第279話 "嫉妬"という名の迷宮
ダンジョン・サバイバル、地下50階層。
落下しているはずなのに、そこには“重さ”の感覚がなかった。
上下の概念が曖昧な、歪んだ空間。
壁と床と天井が、溶けたお菓子細工のように混ざり合い、パステルカラーの渦となって視界を埋め尽くしている。
可愛らしい色合いなのに、どこか胸の奥をざわつかせる、不快な違和感。夢と悪夢の境目を無理やり縫い合わせたような世界だった。
「おおお!? 何じゃこりゃ!?」
アルドは空中で手足をばたつかせながら、情けない声を上げる。
「インフルエンザの時に見る悪夢みたいな世界観!!」
そのまま、ひらりと身体をひねり、地面らしき場所へと落ちる。
カラフルな床は、ゴムのように一瞬だけたわみ──次の瞬間には何事もなかったかのように硬さを取り戻した。
スタッ。
軽やかな着地。
アルドは辺りを見回し、眉をひそめる。
「……いや、ほんとに気持ち悪いな、ここ。悪夢系ホラゲーの世界みたいな……」
一方、少し離れた宙では、ラグナ・ゼタ・エルディナスが落下の流れを風魔法で制御し、優雅に滞空していた。
金色の髪がふわりと揺れ、冷静な視線が周囲を走る。
(これは……マリーダ教授のいる、最終50階層……?)
胸の奥で、疑念が弾ける。
(巨神像の最後の一体は、あえて倒さず放置していたはず……なのに……ッ!?)
空間そのものが、強制的に“最終到達地点”へと引きずり落としたような感覚。
ラグナは舌打ちをしそうになるのを堪え、静かにアルドへ視線を向けた。
そのさらに離れた場所。
ドサッ。
「ぐぇっ!?」
少々情けない声と共に、ザキは地面を転がった。
着地と同時に、視界の端に飛び込んできたのは、異様なほど巨大なクマのぬいぐるみだった。
ボタンのような目、縫い目が強調された腹部、妙に愛嬌のある笑顔。
(……なんやねん、この悪趣味なフロア……)
転がる勢いのまま、ザキはぬいぐるみの陰へと身を滑り込ませる。
(これ……ひょっとして、俺のせいか……?)
額に、じっとりと汗が浮かぶ。
巨神像。あれを斬った瞬間から、嫌な予感はしていた。
ぬいぐるみの陰から、そっと顔を出す。
アルドとラグナは、互いに向き合い、まだこちらに気づいていない。
(──あの二人には、まだ気づかれてないみたいやね)
胸を撫で下ろしつつ、苦笑する。
(不幸中の幸いやったわ)
その時だった。
ラグナが、ゆっくりと地上へ降り立ち、アルドを見据えて不敵に笑う。
「さあ……続きといこうか……アルド・ラクシズ!!」
アルドは目を丸くし、思わず声を裏返した。
「えっ!? まだ、続きやる感じなの!?」
周囲を見回し、肩をすくめる。
「何か、すっごい気持ち悪い感じのフロアに落とされたんだけど!?」
そう言いながらも、無意識に身体は動いていた。
足を開き、拳を構え、即席のファイティングポーズ。
その瞬間。
「気持ち悪い感じのフロアで悪かったのぉ。小僧」
──可愛らしい声。
この場に似つかわしくない、どこか幼さを含んだ声が、空間の奥から響いた。
「!?」
アルドとラグナは、同時にそちらを振り向く。
ファンシーな色合いの玉座。
ハートや星を模した装飾が施され、その上に、足を組み、頬杖をついて座る小柄な少女──否、少女の姿をした老婆。
マリーダ・フォン。
怒りを含んだ笑みを浮かべ、二人を見下ろしていた。
「まずは……流石と言わせていただきますかな。ラグナ殿下」
明るい声色。しかし、その奥には確かな棘がある。
そして、視線がアルドへ移る。
「──じゃが……貴様がここまで来るのは想定外じゃったわ。アルド・ラクシズ……憎き、“好色の魔王”の使徒よ……!」
玉座から立ち上がり、バッと手を横へ振る。
「二人……いや、三人か?」
意味深な言葉を含みつつ、嗤う。
「まさか、こんなにも早く、ワシがいる最終階層まで辿り着くとはな……じゃが、まだクリアではない……!」
声が、空間全体に反響する。
「ダンジョン・サバイバルを、完全にクリアしたくば……このワシ、マリーダ・フォンを、倒さねばならぬのだ……!」
指を突きつける。
「ラグナ殿下……アルド・ラクシズ……! 貴殿らに……それが、出来るかなッ!?」
──しかし。
その仰々しい口上は、完全に空を切った。
アルドとラグナは、マリーダの存在など視界に入っていないかのように、互いに向かい合っていた。
「ほ、ホラ!!」
アルドが慌ててラグナに身振り手振りで訴える。
「マリーダ先生も何か喋ってるし? 今は俺らが争うとこじゃないっぽくない!? 空気的にさ!」
ラグナは、心底うんざりしたように眉をひそめる。
「ああ!? 地下50階層に到達した時の、マリーダ教授の口上だろ?」
吐き捨てるように言う。
「そんなもの、僕はもう聞き飽きたよ!!」
一瞬、アルドを睨み据え、魔力を高める。
「そんな事より……!!」
さらに一歩、踏み込む。
「そんな事より……キミと決着をつける方が、よっぽど大事だッ!!」
アルドは、嫌な予感に背筋を震わせ、思わずマリーダの方を見る。
そこには──
"推し"であるラグナが、自分を完全に無視し、アルドだけを見つめている現実に、愕然と立ち尽くすマリーダの姿があった。
手元が、わずかに震えている。
(……えっ?)
アルドの喉が、ひくりと鳴る。
(な、なんか、ロリババア2号先生……めっちゃショック受けてるっぽいんだけど……)
視線が泳ぐ。
(こ……こいつは、マズい感じがするぞ……)
空気を必死に読み取り、アルドはオロオロしながらラグナに詰め寄った。
「い、いや、でも、ホラ! マリーダ先生って、このダンジョン・サバイバルのラスボス的存在なんじゃないの!?」
玉座を指差す。
「ホラ! なんか玉座みたいなのに座って、ラスボス感も出してくれてたし? ま、まずは、そっちの相手してからの方がいいんじゃないかなー……って」
ラグナは、ちらりとマリーダを一瞥する。
その視線は、あまりにも冷たかった。
「教授」
淡々と告げる。
「今、僕は忙しいので、後にしてもらっていいですか?」
マリーダの肩が、びくりと揺れる。
ラグナはすぐにアルドへと視線を戻し、熱を帯びた笑みを浮かべた。
「フッ……今この場に、キミと決着を着ける以上に大事な事など……あるものかッ!」
魔力が、渦を巻く。
アルドは脂汗を浮かべながら内心叫んだ。
(え……えぇー……何で急にそんな俺にご執心みたいな感じになってるの……!?)
(大学内じゃ、あんな思い切り無視してきてたのに……!)
一方で、マリーダは心の中で呟く。
(──何なのじゃ……ラグナ殿下……)
(ワシには目もくれず……そんな小僧に……何故、そんな目を輝かせて……)
世界が、色を失ったかのように感じられた。
クマのぬいぐるみの陰から、その一部始終を見つめるザキは、静かに思考を巡らせる。
(──さて。俺は……どう動こかな)
狂い始めた歯車の音が、50階層の奥底で、確かに鳴り始めていた。
───────────────────
エルディナ王国が国策として運営する育成機関──ルセリア中央大学。
その魔導学部を統括する教授、それがマリーダ・フォンである。
今でこそ、彼女の名を知らぬ者は少ない。
だが、すべての始まりは、決して輝かしいものではなかった。
──若き日の、マリーダ。
女神の祝福によって授かったスキルは、
"迷宮組曲"。
指定した“場所”に根を下ろし、時間をかけて成長し続ける、巨大な迷宮を創り出す力。
迷宮の内部において、彼女はほぼ万能だった。
フロアの構造を変え、環境を操り、モンスターを生み出し、場合によっては人の生死すらも“管理”できる。
だが──
その力は、あまりにも不自由だった。
一度設置した場所からは、動かせない。
別の場所に移せば、育てた迷宮はすべて失われ、
また一からやり直しになる。
育成には、膨大な時間が必要。
戦場に持ち出すこともできず、
即応性も、汎用性もない。
──要するに。
「……ハズレ、か」
周囲の囁きは、容赦なかった。
攻撃魔法に秀でた者。
回復や補助で頭角を現す者。
探索や諜報に向いたスキルを授かった者。
友人たちは次々と“役割”を見つけ、
進むべき道を定めていく。
その中で、マリーダだけが、立ち止まっていた。
(……ワタシのこの力は……一体、何に使えばいいの……?)
誰にも言えない不安。
誰にも見せられない焦り。
「すごいスキルだね」
「でも……実戦向きじゃないよね」
同情と失望が混ざった視線が、胸を刺す。
──ハズレスキル。
その言葉は、若きマリーダの心を、静かに、しかし確実に蝕んでいった。
そんな彼女の前に、
一人の青年が現れた。
グラディウス・ヴィエロ。
当時、貴族社会で“次代の中枢を担う男”と噂されていた、若き政治の天才。
穏やかな微笑と、鋭い洞察を併せ持つ青年だった。
彼のスキルは、
他人の魂の“色”を見ること。
その色から、その者が秘める可能性と、進むべき道を読み取る力。
彼は、迷い続けるマリーダを見て、こう言った。
「君の力はね、戦うためのものじゃない」
柔らかく、しかし迷いのない声。
「君のスキルは、後進を育てるために使うべきだ」
マリーダは、その言葉を、最初は理解できなかった。だが、彼は続けた。
「国が近く、新しい学び舎を立ち上げる。──ルセリア中央大学だ」
彼女の胸が、わずかに跳ねる。
「その建設地に、君のスキル"迷宮組曲"の迷宮を設置してほしい。管理と運用も、すべて君に任せたい」
一瞬、時が止まったように感じた。
(……ワタシの……力を……?)
「死ぬことのない迷宮。何度失敗しても、やり直せる場所」
グラディウスは、まっすぐマリーダを見つめていた。
「それは、才能を育てるための、最高の環境だ」
その瞬間──
マリーダの中で、何かが、音を立てて噛み合った。
(……ああ……そうか……)
自分の力は、
誰かを“倒す”ためのものではない。
誰かを“育てる”ためのものだったのだ。
こうして、マリーダの"迷宮組曲"による迷宮は、ルセリア中央大学の地下に根を下ろした。
学生たちは、迷宮に挑み、失敗し、倒れ、それでも立ち上がり、強くなっていった。
その成長速度は、他の追随を許さなかった。
ルセリア中央大学は、瞬く間に名門と呼ばれるようになり、マリーダの名もまた、広く知られることになる。
彼女は、迷宮に潜り続けた。
自身もまた、後進の恥とならぬよう、魔法を極めた。
副次効果として得た“不老”の身体。
見た目は十五歳の頃のまま。
だが、その内には、
何年分の経験と研鑽が、確かに積み重なっていた。
やがて彼女は、ルセリア中央大学・魔導学部の統括教授にまで上り詰める。
──すべては、自分の才能を見出し、導いてくれたグラディウスのおかげだった。
感謝は、やがて、淡く、甘い感情へと変わっていく。
(この人の役に立ちたい。将来、この国を導く人の……隣に、立てたら……)
叶わぬ願いを胸に秘め、それでもマリーダは、笑顔で彼を支え続けた。
だが。
ある日、その幸せは、音を立てて崩れ落ちる。
──グラディウスが、結婚した。
相手の名を聞いた瞬間、
マリーダの思考は、真っ白になった。
メリンダ・フォン。
──自分の、妹。
血の気が引き、
世界から音が消えた。
(……ああ……そう、か……これが……)
失恋。それは、あまりにも静かで、あまりにも残酷だった。
失意の底に沈むマリーダの耳に、
さらに一つの噂が届く。
「グラディウスの恋路を手伝ったのは……大罪魔王の一柱、“色欲の魔王”らしい」
理解できなかった。
何故、大罪魔王の一柱が、恋のキューピットの真似事などしているのか?
納得も、できなかった。
だが、心は──
理屈では動かない。
(……色欲の魔王……余計な……ことを……)
完全な逆恨み。
だが、失恋したばかりの乙女に、冷静さなど残っていなかった。
こうして、
マリーダの胸に、“色欲の魔王”への憎しみが刻まれた。
そして──
余談ではあるが。
彼女は、この頃から、
現実の恋愛を諦め、
代わりに“イケてる男子を推す”という、新たな趣味に目覚めていく。
それは、自分を傷つけない、安全な恋。
だが、その小さな逃避が、やがて──
今日の、歪んだ執着へと、繋がっていくことになる。
マリーダ・フォン。
迷宮を育て、才能を育て、
そして──自分の心だけは、育てきれなかった女。
その胸の奥で、今もなお、未熟な感情が、静かに、黒く蠢いていた。
───────────────────
マリーダ・フォンは、しばし──声を失っていた。
地下50階層。
自らの玉座が据えられた、この“最終階層”に。
推しであるラグナ・ゼタ・エルディナスが、確かに辿り着いた。
その事実だけでも、本来なら胸が高鳴るはずだった。
胸の奥が熱くなり、長い年月の努力が報われたような気持ちになるはずだった。
──しかし。
ラグナの瞳は、こちらを見ていなかった。
彼が向けているのは、
ただ一人。
アルド・ラクシズ。
あの小僧。
憎き“色欲の魔王”の使徒。
ラグナは、まるで世界にその存在しかないかのように、アルドだけを見つめ、アルドだけに魔力を向け、アルドとの決着に、すべてを懸けている。
(……な、なんじゃ……)
マリーダの喉が、ひくりと鳴った。
その光景が──
過去の記憶と、重なった。
──かつて。
自分がどれほど願っても、振り向いてくれなかった青年。
グラディウス・ヴィエロ。
彼が向けていた熱い視線は、
自分ではなく、妹メリンダへと注がれていた。
同じだ。
今、目の前で起きている光景は、
あの時と、あまりにも、同じだった。
(……また、か。またしても……)
胸の奥に、
どろりとした感情が湧き上がる。
それは、怒りでも、悲しみでもない。
もっと醜く、もっと生々しいもの。
──"嫉妬"。
「……色欲の魔王……」
マリーダの唇が、震える。
「ヴァレン・グランツ……」
そして、その使徒。
「……またしても……」
声が、次第に、掠れていく。
「またしても……ワシから……」
震える指先が、ぎゅっと握り締められる。
「……幸せを……奪おうというのかッッ!!」
叫びと同時に。
──黒い魔力が、噴き上がった。
もやり、とした闇が、マリーダの身体を包み込む。
甘く、粘ついたような魔力の気配。
肌の表面に、黒い痣のような紋様が、次々と浮かび上がる。
血管が浮き出るように、魔力が皮膚の下を走る。
胸元には、白い蛇のような魔力の紋様が、くっきりと刻まれた。
まるで──
絡みつく執着そのものを、形にしたかのように。
アルドは、その異変に真っ先に気づいた。
「ちょ、ちょっと!!」
思わず、声を張り上げる。
「なんか、マリーダ先生の様子、変じゃない!?
顔色悪いっていうか……いや、もうそれどころじゃないでしょ!?」
焦った視線を、ラグナへ向ける。
「見たことないレベルで、おかしな事になってる気がするんだけど!?」
だが、ラグナは眉を吊り上げ、苛立たしげに言い返した。
「くどいぞッ!!」
魔力を集中させながら、アルドを睨む。
「僕と決着をつけるのが、そんなに怖いのか!?」
ラグナは、当然の前提のように言葉を続ける。
「いいか!この50階層は、マリーダ教授とのラストバトルのフロアだ!あれは、その戦闘前演出で……」
そう言いながら、ちらりとマリーダを見る。
「……スキルの出力が上がるエフェクトが、光ってるだけで──」
言葉が、途中で止まった。
ラグナの瞳が、見開かれる。
そこにいたのは──
彼の“知っている”マリーダ教授ではなかった。
肌は、浅黒く染まり。
全身に黒い痣のような魔力痕が走り。
胸元には、白い蛇の紋様。
目は、充血したように真っ赤に染まり、
理性の色を失っている。
そして、膨大な魔力を、制御もなく放出しながら──
「……ケラ……ケラケラ……」
壊れたような笑い声を上げていた。
「ワシを……」
笑いながら、マリーダは叫ぶ。
「ワシの事を……」
魔力が、空間を歪ませる。
「……見ろォォーーッ!!」
その叫びは、
悲鳴にも、懇願にも、呪詛にも聞こえた。
クマのぬいぐるみの陰。
ザキは、思わず息を呑み、額に汗を浮かべていた。
(──な、何やねん……あれ……!?)
視線を逸らせない。
(あんなもん……聞いてへんで……!?)
計算外。
完全な、想定外。
その異常性は、隠れているザキにすら、はっきりと伝わってきた。
一方、ラグナは、状況をようやく理解し──
愕然とした表情を浮かべる。
「な……なんだ……これは……ッ!?」
声が、わずかに震える。
「マリーダ教授が……」
信じられない、というように首を振る。
「……見たこともない……おかしな事になってるじゃないかッ!?」
アルドは、ラグナの隣で、同じく青ざめていた。
「だから、そう言ってんじゃん!!」
両手を振り上げ、叫ぶ。
「何なの!?これ!?これ、どう見ても“演出”とかじゃないでしょ!?」
二人の視線の先で──
マリーダ・フォンは、
もはや教授でも、ラスボスの演出役でもなく。
ただ、“嫉妬”と“執着”に呑み込まれた存在として、
狂気の魔力を、空間に撒き散らしていた。
地下50階層。
ダンジョン・サバイバル最終地点。
その空気は、いつの間にか──
“試練”から、“事件”へと、確実に変わっていた。




