第269話 ブリジット vs.ビビアーナ④ ──豆だらけの美しい手──
ビビアーナの視界は、嵐に満ちていた。
轟音。雷鳴。風圧。
それらすべてが、自分の身体の延長として暴れ狂っている。
「はあああああッ!!」
喉が裂けるほどの叫びとともに、ビビアーナは鞭を振るう。
同時に、背中の奥──否、今や同化した相棒そのものとなったカフェラッテが吠えた。
『ウオオオオオオン!!』
その咆哮に呼応するように、雷が迸る。
ビビアーナの鞭に絡みつき、青白い稲光となって鞭条を走り抜ける。
鞭が空を裂く。
雷が空間を焼く。
床を蹴り、壁を蹴り、柱を踏み台にしながら、二人一体となった身体がダンジョン空間を立体的に駆け抜ける。
上から、横から、死角から。
あらゆる角度から、災厄の一撃を叩き込む。
「どうよッ!!これが──アタシとカフェラッテちゃんの、本気なのねぇッ!!」
だが。
そのすべてが、届かない。
龍のように宙をうねる、異様な“胴長の影”、フレキ。その背に跨る、白銀のツノを戴いた少女。
フレキが、低く呟いた。
「……”大犬天衝壁”。」
次の瞬間。光が、咲いた。
黄金と白銀が混ざり合ったような輝きが、球状の障壁となって二人を包み込む。
ビビアーナの鞭が叩きつけられる。
雷撃が炸裂する。
──だが、弾かれる。
まるで、水面に投げた小石のように。
音だけを残して、すべてが無力に散っていく。
「……ッ!!」
ビビアーナは、奥歯を強く噛みしめた。
(ありえない……こんな……こんな事……)
認めたくない。
認められるはずがない。
(アタシと……カフェラッテちゃんが……!!)
必死に鞭を振るう腕が、わずかに震える。
その視界の先。
胴が異様に長い、化け物じみたフェンリル(?)の背に跨りながら──
ブリジットは、あまりにも落ち着いていた。
ため息が出るほどに、美しい少女。
長い金髪が風を受けてなびき、澄んだ瞳は、戦場の只中にあってなお曇らない。
巨大なハンマーを、まるで子供の玩具のように軽々と操り、
ピコッ。ピコッ。
軽い音を立てながら、ビビアーナの鞭を弾き、
カフェラッテの爪の斬撃すら、ことごとく打ち払っていく。
(……なんなのさ)
ビビアーナは、思わずブリジットの“目”を見た。
そこにあったのは、怯えでも焦りでもない。
次に何をするべきかを、絶えず考え続けている──
冷静で、聡明な眼差し。
(違う……)
胸の奥が、きしりと軋む。
(アタシとは……違う)
自分は今も必死だ。
どうすればいいのか。
どうやって倒せばいいのか。
必死に考えているのに──
何も、思い浮かばない。
(……バカだねぇ)
自分の頭の悪さが、嫌になる。
鞭を振るう腕に、知らず力が入りすぎる。
視界が、滲んだ。
悔しさが、熱となって目に溜まっていく。
(──かわいくて、頭もよくて、公爵家のお嬢様で……)
思考が、止まらない。
(おまけに……強いスキルと、強力な従魔まで……)
唇が、歪む。
(この子は……アタシとは違う)
(生まれついての──お姫様なんだねぇ)
なのに。
(──なのに、どうして)
胸の奥に、黒い感情が蠢く。
(王子様の求婚を……断ったりしたんだろうねぇ)
(アタシなんかじゃ……ひっくり返っても、手に入らないものなのに……っ!!)
涙が、頬を伝いそうになるのを、必死に堪える。
フェンリルと同化した身体が、怒りと悔しさに呼応して吠える。
それでも、鞭を止めることはできない。
(アンタみたいな……初めっから、ぜんぶぜんぶ持ってるような子には……)
「……絶対に……!」
声が、震える。
「絶対に、負けられないのよねぇッ!!」
歯を食いしばり、叫ぶ。
「負けられない……負けられないのねぇ!!」
脳裏に浮かぶのは、領地の風景。
自分の活躍を信じて、祈ってくれている両親の顔。
「ロカ領で……アタシの活躍を祈ってくれてる……パパとママの為にも……ッ!!」
そして。
胸の奥に、何より強く刻まれた名。
「──ラグナ様の為にもッ!!」
叫びとともに、ビビアーナは再び鞭を振るう。
カフェラッテと心を重ね、力を重ね、
胴長の巨大犬に跨る、あまりにも眩しい少女へと、全力で、立ち向かっていく。
たとえ、この想いが。
この感情が。
自分を、どこかへ引きずり込もうとしているのだとしても。
ビビアーナは、まだ──
止まることができなかった。
◇◆◇
嵐の中心にいながら、ブリジットの心は、不思議なほど澄んでいた。
風が唸る。雷が弾ける。
ビビアーナの鞭が、視界を埋め尽くすほどの勢いで振るわれる。
「……っ!」
迫り来る一撃を、ブリジットはハンマーで受け流す。
ピコッ、と軽い音。
続けざまに放たれた雷撃を、今度は額のツノから放った銀色の光で打ち消す。
それでも、目は──自然と、彼女を追っていた。
(ビビアーナさん……)
鞭を振るうその姿は、荒々しく、必死で、だけど──
(本当に、凄い……!)
心の底から、そう思った。
あれほどの猛攻を繰り出しながら、少しも止まらない。
痛みも、疲労も、恐怖も──すべて飲み込んで、前へ出続けている。
(あたしの力は……)
ハンマーを振るいながら、ふと考える。
(あたしだけで、手に入れたものじゃない)
胸の奥に浮かぶのは、優しい声。
厳しくも温かい言葉。
背中を押してくれた人たちの顔。
(アルドくんや……みんなが、与えてくれたもの)
力を授けてくれた存在。
守ってくれた存在。
信じてくれた存在。
でも──
(ビビアーナさんは、違う)
ふと、先ほどの光景が脳裏に蘇る。
吹き飛ばされそうになった彼女を、思わず抱き止めたあの瞬間。
視界の端に映った、彼女の手。
(……豆だらけだった)
鞭を握り続けた証。
何度も、何度も、血が滲むまで鍛えた手。
(あの手は……)
ハンマーを振るう腕に、力がこもる。
(努力してる人の手だった)
きっと。
これだけの強さを手に入れるまで──
(家族のために……好きな人のために……)
命懸けで、戦ってきたんだ。
(自分の力で……すべてを、勝ち取ってきたんだ)
胸が、きゅっと締めつけられる。
(ビビアーナさん……)
嵐の向こうで、必死に歯を食いしばる彼女を見つめながら、思う。
(あたしは……あなたみたいな女の子に、なりたかったのかも)
その想いが、胸の奥に静かに落ちる。
──でも。
(──でも……!)
ブリジットは、ハンマーを握る手に、ぐっと力を込めた。
胸の内に、かつての光景が浮かぶ。
厳しくも誇らしげな父の笑顔。
優しかった母の横顔。
少し照れながら頭を撫でてくれた兄の背中。
そして。
「ブリジットちゃんの隣に立つ男は、俺だって──皆に、証明してみせるよ!」
そう言って、まっすぐに笑った少年。
(……アルドくん)
その笑顔が、はっきりと脳裏に焼きつく。
(──違う!!)
心の中で、強く否定する。
(あたしが……アルドくんの隣に、立てる女の子だって……証明しなきゃ、いけないのっ!!)
ブリジットは、深く息を吸い、吐いた。
フレキの背の上で、姿勢を正す。
視線を、真っ直ぐ──ビビアーナへ向ける。
そこには、迷いも、憧れも、すべてを受け入れた覚悟があった。
「……ごめんだけど」
声は、静かだった。
でも、芯がある。
「あたしも……負けられないんだ!!」
ハンマーを高く構える。
「勝たせてもらうよっ!!ビビアーナさんっ!!」
嵐と雷の向こうで、二人の視線が交錯する。
尊敬も、羨望も、譲れない想いも──
すべてを胸に抱いたまま。
ブリジットは、前を向いて立っていた。
◇◆◇
カフェラッテの喉奥から、焦燥を孕んだ唸り声が漏れた。
『な……何なのだ……!?あの胴長の化け物は……!?』
雷を纏った巨体が、わずかに揺らぐ。
『まさか……本当に、我と同じ──フェンリル族だと言うのか……ッ!?』
その声には、疑念と同時に、はっきりとした“恐れ”が混じっていた。
その瞬間。
「フレキくんはねっ……!」
嵐の中で、ブリジットの声が、凛と響いた。
「フェンリルの──王様なんだよっ!!」
宙を舞う、異様に長い胴体。
その背に跨ったまま、ブリジットは巨大なピコピコハンマー"ピコ次郎"を、天へと掲げる。
その仕草は、まるで──
雷神に祈りを捧げる巫女のようだった。
「いきますよっ!ブリジットさんっ!!」
フレキが、はっきりと叫ぶ。
その直後。空が、歪んだ。
フレキとブリジットの頭上に、
雷の塊のような巨大な光球が、ずず……と形を成していく。
白でも、青でもない。
重く、圧倒的で、威圧的な雷光。
「な……何なのねぇ……その力は……ッ」
ビビアーナは、呆然と呟く。
視界が、眩暈のように揺れる。
フレキは、堂々と胸を張り、吠えた。
「父上直伝……”天穿・雷砲”っ!!」
次の瞬間。
ズドォォォォンッッ!!
光球から、一本の雷が落ちた。
否。“落ちた”のではない。
光の柱が、一直線に──
ブリジットの掲げたハンマー目掛けて、降り注いだのだ。
「!?」
ビビアーナの喉が引き攣る。
「自分達に向けて……雷撃を!?」
『何ッ!?』
カフェラッテも、明らかに動揺した。
『”天穿・雷砲”だとッ!?そ、その技は……ッ!?』
だが、ブリジットは一歩も引かない。
「”電伝太鼓”っ!!」
叫ぶと同時に。
銀色の魔力を帯びた"ピコ次郎"を、
雷が直撃するその瞬間に──
バァァァァンッ!!
凄まじい轟音。
雷と白銀の魔力が衝突し、
圧縮され、爆ぜ──
巨大な雷撃の衝撃波となって、四方へと解き放たれた。
「う、うあああああッ!?」
ビビアーナの悲鳴が、嵐に掻き消される。
『グアァァァッッ!!』
カフェラッテの咆哮が、空間を引き裂く。
雷撃の衝撃波が、合体状態の二人を、正面から叩き潰した。
ビビアーナの身体に、限界が来る。
ズルリ──と、フェンリルの背中から、下半身が抜け落ちた。ダメージの影響で、合体が解除される。
「……っ!!」
宙に放り出される感覚。
カフェラッテは、雷撃に焼かれ、傷だらけのまま吹き飛ばされていく。
ビビアーナもまた、重力に引かれ、空中を落下していく。
「あっ!!」
ブリジットが、思わず叫んだ。
「ビビアーナさん!!危ないっ!」
反射的に、手を伸ばす。
その光景が──
ビビアーナの、霞みゆく視界に映った。
(……ああ)
意識が、ゆっくりと薄れていく中で、思う。
(また……アンタは、敵であるアタシに……手を、差し伸べようとするのねぇ……)
悔しさが、胸を締めつける。
(悔しい……悔しい……ッ)
涙が、視界を滲ませる。
(こんな……何の苦労も知らない、お姫様みたいな子に……負けるなんて……ッ!!)
その瞬間。
空気が、ひやりと冷えた。
ビビアーナの周囲に、
黒いモヤのような魔力が、静かに渦を巻き始めた。
重く、粘つくような感覚。
胸の奥の、どす黒い感情に呼応するかのように。
──だが。
次の瞬間。
ビビアーナの目に、
伸ばされた“手”が映る。
ブリジットの手。
それは──
自分と、同じだった。
豆だらけで。
皮膚が硬くなって。
それだけじゃない。
ペンだこ。
勉強と、領地経営の書類に向き合い続けた証。
(……なんだ)
心の中で、ぽつりと呟く。
(この子も……頑張ってたのねぇ)
黒い感情が、揺らぐ。
(アタシ……また、間違えちゃうところだったねぇ)
その瞬間。
ビビアーナを包んでいた黒いモヤは、
音もなく──霧散した。
何も残さず。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
力が、すとん、と抜ける。
ビビアーナの唇に、
かすかな笑みが浮かんだ。
悔しさも、羨望も、
すべて抱えたまま──
「……ああ……負けちゃった、ねぇ……」
その声は、どこか──
少しだけ、晴れやかだった。
そのまま、ビビアーナの意識は、静かな闇の中へと落ちていった。




