第299話 絶対不可視の目撃者
森に、ようやく静寂が戻ってきた。
黒い魔力の残滓が、薄い霧のように漂い、裂けた大地からはまだ熱が立ち上っている。
幹を断たれた木々が軋み、遅れて倒れ、枝葉が擦れ合う音が、遠くでくぐもった。
その中心に、ザキ・クローバーは立っていた。
ゆっくりと、刃を振る。
血を払う動作は、まるで儀式のように無駄がない。
キィン……と澄んだ音が、森の空気を震わせる。
鞘へと収まる刀身。
それを包み込む左手の指先は、わずかに白くなっている。だが、すぐに力を抜き、自然体へと戻る。
背筋を伸ばし、足を揃え、呼吸を整える。
そこにあるのは、戦いの余韻ではなく、完成された“型”だった。
流星は、その姿を呆然と見つめていた。
胸が、妙にざわつく。
言葉が出ない。
ただ、目が離せない。
(……綺麗だ)
戦場のど真ん中で、そんな言葉が浮かぶ自分に戸惑う。
だが、確かにそうだった。
無駄がない。力みがない。
圧倒的な強さを見せつけた直後だというのに、そこに誇示はなく、慢心もない。ただ、在るべき姿に戻っただけという静けさ。
その立ち姿を見ていると、ある男の背中が脳裏に浮かんだ。
洗脳されていた頃、自分を叩き伏せた、あの執事剣士。
強欲四天王・ベルザリオン。
自分の本気の炎を、一刀に伏した一太刀。
だが、どこかで美しいと感じてしまった剣筋。
(──似てる……)
流星の喉が、わずかに鳴る。
(アイツの剣筋と……!)
力任せではない。
技術だけでもない。
“積み重ね”の重みがある剣。
ザキの背中に、それを見た。
一方、雷人は違う角度から見ていた。
目は細められ、思考が高速で回転している。
(凄まじい剣だ……!)
偽アルドの肉体。あれほどの強度。
自分と流星の神器で傷一つ付かなかった相手を、居合い一閃で裂いた。
(“統覇戦”は、アルドさんの圧勝だと考えていた)
ラグナ第六王子が、どこまで食い下がれるか。
それが雷人の中での予想だった。
しかし。
(ザキ・クローバー……)
視線が、ゆっくりと彼の背へと向く。
(彼の剣は……下手をすれば、アルドさんの命にすら、届き得るかもしれない……)
胸の奥が、ひやりと冷える。
それでも雷人は、感情を表に出さない。
一歩前へ出て、静かに頭を下げた。
「助かりました。ザキ・クローバー。」
声は落ち着いている。
ザキは振り返り、ひらひらと手を振った。
「ええよええよ。ちゅーか……何なんやろね、この偽アルドくん。」
いつもの気の抜けた笑い。
戦場の中心に立っていた男とは思えない軽さ。
雷人は倒れ伏す偽アルドに視線を移す。
「分かりません……とにかく、大学関係者に報告をしないとですね。」
事務的な口調。
だが、内心ではまだ整理しきれていない。
流星が、ぱっと駆け寄る。
「いやぁー、アンタ凄いね!!偽物とは言え、アルドさんを斬っちまうなんてさ!!」
純粋な感嘆。瞳が輝いている。
ザキは肩をすくめる。
「ハハハ。本物ならこうはいかんかったやろね。」
そう言いながら、横目で倒れた偽アルドを見やる。
その瞬間。
雷人が、何気ない調子で言った。
「ご謙遜を。凄まじい腕前でした。」
「“鞘から抜いて1秒以内なら何でも斬れる”……みたいなスキルですか?」
森の空気が、凍った。
ザキの目が、わずかに見開かれる。
ほんの一瞬。
だが、確かに動いた。
(──このボン……)
心臓が、どくりと強く打つ。
(俺のスキルを……見抜いた!?この短時間で!?)
戦闘時間は僅か。
斬撃は数度。
それだけで、ここまで辿り着くか。
(どないな頭しとんねん……!?)
計算外。完全に、計算外だ。
雷人は無表情のまま、しかし観察している。
(当たった……?)
ほんの推測。
だが、今の反応で確信に近づいた。
(マズい……)
ザキの内側で、冷たい思考が芽生える。
(今の段階で、俺のスキルの詳細をここまで見抜かれたのは想定外や……)
喉の奥が、冷える。
(──“口止め”するか?)
その瞬間。
空気が、変わった。
流星の肌が、粟立つ。
雷人の背筋に、氷が走る。
ザキの周囲から、目に見えぬ圧が滲み出す。
殺気。
それは、作為のない本能の漏出だった。
雷人は即座に重心を落とす。
膝を緩め、いつでも動ける体勢へ。
(しまった!口が滑った……!)
鼓動が速まる。
(スキルの内容……当たっていたのか!?)
冷静であろうとするほど、危機感が強まる。
(何だ……この殺気……!?)
ただの剣士ではない。
戦場を幾度も越えてきた者の気配。
「お、おい……?」
流星も一歩退き、身体を沈める。
「何だよ、いきなり……ッ!?」
その声で、ザキははっとした。
(──しもた!)
自分から漏れ出たものに気付く。
(つい反射的に……殺気が漏れてもうた!!)
舌打ちしそうになるのを堪える。
(この子ぉらはアルドくんの仲間や……)
アルドの顔が、脳裏に浮かぶ。
あの底知れない存在。
(口封じなんかできひん言うのに……!)
それに。
(……アルドくんに嫌われたないしな。)
ほんの一瞬、戸惑いが浮かぶ。
どうする。どう誤魔化す。
その緊張が、森を再び張り詰めさせていた。
◇◆◇
その緊張を、引き裂くような唸り声が森を震わせた。
「お……オオオオオオオォォォオオオ……ッ!?」
人の喉から出たとは思えぬ、低く濁った咆哮。
ザキ、雷人、流星の三人は、同時に振り向いた。
倒れ伏していたはずの偽アルド──ザイードが、ゆらりと立ち上がっている。
だが、その姿は、もはや先ほどまでの“人型”とは違っていた。
黒い筋が、以前よりも濃く、広く、全身へと這い広がっている。
胸元に浮かんでいた白い蛇の紋様が、じわりと動いた。
それは模様ではなかった。
生きている。
蛇は、ザイードの身体を締め上げるように、胸から肩へ、腕へ、首へと這い回る。
「……余の……身体が……」
ザイードは、自らの両手を見つめる。
指先が、崩れ始めている。
皮膚の内側から、黒い霧のようなものが漏れ出す。
「バカな……き、消えゆくと言うのか……?」
声が、震える。
怒りではない。恐怖だ。
「余は……余は……」
胸を押さえ、膝が折れかける。
「“豊穣神の加護”で……ジュナザールに……永遠の豊穣を……」
言葉が、途切れる。
白い蛇が、ぎり、と締め上げる。
骨が軋む音。
ザイードの瞳が、揺れた。
「……違う……」
その声は、か細い。
「……余は……ただ……」
喉が詰まる。
「父上に……認めて……もらいたかった、だけ……なのに……」
その瞬間。
白蛇が、完全に目を開いた。
ギュルルルルッ……!
蛇はザイードの身体に巻きつき、締め上げる。
肉体が、ねじれる。
骨が軋み、皮膚が歪む。
「ぐ……ぁ……ッ!!」
ザイードの身体が、細い紐のように圧縮されていく。
腕が縮み、脚が引き裂かれ、胴が捻れ、一本の黒い帯へと変わる。
空間が、歪む。
その歪みの中心へと、圧縮された肉体が吸い込まれていく。
「や、やめ……」
最後の言葉は、音にならなかった。
次の瞬間。
パァン、と乾いた音と共に、ザイードは、消えた。
跡形もなく。
森に残ったのは、抉れた地面と、黒い残滓だけ。
そして……
ドゥン。
空間が脈打った。
目に見えぬ黒い波動が、円状に広がる。
それは風ではない。衝撃でもない。
もっと内側を叩くもの。
ザキの心臓が、ドクンと跳ねる。
雷人の視界が、一瞬だけ白く霞む。
流星が、思わず胸を押さえた。
波動は、彼らの身体を通り抜け──
そして、静まった。
森は、再び静かになる。
ザキが、眉をひそめた。
「あ……?」
視線が宙を泳ぐ。
「何や……これ……俺は、今まで何を……?」
喉の奥が、妙に乾いている。
目の前の地面が、ひどく抉れている。
木々が倒れ、枝が折れ、焦げた匂いが漂う。
「……?」
流星が、きょろきょろと辺りを見回す。
「うおっ!?森がめちゃくちゃじゃねぇか!?何これ!?爆破テロ!?」
腕を動かすと、鈍い痛みが走る。
「っつ……!?なんで身体こんな痛ぇんだよ……!」
雷人も、周囲を見渡す。
首を傾げる。
「……確か、僕達は……」
記憶を辿る。
だが、途中で途切れる。
「乾の無くしたピアスを探して……」
そこで、止まる。
それ以上、何も繋がらない。
胸の奥に、空白がある。
戦った。叫んだ。斬撃が走った。
──はずなのに。
何も思い出せない。
雷人は、ふとザキに気付く。
「あの……貴方は……ザキ・クローバー……?」
声は、探るよう。
まるで初対面の相手にかけるそれ。
ザキは、瞬きをする。
「……君ぃは……確か、特別留学生の……?」
同じく、曖昧な認識。
流星が頭を掻く。
「何なんだよ、マジで……なんか知らねーけど、身体中痛ぇし……」
互いの目が合う。
だが、その視線の奥に、“さっきまでの共闘”はない。
ただ、困惑だけがある。
三人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
確かに何かがあった。
だが、それは霧の向こう。
触れられない。掴めない。
森は、何事もなかったかのように風を通す。
戦いは、消えた。
記憶ごと。
そして三人は、互いを初めて見る者のように、ぎこちなく立ち尽くしていた。
◇◆◇
三人が困惑したまま大学の方角へと歩き出すのを、木々の陰からじっと見つめる影があった。
いや──正確には、“そこにいるはずなのに、誰の認識にも映らない存在”。
影山孝太郎は、息を潜めたまま立ち尽くしていた。
彼の周囲の空気だけが、わずかに歪んでいる。
彼の持つ、SS級スキル"絶対不可視"。
視界に入っていても、認識されない。
音を立てても、意識に残らない。
存在そのものが、世界の“観測対象”から外れる。
だからこそ、彼だけが、覚えていた。
「……何だったんだよ、今の……」
喉の奥で、乾いた声が漏れる。
目の前では、ザキと雷人と流星が、まるで何事もなかったかのように会話を交わしている。
ぎこちない初対面のやり取り。
「特別留学生の……?」
「ザキ・クローバー……?」
さっきまで命を懸けて戦っていたとは思えない空気。
その“断絶”が、何よりも不気味だった。
影山の背中を、冷たい汗が伝う。
(さっきの……偽アルドさん……)
脳裏に蘇る。
黒い筋。白い蛇。
圧縮され、吸い込まれる肉体。
「……ザイード、とか言ってたよな……?」
予選会で見た、性悪皇子。
"豊穣神の加護"を持つ存在。
父に認められたかった、という言葉。
あれは、確かにあった。
夢じゃない。
(それに……皆、戦ったよな……!?)
ザキの居合い。雷人の分析。流星の驚愕。
全部、確かに目の前で起きていた。
なのに。
(何で……何で忘れてるんだよ……!?)
胸の鼓動が早まる。
視界の端が、わずかに揺れる。
彼らの身体には傷が残っている。
地面は抉れたまま。
木々は倒れたまま。
“結果”だけが存在している。
だが、“過程”が消えている。
影山は、ゆっくりと息を整える。
(落ち着け……)
自分に言い聞かせる。
(俺は……スキルを発動してた)
絶対不可視。
世界の認識の外側。
もし、あの黒い波動が“観測された者”にだけ作用する類のものなら。
(……俺は、対象外だった?)
喉が鳴る。
(だから……記憶改竄を受けなかった……?)
あくまで仮説だ。だが、辻褄は合う。
影山は、そっと拳を握る。
爪が掌に食い込む。
痛みがある。現実だ。
その時。
ザキの殺気を、思い出した。
あの一瞬、雷人がスキルを言い当てた直後。
空気が凍った。
(……あれ、本気だったよな)
あの目。あの温度。
一歩間違えば、本当に斬られていた。
(ザキ・クローバー……)
ただの剣士じゃない。
ただの大会参加者じゃない。
底に、何かがある。
それも、相当深い。
影山は、視線を三人から逸らす。
森の奥。さっきザイードが消えた場所。
空間は、もう静かだ。
だが、何かが残っている気がする。
“視線”のようなもの。
(統覇戦……)
ただの大会じゃない。
ただの学生同士の競技でもない。
(裏で……何かが起きてる……?)
確信に近い直感。
背筋がぞくりとする。
影山は、歯を食いしばった。
(分からない事が多すぎる……!)
ザイードの最後。
白い蛇。記憶改竄。
ザキの殺気。
全部が、一本の線で繋がっている気がするのに、その線が見えない。
(でも……一つだけ、間違いない)
目を閉じ、深く息を吸う。
(このまま黙ってちゃダメだ)
知っているのは、自分だけ。
今この瞬間、真実を握っているのは、自分だけだ。
(アルドさん……)
あの、底知れなくも、誰よりも優しい存在。
(……もしくは、ヴァレンさん)
どちらかに、伝えなければならない。
自分一人で抱え込める話じゃない。
影山は、静かに一歩、後退る。
枯葉が踏まれる音。
だが、誰も振り向かない。
彼は、世界から外れている。
(はぁ……また俺、こんな役回りかよ……ッ!?)
覚悟を決める。
三人が去っていった方向とは逆、森の奥へ。
そして、大学の中心部へと繋がる近道へ。
姿を消したまま、影山は駆け出した。
足音は、風に紛れる。
呼吸は、木々のざわめきに溶ける。
だが、その胸の内だけは、激しく燃えていた。
(何か何だから分からない……ただ、このままじゃマズい。それだけは、分かる……!)
忘れられた戦いを。
消された記憶を。
(だったら……俺が、動くしかねぇ……っ)
統覇戦の裏で動く“何か”。
その正体を、暴くために。
影山孝太郎は、誰にも知られぬまま、真実へと走り出した。




