第298話 世界を断つ一秒
森の空気が、ぴたりと止まった。
偽アルドは、自分の右腕を見下ろしていた。
黒い筋の浮かぶ腕。その上を、赤い血が細く伝っている。滴り落ちた血が、土に染み込んでいく。
痛みが遅れて脳に届いたのか、肩がびくりと震えた。
「……バカな……!?」
声が掠れる。
「余の……"銀の新星"の肉体が……」
指先が、震える。
「ただの斬撃で……ッ!?」
その瞳には、明らかな困惑と否定が浮かんでいた。
完璧であるはずの肉体。
模倣とはいえ、“あの男”と同等の器。
それが、斬られた。
その光景を見ていた流星が、目を見開いたまま声を上げる。
「す、スゲェ……!!」
思わず一歩、前に出てしまう。
「偽物とはいえ……アルドさんがダメージ受けてるとこ、初めて見たぜ……ッ!!」
その言葉に、ザキはわずかに目を細めた。
(──いやいや)
頬を伝う自分の血を、親指で拭いながら。
(仲間でもダメージ受けたとこ見た事ないて、アルドくん……)
額に、じわりと汗が浮かぶ。
(君ぃ、どんな化け物やねん……)
内心でツッコミながらも、視線は決して逸らさない。
雷人も、驚愕に目を見開いていた。
(し……信じられない……!)
喉が鳴る。
(僕や乾の“神器”で傷一つつけられなかった偽者のアルドさんを……)
視線が、ザキへと向く。
(ただの剣の一振りで……ッ!?)
胸の奥がざわつく。
(これが……ザキ・クローバーのスキルの力なのか……!?)
だが。偽アルドの表情が、ゆっくりと変わっていく。
困惑から、怒りへ。
血の流れる右腕を、ぐっと握り締めた。
筋肉が、みしりと音を立てて収縮する。
黒い筋が一斉に脈打つ。
次の瞬間、裂けていた傷口が、ぴたりと閉じた。
赤い線が、まるで最初から無かったかのように消える。
「……フン」
鼻で笑う。
「マグレで薄皮一枚斬った程度で、調子に乗らん事だ……ッ!!」
瞳が、ザキを射抜く。
「そんな刀一本で……この肉体を、傷付けられるものかッ!!」
ドンッ!!
地面を蹴る音。
土が爆ぜる。
一直線に、ザキへと突進。
右腕を鋭く伸ばし、貫手で喉笛を穿たんとする。
空気が裂ける。
だが、ザキは動じない。
静かに、腰を落とす。
鞘に収まった羽々斬に、右手を添える。
呼吸が、すう、と整う。
「──三葉流居合術・二式……」
低く、囁くように。
「"螺殲"ッ」
キン──
音は、一瞬。
ザキと偽アルドが、交差する。
次の瞬間。
偽アルドの右腕に、螺旋状の傷が走った。
皮膚を巻き込み、肉を捻り裂くような軌道。
血が、ぐるりと円を描きながら噴き出す。
赤い飛沫が、空中に螺旋を描いた。
同時に、ザキの頬にも浅い傷が走る。
掠った。
だが、明らかに──
ダメージは偽アルドの方が深い。
「ぐ……グアァァアアアッッ!?」
右腕を押さえ、苦痛の声を上げる。
黒い筋が乱れ、蠢く。
ザキは、すっと振り向いた。
キンッ、と澄んだ音。
刀が鞘へと収まる。
「マグレやないねんて」
肩越しに、静かに言う。
「自分、分かっとらんなぁ」
細い目が、更に細まる。
「言うたやん」
ゆっくりと、偽アルドを見据える。
「『俺の居合いは、何でも斬れんねん』て。」
その声音は、軽い。
だが、その奥には揺るがぬ確信があった。
雷人は、その姿を見つめながら、息を呑む。
(ザキ・クローバー……本物の実力者だ……!)
強い。間違いなく、強い。
だが、胸の奥に、何かが引っかかる。
(だが、何だ……!?)
目を細める。
(この、何とも言えない“違和感”は……?)
ただの高威力スキルではない。
圧倒的な魔力量でもない。
(彼の強さ……)
喉が鳴る。
(ただの“強力なスキル”とか、そういうものじゃない……!)
その違和感の正体を掴めぬまま。
森の空気は、さらに張り詰めていく。
血の匂いと、黒い魔力の気配の中。
ザキは、静かに次の一太刀の間合いを測っていた。
◇◆◇
偽アルドは、裂かれた右腕を見下ろしていた。
螺旋状に刻まれた傷。閉じかけてはいるが、確かに肉を抉られている。黒い筋の浮かぶ皮膚の下で、筋肉がひくりと痙攣する。
「何故だ……ッ!?」
声が震える。
「何故、この肉体が……こうも容易く……!?」
信じられない、といった表情で、傷だらけの腕を握り締める。
その様子を見ながら、ザキは口元に余裕の笑みを浮かべていた。
だが、その内心では。
(──とんでもない速度と威力や)
頬を伝う汗が、冷たい。
(予選会、第49、50階層で見たアルドくんの動き……)
脳裏に蘇る、あの戦闘。
マリーダ教授を相手に圧倒した拳速。
ラグナと渡り合った踏み込み。
(あれと遜色ない拳速や)
喉の奥で、息が詰まる。
(直撃すれば、一撃でアウトやね)
笑っているのは、ただの演技だ。
一歩でも間違えれば、首が飛ぶ。
ザキは居合いの構えのまま、ゆっくりと偽アルドへ向き直る。
鞘に添えた左手に、わずかに力がこもる。
(せやけど……)
細い目が、わずかに細まる。
(やっぱり、コイツはアルドくんやない)
にぃ、と笑う。
(“攻めの構成”があかんわ)
偽アルドは、確かにアルドと同等のスペックを得ている。
だが、戦い方が浅い。
予選会で見たアルドは、常に相手の動きを読み、次の一手を組み立て、空間そのものを掌握していた。
この男は違う。
表層だけをなぞっている。
強さを“持っている”だけで、使いこなしていない。
だから、特別留学生の二人を攻めきれなかった。
だから、自分を仕留めきれない。
ここにこそ、勝機がある。
ザキは、背筋を走る武者震いを抑え込み、意識を一点へと集中させた。
偽アルドが、歯を食いしばる。
「おのれ……!」
黒い筋が、より濃く浮き上がる。
「おのれェェッッ!!」
ドゥンッ!!
震脚。地面が爆ぜ、周囲の木々が浮き上がる。
根ごと持ち上がった大木が、軋む音を立てる。
偽アルドはそれを足場に跳躍した。
バババッ!!
空中を、弾丸のように飛び回る。
浮いた大木、地面に根を張る木、幹から幹へ。
縦横無尽に駆ける黒い影。
流星が思わず息を呑む。
「速ぇ……!」
だが、ザキは動かない。
居合いの構えのまま、微動だにせず。
「──それも、予選会のアルドくんの動きの猿真似やん」
ぽつり、と呟く。
偽アルドの動きが、わずかに乱れる。
ザキは続ける。
「あんな。それはな、ラグナが宙を自由に飛び回ってるから、それに対抗する為のアルドくんの策やねん」
視線は、上空を駆ける偽アルドを追わない。
ただ、気配だけを読む。
「地に足つけてジッとしてる俺相手に、そんな無駄な動きしてどないすんの?」
雷人が、はっと目を見開いた。
(……見えているのか)
目で追っていない。
だが、動きを“理解している”。
偽アルドが叫ぶ。
「黙れ黙れェッ!!」
速度をさらに上げる。
「どんな能書きを垂れようが……この動き、貴様に見切れるものかッッ!!」
空気が裂ける音。
距離が、詰まる。
ザキは、静かに言う。
「ザイード……アンタな」
声が、冷える。
「強力なスキルに頼り過ぎる癖が出来てもうてんねん」
浮いた大木の影が、ザキの頭上を横切る。
「生まれ持った手札が強いから、札の切り方が雑過ぎんねん」
次の瞬間、上空から急降下。
「せやから……」
ザキの声が、低く響く。
「“手札の弱い”俺みたいなんに、何度も足元掬われんねんで」
「八式……"神隠"。」
静かに、呟いた。
ドォォォンッ!!
偽アルドの飛び蹴りが、真上からザキのいた位置へ突き刺さる。
地面が弾け飛び、数メートルのクレーターが生まれる。
土砂と木片が、雨のように降り注ぐ。
流星が叫ぶ。
「こ、こりゃやべぇっ!!」
だが雷人は、目を凝らす。
「いや……これは……ッ!?」
砂煙がゆっくりと晴れていく。
クレーターの中央に、偽アルドが立ち上がる。
黒い筋が蠢く。
だが、そこに、ザキの姿は無い。
「な……ッ!?」
偽アルドの瞳が揺れる。
「ど、何処へ消えた……ッ!? ザキ・クローバーッ!?」
周囲を見回す。
上も、前も、横も。
その時、流星と雷人は、見た。
偽アルドの背後。
完全なる死角。
まるで影のように、そこに立つ男。
背を合わせるように、呼吸を重ね……
静かに、鞘へと刀を収める姿。
キィン──
澄んだ納刀音。
次の瞬間。
ブシュウウウッ!!
偽アルドの背中から、血と黒い煙のような魔力が噴き出した。
赤と黒が、空中で混ざり合う。
「バカ……な……ッ!?」
膝が崩れる。
片膝をつく。
背中に走る、深い斬撃。
ザキは、肩越しに振り返った。
細い目で、見下ろす。
「どや?」
低く、冷たい声。
「見えへんかったやろ……?」
◇◆◇
偽アルド──ザイードは、膝をついたまま自らの背に走る激痛を噛み締めていた。
熱い。
背中を裂かれた感触が、遅れて全身を焼くように駆け巡る。
「あり得ぬ……あり得ぬ……ッ!?」
震える声で、己の両手を見下ろす。
黒い筋が浮かぶその肉体。
完璧であるはずの器。
「“銀の新星”の肉体を得た余が……」
拳を握る。
筋肉が軋む。
「よりにもよって、ザキ・クローバーに……手も足も出ぬなど……ッ!!」
その言葉は怒りというより、混乱に近かった。
敗北の感触を受け入れられない者の声。
ザキはその姿を、静かに見下ろしていた。
口元には、いつもの薄い笑み。
だが。
(──『手も足も出ない』……?)
額を一筋の汗が伝う。
(簡単に言うてくれるな。こちとらギリギリやっちゅーねん……!)
偽アルドの攻撃は、どれも一撃必殺。
掠れば終わり。
受ければ砕ける。
これまで培ってきた戦略と戦術で、辛うじて主導権を握っているだけ。
一歩間違えれば、即死。
表情には出さない。
だが、神経は張り詰めきっていた。
その時。
「アアアアアアアァァアア!!」
絶叫が森を震わせる。
「妬ましい……嫉ましいッ!!」
黒い魔力が、ザイードの身体から噴き上がる。
「貴様のその……"何でも斬れる剣"が……ッ!!」
どろり、とした闇が腰元へ集束していく。
雷人が、はっと目を見開く。
「!?」
黒い魔力が、形を持つ。
鞘。柄。鍔。
見慣れた輪郭。
(ザキ・クローバーの剣が……顕現された……!?)
心臓が強く打つ。
(まさか……ザイードが『羨んだもの』が、実際に形を持っているのか……!?)
流星も息を呑む。
ザキの細い目が、わずかに揺れた。
「それは……俺の“羽々斬”……?」
偽アルドの腰に、瓜二つの刀が差さっている。
ザイードは顔を押さえ、笑い出す。
「……ククク……」
肩が震える。
「クハハハハッ!!」
狂気を帯びた笑い。
「貴様のその『何でも斬れる剣』のスキル……」
ゆっくりと、鞘から刀を抜く。
ぬらり、と黒光りする刃。
「貰ったぞ……ッ!!」
空気が震える。
流星が叫ぶ。
「アルドさんの力だけじゃなく、あの剣も……!?そんなの、アリかよッ!?」
雷人は固唾を飲む。
もし、本当に同じ能力なら……
偽アルドが、剣を振りかぶる。
ビキビキと腕の筋が盛り上がる。
アルドの膂力。ザキの剣。
最悪の組み合わせだ。
「貴様自身の力で……両断されるが良いッ!!」
ドンッ!!
地面を蹴る。
凄まじい速度で間合いを詰める。
振り下ろされる刃。
その瞬間。
ザキは、静かに呟いた。
「──『何でも斬れる剣』?」
目を細める。
「何勘違いしてんねん」
腰を落とす。
呼吸が止まる。
「俺のスキルは、そんなええもんやないよ」
偽アルドが、制空権へ踏み込んだ、その刹那。
「十式……"無我絶界"……!」
静かな宣告。
ザキの腰の剣が、一瞬だけ光を放つ。
白銀の閃光。
その光は──
ザイードの脳裏に焼き付いていた。
予選会の最中。
“神林牙獣”と化した己を切り裂いた、あの絶対の一閃。
同じ光。
同じ静寂。
同じ死の気配。
ザイードの瞳が、見開かれる。
剣を振り下ろしたまま、身体が止まる。
「……そんな……」
刃が、わずかに震える。
「バカな……ッ」
次の瞬間。
パキン──
偽の羽々斬が、粉々に砕け散った。
黒い破片が空中に舞う。
同時に、偽アルドの胸元に、横一文字の斬り傷が走る。
ブシュウウウッ!!
血と黒い魔力が噴き出す。
赤と闇が混じり、森の空気を染める。
ザキは、静かに納刀した。
キィン……と澄んだ音が響く。
偽アルドは、呆然と立ち尽くしたまま、崩れ落ちる。
胸から噴き出す血を押さえながら。
その瞳には、初めて──
“理解できない強さ”への恐怖が宿っていた。
◇◆◇
森に、静寂が落ちる。
黒い魔力の煙がゆらゆらと立ち上り、胸を裂かれた偽アルドが、崩れ落ちる寸前の姿勢で硬直している。
ザキは、ゆっくりと息を吐いた。
その横顔はいつも通り、どこか気だるげで、余裕すら漂わせている。
だが、その胸の内では、今も心臓が激しく打ち続けていた。
──"刹那之宝剣"。
それが、ザキ・クローバーが女神から授かったスキルの名。
かつて、神殿の白い空間で、神官が困ったような顔で言った言葉を、ザキは覚えている。
『あなたのスキルは……その……ちょっと扱いが難しいかもしれません』
与えられた能力。
自身の剣に“何でも斬れる”という祝福を授ける。
聞こえだけは、最強。
だが、その続きがあった。
祝福の効果は──鞘より抜刀してから、たったの1秒。
たったの、1秒。
剣を鞘から抜いてから、一秒経てば、祝福は消える。
二撃目は、ただの刀。
三撃目は、ただの鉄。
連撃は不可能。
鍔迫り合いも不可。
受け流しも、間違えれば終わり。
当時のザキは、思わず笑った。
「なんやそれ」
一秒。
戦場では一瞬。
呼吸一つ分。
剣同士の3合にも満たない。
周囲の若者たちは、派手な魔法や身体強化、分身や無敵結界などを授かっていた。
それに比べて、自分は"一秒"だけの最強。
ハズレスキル。
誰もがそう呼んだ。
だが。
ザキは、考えた。
一秒しかないのなら。
その一秒で、決めればいい。
居合い。
抜いて、斬って、納める。
その一連の動作に、全てを賭ける。
抜刀から斬撃までを、限界まで短縮する。
刃が空気を裂く軌跡を、無駄なく最短へ。
踏み込みを、呼吸を、視線を、神経を、全て一秒に収束させる。
一秒という制限は、やがて枷ではなくなった。
それは、覚悟の時間になった。
“迷いがあれば、終わり”
だからこそ、迷わない。
ザキは、居合いを極めた。
何百回。何千回。何万回。
刃を抜き、振り、納めた。
指先の皮が裂け、血が滲み、夜を越えても、ただ刀と向き合った。
一秒を、永遠のように研ぎ澄ました。
そして今。
胸を裂かれた偽アルドが、崩れ落ちる。
ザキはその姿を見下ろす。
目は静かだ。
だが、奥に灯る光は鋭い。
「……“何でも斬れる剣”やて?」
小さく、鼻で笑う。
「そんな大層なもんちゃう」
刀を軽く振り、血を払う。
赤い雫が地面に落ちる。
「俺のはな」
声が、低くなる。
「一秒だけ、何でも斬れるだけや」
偽アルドの膝が、完全に地面につく。
黒い魔力が、煙のように抜けていく。
ザキは、最後に一歩だけ近づいた。
その背を、静かに見下ろす。
「“1秒”や」
ぽつりと、告げる。
「アンタを斬るのに、それ以上の時間はいらん」
キィン……
澄んだ納刀音が、森に響く。
それは、決着の音。
ザキは振り返らない。
ただ、背中で語る。
一秒に全てを賭ける男の、矜持を。




