第29話 仲直りと、迫る魔剣
高く澄んだ空の下。
かつて“懲罰の天蓋”と呼ばれたこの広場には、いま不思議な静けさが流れていた。
砕けた岩、焼け焦げた地面、無数のクレーターが生まれたその中心に——
少女はいた。
銀のツノはすでに消え、金色のポニーテールが風に揺れる。
その目に宿るのは、怒りでも恐怖でもない。
ただ、まっすぐな“優しさ”だった。
「……フレキくんのお父さんが……」
少女——ブリジットは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「話を聞いてくれる気になってくれて……本当に、嬉しいな!」
にこりと笑うその顔は、先程まで地形を吹き飛ばしていた人間破壊兵器とは思えないほど、穏やかだった。
「やっぱり、力で相手を押さえつけて支配するのって……良くないと思うんだ、あたし!」
その言葉に、地面におすわり姿勢のままガタガタ震えていた王狼・マナガルムが——ピクリと顔を上げた。
大きな耳がぴん、と立つ。
「……あ、はい。我も……我も、100%…いえ、2000%、そう思いますとも……!」
無駄に神妙な声で答える。
あまりに即答すぎて、やや滑っている気配すらあるが、彼なりの全力の誠意だった。
ブリジットは、ふふっと微笑む。
その笑顔は、静かに空気を温かくしていく。
「うん、よかった!じゃあまずは……」
少女は、視線をゆっくりと横に向けた。
「フレキくんと、仲直りしよ?」
その声に、風が一瞬だけ止まったように感じられた。
「……親子がすれ違うのって……すごく、寂しいことだから……」
その言葉には、どこか自分自身を重ねているような——儚げな、哀しみの響きがあった。
マナガルムは、ゆっくりと立ち上がる。
震えていた前脚を、ぐっと踏みしめて。
彼はその場にいた全ての者へ、深く頭を垂れた。
「……我が息子、フレキよ」
その声には、もはや“王”の威厳はなかった。
代わりにあったのは、ひとりの“父”としての、切実な言葉だった。
「お前は……我の、命の恩人だ。いや、マジで」
変に軽い語尾に、フレキが目をしぱしぱと瞬く。
「先程、この少女から我を庇って立ったお前の姿……」
「我が一族の誰よりも勇気ある、誇り高き姿だった……!」
声が震えていた。
それは、恐怖でも、気圧されたものでもない。
己の過ちに気付き、ようやく届いた後悔と、謝罪の震えだった。
「我が間違っていた。力による支配こそがフェンリル族の誇りと信じていたが……」
「違った。お前のように、他に寄り添う“心”こそが……未来を繋ぐ牙だ」
そして、マナガルムは——
「許してくれ。……愚かな父を」
深く、深く、頭を垂れた。
その巨大な額が地を打ち、周囲の風が微かに震えるほどに。
「……父上……!」
フレキの目に涙が溜まる。
ゆっくりと、彼はその大きな体を動かして、父の元へ近づいていく。
尻尾がぱたぱたと揺れ、瞳には喜びが宿っていた。
「分かってくれたのですね……!ボク、本当に……」
だが——
彼の顔が父に近づいた瞬間。
「……ヴォエッ!!」
マナガルムの全身が跳ね上がるように反応した。
「か、柑橘類の匂いキッツ!!お前、顔面から匂いの暴力が……ッ!」
父は思わず嘔吐いた。
そう、フレキの顔には——さっきまでマナガルムがかけまくっていた“追いレモン汁”の名残が、まだしっかり残っていたのだ。
「へ、へんなとこで繊細にならないでください父上!…というか、これ、父上がやったんじゃないですか!!」
必死に抗議しながらも、フレキ自身も気づいてしまった。
……自分、今、とてつもなく柑橘臭い。
「あっ、意識しちゃったらボクも……ヴォエッ!」
——仲良く、二匹揃って嘔吐いた。
ブリジットは、それを見て、満面の笑みで手を合わせた。
「うんうん!仲直りできて、よかったねぇ!」
涙ぐみそうな笑顔。
彼女には、今起きている地獄のような匂いの惨劇は、まるで見えていないようだった。
夕日に照らされた、“家族”の再会の光景。
……たとえその周囲に若干のゲロリズムが漂っていようとも、きっと、心は温かかった——はずである。
◇◆◇
和解の余韻が風に溶けた、その直後だった。
「おーい!姉さーん!」
広場の端——“懲罰の天蓋”への急斜面を、もっさりとした影がよじ登ってきた。
その背に、足を組んで座っているのは、黒スーツに金茶の髪、黒マスクで口元を隠した少女——リュナである。
彼女は涼しげな顔で、座騎の頭を軽く小突いた。
「ほら、さっさと進めよ。このブタ犬が」
「イェス!マイ・ボス……!」
妙に艶っぽい声で答えたのは、5メートル級のパグ型フェンリル。
グェル——フレキの弟である。
その顔には、かつての誇り高い戦士の影は微塵もなく、むしろ“新たな扉”を開いてしまった者の開き直りがあった。
「っ、リュ、リュナさん!?」
フレキが目を丸くし、しっぽが小刻みに止まる。
だがリュナは、ぴょんとグェルの背から飛び降りると、ひらりと着地してニカッと笑った。
「ふふっ、姉さーん、そっちは大丈夫っすかー?」
「リュナちゃんっ! 無事でよかった……!」
ブリジットが小走りに駆け寄る。感極まったように手を取ると、リュナは照れ臭そうにマスクの端をいじった。
一方、マナガルムが信じられないものを見る目で、グェルに問いかけた。
「……グェル、お前も敗れたのか?」
「はい、父上……。完膚なきまでに……
それはもう……刺激的な体験でしたッ!」
なぜか誇らしげなグェル。頭を垂れ、リュナの足元にスリ寄るように座る。
「百の牙はどうした?」
グェルの代わりに、リュナが手を挙げて応える。
「あーしが50匹くらいボコっちゃったっすけど、残りはおすわりしておとなしく待ってるっすよー。あ、1匹も殺してないから安心していっすよ。」
マナガルムは目を細めて、ゆっくりと後ずさった。
(……最近の人間の女子……怖っ!)
背後では、グェルが「叱ってくれたら、もっと頑張れますぅぅ!」と謎の嗜好を叫んでいたが、もはや誰もツッコむ余裕はなかった。
深呼吸をひとつ。
マナガルムは、静かに前へと進み出た。
「……人間の少女、ブリジットよ」
その言葉に、ブリジットがピッと姿勢を正す。
「我が一族を……新たなる“ノエリア領”の民として迎え入れてくれるという話、我は——喜んで受け入れよう」
「えへへ、うん! フェンリルの皆も、荒野で一緒に暮らせるなら、すっごく心強いよ!」
心からの笑顔。
それにマナガルムは少しだけ視線をそらすと、静かに頷いた。
「強き者に従うは、我らフェンリル族の誇り……
だが、その強さはただの“力”にあらず」
「……我が息子・フレキよ」
名前を呼ばれたフレキが、ピンと耳を立てて振り向く。
「お前の持つその優しさと、他者を想う強き心。今の我には、まぶしすぎて見えぬほどだ……」
そして。
王狼・マナガルムが、ゆっくりとその頭を下げた。
「次代の長として、お前に我が一族を託したい」
——その瞬間。
フレキの瞳に、涙が滲んだ。
「父上……! 本当に……よかった……!」
「頼むぞ。皆を……そして人間との共生を、導いてやってくれ」
フレキは震える前足を伸ばし、マナガルムにそっと鼻先を重ねる。
それを見ていたブリジットは、笑顔で手を差し出す。
「……あたしも!人間もフェンリルも一緒に笑って暮らせる場所、絶対に作ってみせる!」
「……姉さん、かっけぇっすわ……」
と、リュナがポツリと呟いて、グェルの頭の上でぱちぱちと拍手を始めた。
夕陽が、五人の影をゆっくりと照らし出す。
それは、過去を乗り越え、新たな明日を誓った——小さな、けれど確かな“同盟の光”だった。
◇◆◇
和解の余韻が、ゆるやかな風とともに過ぎていこうとしていた。
山の頂——“懲罰の天蓋”の静寂に、再びリュナの声が投げ込まれる。
「……ところで、フェンリル族と手を組もうって話を持ち出してきた、魔王の使いってヤツは、今どこにいるんすか?」
唐突に、しかし何気ない口調での問いだった。
が——その言葉に、マナガルムの耳がぴくりと動く。
「……!」
その眼に、みるみる焦燥の色が走った。
「……そう言えば……あなた方がこの里に訪れる直前から、奴の姿が消えていた!」
言葉と同時に、場の空気が少しだけ変わる。
マナガルムは低く唸るような声で続けた。
「奴の目的は、我が一族に伝わる“秘宝”……!もし、それを奪うために我らの拠点から姿を消したのだとすれば……!」
「えっ?」
思わず反応したのはブリジットだった。
「それ……もしかして、これのこと……?」
バッグの中をごそごそと探り、ぽんっと取り出したのは——
大きな骨付きガムのような形をした秘宝。
まるで高級犬用おやつを巨大化させたような、しかしどこか威厳のある魔力の波動を感じさせる逸品。
「フレキくんから預かって、あたしがずっと持ってたんだけど……」
マナガルムの口が、ぽかんと開いた。
「……えっ」
まさかの展開に、語彙力が一瞬で蒸発したらしい。
「そ、それ……それこそが……!」
がっくりと膝をついたマナガルムの背後で、フレキがそっと呟いた。
「そういえば、そうでしたね……」
どこか達観した声色だった。
そんな中、リュナはぽりぽりと頬を掻きながら呑気に続ける。
「あーしらの拠点って言うと……やっぱ、あれっすよね。“カクカクハウス”」
「カクカク……ハウス……?」
マナガルムが困惑したように首を傾げると、ブリジットが補足する。
「あたし達の拠点なの! アルドくんが、超すごいテイム技で建ててくれた拠点なんだよ!」
「今頃、兄さんがカレー作って待っててくれてるはずっすけどね~」
と、リュナ。
頭の後ろで両手を組み、のんびりとした調子で空を見上げる。
その言葉に、マナガルムの顔色が一変した。
「……ま、まずい!!」
全員がピクリと反応する。
「ヤツ……至高剣・ベリザリオンは、“大罪魔王”が直々に召し上げた四天王の一柱……!」
声には、明らかな恐怖が滲んでいた。
「その剣、本気なら我すら一合で退けられる。
もし、貴女方の拠点に“秘宝”がないと知れば——」
「——お仲間を殺す可能性もある!!」
重い沈黙。
ブリジットの心臓が、ドクンと大きく脈を打った。
「……アルドくんが……!?」
リュナの表情を見やると——なぜか、笑っていた。
にこにこと、いつもの調子で。
マスクの下の唇が、ゆるく吊り上がっている気配。
「……ど、どうしよう……!リュナちゃん!! 急いで戻らないと!」
焦るブリジットに対し、リュナはぐいっと伸びをしながら、のんびりと応える。
「いやー、大丈夫っしょ。」
「えっ……?」
ブリジットとマナガルムが声を揃える。
リュナは、ゆっくりと目を閉じ、空を仰ぐようにして——
「……むしろ気の毒なのは、その“魔王四天王”っすよねぇ」
マスクの下で、ニヤリと笑った。
「兄さんを、怒らせなきゃいいけど」
風が、山頂を吹き抜ける。
薄暗くなり始めた空の向こうで——何かが、蠢いていた。