔力の奔流を、あの規格外たちが見逃すとは思えなかった。
特にアルドなら──たとえ遠くにいたとしても、この異様さには必ず眉をひそめる。
そのはずだった。
だが次の瞬間、その希望を嘲笑うように、メガロの全身を覆う白蛇たちがざわりと波打った。
「ふ……外へ助けを求める顔をしておりますな、ルシア・グレモルド」
白蛇に覆われた顔の奥から、くぐもった声が落ちてくる。
「もし、誰かがこの戦いに気付くかも……などとお考えであれば、それは無駄な望みというものなれば……」
直後、メガロの背から生えた無数の白蛇が、洪水のように一斉に放たれた。
びしゃり、と何かが弾けたような音とともに、白が空間を埋め尽くす。
一本一本が独立してうねり、牙を剥き、鎌首をもたげる。
細いものも太いものも関係なく、そのすべてが殺意を持った生きた鞭のように、ルシアへ襲いかかってきた。
「……っ!」
ルシアは床を蹴った。
砕けた石床が弾け、銀髪が翻る。
最初の三本を紙一重で躱し、右から迫った一匹の顎を拳で打ち抜く。
鈍い破裂音とともに白蛇の頭部が霧散したが、消し飛んだ端から後続が穴を埋めた。
ルシアはそのまま身を沈め、頭上を横薙ぎに薙ぎ払った大蛇を回避する。
すれ違いざま、脚を振り上げて顎を蹴り砕き、着地と同時に再び前へ。
だが、蛇の数が多すぎる。
上から、横から、足元から、まるで白い濁流そのものが意思を持って襲ってくるようだった。
「愚禿が権能は“嫉妬”」
メガロの声は、戦場の中心にありながら妙に静かだった。
「嫉妬とは、二者が相互に認識して初めて生まれる感情……。片方だけでは成立せず、互いが互いを見て、初めて芽吹く心の歪み」
ルシアは迫る蛇の群れを掻い潜りながら、壁際へ跳ぶ。
そこへ四匹の白蛇が同時に食らいつこうと大口を開けた。
ルシアは壁面を踏み台に逆方向へ跳ね、空中で身をひねり、回し蹴りで一匹を弾き飛ばす。その胴体を踏みつけ、さらに上方へ。
だが逃げ場を読むように、そこへ別の蛇が待ち構えていた。
牙が眼前へ迫る。
ルシアは咄嗟にその上顎を左手で押さえ込み、噛みつきを逸らす。
ぎり、と牙が掌を掠めたが、そのまま右拳を叩き込み、頭蓋ごと打ち砕いた。
「この権能領域は、“嫉妬”を完全に支配した空間」
メガロの白蛇たちが、まるで説明を補強するように一斉にうねる。
「この中にいる者は、愚禿が認めた“嫉妬”以外を受け付けない。外界の認知、観測、気配、視線……そのすべては、この領域にとっては無価値」
ルシアは着地と同時に駆けた。
足元の石床を這ってきた二匹を踏み砕き、左手側から襲いかかった三匹の頭を連続の手刀で弾く。
しかし右側面から伸びた蛇尾が鞭のように脇腹を薙ぎ、ルシアの身体が大きく流れた。
「つまり」
メガロがゆるやかに両腕を広げる。
「この空間は、外界からの認知の輪から隔絶されている……。誰にも気付かれないどころか、認識すらされない」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアの瞳が鋭く細められた。
(そういう事か……!)
蛇の隙間を縫うように走りながら、頭の中で点と点が繋がる。
(この権能領域の中にいる間、メガロ・スペクトラは誰からも認知されない、という事……!)
だから捕まえられなかった。
だから、この魔力の異様さを誰も捉えられなかった。
(これが、わたしやアルド、ヴァレン・グランツが、コイツの魔力を捕捉できなかったカラクリ……!)
次の瞬間、白蛇の群れが一斉に進路を絞った。
逃げ場を読まれた。
ルシアは即座に進行方向を変えるが、左右から迫る蛇の壁に押し込まれる。
(“竜渦”と“傀儡演舞”が使えないのが厄介……!)
今の身体では、あの二つの切り札は発動出来ない。
真祖竜の力を前提に置いた戦略は、悉く封じられている。
だからこそ、今は肉体だけで押し返すしかない。
歯噛みしたそのとき、メガロが白蛇でできた両手をすっと持ち上げた。
五指がそれぞれ、ぐにゃりと長く伸びていく。
「──"欠影の指"」
呟きと同時に、左右の五指がすべて巨大な白蛇へ変じた。
十本の大蛇。
それらは指の延長でありながら、独立した生き物のようにくねり、牙を剥き、空を裂いてルシアへ殺到する。
先ほどの群れとは違う。
一本一本が太く、速く、獰猛だった。
ルシアは咄嗟に走る。
正面から受ければ押し潰される。
左から迫る一本の噛みつきをギリギリで躱し、その胴体を踏み台に右へ。
そこへ別の一本が真横から突っ込んでくる。身を沈めて回避し、そのまま滑るように床を走る。
白蛇の巨体が背後で石壁へ叩きつけられ、激しい破砕音が響いた。
次の一本が天井から落ちてくる。
ルシアは転がるように身を翻し、跳ね上がる破片の中をすり抜けた。
遅れて落ちた牙が、さっきまで彼女のいた場所を深々と抉る。
だが、十本は止まらない。
左右、上下、死角、足元。
まるで巨大な手に追い回されているような圧迫感。
ルシアは走りながらも、呼吸を乱さぬよう唇を引き結ぶ。
そして、一本の追撃が背後から迫った。
振り返る間もない。
咄嗟に身体をひねる。
白蛇の牙が頬先を掠め、そのまま肩口へ――来る、と判断した瞬間、さらに深く身を沈めたことで致命傷は避けた。
しかし。
「……!」
右腕に、ひやりとした感触が走る。
浅い。ほんの浅い裂傷。
だが、その傷口から、ずるり、と何かが入り込んできた。
黒い。
どす黒い靄のような魔力が、血と一緒に肌の下へ滲み込んでいく。
(!? この、どす黒い魔力は、一体……)
ルシアが腕を見た、その次の瞬間だった。
ドクン、と全身が脈打った。
◇◆◇
心臓とは別の場所で、何かが拍動したような、不快な衝撃。
ルシアの視界が一瞬だけぶれる。
そこへ、何の前触れもなく映像が流れ込んできた。
──陽だまりのような笑み。
ブリジットと笑い合うアルドの顔。
自然な距離で並び、穏やかな空気を共有する二人の姿。
そして。
『──何故、ただの人間のあの子が、アルドラクスの隣にいるの?』
自分の声だった。
耳元で囁かれたのではない。頭の中から響いた。
ルシアの足が、一瞬だけ鈍る。
『わたしは、生まれた時からアルドラクスの隣にいたのに』
白蛇の牙が、さらに背後から迫る。
ルシアは反射で跳んだ。かろうじて躱したものの、着地の軸がぶれる。
『アルドラクスには……アルドには、わたししかいなかったはずなのに……』
「……っ」
喉の奥から、かすかな息が漏れた。
それは外へ出したくなかった感情だった。
認めたくもない言葉だった。
(──これは、嫉妬の魔王の権能による精神汚染……!?)
ルシアはぎり、と歯を噛み締める。
(まずい!)
意識を掴み直す。
これは幻だ。増幅された感情だ。見せられているだけの像だ。そう理解し、無理やり視界の端へ押しやる。
だが、傷口から侵入した黒い魔力は止まらなかった。
右腕の裂傷から、今度は白い蛇のような紋様が浮かび上がってくる。
生き物のように蠢きながら、皮膚の下を這い、腕を、肩を、内側から侵食していく。
メガロの声が、甘く囁いた。
「──白蛇の毒牙が侵すは、身体に非ず」
大蛇たちは一度距離を取るように周囲を旋回し、逃げ場を塞ぐ。
まるで獲物が苦しむのを待っているようだった。
「貴女様の心、そして魂……」
白蛇の翼をゆるやかにはためかせながら、メガロは愉悦の滲んだ声で続ける。
「嫉妬の心に蝕まれた魂は、やがて愚禿が支配下となるのです」
ルシアは右腕を押さえた。
皮膚の下を這う紋様を、銀の魔力で押し返そうとする。体内の流れを整え、侵食をそこに留めるために、細かく制御をかける。
止まれ。それ以上、入るな。
そう命じるように魔力を送り込む。
だが、次の瞬間。
また、視界がぶれた。
──アルドとブリジットが、笑いながらハイタッチしている。
ぱん、と小気味のいい音。
その何気ない仕草が、胸の奥を焼いた。
『どうして、あの子ばかり』
『どうして、あの子だけが』
白蛇の紋様が、ぐっ、と一気に胸元まで伸びる。
「……ぅあ……っ……!」
堪えきれず、ルシアの唇から苦しげな声が漏れた。
その瞬間を、メガロは待っていた。
空を巡っていた一本の白蛇が、一直線に飛び込んでくる。
ルシアが反応するより早く、その巨大な胴体が彼女の腰へ巻き付き、さらに二本、三本と肩と脚へ絡みついた。
「――くっ!」
締め上げられる。骨が軋む。
肺から空気が押し出され、足が床から浮いた。
白蛇は生きた鎖のようにうねりながら、ルシアの身体を持ち上げ、そのまま床へ叩きつけた。
ドンッ! と重い衝撃音。
白い石床がひび割れ、粉塵が舞う。
白蛇はそのまま締め上げを強めた。
腕は動かせない。
脚も、胴も、ほとんど自由を奪われている。
「ふ……ふふふふふ……!」
メガロが、翼を広げてゆるやかに降下する。
「真祖竜である貴女の存在は、愚禿が舞台にとって最上位に警戒すべきものでした……」
白蛇に覆われた顔の奥で、喉が震える。
「それを、ようやく心の隙をつき、人の身へと落とし……手中に収められる……幸甚の至りなれば……」
ルシアは答えない。
息は苦しい。
胸の内を這う紋様も、まだ侵攻を続けている。
アルドとブリジットの像が、何度も何度も明滅する。
けれど、その瞳だけは死んでいなかった。
(……まだ)
締め上げに軋む喉の奥で、ルシアの意識が研ぎ澄まされる。
(まだ、終わってない)
身体は封じられた。
心も侵されている。
それでも、ひとつだけ残っている。
口。喉。
吐き出すための器官。
ルシアはごくわずかに顎を動かした。
白蛇の拘束に埋もれるようにして、唇の前へ、キィィーン……と高い音を立てながら、銀色の魔力が集まり始める。
最初は小さな光点だった。
だが次の瞬間、それは圧縮され、収束し、眩い刃のような輝きへ変わる。
メガロの動きが止まった。
「何……ッ!?」
白蛇の翼がざわりと逆立つ。
ルシアはまっすぐにメガロを見た。
その銀の瞳には、怒りも苦悶もなく、ただ冷たい決意だけがあった。
「──消えろ」
直後。
口元から、銀色の奔流が放たれた。
レーザーにも似た極細の光。
だがその実態は、あまりにも高密度に圧縮された真祖竜のブレス。
放たれた瞬間に空気が蒸発し、進路上の白蛇たちが存在ごと消し飛ぶ。
メガロは反射で身を捻った。
それがなければ、頭から胸まで貫かれていた。
だが回避はわずかに遅れた。
銀の光が、メガロの右肩から右胸を削り飛ばす。
白蛇の肉が、鱗が、ローブめいた構造が、一切の抵抗もなく蒸発した。
「ぐうぅ……ッ!?」
メガロの身体が大きく吹き飛ぶ。
白蛇の翼がばらばらに乱れ、空中で姿勢を崩した。
拘束していた蛇たちも一瞬だけ緩み、ルシアが床へ落ちる。
膝をつき、荒く息を吐きながらも、視線だけは逸らさない。
向こう側で、半身を抉られたメガロが、壁際でかろうじて踏みとどまっていた。
右肩から胸にかけて、大きく消失している。
だが、その傷口を覆うように、残った白蛇たちがうねり始めた。
「よもや……ただの加護を受けただけの人の身で……これ程の出力のブレスを放出出来ようとは……ッ!?」
その声には、痛みに混じって、確かな驚愕があった。
そして次の瞬間には、それすら歪んだ愉悦へ変わる。
「真祖竜とは、かくも強大な存在なのですね……ああ、嫉ましい、妬ましい……!」
白蛇たちが傷口へ群がる。
肉を編み、骨を織り、失われた肩と胸を再構成していく。
その再生はあまりにも気味が悪く、それでいて妙に滑らかで、美しかった。
ルシアは静かにそれを見つめる。
(──ダメか)
肺の奥が焼けるように熱い。
今の一撃は、拘束された状態で絞り出せる最大出力だった。
(しくじった)
淡々と、そう判断する。
通ると思った。
少なくとも、首から上までは吹き飛ばせると読んでいた。
だが、メガロは避けた。
そして再生した。
それはもう、ひとつの敗北宣言に等しかった。
そのときだった。
ブレスの余波に焼かれたせいか、メガロの顔を覆っていた白いヴェールが、はらりと落ちた。
覆いの内側が、露わになる。
ルシアの瞳が、見開かれた。
そこにあった顔は、この場にいるはずのないものだった。
見覚えがある。
ここで“嫉妬の魔王”として立っているなど、あり得ないはずの人物。
「──その顔……」
ルシアの喉が震える。
「お前は……!!」
メガロが、はっとしたように片手で顔を隠した。
その仕草だけが、初めて人間じみていた。
「──見ましたね」
低く落ちた声は、今までのどの囁きよりも冷たかった。
次の瞬間、もう片方の手がルシアへ向けられる。
残っていた白蛇たちが、一斉にルシアへ殺到した。
腕に、脚に、首に、胴に。
今度は拘束ではない。覆い尽くすための動きだった。
白が、ルシアの視界を埋める。
(“嫉妬の魔王”の正体がアイツなら……)
ルシアの思考が、急速に繋がっていく。
(恐らく、この“統覇戦”の本当の目的は……)
けれど最後まで答えを形にする前に、白蛇が胸元まで巻き上がってきた。
傷口から侵食していた紋様が、内側からも呼応するように脈打つ。
逃げられない。
もう、この場で覆される手は残っていない。
(──でも、ダメ)
ルシアはゆっくりと瞼を伏せる。
(逃げ出せない。わたしは、ここまで)
白蛇が肩を覆う。
頬を覆う。
口元へも迫る。
(このまま、わたしの魂が“嫉妬の魔王”の支配下に置かれる様であれば……)
胸の奥で、ぞくりと嫌な確信が走った。
(下手すると、わたし自身が“特異点”になる可能性すらある……)
それは、最悪の未来だった。
敵に利用されるだけでは済まない。
己が歪みの核となり、もっと大きな災厄の起点になるかもしれない。
もしそうなれば。
もし本当に、怪物として誰かを喰う側に落ちるなら。
そのときは──
(……アルド)
心の中で、その名を呼ぶ。
嫉妬も、独占欲も、執着も、すべて見透かされた後でなお、最後に浮かぶのはその人だった。
(もしそうなったら……その時は、アルド……)
白蛇が、視界の端まで覆っていく。
(わたしの事を、どうか“滅ぼして”ね)
助けて、ではない。
救って、でもない。
終わらせて。
それが、今の自分があの男に託せる、最後の願いだった。
(アルドにしか、出来ない事だから)
白が閉じる。
ルシアは、静かに目を閉じた。




