第28話 弱い人間の、ちっぽけな力
——風が止んだ。
砕けた岩肌と、蒼空。
その狭間に立つ金髪の少女が、ゆっくりと腕を構える。
ポニーテールが風に揺れ、額の2本の銀色のツノが、微かに光を帯びていた。
王狼・マナガルムが、ごくりと唾を飲む。
その全身からは、既に戦意が抜けかけている。
……なのに。
「確かに……!」
少女の声が、広場に響いた。
凛として、けれどどこか涙を含んだ、まっすぐな声音。
「確かに……あたし達、人間の力は、あなた達フェンリルに比べたら——ちっぽけかも知れないよ!」
その瞬間——
打ち下ろされた拳が、大地を穿つ。
ズドォォォォン!!!!
地面が爆ぜ、轟音が空を引き裂いた。
拳が触れた一点から、同心円状にクレーターが広がっていく。
直撃こそ免れたマナガルムが、紙一重で飛びのきながら叫ぶ。
「ギャアアアアアアア!!!?」
目を剥き、白目を剥き、狼なのに顔芸のデパートのような表情で地面を転がりながらの悲鳴。
着弾点に生じたクレーターは、軽く十メートルを超えていた。
──当たればそれ即ち、死。
その中心に立つのは、なおも拳を握りしめる少女——ブリジット。
「でも、それでもっ……!!」
拳を振り上げる。
金のポニーテールが陽光を弾き、銀の角がきらめく。
「力で相手を従えるなんてやり方……絶対に間違ってるよ!!」
——ズガァァン!!
再びの打ち下ろし。
マナガルムが「危なッ!!」と叫びながらゴロゴロと地面を転がる。
その後ろに、新たなクレーターが生まれる。
——ズガァァン!!
——ドガァァン!!
——ボガァァン!!
次々と振り下ろされる拳が、"懲罰の天蓋"をクレーターだらけにしていく。
マナガルムは必死の形相で、ゴロゴロと転がる様に回避していく。
「危なッ!! 危なッ!! 危なッ!!
なんだその拳はァァ!!?」
「人はね!話し合いで分かり合える生き物なんだよ!!」
ブリジットの目には純粋な"想いの光"。
だが、振るわれている拳には破壊神でも宿っていそうな威力。
——ズドォォン!!
またひとつ、地面が爆ぜた。
そのすぐ隣で、横っ飛びで回避したマナガルムが涙目で吠える。
「いや、話し合う気ないでしょ今の拳ぃぃぇぇぇぇッ!!」
岩を抉る拳。風を裂く突進。
全身から立ち上がる銀のオーラと、それに呼応するかのように尖ってゆくツノ。
フレキは、その様子を遠巻きに見つめ——
顔を引き攣らせて、ぽつりと呟いた。
「…………ブ、ブリジットさん……?」
だが、少女は止まらない。
放たれる“想い”は、地形を破壊し、空気を震わせ、敵のメンタルを直撃していく。
それはまさに、“暴力で話し合いを促す少女”——新時代のカタチであった。
◇◆◇
地面を転がりながら、王狼・マナガルムが叫ぶ。
「わ、分かった!!ちょうど我も今、思ってたところ!!力で相手を従えるとか、やっぱ良くないよなーって!!暴力は何も生まないし!?うんうん!」
「と、とにかく!まずは話し合おうではないか!!人間の少女よ!!」
必死の弁明。理性の声。狼なりの社会的対話。
だが——
「……どうして……どうして、話し合うことができないの!?」
涙を滲ませたブリジットの声が、空に響く。
「力で相手を従えたって、そこには何も生まれないんだよ……!?」
目の前で土下座しかけていたマナガルムが、ピタッと固まった。
「え?あれ!?我の声、聞こえてなかったかな!? 我も今、全く同じ事を言ったつもりだったんだけど……!?」
焦る狼。狼狽する狼。涙ぐむ狼。
だがブリジットの耳には、その言葉は届いていなかった。
「だから……!」
ゆっくりと、ブリジットがマナガルムへと歩み寄る。
その歩調は、優しげで……けれど恐怖の対象そのもの。
「あなたが、ちゃんと話を聞いてくれるまで……あたしは!」
拳を握る。瞳が輝く。ツノが……さらに鋭くなる。
「“弱い人間”の力を、ぶつけてみせるからッ!!」
キラッキラのイイ顔と共に、マナガルムを見つめるその目は、間違いなく“悪気ゼロの物理的殺意”だった。
マナガルムは両前脚を広げて叫ぶ。
「いやちょっと!?そっちこそ話聞いて!!
我、さっきからずっと“話し合おう”って
言ってるでしょ!?聞いてッッ!!!」
次の瞬間——
ピィィィィィィ……!
ブリジットの口元から、一筋の銀色の閃光が走った。
マナガルムの顔すれすれをかすめたビーム状の"ブレス"が、遥か彼方の岩山を直撃し——
───カッ
ドオオォォォ──────ン!!!
山が、ひとつ、消えた。
「ギャアアアアアアアアアア!!!?!!?」
ひっくり返るマナガルム。
完全にお尻をついて座り込み、ブルブル震えながら、叫んだ。
「す、すみませんでしたァァァァ!!!」
「ほーら見て!我、もう戦う気ないから!ほら!おすわりのポーズッ!!ね!?ねッ!?!?」
頭を下げ、両手をそろえ、耳を伏せ、お尻をペタン。
どこからどう見ても、ただの反省ワンちゃんである。
だが、その前方——
半暴走中の少女は、まだ止まってはいなかった。
◇◆◇
おすわりポーズのまま、マナガルムはガタガタ震えながら、地面に鼻先をすりつけた。
「我、もはや戦う気ナッシング!ゼロ戦意ッ!完全降伏!とってもピースフルッ!」
そう叫びながら、彼は小さな石を口にくわえ、献上するように差し出した。
行動の意味は不明だが、全力で媚びていることだけは伝わる。
ブリジットが、そのまま無言で歩み寄る。
ツノを煌めかせた額、揺れる金のポニーテール、瞳には微かに涙が滲んでいたが、それ以上に「止まらない衝動」が宿っていた。
それは“怒り”というにはあまりに純粋で、ただひたすらに“まっすぐ”な、信じた想いの突進。
その一歩ごとに、大地が軋む。
近づくたびに、王狼マナガルムの白銀の体躯は、目に見えて縮こまっていった。
(ち、ちがう、ちがうぞこの気配……)
(もはやこれは対話の空気ではない……完全にトドメの圧力ッ……!!)
がくがくと震える四肢。
おすわりの姿勢のまま、後ずさることすら許されない絶望の体勢。
牙も、誇りも、どこかへ置き忘れてきたかのように、マナガルムはただ“戦慄”していた。
そんな時——
「ブリジットさんっ!」
乾いた空気を切り裂くような鋭い声が、空の上から降ってきた。
それは、鋼鉄の拘束を己の牙で噛み砕き、ついに解き放たれた巨大なダックスフンドだった。
フレキ。
疾風のように走るその姿は、今までの頼りなさを微塵も感じさせない。
瞳を見開き、耳を伏せて、彼はただ真っすぐにブリジットの元へ——
その前に、飛び出した。
ザザァァッ!!
土煙が巻き上がる。
ブリジットの進路を遮るように、フレキが滑り込んだ。
「っ、フレキくん!?」
足を止めたブリジットが、驚いた声を上げる。
その全身にはまだ、かすかに銀のオーラが残っていた。
だが、フレキは怯えなかった。
むしろ、これまでで一番、力強く見えた。
「もう……もういいんです、ブリジットさん!」
息を切らしながら、それでもまっすぐブリジットを見上げる。
「ボクのために……あんなに怒ってくれて、本当にありがとう……!」
その目には、感謝と……ほんの少しの涙。
だが——
「でも……でもね、今のブリジットさん、ちょっとだけ……」
小さな足で、ぶるぶる震える短い前足をピシッと差し出す。
その仕草は、まるで勇気を振り絞るようだった。
「ちょっとだけ……こわいです……!」
ビシィッ。
空を切るような指差しのジェスチャー。
それは本当に小さくて、でも彼なりの全力だった。
「ボクは……やっぱり、いつもの優しいブリジットさんの方が、好きです……!」
——その言葉が、届いた。
ブリジットの肩が、ぴくりと震える。
ふっと、銀のツノの輝きが鈍くなる。
オーラが、ゆっくりと揺らぎ、空気から静かに色を引いていく。
ツノが、するりと額に引っ込んだ。
瞳から、戦意がすぅ……と抜けていく。
「……あれ……?あたし、何してたんだっけ?」
ぽかん、とした顔で、ブリジットは立ち止まった。
静かに、きょろきょろと辺りを見回す。
足元に転がるクレーター。
溶けかけた石。
焼け焦げた大地。
そして——目の前。
ガタガタと震えながら、完璧なおすわり姿勢で頭を垂れる 王狼。
……マナガルム。
「……よかったぁー!フレキくんのお父さん、やっと話を聞いてくれる気になったんだね!」
にこっ、と無垢な笑顔を浮かべて、そう言った。
頬に汗を伝わせながら。
マナガルムの顔がひくひくと痙攣する。
(う、嘘だろ……? 記憶が飛んでおるのか……? あんな規格外の力をぶっ放しておいて……)
(……何それ!?……逆にめっちゃ怖い!)
そして、フレキはふっと天を仰いだ。
(……ブリジットさん……)
(前に、ボクはあなたのことを“とても強い方だ”と言いましたが……)
(まさか、ここまで——"物理的に"強い方だとは、思ってもいませんでした……)
その顔には、静かな笑いと、ほんの少しの哀愁が宿っていた。
敬意と、感謝と、困惑。
そんな感情が入り混じった視線で、彼はただ見つめていた。
夕暮れの風が、三者の間を吹き抜けていった。