第265話 ビビアーナ・ロカ ──少女が見た王子の背中──
エルディナ王国北西部、王都ルセリアから遠く離れた地に、ロカ家の治める領地はあった。
そこは、エルディナ王国と北方王国ラインハルトを結ぶ国道──"テュールの道"と、魔物が跋扈するフォルティア荒野との、ちょうど中間に位置している。
交易路を守る盾であり、同時に荒野から溢れ出る脅威を食い止める楔。
それが、辺境伯ロカ家に課せられた役割だった。
ゆえに、ロカ家の跡取りに求められるものは、極めて明確だった。
強大な魔物を退けるだけの強靭な肉体。
部下を束ね、戦況を読み切る聡明な頭脳。
剣と知略、その両方を兼ね備えた者だけが、この地を継ぐ資格を持つ。
──だが。
ロカ家の長女、ビビアーナ・ロカは、その条件を半分しか満たしていなかった。
幼い頃から、彼女の身体は丈夫だった。
風邪を引いてもすぐ治り、転んでも泣き止むのが早い。
体力もあり、外で駆け回るのが好きな子だった。
けれど、その一方で──
察しが、致命的なほど悪かった。
言外の意味を汲み取れない。
教えられたことを、別の形で応用することができない。
一度理解したはずのことを、翌日には忘れている。
貴族学校での座学の成績は、常に最下位だった。
算術は途中で式が迷子になり、歴史は固有名詞が覚えられず、戦術論に至っては何が分からないのかすら分からない。
魔力自体は人並み以上にあった。
だが詠唱が覚えられない。
順番を間違え、語尾を噛み、肝心なところで言葉が抜け落ちる。
結果、魔法は発動しない。
あるいは、暴発する。
教官のため息が、次第に増えていった。
最初のうちは、両親も辛抱強く付き合っていた。
家庭教師を増やし、課題を細かく分け、何度も繰り返し教えた。
だが、年を重ねるごとに、変化は訪れなかった。
やがて、食卓での会話が、少しずつ弟中心になっていく。
報告されるのは、弟の成績、弟の訓練、弟の将来。
ビビアーナが話しかけても、「後でね」と返されることが増えた。
視線が合わない時間が、長くなった。
二つ下の弟に、期待と愛情が集まっていくのを、彼女は肌で感じ取っていた。
けれど──
ビビアーナは、そこで腐る子ではなかった。
「……アタシが、いろいろ出来ないから……」
ある夜、ひとり部屋で、ぽつりと呟く。
「頑張り方を、間違えちゃったから……だから、パパとママは、アタシの事を見てくれないのねぇ」
その声には、恨みよりも、納得に近い響きがあった。
そして、次の瞬間には、ぱっと顔を上げる。
「だったら、もっともっと頑張って……出来ない事を、出来るようにしていくしかないねぇ!」
どこまでも前向きで、どこまでも不器用な思考だった。
だが、彼女なりに、少しずつ気づき始めてもいた。
どれだけ机に向かっても、頭に入らない。
頑張っても、頑張っても、同じところでつまずく。
(……もしかしたら、アタシ……お勉強は、向いてないのかも知れないねぇ)
実際には、そこまで言語化出来たわけではない。
ただ、胸の奥で、ぼんやりとした違和感が芽生えただけだ。
ならば、と。
ビビアーナは、戦闘訓練に身を投じた。
剣は重く、動きが遅れる。
槍は距離感が掴めない。
斧は身体が軽過ぎて振り回される。
だが──鞭だけは、違った。
しなやかにしなる感触。
狙った場所に、吸い込まれるように伸びる軌道。
音と共に、空気を裂く快感。
教官が、初めて眉を上げた。
「……ほう」
その反応だけで、胸が高鳴った。
これだ、とビビアーナは思った。
これが、自分に残された道なのだと。
それからは、ひたすら鞭を振り続けた。
朝も、昼も、夜も。
腕が上がらなくなるまで。
手のひらに豆ができ、潰れ、血が滲んでも、やめなかった。
包帯を巻き、その上から、また鞭を握る。
痛みよりも、怖かったのは──
「何も出来ない自分」に戻ることだった。
だから、彼女は笑いながら、今日も訓練場に立つ。
誰にも見られなくても。
褒められなくても。
それでも、信じていた。
──これを続けていれば、いつかきっと。
──アタシも、ロカ家の役に立てるって。
その想いが、彼女を支え、
同時に、後戻りのできない道へと、静かに導いていた。
◇◆◇
ロカ家の名を冠する招待状は、社交界において決して軽いものではなかった。
それでも──
その夜のビビアーナは、胸を張って会場に立つことが出来なかった。
十四歳。
初めて両親に伴われて出席した、本格的な貴族の社交会。
煌びやかなシャンデリア。
磨き上げられた大理石の床。
絹と宝石に身を包んだ令嬢たちと、気取った微笑みを浮かべる嫡男たち。
その中で、ビビアーナは自分の両手を、無意識に背中へ隠していた。
分かる人には分かってしまう。
訓練で出来た、固い豆。
何度も潰れて、治って、また出来た、武骨な手。
案の定だった。
「……まあ」
鈴を転がしたような声が、耳に届く。
「見て、あの手」
「なんて……汚らしいの……!」
くすくすと、笑いが広がる。
視線が集まる。
ビビアーナは、ぴくりと肩を震わせた。
「辺境伯家のお嬢様だっていうのに……」
「やっぱり荒野育ちは、品がないのね」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
(……あ)
その瞬間、頭の中に、嫌な考えが浮かんだ。
(アタシ……また、努力の仕方……間違えちゃったのかも、ねぇ)
剣も魔法もダメ。
だから鞭を振った。
役に立とうと、必死に。
──でも、それが、今度は「笑われる理由」になってしまった。
視界が滲む。
ぐっと唇を噛みしめる。
(泣いちゃ、ダメだねぇ……ここで泣いたら、もっと……)
そのときだった。
「おや?」
場違いなほど、穏やかで、よく通る声が響いた。
「今の社交界では、一人の令嬢を寄ってたかって貶める遊びでも流行っているのかい?」
ざわ、と空気が揺れる。
「それなら、僕も混ぜてくれよ」
「ただし──」
声は、少しだけ低くなる。
「貶める側じゃなくて、そんな輩から、令嬢を守る側として、だけどね」
ビビアーナは、はっと顔を上げた。
そこに立っていたのは──
今まで見たこともないほど、美しい少年だった。
淡い金色の髪が、光を受けてきらめいている。
整った顔立ち。
細身だが、芯の通った立ち姿。
年齢は、自分より少し上だろう。
十五、六歳くらい。
だが、その存在感は、場の空気を一変させるほどだった。
「……っ」
誰かが息を呑む。
「ラ、ラグナ……殿下……?」
その名が、囁きとなって広がった瞬間──
先ほどまで嘲笑していた令嬢たちと嫡男たちは、青ざめた。
ラグナ・ゼタ・エルディナス。
エルディナ王国、第六王子。
“女神の祝福”にて、とんでもなく強力なスキルを授かったという噂の──
今、最も注目されている王族。
ラグナが一歩前に出るだけで、空気が張り詰める。
「……さて」
彼は、にこやかに微笑んだまま、視線を巡らせる。
「誰が、彼女を笑ったのかな?」
その声は穏やかだったが、
背後に、抗いがたい圧を孕んでいた。
次の瞬間。
「い、いえっ!」
「そ、そんな……!」
「し、失礼しました!!」
蜘蛛の子を散らすように、貴族たちは逃げていった。
誰も、振り返らない。
取り残されたビビアーナは、しばらくのあいだ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
ざわめきが引いていった社交会場の中央。
さきほどまで自分を囲んでいた嘲笑と視線は、嘘のように消え失せている。
──なのに。
胸の奥だけが、やけに騒がしかった。
ラグナの背中を、ただ見つめる。
金色の髪が、シャンデリアの光を受けて淡く輝き、ゆっくりと遠ざかっていく。
どくん。どくん。
心臓の音が、やけに大きい。
(──王子様だねぇ!!)
思わず、そんな間の抜けた言葉が、頭の中に浮かんでしまう。
……まあ、実際に王子様なのだから、間違ってはいないのだが。
ビビアーナは、両手をぎゅっと握りしめた。
手袋の下で、豆の感触が伝わってくる。
(さっきまで……みんな、アタシの手を見て、笑ってたのにねぇ……)
それが、一言でひっくり返った。
たった一人の言葉で。
たった一人の、存在で。
ラグナは、数歩進んだところで、ふと立ち止まった。
そのまま、誰に向けるでもなく、ぽつりと呟く。
「……そうか。まだ、この段階では──」
低く、考え込むような声音。
「“魔獣姫”にも目覚めていない。だから、皆……彼女の価値に気付いていないんだな……」
意味は、まるで分からなかった。
(……どま、どるびあ?)
聞き慣れない言葉。
でも、不思議と怖くはなかった。
──自分のことを、何か「大事なもの」として見ている。
それだけは、直感で分かったからだ。
「あ、あの……!」
気づけば、声が出ていた。
「あ、アタシは……」
喉が、ひくりと鳴る。
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
けれど、ラグナは自然に振り返った。
その表情は、さっきまで周囲を威圧していた王子のものではなく──
年相応の、柔らかな笑顔だった。
「……キミは、ビビアーナ・ロカだね」
名前を呼ばれた瞬間、胸が跳ねる。
「僕は、ラグナ・ゼタ・エルディナス。この国の第六王子なんだけど……知ってるかな?」
問いかけは、穏やかで、優しい。
ビビアーナは、顔が一気に熱くなるのを感じながら、こくこく、と何度も頷いた。
声は、やっぱり出なかった。
(し、知ってるに決まってるねぇ……!!)
ラグナは、その様子に満足そうに頷くと、続けた。
「いいかい、ビビアーナ。キミの今の“キャラビルド”は、間違っていない」
(……きゃら、びるど?)
頭の中に、はてなマークが浮かぶ。
言っている意味は、よく分からない。
けれど──
「そのまま、鞭の技巧とフィジカルを中心に、訓練に励みたまえ」
その言葉は、はっきりと、胸に届いた。
──今までやってきたことを、否定されなかった。
──笑われなかった。
(肯定、された……)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ラグナは、さらに言葉を重ねる。
「来年の“女神の祝福”で、キミは……僕ほどではないけれど──」
一瞬、ほんの少しだけ、いたずらっぽく笑ってみせる。
「非常に強力な“祝福”を授かる。僕には、分かる」
その瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
「キミの力は、我が国にとっても大きな利益を生む。素晴らしい力だ」
そして、静かに。
「是非、エルディナ王国の為に……僕の為に、励んでくれたまえ」
その一言は、
ビビアーナの心に、深く、深く刻まれた。
ラグナは、それ以上何も言わず、背を向ける。
金色の髪が、光の中に溶けていく。
ビビアーナは、その背中を、ただ見送ることしか出来なかった。
声も、足も、動かなかった。
胸が、いっぱいだった。
その瞬間から──
ビビアーナは、ラグナの『ファン』になった。
信者、と言ってもいい。
翌年。
ラグナの言葉通り、ビビアーナは“女神の祝福”で、“魔獣姫”という、強力無比なスキルを授かる。
自身が力で従えた魔物を、いくらでも亜空間にストックし、好きな時に、好きなだけ呼び出し、操り、力を借りられる。
サモナー系スキルの頂点と言っていい力。
フォルティア荒野を隣に控えるロカ家にとって、
喉から手が出るほど欲しかった能力だった。
両親は大喜びし、
再び、ビビアーナへ期待の視線を向けるようになった。
ビビアーナも、素直に嬉しかった。
──認められた。
──役に立てる。
そして何より。
自分の才能を見抜き、
道を示してくれたラグナの存在が、
心の中で、少しずつ“特別”になっていく。
お近づきになりたい、などとは思わない。
自分のようなバカが、ラグナの隣に立つなど、解釈違いだ。
だからこそ。
(ラグナ殿下の力になる事こそ……アタシに出来る、精一杯の恩返しだねぇ!)
そう、信じた。
やがて、ラグナのルセリア中央大学入学の知らせが届く。
ビビアーナは、その報せを胸に、
意気揚々と参考書を開いた。
文字は、相変わらず難しい。
内容も、ほとんど分からない。
それでも。
ページをめくる手は、止まらなかった。
──彼の為に。
──エルディナ王国の為に。
そう信じて、彼女は、机に向かい続けたのだった。




