第307話 嫉妬の魔王
白かった。
目を開けた瞬間、まずそれだけが分かった。
上も、下も、前も後ろも、ただ白い。
壁らしき境界も、天井らしき区切りも見えない。
雪原とも雲海とも違う。
もっと無機質で、もっと静かで、もっと“作られた”白だ。
そこに、ルシアはぽつんと立っていた。
ついさっきまで、彼女は夜のルセリアの街中にいたはずだった。
魔導掲示板の光、行き交う人々のざわめき、石畳の冷たさ、ネオンめいた魔導灯の色彩──それらはまるで水底に沈んだ記憶みたいに一瞬で遠ざかり、今はもう、指先に残る感触すらない。
ルシアは、まず自分の足元を見た。
ちゃんと立っている。
落ちていない。
沈み続けてもいない。
けれど、足の裏に触れているものが何なのかは分からない。
床のようでいて、床ではない。
硬さはあるのに、材質の手応えがない。
まるで“立てる”という結果だけを用意された空間の上に立たされているようだった。
ルシアは無表情のまま、ゆっくりと周囲を見渡した。
何もない。
柱も。扉も。気配も。
音すら、妙に薄い。
世界そのものが、息を潜めている。
(──あり得ない)
その思考だけが、白い静寂の中で鋭く沈んだ。
真祖竜である自分を、強制的にどこかへ引き込む。
それだけでも十分に異常だ。
真祖竜は、世界の理の外縁に近い存在だ。
並の転移や拘束、結界の類が通じるような種ではない。
ましてや、自覚すら許さず一瞬で空間をすり替えるなど──少なくとも、ルシアの知る限りでは、常識の範囲外だった。
(……これは、”竜渦“による亜空間……?)
その可能性を最初に疑うのは当然だった。
真祖竜──アルドやルシアが用いる空間系スキル。
あの独特の“隔てられた空間”の感覚には、多少なりとも似たところがある。
──だが。
(──違う。)
ルシアの目が、ほんの少しだけ細められる。
竜渦の亜空間には、もっと“馴染み”がある。
真祖竜の魔力に最適化された、居心地の悪くない閉鎖空間。
たとえ人工的であっても、根底には真祖竜の気配が流れている。
しかし、ここは違った。
清潔すぎる。
静かすぎる。
何より──
(……気味が悪い)
その結論に至った瞬間だった。
『お察しの通り』
声が響いた。
近くでも遠くでもない。
頭の上でも、耳元でも、正面でもない。
ただ“空間そのものが喋った”みたいに、白い世界の全域から染み出してくるような声だった。
ルシアのまぶたが、わずかに持ち上がる。
『これはあなたがたの扱うスキル……”竜渦“の亜空間ではありませぬ』
不気味なほど静かな声だった。
怒鳴るでもない。
嘲るでもない。
慈悲深く聞こえなくもないのに、その実、ぞっとするほど人の温度が感じられない。
『この空間は──愚禿の作り出した、権能領域なれば……』
“権能”。
その単語に、ルシアの意識が一段深く研ぎ澄まされる。
魔法でも、スキルでもない。
もっと根源に近い、世界への干渉権。
普通の存在が、軽々しく口にしていい言葉ではなかった。
『ルシア・グレモルド……』
声が、名前を呼ぶ。
『貴女の抱いた想いにより、漸くこの空間へとお招きする運びへと至りました』
ルシアは黙って、その声を聞いていた。
“抱いた想い”。
その言葉に、ついさっきの胸の痛みが、一瞬だけ記憶の底で疼く。
羨ましい──
その思考の続きを、自分の中でさえ辿る前に、ルシアはそれを切り捨てた。
そして、眠そうな目をほんの少しだけ引き締める。
「……用事があるなら、端的に言って欲しい」
声は低く、平坦だった。
「早く帰って寝たいから」
少しだけ不機嫌そうに付け加える。
虚勢ではない。
本音でもある。
そして同時に、それ以上余計な言葉を与えるつもりはないという意思表示でもあった。
その返答を受けた瞬間、ルシアの目の前の空間に異変が起きる。
ギュルルルルッ──
白一色だったはずの空間が、突如そこだけ螺旋状に捩れ始めた。
紙を濡れた手で丸めていくみたいに。
あるいは、見えない巨大な指が空間を掴み、無理やり絞り上げているみたいに。
白が、歪む。
何もなかった場所に、まず“輪郭”だけが生まれる。
次いで、“影”が差す。
さらに、その影の中心へ“質量”が流れ込み、空間のねじれは一つの人型を形作っていった。
やがて、そこに一つの人影が現れる。
それは、宙に浮いていた。
足先は床らしきものに触れていない。
まるで重力を忘れたように、数十センチほど浮かんだ位置で静止している。
顔は、白いヴェールで隠されていた。
ヴェールは何重にも薄布が重なったような作りだが、その向こうにあるはずの顔の輪郭が妙に曖昧で、見えているようで見えない。
覗き込もうとすればするほど、焦点が滑っていくような不快さがある。
身を包むのは白いローブ。
だが、その意匠はどこか歪だった。
左右非対称。
片側だけが異様に長く垂れ、もう片側は肩口から裂けるように開いている。
不自然な布の重なりが、僧衣にも喪服にも見え、同時にそのどちらでもない。
清廉さを装っているのに、全体の印象はひどく不穏で、不浄なものを無理矢理白く塗り潰して誤魔化しているような気味の悪さがあった。
その手に握られた杖もまた、異様だった。
金属製の細長い杖の先端には、小さな鏡が取り付けられている。
その鏡を囲むように、六つの輪が不規則に浮かび、微かに回転していた。
輪は互いにぶつかりそうでぶつからず、澄んだ音も立てず、ただ意味ありげに軌道を描いている。
しかも、その人物の周囲には、絶えず幻影が立ち上っていた。
白い蛇の様な影。
何かを求める様な黒い手。
誰かの横顔。泣いている女。笑う子ども。
一瞬だけ現れては、すぐに溶ける。
蜃気楼のように滲み、次の瞬間には別の幻へと置き換わる。
見る者の認識を、少しずつ狂わせるためだけに存在しているみたいな景色だった。
ルシアは、無表情のままその姿を見た。
だが、ダボダボの袖の中では、両手がすでに動いている。
細い指が、隠し持っていた二体の操り人形を握りしめていた。
一見すれば、ただ眠そうな少女が立っているだけ。
だが、その実、いつでも人形を展開し、空間ごと敵を縫い止められる臨戦態勢だった。
「──あなた、誰?」
問いは短い。
余計な感情は混ぜない。
けれど声の奥には、完全な警戒があった。
白いヴェールの人物は、宙に浮いたまま、実に恭しく一礼した。
その所作だけを見れば、洗練された礼儀を弁えた宮廷人のようでもある。
だが、その一礼の中に“人間らしい遠慮”がない。
礼という形を模倣しているだけの何か、という印象の方が強かった。
「これはこれは」
静かな声が流れる。
「挨拶が遅れてしまい、申し開きもございません」
ヴェールの奥から、声だけが微笑んだように聞こえる。
「ルシア・グレモルド……」
そこで、ほんの一拍。
「いえ、真祖竜・グルーシャ」
その呼び方に、ルシアの中の警戒が一段階引き上がった。
表情は、ほとんど変わらない。
けれど、袖の中で握る操り人形の指先に、微かな力がこもる。
(──私の正体を、知っている……?)
ルシア・グレモルド。
それは人間社会での仮の名。
真祖竜・グルーシャ。
それは、悠天環における本来の名。
その両方を、当たり前のように知っている。
その事実だけで、この相手が“ただの何か”ではないことは十分だった。
白いヴェールの人物は、ゆっくりと杖を持ち上げた。
鏡の表面に、白い空間が歪んで映り込む。
六つの輪が、かすかに回転速度を上げた。
「愚禿は……」
その名乗りは、奇妙だった。
自分のことを、己や私や俺ではなく、“愚禿”と呼ぶ。
僧侶のようでいて、祈りの気配はなく、むしろそこにあるのは何かを見透かし、削ぎ落とし、捻じ曲げる者の声音だった。
「大罪魔王、第三の座……」
静かな空間に、その称号が落ちる。
「“嫉妬の魔王”──メガロ・スペクトラなれば……」
ルシアの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
大罪魔王。
その単語の重みは、説明を必要としない。
この世界の歪みそのものみたいな存在。
しかも、第三の座。嫉妬。
先ほど自分が抱いた感情と、あまりにも直結しすぎている。
ルシアは一歩も引かない。
けれど、その眠たげな瞳の奥から、今までよりもはっきりとした鋭さが覗いた。
眠そうなだけの少女の目ではない。
悠天環の空の果てを生きてきた、真祖竜の目だった。
メガイラは浮かんだまま、静かにルシアを見下ろしている。
ルシアは袖の中で人形を握り、いつでも飛びかかれるよう重心を僅かに落とす。
真っ白な空間の中で。
嫉妬の魔王と、真祖竜の幼竜。
二人の間に、一触即発の空気が、音もなく満ちていった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
少しご報告です。
諸事情により、今後しばらくの間、執筆に使える時間がこれまでより少なくなりそうです。
そのため、更新ペースが少しゆっくりになるかもしれません。
できる限り続けていけるよう頑張りますので、温かく見守っていただけたら嬉しいです。
また、いずれ良いご報告ができるよう、自分なりに頑張ってまいります。
今後ともよろしくお願いいたします。




