第27話 覚醒、ブリドラゴン
フェンリルの里。
その最奥、山の頂に広がる断崖絶壁の聖域、
——“懲罰の天蓋”。
名の通り、ここは“罪を犯したフェンリル”たちが、王の裁きを受ける場所。
今、その中央に——金髪ポニーテールの少女と、銀毛の巨獣が対峙していた。
「……随分と吠えたものだな、人間の小娘よ」
王狼・マナガルム。
その姿は、どのフェンリルよりも巨大で、白銀の毛皮はまるで雪山を覆う氷のように冷ややかだった。
四肢の爪は鋭く、瞳は凍てついた月のように冷たい。
その傍らでは、フレキが“しょんぼり”していた。
鼻先はレモン汁で濡れ、毛並みはブラッシングでモッサモサに逆立ち、つぶらな瞳が「しょぼーん」という音を立てそうなほど沈んでいる。
「父上……ボクは……荒野の皆と、仲良く……」
「黙れ。」
即答だった。
「貴様のような出来損ないが、我が血を引いているなど断じて認めぬ」
その言葉に、ブリジットの目がすっと細まった。
息をするように、自然に湧き上がった感情。
怒り。
いや、それ以上に、悲しみ。
“それが、親の言葉なの?”
心の中で、そう呟くように——ブリジットは、そっと拳を握った。
「どうして、そんな風に言うの?」
小さな声だった。
けれど、その声に宿った感情は、確かにマナガルムの耳に届いた。
「フレキくんは……優しいよ」
「誰よりも、誰かのために傷つけることを怖がって、ちゃんと“ごめんなさい”が言える子なのに」
その言葉に、マナガルムは鼻を鳴らした。
「フン、小娘。貴様には分からぬ。覇を唱えるには優しさなど不要。必要なのは、従わせる“牙”だ」
「奴はその牙を持たぬ。だからこそ、我が子として、裁きを与えているに過ぎん」
ブリジットは、ぐっと唇を噛んだ。
思い出すのは、かつての自分。
“毒無効”という誰にも必要とされない力を持ち、生まれた家から追い出されたあの日。
「……似てるなって、思ったの」
自分のこと。
そして、今ここにいるフレキの姿。
「自分の価値は、自分で決めなきゃいけないって。そう思って、ここまで来たの」
銀色のオーラが、少女の全身からゆっくりと立ち上がり始める。
マナガルムの目が、すっと細くなる。
「……何だ?その気配は……」
ぞわりと毛並みが逆立つ感覚。
ただの人間には、あり得ない魔力の奔流。
次の瞬間——
ブリジットの額から、光る“角”が2本、生え始めた。
「……あたし、ちょっと……怒ったんだから……!」
その言葉と共に、ふわりと吹き上がる金髪。
瞳はまるで猫のように細くなり、犬歯がちょこんと尖っていた。
マナガルムが、目を見開く。
「……何だ?──貴様の、その姿は………?」
空気が、一気に張り詰める。
山頂を吹き抜ける風が、二人の間で音を立てた。
——静かに、戦いの火蓋が落ちようとしていた。
◇◆◇
マナガルムが、一歩、踏み出す。
地面にかすかにヒビが入る。
「人間如きが、我に向かって“怒った”などと……!!」
「片腹痛いわ!貴様に痛みを教えてやろう。己の分を、身に刻ませてやる!!」
魔力が奔流となって、白銀の毛並みを逆なでるように吹き上がる。
その気配は、フェンリルの中でも別格——“王”の名を持つにふさわしい、絶対の速度と破壊力。
フレキが目を見開き、叫ぶ。
「ブリジットさん!逃げてください!」
だが——その声が届く前に、マナガルムが駆けた。
風より速く。
雷より鋭く。
“懲罰の天蓋”の大地を削りながら、一直線にブリジットへと飛び込む!
「"王狼連爪撃"!!」
ガガガガガガガッ!!!
閃く爪が、光の連撃となって少女に襲いかかる。
鋭い牙が、肉を裂く勢いで振るわれる。
……そして。
その連撃が止んだ時——
土煙が、ゆっくりと晴れていく。
「……フッ。あの世で己が愚行を悔いるがよい……」
息をつくマナガルムの表情に、ほんのわずかな疲労の色。
だが、それは仕留めたという確信に満ちていた。
しかし——
煙の中に、少女の影。
立っていた。
まるで何事もなかったかのように。
ブリジットは、ぽかんとしていた。
目をくるくると瞬かせ、口元に手を当てながら。
(……な、なに今の……!?)
(な、なんて鋭くて速い爪なの……!
こんなの、喰らい続けたら、間違いなく……!)
(──ミミズ腫れになっちゃうよ!)
真剣に、心の底から、そう思っていた。
——全くの無傷。
“真祖竜の加護”による超常的な防御力が、あらゆるダメージを無効化していた。
だが、本人は一切気づいていない。
ブリジットは、そっと拳を握り直した。
マナガルムが、目を細める。
その表情は、まだ余裕を保っていたが……その奥には、ほんの僅かな“違和感”が浮かび始めていた。
風が止まった。
灰雲がひときわ濃くなり、まるで大地すら息を潜めるかのような沈黙。
マナガルムの身体から立ちのぼる雷の奔流が、天へと伸びた。
そのエネルギーは空へと届き、呼応するように雷雲が低く唸る。
「よくも……耐えたな」
マナガルムの声は静かだった。
だが、その眼の奥には確かな苛立ちと困惑があった。
(我が爪撃が通らぬ……? いや、そんな筈は無い……どんなトリックだ……?)
目の前に立つ少女は、どこにも傷一つ負っていない。
ただ、ほんの少し、肩で息をしている程度。
だがその姿こそ——王狼には、理解出来ずにいた。
「ならば次は——心臓に届く裁きだ」
その言葉と共に、空が閃いた。
雷鳴。光の柱。
「——"天穿・雷咆"ッ!!」
天空を割るような閃光が、マナガルムの背中から走り抜けた。
巨大な魔法陣が、ブリジットの頭上に展開される。
次の瞬間——
ズオオオオォォォンッ!!!
雷光が、大気を灼き、大地を穿つ。
空から放たれた極大の稲妻が、一直線に少女を貫いた。
フレキが叫ぶ。
「ブリジットさああああああんッ!!」
雷光の柱が地面を焼き焦がし、煙が立ち上る。
石が砕け、地面がひび割れ、砂が嵐のように舞い上がった。
灼けつく雷撃。
王狼・マナガルムの誇る、最大級の雷魔法。
それを、真正面から——受けた。
だが——
煙が、ゆっくりと、晴れていく。
そこに、いた。
無傷のまま、驚いた表情で立つ、金髪の少女。
「…………」
ただ一点、異変があった。
ポニーテールにまとめたはずの金髪が、ふわっと空中で逆立ち、まるでタンポポの綿毛のようなフォルムでバチバチと火花を散らしていた。
ブリジットの両肩から髪がピンと張り、静電気の塊のようにふるふると揺れていた。
彼女は、自分の髪が立っているのをゆっくり見て、そっと綿毛ポニテを手で押さえてみた。
——また、ブワッと広がり、立ち上がる。
(な……なんて強力な雷撃なの……!)
(こんな……こんなの、何回も喰らっちゃったら…)
(髪の毛が、静電気で全然まとまらなくなっちゃうよ……!!)
驚愕の表情を浮かべるブリジット。
その姿を見て、マナガルムはそれどころじゃないレベルで驚愕していた。
(……ち、力が……通じていない!? 我が魔力の結晶が、あれほどの雷撃が……!?)
怒りではない。疑念でもない。
ただ、純粋な——戦慄。
(な、なんなのだ……この少女は……!)
◇◆◇
ブリジットは、額を押さえたまま、ゆっくりとマナガルムを見上げた。
その表情に、もはや怯えの色はなかった。
銀色の瞳がまっすぐにマナガルムを捉える。
「……どうして、こんなにも強い力を持ってるのに……」
ふと、問いかけるような声。
静かで、けれど芯の通った言葉。
「どうして、その力で、誰かを守ろうとしないの……?」
「な、なんだと……?」
マナガルムが一瞬だけたじろいだ。
ブリジットは、さらに一歩近づく。
「どうして、そんなに簡単に、他人を“できそこない”なんて言えるの?」
「どうして、あんなに悲しそうな顔で泣いてる子を、見て見ぬふりできるの?」
胸の奥から、溢れてくる。
それは、フレキを想う気持ちだけじゃない。
「……あたし、家族に見捨てられた時のこと、今でも覚えてる」
ブリジットの拳が、震えていた。
「無力だって言われて、期待外れだって言われて……」
「そんなの……そんなの、すっごく悲しいに決まってるじゃない!」
彼女の声が、震える空気を押しのけて届いた。
「だから! もうこれ以上、フレキくんを……一生懸命頑張ってる誰かを、勝手に“出来損ない”扱いしないで!!」
その瞬間、ブリジットの背中で——
銀色のオーラが、ふつふつと立ち上がった。
額からは、再びあの“ツノ”が更ににょきにょきと伸びてくる。
マナガルムは、背筋をぴしりと正した。
(な、なんだ、この気配は……!? 先程よりも——力が……増している……!?)
そして、次の瞬間。
「この……分からずやーーーーッ!!」
叫びと共に、ブリジットが地を蹴った!
風を割るような勢いで拳を構え、王狼へ突っ込んでいく!
マナガルムが瞬時に反応し、身を翻す。
咄嗟に飛びのいて、少女の拳を回避する——はずだった。
が。
ブリジットの拳が向かったのは、マナガルムの背後——
——岩壁だった。
ドゴォォ──────ン!!!!
重く、深く、地を這うような轟音。
拳が触れた瞬間、岩山が一撃で粉砕された。
遥か遠くまで、抉られた様に山肌に巨大な穴が空く。
煙、塵、音、衝撃。
すべてが、しばしの間、世界を支配した。
「「…………………………えっ?」」
マナルガムとフレキの喉から、間の抜けた声が漏れる。
粉々になった岩肌に向き合いながら、ブリジットは瞳を閉じた。
「……確かに。あたし達人間の力は、『弱い』かもしれない」
静かに、真剣に、まるで何事もなかったかのように言った。
マナガルムとフレキは、顔を引き攣らせたまま、消し飛んだ岩山を凝視していた。
(…………『弱い』………?………いや、何!?今のパワー!?)
内心で揃って叫ぶ。
だが——次の瞬間、ブリジットは構えを取った。
小柄な身体に不釣り合いなほど、堂々とした、可愛らしいファイティングポーズ。
「でも、あたしはあたしのやり方で、あなたに伝えるよ!」
「“弱い人間”の力っていうのを、見せてあげるっ!」
キラリ、と銀のツノが朝日を弾いた。
そして、マナガルムは、顔を引き攣らせたまま、一歩静かに後ずさった。
それは——“人間ごとき”に対する態度では、なかった。