第278話 "白銀の婚約者"と"特異点"
フレキの鼻が、小刻みに動いた。
「フン……フンフン……」
低く、しかし確信を帯びた鼻鳴らし。その背中に、ふさふさの尾がぴんと立つ。
「──見つけましたっ! こっちですっ!」
短い前足が、チャッチャッチャッと軽快に床を叩く。小さな身体が先頭に立ち、ダンジョンの通路を迷いなく進んでいく。
「待って、フレキくん! そんなに早いと──」
ブリジットは巨大ハンマー"ピコ次郎,を肩に担ぎながら、慌ててその後を追った。
通路は曲がりくねり、湿った空気が肌にまとわりつく。だが、フレキは一度も立ち止まらない。
まるで、この先に何があるのか、すべて分かっているかのように。
やがて、視界がひらけた。
通路の先に現れたのは、天井の高い、円形の広間だった。
その瞬間──
ブリジットは、息を呑む。
部屋の中央に、異様な影がいくつも揺れている。
筋骨隆々の巨体。額の中央に、ぎょろりと光る一つ目。
サイクロプス。
それも一体や二体ではない。三体、四体――いや、それ以上。
さらに、その足元を這うように、黒い虎のような魔物たちがひしめき合っていた。闇を溶かしたような毛並み。低く唸る声。黄色く光る瞳が、一斉にこちらを捉える。
──所謂、モンスター・ハウス。
だが、ブリジットは、恐れなかった。
「……っ!」
一瞬、ハンマーを握る手に力が入る。そして──
「えいやぁーーっ!!」
裂帛の気合と共に、ブリジットの身体が宙に舞った。
小柄な体躯からは想像もつかない跳躍。空中で身体をひねり、巨大ハンマー"ピコ次郎"を両手で振り抜く。
ドドドンッ!!
鈍く、しかし圧倒的な衝撃音。
横薙ぎに振るわれたハンマーが、サイクロプスの横面をまとめて叩き潰す。三体の巨人が、ほとんど同時に顔を歪め、悲鳴すら上げる間もなく吹き飛んだ。
「ギャッ──」
骨が砕け、肉が軋む音。巨体が壁に叩きつけられ、ずるりと崩れ落ちる。
その足元では──
「えーいっ!」
甲高い声と同時に、フレキの短い足が高速で空回りした。
チャッチャッチャッチャッ!!
次の瞬間。
ギュンッ!!
弾丸のような加速。小さな身体が黒い閃光となり、広間を駆け巡る。
バシュン!
バシュン!
バシュン!
黒虎の魔物たちが、次々と貫かれ、霧散していく。何が起きたのか理解する暇もない。フレキは床を、壁を、天井すら蹴りながら縦横無尽に走り回り、六体の魔物を一瞬で仕留めていた。
最後の一体が、悲鳴を上げる間もなく──
バシュウウウン……。
広間から、すべての魔物の姿が消え去った。
静寂。そして、淡々とした機械音声が響く。
『モンスター、9体討伐。ブリジット・チーム、10×9=90ポイント獲得。』
フレキは、その場でぴたりと止まり、舌を出してハッハッハッと息を吐いた。尾がぶんぶんと振られ、嬉しさが隠しきれない。
「やったーっ! やりましたねっ! ブリジットさんっ!」
見上げるその瞳は、誇らしげで、どこか無邪気だった。
ブリジットはハンマーを肩に戻し、ふっと息を吐く。
「うん! 短時間でこんなにモンスターポイント稼げるなんて……」
にっこりと笑い、
「フレキくんの鼻のおかげだよ!」
だが、その笑顔は、ほんの一瞬だけ曇った。
「……でもさ」
視線を逸らし、少しだけ困ったように口元を緩める。
「フレキくん、優秀すぎるから……ちょっと他のチームの人たちに、申し訳なくなっちゃうな」
ハンマーの柄を軽く握りながら、
「従魔としてのフレキくんがアリなら……ウチのチーム、有利すぎる気がして」
小さく、苦笑した。
フレキは、その言葉を聞くと、一瞬だけ自分の首元を横目で見た。
そこにあるのは、フェンリル族の秘宝──王の証。
そして、すぐに顔を上げる。
「違いますよ、ブリジットさん」
ハッハッハッと息を吐きながらも、その声はまっすぐだった。
「フェンリル族の秘宝が、ボクを“王”と認めてくれたのは……」
一歩、ブリジットに近づく。
「ブリジットさんと、心を通わせることができたからです」
瞳が、真剣な色を帯びる。
「つまり、秘宝そのものが……ブリジットさんを『主』と認めてるんです!」
胸を張るように、尾を高く掲げて。
「──ボクたちフェンリルを従えたのは、ブリジットさん自身が掴み取ったことです!」
「だから……」
にこっと、子犬のように笑う。
「胸を張って、ボクの力も使ってくださいっ!」
ブリジットは、その言葉を聞いて、しばらく黙ったままだった。
そして、そっと膝をつく。
「……うん」
やわらかく、微笑んで。
「ありがとうね、フレキくん」
頭をなでなでする。ふわふわの毛並みが、指の間をすり抜けた。
その瞬間。
ビクン!!
フレキの身体が、跳ねた。
尾が止まり、耳がぴんと立つ。
「……っ!?」
バッと、部屋の入り口を見る。その身体が、小刻みに震え始めた。
「フレキくん? どうしたの……?」
ブリジットが声をかけるが、フレキは答えない。
「そ、そんな……」
喉が鳴る。
「この匂い……なんで……!?」
恐怖が、隠しきれない。
ブリジットは即座に立ち上がり、ハンマーを構えた。視線を入り口へ向ける。空気が、変わった。
そして──
「ブリジットさんっ!!」
フレキが叫ぶ。
「――今から、この部屋にやってくる人とは……!」
四つ脚を踏みしめ、低く唸る。
「決して……戦っちゃあダメですっ……!!」
その必死さに、ブリジットの背筋が凍る。
(フレキくんが……ここまで怯えるなんて……いったい……誰が来るって言うの……!?)
コツ……コツ……。
静かな足音が、通路の奥から響いた。
やがて、ひとりの人物が、ゆっくりと広間へ足を踏み入れる。
ウサ耳のついたフード付きのケープ。
口元を覆うマフラー。
眠たげで、感情の読めない瞳。
少女は、淡々とそこに立っていた。
──ルシア・グレモルド。
空気が、張り詰める。
フレキは唸り声を上げ、ブリジットはハンマーを構えたまま、一歩も動けずにいた。
この出会いが、ただの偶然ではないことだけが──
はっきりと、伝わっていた。
◇◆◇
少女は、広間の中央に立ったまま、ぼんやりと首を傾げた。
「……」
きょろきょろ。
まるで、初めて来た場所を散歩でもするかのように、ゆっくりと視線を巡らせる。天井、壁、砕けた床、さきほどまで魔物がいた痕跡。
「……」
そして、ようやく。
警戒したまま固まっているブリジットと、その足元で唸り声を上げるフレキに、視線が留まった。
「あ」
小さく、間の抜けた声。
「見つけた」
次の瞬間だった。
てってってっ。
軽い足音を立てて、少女は何の躊躇もなく歩き出した。距離を詰める速度は、早くも遅くもない。だが、その無警戒さが、逆に不気味だった。
「……っ!」
フレキが、バッと前に出る。
四つ脚を広げ、低い姿勢。牙を覗かせ、喉の奥から警告音を漏らす。
ブリジットはハンマー"ピコ次郎"を正面に構え、内心で必死に記憶を辿っていた。
(この人は……確か……お兄ちゃんと、ラグナ王子と、同じチームの……ルシア……さん……?)
横目で周囲を確認する。
だが、出口は一つ。ルシアが入ってきた通路しかない。
──逃げ場は、ない。
気づけば、少女はもう目の前にいた。
あまりにも、近い。
「あなたは……」
少女は、じっとブリジットを見つめる。感情の読めない、眠たげな瞳。
「ブリジット・ノエリア」
細い指が、ぴっと伸びる。
「セドリックの、妹」
言い切りではなく、確認するような口調。
ブリジットは、ハッとした。
「あっ!」
慌ててハンマーを下ろし、ぺこっと頭を下げる。
「あたし、ブリジット・ノエリアです! えっと……以後よろしくっ!」
勢いでそう言ってしまってから、(あっ、今の変じゃなかったかな!?)と内心で焦る。
ルシアは一瞬だけ瞬きをし、それから、ブリジットと同じように、ぎこちなく頭を下げた。
「……ルシア・グレモルド。よろしく」
その動きは、どこか人形めいていた。
そして、ふと視線が下に落ちる。
足元で、警戒したまま唸っているフレキ。
「……」
ルシアは、少しだけ考える素振りを見せてから、ぽつりと呟いた。
「わんわん」
そのまま、そろり……そろり……と、手を伸ばす。
撫でるつもりらしい。
「──っ!!」
フレキの身体が、びくん!と跳ねた。
次の瞬間、サササッ!とブリジットの背後へ回り込み、影に完全に隠れてしまう。
「……」
ルシアの手は、宙で止まった。
数秒の間の後、そして、がくりと肩が落ちる。
「……嫌われちゃった」
小さく、心底残念そうに呟く。
その様子を見て、ブリジットは思わず瞬きをした。
(……あれ?なんか……思ってたより、怖い人じゃ……ない?)
──その時だった。
胸の奥が、じわりと熱を持つ。
「……っ」
ブリジットは思わず、自分の胸元を押さえた。
(なに……? あたしの……“真祖竜の加護”が……反応してる……?)
これまでに感じたことのない、微かな脈動。
敵意でも、恐怖でもない。
だが、確実に“何か”に反応している。
理由が、分からない。
ブリジットは一度、深く息を吸い、恐る恐る問いかけた。
「ル、ルシアさんは……」
視線を逸らしながら、
「あたし達と……戦うために、来たの?」
ルシアは、少しの間、ぼーっとしたまま黙っていた。
数秒──
いや、十秒近く。
そして、突然。
「いや」
きっぱりと。
「戦わない。絶対に」
妙に力のこもった否定だった。
ブリジットは、ほっと肩の力を抜く。
「そ、そうなんだ……」
少し笑って、
「じゃあ、ルシアさんも、ポイント稼ぎでこの辺うろうろしてたの?」
ルシアは、首を横に振る。
「ううん」
そして、ぽつり。
「探し物を、してるだけ」
「探し物……?」
ブリジットが聞き返すと、ルシアは静かに頷いた。
「そう。探し物」
それから、少しずつ、言葉を選ぶように話し始める。
「……はじめは、ラグナ王子が『そう』なのかと思った」
淡々と。
「だから、近づいてみた。でも……違ったみたい」
視線が宙を泳ぐ。
「セドリックも。リゼリアも」
ブリジットは、眉をひそめる。
(“そう”って……何の話……?)
ルシアは気にする様子もなく、続けた。
「この“統覇戦”には、大勢の人間が参加してる。もしかしたら……ここなら、見つかるかも、って思って。だから、参加した」
あまりにも感情の起伏がなく、逆に不安になる。
(ルシアさん……何の話をしてるの……?)
すると、ルシアはふっと視線を落とし、指を一本立てた。
「……他に、可能性があるとすれば……」
指を折りながら、名前を挙げていく。
「“色欲の魔王”ヴァレン・グランツ」
ブリジットの胸が、ドクンと跳ねた。
(……え?)
「“咆哮竜”ザグリュナ」
「……っ!」
ブリジットは思わず、声を漏らしかけた。
(ど、どうして……リュナちゃんの事を……!?)
だが、ルシアは表情一つ変えず、さらに続ける。
「それに……アルド」
「“真祖竜”アルドラクス」
ブリジットの背中を、冷たい汗が伝った。
(この人……アルドくんの……正体まで……知ってる……!?)
そして、最後。
ルシアは、指を折るのをやめ、ブリジットを見た。
「そして……あなた」
「“白銀の婚約者”ブリジット・ノエリア」
ちょん、と指差す。
「あなたも、最有力候補の一人」
「……」
ブリジットは、言葉を失った。
「……“白銀の婚約者”……?」
震える声で、呟く。
「あたしの……事なの……?」
ルシアは、その反応を見て、しばらく無言になった。そして、ぽつり。
「……あ、これ、言っちゃダメなやつだったかも」
少しだけ、気まずそうに視線を逸らし、
「忘れて」
無表情のまま、そう言った。
ブリジットは、ただ呆然と、その姿を見つめる。
(ルシアさん……あなた……いったい、何者なの……?)
胸の奥で、“真祖竜の加護”が、微かに脈打っていた。
──不穏な予感だけを、確かに残して。
◇◆◇
重い空気を切り裂くように、足音が響いた。
コツ……コツ……。
規則正しく、迷いのない足取り。
ブリジットは、はっと顔を上げる。
部屋の入口から現れたのは、見慣れた二つの影だった。
「……っ」
金髪の剣士。
剣とラウンドシールドを携えた、凛とした佇まい。
そして、その横でひらひらと手を振りながら歩く、黒衣の女性。
「──お、お兄ちゃん……!?」
声が、思わず裏返る。
セドリック・ノエリアは、その名を呼ばれた瞬間、目を見開いた。
「……ブリジット……!?」
ほんの一瞬。
兄妹としての素の反応が、確かにそこにあった。
だが、それは長くは続かない。
「ルシアさ〜ん!」
リゼリア・ノワールが、やや大げさに手を振る。
「勝手にいなくならないでくださいよ〜! 探しましたよぉ〜?」
ルシアは振り返り、間の抜けた調子で手を振り返した。
「めんごめんご」
それだけ。
セドリックは、そのやり取りを横目に見ながら、何か言いかけて──口を閉ざした。
代わりに、静かに剣を抜く。
カチャリ、という金属音とともに、ラウンドシールドを構え、足を半歩前に出す。
ブリジットの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「お兄ちゃん……あたしは……!」
言葉を紡ごうとした、その瞬間。
「──今の俺とお前は、敵同士だ」
低く、だがはっきりとした声。
「兄だ妹だという甘えは……捨てろ」
まっすぐな視線が、ブリジットを射抜く。
そこには、兄としての優しさよりも、"ラグナの盾"としての覚悟が宿っていた。
「……っ」
ブリジットは唇を噛みしめる。
リゼリアが、困ったように視線を泳がせる。
「い、いいんですかぁ〜? セドリックさん……妹さんですよねぇ〜?」
セドリックは一切迷わず、答えた。
「私達の任務は、ポイントを稼ぐ事。そして……ラグナ殿下の障害となり得るものを、排除すること……!」
その言葉に、空気が一段冷える。
リゼリアは肩をすくめ、ため息混じりに言った。
「そ、そうですよねぇ〜……」
視線をブリジットに向け、
「ブリジットさんには悪いですけどぉ〜……」
カシャン。
太もものガーターから、日本製の黒い金属製バトン──メイド式万能武装を抜き放つ。
「ここで、消えていただくしか〜」
足元で、フレキが震えた。
「こ、これはまずいですよっ!」
必死な声。
「いざとなったら、ボクが神獣化で場を乱してオトリになりますっ!その隙に、ブリジットさんは逃げてくださいっ!」
「ダメだよ!」
ブリジットは、即座に否定した。
「フレキくん! そんなこと、出来ないよっ!」
一瞬、迷いが走る。
だが、彼女は歯を食いしばり、ハンマー"ピコ次郎"を握り直した。
「……あたしだって」
顔を上げ、兄を見据える。
「覚悟を持って、お兄ちゃんの敵になったの……!戦うよっ! あたしも!」
次の瞬間──
二人の間に、影が滑り込んだ。
「まって」
静かな声。
剣とハンマーがぶつかる、その直前。
ルシア・グレモルドが、二人の間に立っていた。
「……?」
セドリックが眉をひそめる。
ルシアは、彼を見上げ、淡々と言った。
「ここで、この子を“追い詰める”のはダメ」
「……ルシア」
セドリックは低く応じる。
「私を気遣ってくれているなら、心配は無用だ。たとえ実の妹であっても、戦場で出会った以上は──」
「そうじゃない」
ルシアは、きっぱりと言葉を遮った。
その声には、いつもの眠たげな響きはなかった。
「この子を追い詰め過ぎると……大変な事が起きる。わたしたちにとっても」
セドリックの目が、鋭くなる。
「何……?どういう事だ……?」
ルシアは、視線を逸らしながら答えた。
「……下手すると、ラグナのチームが脱落する事になる。ここは、退くのが正解」
ブリジットは、状況についていけず、ただルシアの背中を見つめる。
(……え?あ、あたしを……庇ってる……?)
セドリックは内心で歯噛みする。
(どういう事だ……相変わらず、ルシアの言う事は訳が分からん……だが……)
(彼女が“ここぞ”で言う言葉は、なぜか的中する……! ブリジットには……何か、奥の手があるのか……?)
フー……と、深く息を吐く。
そして、静かに、剣を鞘に納めた。
「──倒したとて、10ポイント。ルシアがそう言うのなら……リスクを取ってまで、交戦する事もない」
「……お兄ちゃん……」
ブリジットの声は、かすれていた。
セドリックは振り返らず、そのまま歩き出す。
リゼリアが慌てて後を追う。
「ああっ! ま、まってくださいよぉ〜! セドリックさ〜ん!」
ぱたぱたと足音が遠ざかる。
最後に、ルシアがゆっくりと振り返った。
ブリジットは、堪えきれず声を上げる。
「待って! ルシアさん!一つだけ教えて……!」
「あなたが探してる物って……一体、何なの!?」
ルシアは立ち止まり、静かにこちらを見る。
眠そうな目のまま。
「……わたしが探してるのは……」
「──“特異点”。」
「──この世界の、ね。」
それだけ告げて、踵を返す。
そして、セドリック達の後を追い、闇の通路へと消えていった。
残されたのは、静寂。
フレキが、へなへなとその場に伏せる。
「た……助かりましたっ……!」
ブリジットは、呆然とその背中を見つめたまま、呟く。
「……“特異点”……」
「一体……何の事なの……?」
胸の奥で、再び“真祖竜の加護”が、静かに脈打っていた。
──嵐の前触れのように。




